八幕目
よく知る男の姿に、お妙は足を止めた。
「弥吉さん、いい男が台無しですよ。そんなにぼんやりして」
茶屋の客の少ない時間帯。ちょっと喋るくらいいいだろうとお妙は弥吉に声を掛けた。
「ん? あぁ、お妙ちゃんか。邪魔してるよ」
「何かあったんです?」
その問い掛けにも、弥吉は生返事だ。
お妙が弥吉の隣に腰掛けた。弥吉はちらりとそれを見やる。
お妙は笑みを携えて、通りを行く人々を見ている。弥吉が話し出すのを待っているのだろう。
仕方ない、似た者同士なこの娘のことだ。こんな時は話すまで動かないだろう。自分ならそうする。
「いやね、うちの梅乃ちゃんいるだろう?」
話し出した弥吉にお妙は目で頷いた。
「あの子が来てから色々と助かってんだよ。綺麗好きだから店の掃除も率先してやってくれるし、あの子目当ての客も増えたし」
隙あらば梅乃に近付こうとする輩が増えたのは事実だ。だが弥吉としても、看板娘に妙な輩から手を出されても困る。
思い出して少し笑ってしまった。徳蔵が店に立つことが増えたのだ。あんなに眼光鋭く客を睨んでどうする。おかげで変な虫は湧かなくなったが。
「いいことなはずなのにねぇ。何だか胸が妙なんだよ」
梅乃と徳蔵が話しているところを、時折見かける。相変わらずな仏頂面の徳蔵に、愛らしい笑顔の梅乃。何て事のない日常の風景だ。
だがこの胸のもやもやは何なのだろう。
隣で吹き出す声が聞こえた。弥吉は目を瞬かせて、隣を見やった。
「……何笑ってるのさ」
弥吉はまだ笑い続けているお妙にじとっとした視線を向けた。よほどつぼに入ったのか、お妙は肩を震わせ続けている。
「ごめんなさい。だって弥吉さん、そんなの」
お妙は深呼吸して弥吉の方に顔を向ける。
「徳蔵さんを取られたようで、悔しかったんでしょう?」
言われた言葉の意味が、すぐには分からなかった。弥吉はぽかんとお妙の顔を凝視するしかできない。
「い……やいやいや! 僕に男色の気はないよ!?」
「分かってますよぅ。そうじゃなくて、親愛って意味です。兄弟愛みたいな。ずっと柳井さんと徳蔵さんとお仕事してきて、もう家族みたいに思ってたんでしょう? そこにお梅ちゃんが現れて、弟を取られたような気持ちになっちゃったんじゃありません?」
今度こそ弥吉は言葉を失った。
まさか、と思うが言われてみれば思い当たる節がない訳でもない。つまらないと思うのは二人が揃っている時だけだ。
徳蔵を弟のように思ってきた。二つしか違わないが、彼の故郷でのこともある。何かと世話を焼いてきたのは事実だ。
梅乃にしても、歳の離れた妹ができたようであった。それは徳蔵も同じだっただろう。言霊に狙われやすく、どこか目の離せないところのある梅乃は、弥吉にとっても徳蔵にとっても気に掛かる存在だったのだ。
徳蔵はそれが恋情に変わったが、手の掛かる弟だと思っていた存在が急に大人びたのだ。懐いていたわけではないが、兄離れと言っても変わらない。
弥吉は片手で顔を押さえ、俯いた。
弟離れできていなかったのは、自分の方か。
弥吉はくくっと肩を震わせる。
「弥吉さん?」
黙りこんでしまった弥吉を、心配そうな目のお妙が覗き込んだ。弥吉はぱっと顔を上げる。
「このことは内緒ね?」
そう言って弥吉は人差し指立てて口元に当てた。
色男な兄貴分で通っているのだ。かっこ悪いところは見せられない。
にっと笑う弥吉にお妙は面食らったようだ。目をぱちくりさせている。
やがてその顔がくしゃりとした笑みに変わった。この表情に惚れて茶屋に通う客も多いのだろう。
「仕方ないですねぇ。いくつ秘密をお持ちになるつもりですか?」
「謎の多い男は魅力的だろう?」
「あら、私にはばれてしまっていますけど?」
「ははっ、それもそうだ」
この娘にならば、情けないところを見られてもいいかと思えた。勿論、見せないにこしたことはないが、隠したとしてもすぐにばれてしまいそうだ。隠し事は意味がない。
それに気付いているのだろうか。
弥吉はお妙を見つめるが、お妙は不思議そうに見返してくる。
この分なら気付いていないようだ。弥吉はこの関係性がずっと続きそうだなと思いながら、初夏の迫る高い青空を見上げた。
*
「それで、お梅ちゃんはどっちをお慕いしているの?」
ある日の昼下がり、柳井堂に遊びに来ていた茶屋のお妙が言った。恋文事件以来、お妙と梅乃は仲良くなったのだった。
硯を並べていた梅乃はぽかんとする。
「どっちって……?」
「やだよう、徳蔵さんと弥吉さんのことだよ」
意味を解して梅乃の顔がぼんっと赤くなる。徳蔵は小屋にいるし、弥吉は接客中だ。聞こえてはいないと思うが、梅乃は狼狽した。お妙がからからと笑う。
「大丈夫、大丈夫。聞こえてないって。それで、どっちなんだい?」
梅乃が茶屋に行ったりお妙が柳井堂に来たりで二人は随分と仲良くなっていたが、恋の話をするのは初めてだ。梅乃より二つ年上のお妙。梅乃ほどうぶではないのだろう。
「ふ、二人ともお仕事仲間です……! 私なんかに想われても迷惑でしょう!?」
梅乃はせめて弥吉に聞こえないようにと小さく言い返した。
お妙はきょとんと目を瞬かせる。
「あらやだ、お梅ちゃんは自分の可愛さを分かっちゃいないねぇ」
ふふ、とお妙は笑う。梅乃はどう返事をしたものか、と視線をあちこちに彷徨わせた。
「お梅ちゃんは初恋もまだだったかい?」
姉御ぶって笑うお妙は、どこか楽しそうだ。からかわれる梅乃はたまったものではない。話を切り上げて仕事に戻ろうとした。
「一緒の仕事場だからって安心してちゃあいけないよ。二人とも、もてるから」
そう言って片目を瞑ると、墨を買ってお妙は帰っていった。
知らない訳ではない。顔のいい弥吉がもてるのは周知のことだが、徳蔵もあれで女性に人気がある。愛想はないが、黙々と仕事をする姿がいいと評判だ。
梅乃は盛大にため息を吐いた。
「どうかしたのか」
「うひゃあ!」
突然背後から声を掛けられて、梅乃は飛び上がる。振り返ると、そこにいたのは徳蔵だった。
「いっいつ、いつからそこに……」
話を聞かれてしまっただろうか。梅乃の顔に焦りが浮かぶ。
「いや、今来たところだが。それより顔が赤いが大丈夫か? 熱でもあるんじゃないのか?」
まさか徳蔵たちの話をしていたなんて、とても言えやしない。梅乃はぶんぶんと横に首を振った。
「えっと、あの……お妙ちゃんと新作のお菓子の話をしていただけです!」
我ながら何と苦しい答え、しかもよりによって菓子とは。
梅乃は言ってしまってから、もうちょっとどうにかならなかったのかと後悔した。食い意地が張っていると思われてしまったかもしれない。
「あぁ、あの茶屋の娘か。確かにあそこの団子はうまいな」
変には思われなかったようだ。梅乃はちらりと徳蔵の顔を見上げる。
徳蔵は見かけによらず、甘いものが好きなようだ。酒のつまみに白桃を用意していたときには驚いたものだ。
「あの……今度一緒に食べに行ってみませんか?」
「え?」
「お妙ちゃんが来週から新作のお菓子が出るって言ってたから! あ……嫌だったらいいんですけど……」
声が段々尻すぼみになる。勢いで言ってしまったが、徳蔵はあまり誰かと出かけることはない。
自分が誘うのは迷惑だったか、と梅乃が思った時だった。
「分かった」
短く呟かれた言葉に、梅乃は顔を上げる。視線の先の徳蔵は、いつも通りの仏頂面ながらも別段迷惑そうではなかった。
「楽しみにしてる」
無表情のまま告げて、徳蔵は総兵衛のところへと行ってしまった。
「顔と科白が合ってないよ……」
ぽつりと零しながらも、梅乃は頬が緩んでしまうのを止められなかった。
*
そんな約束をしたものの、あまり浮かれてもいられない。
今宵も梅乃は、徳蔵たちと言霊退治に出かけていた。
「きゃー!」
相変わらずの囮役だ。言霊に襲われる前に弥吉たちが助けてくれると分かってはいるが、怖いものは怖い。黒く大きな虎が飛び掛ってくるのだ。
あまり大声を出すと近所の人に怪しまれてしまうので、梅乃は小声で叫ぶことがうまくなってしまった。何だかやるせない気持ちでいっぱいになる。
『惑い迷いし言の霊 在るべき場所へと戻りたまえ』
弥吉の凛とした声が響き、徳蔵の美しい文字が綴られた紙へと言霊は吸い込まれていく。
一人息を切らした梅乃が地面に手を付いた。
「毎度毎度、どうにかなりませんかね……」
梅乃を囮に走らせて、二人が背後から隙を突く。その捕え方が定番化していた。
「うーんどうにかしようにも、何かする前に言霊が梅乃ちゃんを追い掛けだしちゃうんだもん。仕方ないよねぇ」
内容に反して、弥吉のその言葉にはおおよそ申し訳なさは浮かんでいない。徳蔵が信じるなと言ったのは、こういうところがあるからだろうか。できることならもっと早くに知っておきたかった。
言霊退治を何よりも優先するのは悪いことではない。ただ巻き込まれる方はたまったものではない。
「ん?」
疲れ切った梅乃の耳に、徳蔵の怪訝な声が聞こえてきた。
「どうしたの、徳蔵くん」
「いや、ここ……」
弥吉は徳蔵に近づき、彼が指差した紙を覗き込む。
「これは……」
表情を険しくする弥吉に、何事かと梅乃も近付き紙を覗き込んだ。そこには虎の絵が描かれている。
「これがどうかしたんですか?」
「ここ見て。この文字」
弥吉が指差した先には、何やら名前のようなものが刻まれていた。
「これは?」
「この言霊の元になった作品を書いた人の、署名のようなものだよ」
「知ってる人なんですか?」
そこで弥吉は口を噤んだ。徳蔵と顔を見合わせて、物言いたげな表情をした。
「これは……河竹様の署名だ」
生ぬるい風が、一つ吹いた。
*
店番をしながら、梅乃はぼんやりと考え事をしていた。
あの署名のことだ。兄のことでも手一杯なのに、今度は河竹氏ときている。
彼の住まいで会ったときの河竹氏は、取り立てて変わった様子はなかった。取り乱している様子も、落ち込んでいる様子も見られない。
だからこそ、河竹氏に言霊が憑いていると俄かには信じ難かった。
「梅乃ちゃん、休憩にいってきていいよ」
ぼんやりと頬杖を付いていた梅乃に、弥吉が声を掛けた。
「弥吉さん……柳さんは動いてないですか?」
弥吉は困ったような笑みで頷く。
戸惑いを覚えるのにはもう一つ理由がある。柳さんが動かないのだ。言霊の気配があれば、柳さんが教えてくれるはずである。その彼が今回に限っては動かないのである。
勿論、口利かない猫であるから全ての言霊を教えてくれている訳ではないかもしれないが、梅乃たちでさえ気付いている言霊だ。教えてくれないことが不思議でならなかった。
「河竹様も取り立てて変わったところはないんですよね?」
「うん。まぁあの絵に河竹様の名前があったからって、河竹様に言霊が憑いてるって確定した訳じゃないんだけどね」
「そうなんですか?」
「河竹様の作品を読んだ誰かが、思いを募らせて言霊を生み出した可能性もある」
その言葉に梅乃は目を伏せた。
知らない人なら言霊が憑いてもいいという訳ではないが、見知った相手ならば動向を伺っておくことができる。兄のこともあるのだ。これ以上、探す範囲が広がるのは困りものだった。
「とはいえ、あの虎は一度は封じられた。しばらくは河竹様に言霊が憑くことはないだろうよ」
弥吉が言うのならばそうなのだろう。彼は梅乃よりずっと言霊使いとしての経歴が長い。
それでも梅乃は、胸の不安を収めることができずにいた。
「あらまぁお梅ちゃん、恋わずらい?」
その日の午後、店にはお妙が来ていた。ちょうど店が空いた時間帯で、彼女以外に客の姿はない。総兵衛も弥吉も休憩に行っていた。徳蔵は相変わらず作業場である。
乙女のため息を、恋の話が好きなお妙が見逃すはずもない。
「こっ……!? だから違うってば……」
「隠さなくてもいいんだよう。さっきからずっとため息ばかりついてる」
お妙がにんまり笑って言ってくる。梅乃は言葉に詰まった。
まぁ言霊のことばかり考えていた訳ではない。もうすぐ徳蔵と約束した日が来る。そのことを考えていたのも事実だ。
もう誤魔化すこともできなくなっていた。梅乃は徳蔵に想いを寄せている。徳蔵が店に出てこないか待っている自分がいる。食事のときにはつい視線が吸い寄せられてしまう。これを恋わずらいと言わずに何と言うのか。
梅乃は背後にちらりと視線をやった。みんなはまだ休憩しているようで、出てくる気配はない。店にもお妙一人だし、梅乃はちゃんと向き合うことにした。
「確かに……恋わずらいかもしれません」
「どっちにだい?」
「……徳蔵さん」
ようやく認めた梅乃に、お妙はどこか嬉しそうだ。
「やっぱりそっちかい。いいんじゃないか? 徳蔵さんも人気だけど、近寄り難いって遠巻きにされてるしね。お梅ちゃんといると、徳蔵さんもちょっと雰囲気柔らかいし。いい雰囲気だよ」
「そう、でしょうか……?」
「そうともそうとも」
お妙は満面の笑みだ。梅乃は嬉しい反面、素直に喜べずにいた。
「お梅ちゃん?」
「邪険にされていないっていうのは嬉しいんですけど、私、目的を持って江戸に来たんです。その目的が果たされるまでは、あんまり恋だの何だの言ってられなくて……」
未だ兄は見つかっていない。河竹氏の問題も解決していない。
そんな状況で、自分の想いを優先などしていられなかった。
お妙が小さくため息を吐く。
「目的のために頑張るお梅ちゃんは偉いけど、あんまり自分の気持ちを抑えなさんなよ?」
そう言ってお妙は梅乃の頭をぽんぽん撫でてくる。小さい頃、兄から同じように頭を撫でてもらったことを思い出して、梅乃は自然と顔が綻んでしまった。
「そうそう、今週から出すって言ってた新作のお菓子だけどね」
客が数人入ってきて、お妙はそろそろお暇しようと腰を上げた。
「延期することになっちまったんだよ」
「えっ、どうしてですか!?」
お妙は忌々しげな顔をする。
「うちの近くの河原崎座、あるだろう? そこで最近、物の怪が出るって言われてんだよ。そのせいであの辺の客足が減っちゃってねぇ。落ち着くまで縮小営業でいこうかって話なんだよ」
梅乃は顔を強張らせた。約束の件もあるが、その話に心当たりがあったのだ。
「楽しみにしておいてって言ったのにすまないねぇ。いつになるか決まったら、また教えるね」
そう言い置いてお妙は帰っていった。
突破口が見えた。
梅乃は拳を握ると、裏へと向かった。
「で、結局こうなるんですね……」
日も落ちた戌の刻。一行は河原崎座の前にいた。
お妙の話を総兵衛に伝えると、彼は難しい表情で黙り込んでしまった。
柳さんも動いていない。まだ言霊の仕業と決まった訳ではないが、河原崎座を見張ることになったのだ。
そして今宵も梅乃は囮役だ。言霊かどうか分からないから、徳蔵の文字が認められた紙を持って、完全囮武装である。
河原崎座はしんと静まり返っていた。
「弥吉さん、本当にこれで言霊が釣られるんでしょうか?」
「うーんどうだろうね。言霊って決まった訳じゃないから何とも言えないけど、言霊だったら間違いなく釣られるよ。なにせ徳蔵くんの文字に梅乃ちゃんだもん。ごちそうだよね」
弥吉は誉め言葉のつもりだろうが、梅乃は全然嬉しくない。本当に弥吉は言霊馬鹿だ。
肩を落とした梅乃の頭に、ふわりと何かが乗った。
「何かあっても絶対に守る。安心しろ」
見上げると、徳蔵が梅乃の頭をぽんぽん撫でていた。以前、兄やお妙にされたときとは違う。触れられたところが熱を持ったように感じる。
梅乃は頬が熱くなって、俯いてしまった。
「徳蔵くーん、調子が狂うようなことしないでよー」
「何がだ?」
徳蔵は本気で意味が分かっていないようだ。首を傾げている。
徳蔵にとっては取り立てて特別な行動ではないらしい。梅乃は再び肩を落としつつ、小さくため息を吐いた。
そのときだった。河原崎座の中から、何やら物が倒れるような大きな音がした。
「行こう!」
弥吉の言葉を合図に、三人は中への入り口を探した。
裏に回ると、裏口が不自然に開いていた。三人はそっと忍び込む。
舞台には灯りが灯されていた。飾りが無残に倒されている。そこにいたのは――
「竹彦兄さま……」
梅乃の兄、本人だった。