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第十一話

 夜になって、二人は六番街へ向かった。街灯や装飾が綺麗に灯っていて、この街の夜は美しかった。バスに少しだけ揺られて、チラシにあったアートヴィレッジに着いた。店は地下にあった。レンガ造りの階段を下りると、広いフロアに木製のテーブルとイスが並べられ、正面奥にはステージがある。照明は赤みがかったランプが吊るされており、壁の造りなどを見ても、なかなか歴史のある店のように見えた。すでにドラムやピアノなどはセットされていて、いつでも演奏ができるようだ。ウエイターに連れられて、二人は席につき、楽器を横に置いた。

「ビッグサーロインステーキ!」

 セイスはメニューにある一番大きなステーキを頼んだ。

 出て来たステーキはなんとも巨大で、セイスでさえも驚いたほどだった。

「食べきれる?」

 コルトは笑いながら、セイスに聞いた。

「……がんばる。」

 セイスはナイフとフォークで大きな肉塊と戦い始めた。

 セイスが巨大なステーキをようやく討伐して、あまりの満腹感にイスに寄りかかっているころ、セッションが始まった。

 何人かがスタンダードナンバーを演奏した後、司会者はサックス演奏者がいないか会場に呼びかけた。

「コルト、行ってみたら?」

 コルトはうんと頷いて楽器を持ってステージに上がった。

 コルトがステージに立つと拍手が起こった。明るいステージの照明の中に、コルトの姿はとても印象的だった。腰まである、長く艶のある髪に、胸には青くきらめくラピスラズリのネックレス、そして潤ったような綺麗な瞳。セイスが初めてコルトを見た時の驚きを、会場のみなが体験しているようだった。

 コルトは一礼をしたが、少し落ち着かないようだった。その様子を見て、セイスは手をグーに握り、コルトに見せ、にっこり笑った。ステージにいるコルトは彼に気付いて、うんともう一度しっかり頷いた。そしてセッションが始まった。

 コルトの演奏は、最初こそ緊張のためにぎこちなかったが、始まってすぐいつもの調子を取り戻し、気のこもったトーンを会場に響かせた。演奏が終わるとよりいっそう大きな拍手が会場から起こった。

 コルトはふうと一息ついてステージから降りた。サックスをクロスで拭いているところに、すっと背の高い女の人が近づいて来た。

「迷いがあるね。」

「えっ?」

 コルトは目を丸くしてその女の人の方を向いた。エラトー・ムブール。広告にあったサックス奏者だった。

「心の中に迷いがある。その迷いがある以上君はそれ以上うまくなれないよ。」

 淡白にそう言い放って、彼女はすたすたと歩いて行ってしまった。コルトは何か心を見透かされたような気がして、どきっとした。そうして彼女の後ろ姿を目で追っていた。

「よかったよコルト。」

 席に戻るとセイスが嬉しそうにそう言った。

「うん、でも……。」

 コルトはエラトーに言われた言葉が頭から離れなかった。

 何時間かのうちにセイスもギターでステージに上がり、みなが満足した頃セッションは終わった。最後に司会者が出て来た。

「さて、みなさんのセッション素晴らしかったですね。そして今日の最後を締めくくるのは、この人、情熱と悲哀の音を操るサックス奏者、エラトー・ムブール!」

 割れんばかりの拍手が巻き起こり、会場は総立ちになった。そこへエラトーが緑色に輝くサックスを持って現れた。会場は指笛を鳴らすものもおり、ショーのクライマックスのようだった。

「ありがとう。」

 手を挙げて歓声に答えたエラトーは、艶やかなドレスに身を包んでいた。それは決して派手なものではなく、サックスの色が映えるような衣装であった。髪は肩程までで、先のほうが少し頬に向かってくるりと巻いている。照明に輝き返すような金髪だった。瞳は情熱の中に冷たさを宿すような灰色。きりりとしている。そして彼女の体の曲線は匂い立つような大人の魅力を醸し出していた。

 エラトーはメンバーに合図をして、吹き始めた。その途端、歓声で賑やかだった会場は水を打ったように静まり返った。

 彼女の演奏は楽器ではなく、まさに人が声を出しているようだった。

 穏やかな曲では、恋人同士が耳元で囁き合うような甘くとろけるような音で、激しい曲では、兵士が大声で叫んで突撃するような、荒々しさがあった。彼女の一音一音には、人が話をするような感情の起伏があり、それはわざとらしいものではなく、耳に心地いいものだった。

「コルト、すごいね。」

 ステージを見ていたセイスが小さくそう言ってコルトの方を向くと、彼女はエラトーの演奏をまっすぐ目を見開いて聴いていた。その姿勢は、音楽を聴いているというよりも、エラトーに釘付けになっていると言った方がよいものだった。コルトの目はステージを見つめて、サファイア色に青く、燃えていた。驚愕と、感動と、嫉妬と、挑戦と、あらゆるものが彼女の心で燃えている。セイスの声は聞こえていないようだった。

 コルトは驚いていた。エラトーの演奏はうまいと言うレベルではなかった。彼女の演奏はそのままそれが芸術だった。音楽を聴いているというのではなく、サックスを吹いているのに、耳元で話しかけられているような、そんな気がした。自分の演奏と比べて、雨上がりの水たまりと、広大な湖とぐらいの差があるように感じた。次元が違うのだった。それはコルトの心に火をつけたようだった。

 エラトーの演奏が終わるとともに、会場は総立ちになり、その素晴らしさに万雷の拍手を送った。その途端、コルトは緊張の糸が切れたようにぺたんとイスに座り込み、鳴り止まない拍手の中、総立ちになった数多聴衆の黒い背中を見つめながら、

「もっとうまくなりたい。」

 彼女は心の底から、そう思った。


 次の日からコルトは練習に精を出した。場所は二人が住んでいるアパートの近くの公園だった。その公園は都市のど真ん中に作られたもので、大きさは森と呼んでも差し支えがないくらいに大きかった。公園の中は、その広さの割に整備がきちんと行き届いており、やはりこの街らしくアート色の強い造形物がたくさんあった。近隣の住民が犬を連れて朝の散歩に来る頃から、コルトは練習を始めていた。

「コルト、熱が入るね。エラトーさんの演奏がよかったの?」

「うん。私、みんなにたくさん褒められたから、きっとね、少し自分の演奏にうぬぼれてた部分があったんだ。でもエラトーさんの演奏を聴いて、すごくうまくて、私はもっともっと練習してうまくならなきゃって思った。」

「そっか。俺はコルトのこと応援するよ。」

「セイス、ありがと。」

 コルトはうまくなりたいという情熱とともに、先の見えない恐怖にも襲われていた。今までラートルでセイスに会ってから、ある程度の賞賛を受けながら、かすかにコルトの中には自信というものも生まれ始めていた。それは確かに演奏を聴いた人々の心からの賛辞であり、応援であった。だが、エラトーの演奏を聴いて、そのあまりの実力の差に、そういった以前の評価は空中に、霧のように広がって、ぼやけてしまうように感じた。やっとサックスというもので自分の存在意義を見つけられそうになったコルトは、エラトーの演奏のあまりの自分との差に、果てしなく遠い道のりが目の前に続いているようで心が折れてしまいそうになっていた。サックスを吹きながら、自分は果たしてうまくなっているのか、これから先うまくなれるのか、遥かに遠いエラトーの演奏に、近づくことはできるのか、コルト自身から生まれる、脅迫的とも言える感情に押しつぶされそうになっているのだった。

 練習を終えて部屋に戻ったコルトは、サックスをストラップから外して、ケースにしまった。

「セイス、いつも練習に付き合ってもらっちゃってごめんね。」

 コルトはソファに座って言った。コルトの目に焦りと不安が浮かんでいることをセイスは感じ取った。セイスはコルトの顔を見つめて、

「コルト、悩んでるの?」

 コルトはセイスの目を見ずに、ぐっと拳を握った。

「わからないの。自分がうまくなってるのか。」

 セイスはコルトの手を握って、

「大丈夫、うまくなってるよ。コルトはうまいよ。」

「違うの!」

 コルトは握られた手をぱっと振りほどいて、ソファの端に寄り、まっすぐセイスの方を向いた。その目はしっかと見開いて、涙にうるんでいた。そしてその後、急に下を向いて力なくなった。体はふるふると震えていた。

「ごめんなさい!ごめんさい……うまくなんてないの。うまくなんてないの。」

 あまりに小さく震えるコルトを見て、セイスは胸を痛めた。そしてゆっくりとコルトを抱きしめた。

「だめ!セイス、だめなの。私、セイスに頼ってばかりだから。こうされると、ますます頼っちゃう……。自分で解決しなきゃいけない問題までセイスに甘えてしまう。私は、強くならなきゃいけない。でも……どうすればいいの。怖い。セイスがいなくなっちゃうのが怖い。ばかだと自分でもわかってるんだけど!……優しくされるのが怖い。どうしようもないの……。」

 コルトは思った。胸の心にいるもう一人の自分が、心の中の部屋で、手当たり次第に暴れ回り、周りにあるありとあらゆるものを投げ捨てて、そこはもうぐちゃぐちゃ、足の踏み場もない、立っているところが右か左かすらわからない、そしてセイスの悲しそうな目を見て、頭をかかえて座り込んで泣いている。セイスを悲しませたくない。傷つけたくない。なのに気持ちと全く正反対なことをやってしまう。そんな自分にいらだち、怒りの矛先は自分自身に向く。その鋭利な先で自分の胸を突き刺したかった。それだって!そんなことをしたってセイスが喜ぶはずなんてないのに!

「コルト……。」

 コルトは小さくなって、しくしく泣いていた。セイスの心はざわざわと騒がしく、今、自分がどうしたらいいのかわからなかった。ただ目の前のコルトをなんとしたいと思いながら、何もしてやれない自分をひどく憎いと感じた。もう日が沈んで、部屋は暗くなっていた。

 次の日、セイスが朝起きると、コルトはいなかった。そしてテーブルに置き手紙があった。

『今日は一人で練習に行きます。昨日はごめんなさい。』

「なんだ。よかった……。」

 出て行ったのかと思ったセイスは、その手紙を読んでほっと胸を撫で下ろした。しかし昨日の空気はそのままで、何かが解決された訳ではなかった。セイスはソファにどんと横になり、白い天井を見つめた。

「どうすりゃいいんだよ。」

 つぶやきは、孤独な部屋に漂った。

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