第十二話
サックスの音が公園に鳴っている。コルトは公園で練習していた。
「だめだ。」
コルトは途中で吹くのをやめてベンチに座った。心に浮かんでくるひとつひとつの物事が、コルトの気持ちをあっちこっちにひっぱって行ってしまう。サックスを吹いていても、いつものように音とまっすぐ向き合えなかった。
サックスを首に下げながら、ぼうっと公園を見渡した。すると足下でかさかさっと何か動いた気がする。よく見るとつやつやした毛並みのリスがコルトの右足の辺りで一生懸命、穴を掘っている。しばらく観察していると、どうやらリスは何かを埋めていたらしく、もぞもぞと探していた。やっと掘り出したのは大きなドングリだった。コルトは、目当てのものが見つかって、うれしそうな表情のリスを見てくすっと笑った。
「お嬢さん。」
コルトが顔を上げると、そこにはサングラスをかけた女性が立っていた。
「綺麗なサックスだね。」
女性はくいっとサングラスを頭にずらした。その女性は、あのライブで見た、エラトーだった。
「あ、ありがとうございます。」
立ち上がったコルトの顔を見て、エラトーは少し考えるような目をした。
「ん、どこかで会ったかな?君の顔に見覚えがあるな。」
「以前……セッションの時にお会いしました。」
コルトはひかえめにぼそっと言った。
「ああ!あの時の女の子か!」
エラトーははっきり思い出したように、ぱっと表情が明るくなった。
「こんなとこで練習してるんだ。えらいね。」
彼女はベンチにとんと座って、手で横をぽんぽんと叩き、コルトを座らせた。
「ここはよく来るんだよ。空気がきれいだろ?木や水が息をしているからね。私の心のオアシスみたいなものだ。」
「今、リスが。」
「そうそう。動物もたくさん住んでるんだよ。こんな街中にさ。」
エラトーは、んっと伸びをして大きく深呼吸をした。
「私はこの近くに住んでるんだ。ちょうどこの公園は窓から見える。季節が変わるころなんかはすごく綺麗だね。」
「紅葉ですか?」
「そうそう。色とりどりの葉っぱが自己主張するんだ。俺を見ろ、私を見てってね。君の名前はなんて言うの?」
「コルトと言います。」
「コルトか。いい名前だね。私はエラトー。よろしく。」
エラトーは手を差し出した。綺麗な指だった。二人は握手をした。
「この辺りに住んでるの?」
「はい。レストランの店長さんに部屋を貸していただいて。」
「この前の男の子と一緒にかな?」
エラトーの目がいたずらっぽく、コルトを見た。コルトは真っ赤になってしまって、
「は……はい。」
「彼の名前は?」
「セイスです。」
「そうか。いいね。もう長く住んでるの?」
「いえ、つい最近来たばかりで、ラートルという町から、私たちずっと色々なところを旅して廻っているんです。ここは、とてもいい街なので少し滞在しようと二人で決めたんです。」
「ラートルから?そうか。色々大変だったろう。」
「そうですね。大変なことはありました。でも、みんないい人たちばかりでした。」
二人はすっきりとした晴れ空の下で楽しげに談笑した。エラトーはコルトと話すうちに、胸の奥底で、彼女に自分と同じ水の流れのようなものを感じた。コルトの素直さ、そしてかすかにふっと香るような寂しさがどこか懐かしく、それは彼女を過去の自分と対峙しているような気分にさせた。コルトにとっても、エラトーはあこがれの人であり、自分の目標でもあった。そんな人が気さくに話しかけてくれるので、普段ならあまり人とは話せないようなコルトでも、楽しく会話ができた。そして、なんだか彼女と話すと落ち着くような気がするのだった。
「それで、あの時の迷いはなくなったのかな?」
灰色に黒い線の入った瞳が、コルトの方を向いた。
「いえ……。」
コルトは目を落とした。
コルトは、エラトーに今の悩みを打ち明けた。セイスとのこと、音楽のこと、自分自身のこと。エラトーとは会ったばかりで、ほぼ初対面といった状況であったにもかかわらず、なぜか正直に話すことができた。それはただ単にコルトがつらい状況であったからだけではなく、彼女には何か、ほっとする部分があったのだ。そしてそういうふうに自分の悩みもすんなり話せたことを一番驚いているのは、コルト自身だった。
「そうか。なるほど。」
エラトーはコルトが話している間、うんうんと、時折目をつぶって考えるように頷いた。そして聞き終わると、少し空を見上げた。
口笛が聞こえて来た。
エラトーが吹く、ゆったりとしたその旋律は、少し悲しく、また温かくもあった。そして穏やかだった。
「故郷の歌さ。悲しい時はよく歌ったんだ。」
エラトーはコルトの方を向いてふっと笑った。その笑顔を見たコルトの心は、優しい風にゆれた。
「君は間違っていない。もちろん君の大好きな彼もね。でもただ、君は今自分を見失ってしまっているかもしれないね。」
エラトーの言葉はコルトの身に沁みるようだった。確かに自分を見失っている。コルトは、自分が何をして来たのか、何をするのか、どこへ向かえばいいのかが急にわからなくなってしまったのだ。そうしてその焦燥をセイスにぶつけてしまった。一番困らせたくない大切な人にぶつけてしまった。後悔だけがまっ黒い泉のように湧いてくる。
「ちょっとサックス吹いてごらん。聴いてあげる。」
さっと立ち上がってエラトーが言った。躊躇しているコルトを見て、
「いいから、ほら、天下のエラトー様が聴いてあげるんだよ?」
コルトはしぶしぶサックスを持って、それでもエラトーに失礼にならないようにしっかりと気持ちをこめて吹いた。サックスの音が空に広がって、昼下がりの草木に染み渡った。わずかに数分の演奏時間だったが、エラトーを前にしたコルトには、時が止まったように感じた。
「うんうん。」
エラトーは大きく頷いて、
「コルト、君の腕は確かにまだまだかもしれない。音についてももっともっと研究ができるだろう。」
コルトはそう言われるとはわかっていたが、改めて言葉になったものを聞くと、それがぐっと胸に重くのしかかってくるように感じた。
「はい。」
うなだれるコルトを見てエラトーがふっと笑って、
「でもね、」
コルトの目の前に立った。
「音楽っていうのはハートでやるもんなんだ。」
そう言って彼女はどんどんと自分の胸を叩いて見せた。
「いくら腕がよかったって、いくら音を研究していたって、ハートがなけりゃただの雑音だ。音楽じゃない。そうして、コルト、君の演奏にはそれがある。ハートがある。これはセッションの時に初めて君の演奏を聴いたときから思っていた。今は悩みがあって前に進むことができない状態かもしれないが、それを乗り越えられたら、君はもっともっとうまくなる。私が保証するよ。」
エラトーは、はっきりとコルトに言った。コルトはまさか褒められるとは思っていなかったので、目をぱちくりさせて、まだ飲み込めてないようだった。
「私……うまくなれるでしょうか?」
「うん。なれるさ。でも、目の前の壁をまず乗り越えなきゃね。」
コルトはセイスとのことを考えた。
「……私、どうしてもセイスに頼ってしまうんです。そして頼ってばかりな自分が嫌になって。彼に何かしてあげたいんですけど、どうしたらいいのかわからなくて……。」
「人に何かしてあげるっていうのは意外と難しいもんさ。そしてそのことで悩むのも、君の優しさの現れだよ。何も悪いことなんかない。でも、覚えとかなきゃいけないのは、誰かに優しくしてあげる時、自分っていうのがしっかりできてなきゃ、それはただの押し売りになってしまうことがあるってことさ。」
「押し売りですか?」
「そう。誰かに何かしてあげるとき、しっかりした自分がないと、相手にあげる優しさだけでなくその見返りを求めてしまう。これだけしてあげたでしょってね。それは優しさじゃない。ただの押し売りだよ。そのためにも、自分というものをはっきり持っていなきゃいけない。」
「私は今、その自分がわからなくなっている気がします。」
そう言ってコルトは俯いた。エラトーはそんな彼女を見て、なんだか懐かしいように感じた。そしてしょうがないなといったふうに優しくコルト頭をなでた。コルトがびっくりして顔を上げた。
「うちにおいで。君が自分を見つける手助けをしてあげるよ。」
エラトーの自宅は公園の近くにある高層マンションだった。見上げないとてっぺんが見えないくらいの高さで、入り口にはきちんとしたスーツを着たドアマンが立っていた。エラトーが入っていくと彼は慇懃にお辞儀をした。エントランスにはまっすぐ続く白と黒を貴重とした大理石の床が延びており、天井が高く、照明も過度な装飾ではないシックなものが使われていた。コツコツとその床を歩くエラトーの姿は、品の良い貴婦人のように見えた。その姿に気付いたコンシェルジュがにこやかに、
「おかえりなさいませ。エラトーさま。」
と二人に挨拶をした。
エレベーターに乗ってエラトーが最上階を押した。かしこまっているコルトを見て、
「もっと気楽にしてていいよ。ここは私の家なんだから。」
「は、はい。ちょっとびっくりしちゃって。」
部屋に着くとそこはテレスアークをまさに一望するような眺望だった。今まで二人で話していた公園は眼下に広がり、そこは緑のプールのようだった。
「ここが秋には真っ赤に染まって燃えるんだよ。」
「いい部屋ですね。」
エラトーはコルトの手を引いて別の部屋に案内した。そこまで広くない一室で、奥に寝心地の良さそうなシングルベッドが置かれている。白い壁が柔らかな光を反射させている。化粧台や小さなソファもあった。飾ってある花の香りなのか、一面優しい空気に包まれていた。どうやらその部屋は客室のようだった。
「この部屋を君の部屋にしよう。」
エラトーがそう言ってコルトの目を見つめた。コルトはきょとんとしていた。
「あはははは。」
エラトーは笑って、
「まあこっちにおいでよ。」
エラトーはコルトをリビングのイスにちょこんと座らせた。
「何か飲むかい?そうだ、しぼりたてのオレンジジュースがあったな。」
コルトの前にジュースを置いて、エラトーもイスに座った。そしてタバコに火をつけた。
「再来月にブルーホールで私のライブがあるんだ。前のレストランよりももっと大きいステージだよ。まだ私の前に演奏してもらう前座が決まってないのさ。それで、ね。」
エラトーはいたずらそうな目をしてコルトにずいっと近づいてきた。
「君に。頼もうと思ってさ。私の前座に演奏してくれないか?」
コルトはまだ言葉を飲み込めていないようで、ぽかんとした顔をしていた。その顔を見てエラトーはうれしそうに、
「まあ、飲んでよ。」
ジュースをぐっと飲み干したコルトは、やっとエラトーの言った意味がわかってきた。エラトーのライブの前座に自分が演奏?こんなすごい人の前に自分なんかが演奏なんて、なんだかおとぎ話のようだと、コルトの頭は混乱してきた。
「唐突すぎるかな?マネージャーにもよく突拍子もないことを言うって怒られるよ。」
ほうと真っ白い煙を吐き出した。コルトは一度息を飲み込んで、
「私なんかが前座だんて……。そんなの。どうしてですか……。」
「そう言うとは思ったよ。でも私は君の演奏に惚れ込んだんだ。さっきも言った通りに君のハートにさ。それに、君自身にもね。」
コルトは手に持ったグラスを覗き込んだ。
「君の演奏はまだまだかもしれない。でも磨けば光るダイヤの原石さ。私にはわかる。無限の可能性が見える。君は大きなステージで演奏する資格があるよ。」
エラトーは新しいタバコに火をつけた。大きく吸い込んで吐いた。そしてまたまっすぐコルトを見て、
「そのためにみっちり私が教えたいんだ。この部屋に住んでもらって、つきっきりでね。」
コルトは考えていた。自分に前座なんてできるのだろうか。うまくなりたい。でも、セイスは?セイスにはどう言ったらいいんだろう。考えがまとまらずにぐるぐると頭をめぐる。
「それにね、」
エラトーはコルトのグラスにジュースを注いだ。
「これには君の自立っていう意味もある。」
「私の……自立ですか?」
「さっきの君の話を聞いていると、どうしてもセイス君に頼ってしまうようだね。それは彼がすぐそばにいるからっていうのもあるんじゃないかい?君がいてほしいと思う時にすぐそばに彼がいる。それで彼に頼ってしまう。自分一人でなんとかしようとする時間がないだろ?」
「自分でやる前に彼に頼ってしまうことが多いかもしれません。」
「それで自分が彼の重荷になってしまっていないか悩んでいる。何もしてあげられていないっていうのは違うと思うけど、それが自己嫌悪になってしまっている。」
「何をしてあげられるのか、何ができるのか全然わからないんです。なんだか一人で空回りしてるような気分になります。」
コルトの目に少し涙が浮かんだ。エラトーの胸も同じように痛んだ。コルトの小さくすぼんだ肩を見て、いつかの自分がそこにいるようで、なんとかしてやりたいと思った。
「一緒に住んでいると頼ってしまうことも多くなる。自分の葛藤をぶつけてしまうこともあるだろう。確かにそれが人と人との付き合いだろうけども。今のままだったら、君はそのままになってしまわないか?このままセイス君といっしょの生活をしてると、君の気持ちの整理もつかないはずだ。だから、ね、少しの間だけ彼と離れてみないか?」
顔をあげたコルトはうるんだ目をしていた。今にもまるい大粒の涙がこぼれ落ちそうになっていた。彼女はじっとエラトーを見つめた。
「少しの間彼と離れて、ここでしっかり自分の生活をする。決して彼に頼らない生活をね。私が君の原石を輝くまで磨いてやる。そして再来月のステージの前座に君が立つ。君の演奏している姿を見て、きっとセイス君はわかるはずだよ。君が変わったこと、君が本当に心から雑念なく演奏していること、そしてその後、君たちの関係は以前のものよりずっとお互いを理解できる関係になれるはずだ。これは私からのお願いでもある。君をもっと伸ばしてあげたい、君を育てたい。どうだい?選ぶのは君自身だけどね。」
コルトは胸に手を当てて考えた。エラトーの言っていることはもっともだと思った。このままセイスと一緒にいても、心の中の、底の見えない不安は決して消えはしないだろう。きっと何かを変えないとここから抜け出せない。それには今、エラトーの言う通り、セイスと離れる必要があるのかもしれない。そして、もっともっとサックスがうまくなりたい。しばらく考え込んで、
「わかりました。私、セイスと会ってから旅をして、変わるって決めたんです。今までの自分から。……だから……やります。やらせてください!」
コルトは席を立ち上がり、手で涙を拭ってはっきりとそう言った。
「ありがとうコルト。私が責任を持って君を育ててやる。セイス君には、私からもお願いするよ。安心しなさい。」
「ありがとうございます。エラトーさん。」
緊張がふっと抜けて、コルトはイスにへたっと座り込んだ。
「少しゆっくりしたらいいよ。」
エラトーは優しくそう言った。




