第一話
ぎい。
重いドアがゆっくりと開く。バーのマスターはきれいな指使いでグラスを磨きながら、本日の最初の客の方を向いた。
「いらっしゃいませ。」
いくつかの灯油らんぷで照らされた店内は、薄暗く、ちょっと秘密を持っているような雰囲気だ。
入って来たのはすらっと背が伸びた少年。背中に楽器を背負っている。ギターだ。
「こんばんは。叔父さん。帰りにざっと雨が強くなってきちゃってね。今日は寄るつもりはなかったんだけど、雨宿りに、ね。」
「そうかい。雨強くなって来ちまったんだな。」
少年は背負っていたギターを横において、背の高いスツールに腰掛けた。
「おまかせ。」
「はいよ。」
マスターはさっとボトルを出してシェイカーに注ぎ、氷を手際よくつめ、ぐっと握って、振り出した。透き通ったいい音が店内に響きわたる。その音はドアの前へ、らんぷのそばへ、机の上へ反響する。そしてリズムはクライマックスから緩やかに終演へ向かい、最後に気泡立つ液体が、少年の目の前のグラスに注がれる。
少年は少しの間グラスを見つめ、くいと一口。
「いい音だったよ。カクテルの味は、嫌いじゃないな。名前は?」
「きれいな音でさわやかにしようと思ってバロンで振ったのさ。雨の空気は重いからね。レイニーデイ。スタンダードなカクテルじゃないよ。」
「雨の日か。」
ここは外界とは重い扉で区切られている。外はざあざあと雨が降っているだろうが、中では何も聞こえない。しかし雨のしっとりとした静けさは、少年にとって心地よかった。
この少年の名前はセイス・クラナギ。歳はまだ若く、はたち前後といったところ。顔立ちは端正で、茶色い髪と目をしている。いつもギターを持ち歩いている。
「おじさん、今日は疲れちゃって。奥の椅子で、ちょっとのあいだ眠ってもいいかな?」
「ああ、いいよ。でも今日はライブがあるからな。それまでには起きるんだぞ。」
お店はこぢんまりとしており、四人がけのテーブルが6台ほど。そのテーブルのひとつひとつにらんぷが灯してある。入って右側にはバーカウンター。正面には小さなステージがあり、演奏ができるようにセッティングされている。
セイスはステージの正面一番奥の席に座って、すぐに眠ってしまった。
ズズッタ、ッタッタ。
ドラムの音で目が覚めた。ステージにはバンドが上がって演奏を始めたばかりのようだ。ドラム、ベース、ピアノ、セイスとも顔なじみのいつものメンバーだ。その中でフロントに立っていたのは………
まっすぐ長い黒髪。はっきりときれいな二重まぶたに、髪の色とは対照的な、サファイアのような青い目。小柄で華奢な体つき。そして細い指の中に、きらびやかな彫刻の入った、輝くように光を放つサックスを持っている。まるで人形のような女の子だった。
それを認識したすぐに、プゥアワアーーと、サックスの音がセイスの体を揺さぶった。その音はまさしく、彼女から発せられていたのだが、その小さな体から想像もできないくらいに大きく、芯があり、心を揺さぶるような音だった。
セイスは、心臓をそのまま手でぐいとつかまれたような感じがした。今までだっていろんな演奏は聴いて来たつもりだった。だが、この女の子の演奏は違う。音が違う。ただの楽器の音ではないのだ。この女の子の音は、生きているそのままの音。人生という、考えきれない程の大きな固まりが、音という別のエネルギーに結晶して、人に突進してくるようなイメージ。セイスは背筋をまっすぐに彼女の方へ少し前傾し、彼女の姿から見開いた目を離すことができなかった。金色のサックスはランプの明かりに乱反射して美しくきらめき、彼女自身が輝いているように見えた。セイスには彼女が、光って見えた。
演奏が終わると、彼女はそそくさとステージ脇の楽屋スペースにひっこんだ。セイスは彼女の演奏に体の全神経を使っていたので、演奏が終わってもしばらくの間、感動でうまく動けなかった。しかしセイスは、彼女がステージではあれほどまでに大きく、存在感があったのにもかかわらず、演奏が終わったとたん、恥ずかしがるように裏へひっこんでしまったのを見て不思議なギャップを感じていた。
セイスは席を立って裏側をのぞいてみた。
彼女はもう帰り支度をしており、ここに来たのは初めてなのか、きょろきょろと落ち着かない様子だった。
「こんばんは。」
「ひゃっ!」
セイスが声をかけるや否や、彼女はさっと、うさぎが驚いて逃げるように一足後ろへ飛びのいた。
「ごめんごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど、もう帰るの?」
彼女は激しく打つ心臓を抑えるように、自分のスカートをさっさっとはらいながら、
「ええと……はい。もう演奏は終わったので。」
ぽつりと言った。
「演奏すごくよかったよ。俺はセイス・クラナギ。ここは俺のおじさんが経営してて、昔からよく来てるんだ。今まで色んな人の演奏聴いてきたけど、今日のはちょっと違った。君の演奏はすばらしかった。今までで一番。」
「そんな……。」
照れたような、でも困ったような顔で、
「そんなことないです。」
表情は少し曇った。
「名前は?」
「コルト・ハーネット。」
「この町に引っ越して来たの?あんまり見ない顔だね。ここらへんの同年代はほとんど知ってるからさ。」
「引っ越して来たわけじゃないです………。でもここに来たのは初めて。」
「なんか事情があるみたいだね。まあここで立って話しててもあれだから、カウンターおいでよ。」
セイスはコルトの手をひっぱってカウンターに連れて行った。
「おっ、いい音出してたね。何か作ろうか?」
マスターがにこやかな顔でコルトに言った。演奏が終わって店内は観賞後の感想を言い合ったり、酒を飲んだり、皆、浮いた空気に包まれていた。
「お酒はちょっと………。」
「そっか。じゃあおじさん、そんな彼女にぴったりのカクテルを。」
「セイスはきざったらしいねえ。わかったよ。」
またシェイカーの氷のきれいな音が響き渡る。今度は皆の談笑の中でリズムを刻む。コルトはマスターがどんなものを作るのか不安で、じっと見つめていた。
グラスに注がれたのは、淡い黄色のカクテル。表面には白い泡が立っている。そこにマスターがひょいと最後に乗せたのは、オレンジの皮で作ったサックス。
「ノンアルコールだよ。あんまり君の演奏がよかったんでオレンジの皮でサックスも作っちゃったよ。」
「おじさんもきざじゃないか。」
コルトは戸惑っている様子だったが、三角形のグラスをすっと持ち上げ、一口飲んで、
「おいしい。」
ぱっと顔が明るくなった。
マスターがガッツポーズをしたので、セイスは笑ってしまった。
「この子が店の前をどしゃぶりの雨が降ってる中、傘もささずに歩いてたんだ。サックスを持ってね。あんまりとぼとぼ歩いてたんで、ここらは危ないだろ?しばらく雨宿りしたらどうかって言ったら、初めはうんともすんとも言わなかったから、嫌なのかと思ったけど、中に入ってきてさ。ちょうど楽器もあるわけだし、ステージに立ってもらったんだよ。」
「そういうわけだったのか。」
コルトはうつむいて、申し訳なさそうに、
「すみません。」
「いやいや、いいんだよ。あんなすばらしい演奏聴かせてもらったんだから、逆に俺たちが君に感謝しなくちゃならない。そうだろ、セイス?」
セイスは大きく頷いた。コルトは下を向きながら首を振って、
「この………カクテルの名前はなんて言うんですか?」
初めてコルトが自分から話したことに、セイスもマスターもはっと驚いて目を合わせた、やっと少しだけでも打ち解けてくれたことに二人は嬉しくなった。
「シンデレラだよ。」
コルトは自分の手の中にある、折れそうなくらい華奢なグラス、その黄色い海の上に浮いたサックスを見つめた。自分の演奏は人にこんなに喜びを与えるのだろうか。それは嘘ではなく真実なのだろうか。にわかに信じられない気分の中で、コルトは薄い目をして、海に浮かぶサックスを見つめていた。