五幕目
暮らしに慣れてはきたものの、物事うまくは進まない。
梅乃が柳井堂で働き始めてから一月は経とうというのに、歌舞伎作者の訪れがないのだ。
「梅乃さんが来る少し前に、紙を大量に買っていかれた先生がいましたからねぇ。他の方々も余所に行っているのかもしれません」
と、総兵衛ものんびり顔だ。商売人としてそれでいいのかと、梅乃の胸に不安が過ぎる。
総兵衛がぽんと手を鳴らした。
「そうだ。待っているだけでなく、こちらから尋ねるのはどうでしょう」
「尋ねる、ですか?」
「えぇ。梅乃さんはまだ江戸の歌舞伎を見たことがないでしょう? どうです、この機会にご覧になっては?」
確かにそれはいい考えだ。ずっとここで待っているよりも、見つかる確率も格段に上がるだろう。
「ということで、徳蔵君と行ってきてください」
「え?」
梅乃が間抜けな声を上げる。店の片隅で筆を並べていた徳蔵は、何事かと顔を上げた。
「私一人でいいですよ! あ、店を空けてもいいなら、ですけど……」
「大丈夫ですよ。じゃあ徳蔵君、よろしくお願いしますね」
ようやく何事か悟ったらしい。徳蔵が苦々しい顔を向けていた。
「なんで俺が……」
「河竹様に紙を届けてほしいんですよ。そろそろなくなる頃だってお弟子さんが言ってましたし」
それでも徳蔵の眉間には皺が寄ったままだ。断りたいという気持ちがありありと浮かんでいる。
梅乃にしても、先日の一件がある。徳蔵と二人きりで出かけるのはまだ気まずい。総兵衛は気を遣ったつもりだろうが、気の遣い方が空回りしていることは気付いているのだろうか。
そこに弥吉が顔を覗かせた。話は聞こえていたようだ。
「じゃあ僕が行こうか? というか行かせてー」
「弥吉君は駄目。今日は安東様がいらっしゃるでしょう?」
お得意様の名前を出されて、ちぇっと弥吉は引き下がる。
総兵衛の顔が梅乃と徳蔵を向いた。
「という訳でお二人、よろしく頼みましたよ」
江戸町奉行所に認可されている芝居小屋は三つある。櫓を立てることを許されたこの三つの芝居小屋は、奉行所公認とだけあって大きいのだが、他に芝居小屋がなかった訳ではない。
「河原崎座も三座に次ぐ芝居小屋だ。河竹の旦那はそこで上演される芝居の台本を書いている。どういう繋がりかは知らんが、柳井さんと親しくてうちの店を贔屓にしてくれてるそうだ」
道中、徳蔵がそう説明してくれた。
あの一件以来、徳蔵とはあまり話していない。元々寡黙な徳蔵ではあるが、何となく気まずくて梅乃は彼を避けていた。
しかし徳蔵はいつも通りに話している。ぶっきらぼうが常だから、心の中ではどう思っているかは分からない。だが梅乃はそのいつも通りがありがたかった。
一言謝ってしまえばいいのかもしれない。勝手な行動をして悪かった、今後は気を付ける、と。
だがそれは徳蔵の過去を聞いてしまった今では、難しく思えた。
梅乃も言霊を見ることで嫌な思いをしたことはあるが、徳蔵の比ではない。家族が危険に曝されることなどなかった。ましてや隔離されて暮らしてきた訳でもない。
何を言っても上っ面をなぞるだけのような気がした。
通りは芝居小屋へと向かう人たちで賑わっている。芝居を待つ人々の楽しそうな声、茶屋や浮世絵屋の呼び込みの声、明るい空気が満ち溢れていた。ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが、人々の心を余計に華やかにさせているようだった。
「すごい人だかりですねぇ。どこからこんなに集まってくるのやら……」
江戸の人の多さに驚いていた梅乃だが、ここまで多いとは思っていなかった。梅乃の田舎とは雲泥の差だ。
「おい、はぐれるぞ」
梅乃がきょろきょろしていると、ふいに腕を引かれた。先程までより歩きやすくなって、徳蔵が人の少ない方に導いてくれたのだと気付く。
落ち着いて歩けるようになると、徳蔵は手を離してしまった。それが惜しく思って、はたと梅乃は考える。なぜそんなこと思うのだろうか。
「この前は……悪かった」
手が離れた瞬間、ぽつりと小さな声が聞こえた。ざわめきの中で消え入りそうな声だったけれど、梅乃の耳に確かに届いた。
徳蔵は梅乃を振り返らずに歩いている。梅乃は思わず立ち止まってしまったが、慌ててその背を追い掛けた。
「私も! すみませんでした!」
ぴたりと徳蔵が足を止めた。背中にぶつかりそうになって、梅乃は慌てて立ち止まる。
見上げると、肩越しに徳蔵が薄く微笑んでいるのが視界に映った。梅乃の息が止まる。
すぐ前を向いてしまったので一瞬気のせいかと思ったが、気のせいではない。確かに微笑みが見えた。
梅乃の心臓が早鐘を打つ。もう手は離れているのに、梅乃は触れられたところがまだ熱を持っているかのように感じていた。
徳蔵に付いて辿り着いた河原崎座を見上げ、梅乃は感嘆の声を上げた。
「これで三座より小さいって、三座はどれだけなんですか……」
ここまで来ると、芝居を待つ人々でごった返している。
「ここはいくつかの芝居小屋が集まってできたとこなんだ。まぁ三座も大きいがな」
徳蔵は勝手知ったる様子で芝居小屋の裏手に回る。配達は初めてではないのだろう。
勝手口から通された先に、件の人物はいた。
鼠色の着流しに下駄を突っかけ、煙草を咥えている。明朗快活な老人だ。
「おう、柳井堂さんか」
「いつもご贔屓にありがとうございます、河竹様。ご注文の品を届けに参りました」
すらすらと言って頭を下げる徳蔵を、梅乃は不思議なものでも見るかのような目で見ていた。こんなに流暢に話す徳蔵を初めて見た。
ぽかんとしている梅乃に気づいたのだろう、河竹氏が梅乃に目を向けた。
「なんだぁ、新入りかい? こんなに喋る徳を初めて見たって顔だな。こいつはな、こう見えて芝居が好きなんだよ」
「先生の作品が好きなだけですよ」
またぶすっとした表情に戻ってしまった徳蔵に、河竹氏は楽しそうだ。
徳蔵にこんな一面があるとは知らなかった。新たな面に出会えたことに、梅乃は自然と顔が緩んでしまう。
すると河竹氏もかっかと笑った。
「えらいべっぴんな嬢ちゃんだな。悪い虫がつかねぇように、お前さんがちゃーんと見張っとかんといけねぇぞ?」
そう言って徳蔵の肩をばんばん叩く。
「河竹様!」
「そ、そんな関係では……!」
徳蔵と梅乃が素っ頓狂な声を上げる。二人の声が重なったことに、河竹氏はより一層楽しそうに笑っていた。
「さ、そろそろ開幕だ。席を用意してるから見ていきな」
誤解が解けたかは定かではないが、二人はその言葉に甘えることにした。
河竹氏の筆名を、河竹黙阿弥という。
というのは芝居が始まってから梅乃が知った事実だった。
舞台の上では三人の役者が立ち回りを繰り広げていた。今日の演目は三人吉三巴白浪。兄弟の契りを交わした三人の盗賊の物語だ。それぞれ違った性格の三人の吉三と、後に黙阿弥調とも呼ばれるようになる歌うような科白が魅力の、江戸で今一番人気の演目である。
舞台は節分の江戸。客が忘れた百両を届けに出た夜鷹のおとせは、お嬢吉三と出会う。おとせを騙くらかしてその金を手にしたお嬢吉三だが、そこをお坊吉三に見られてしまう。
百両を巡って斬り合う二人。そこに名のある盗賊、和尚吉三が現れる。その身を呈して争いを納めようとする和尚吉三の男気に惚れた二人は、兄弟の契りを交わすのだった。
「まさか河竹様が、歌舞伎の作者だとは思いませんでした」
幕間、梅乃は弁当を突きながら隣の徳蔵に話し掛けた。初めての芝居小屋にあたふたしている間に、徳蔵がさっと弁当の支払いを済ませてしまった。頑として徳蔵が御代を受け取らなかったのでありがたく頂戴したが、これが実にうまい。顔を綻ばせる梅乃に、徳蔵もようやく箸を付けたのだった。
「河竹様は二代目なんだが知らん奴は知らんかもな。どの作品も面白いぞ」
梅乃はちらりと隣を盗み見た。
黙々と箸を進めている徳蔵は、いつもと同じに見えるが少し違う。どことなく雰囲気が楽しげだ。河竹氏が言っていたように、やはり芝居が好きなのだろう。
芝居を初めて見た梅乃だったが、その理由が分かる気がする。話の内容は勿論のこと、役者や小道具に至るまで視線を捉えて離さないのだ。
「河竹様、すごいですねぇ。満席じゃないですか」
「まぁ三人吉三も初演ではそこまで評判にならなかったらしいがな」
「そうなんですか? それにしてもお嬢吉三、素敵ですねぇ。あの方も男性なんですよね?」
和尚吉三、お坊吉三、お嬢吉三の三人の吉三が登場する三人吉三であるが、お嬢吉三だけが女装の男である。女装といえども艶やかな着物を着こなし、軽やかに立ち振る舞う姿に目を奪われる観客は少なくなかった。
うっとりとその姿を思い出していた梅乃は、隣の空気が不穏になったことに気付かない。
「……ああいう男が好みなのか?」
「へ?」
小さく呟かれた言葉を聞き返そうとしたが、次幕の始まる声に遮られてしまった。
どういう意味で言ったのだろう?
お嬢吉三が出てきた舞台に目を向けてはいるが、梅乃は隣が気になってなかなか集中できなかった。
芝居は進み、三人の吉三が刺し違えようかという場面まで来た。
緊迫した場面だ。最初は気のせいかと思っていた梅乃だが、段々確信に変わってきた。なんだか寒気がするのだ。
風邪だろうかと思ったが、額は熱くない。気温が下がってきたのかと思ったが、周りの人々は平然としている。
そのうちに座ってもいられなくなってきた。
「梅乃」
その声が誰のものであるかを解するのに、少々時間が掛かった。初めて名前を呼ばれたのではないだろうか。
「具合が悪いのか。出よう」
徳蔵が梅乃の顔を覗き込んでいた。
「徳蔵さん……でも……」
「いいから」
そうして梅乃は徳蔵に支えられながら、芝居小屋を後にした。
近場の茶屋で横にならせてもらった。芝居小屋を出たことで多少楽にはなっていたのだが、徳蔵に無理矢理横にされてしまったのだ。
「具合はどうだ?」
濡らした手ぬぐいを手に、徳蔵が戻ってきた。額に宛がわれた冷たい手ぬぐいが心地良い。
「もう大丈夫です。ご心配お掛けしてすみませんでした」
起き上がろうとした梅乃だったが、徳蔵に額を推されそれは叶わなかった。茶を啜る徳蔵を見上げる形になる。梅乃は大人しく横になっておくことにした。
「……徳蔵さんは、何か感じませんでしたか?」
「何か?」
「はい。芝居を見ていたとき、段々寒気がしてきたんです。始めは風邪かなと思ったんですけど、今は何ともないですし……。周りの人も平然としていたから」
外に出た瞬間、ふっと体が軽くなった感じがした。今までこんなに気分が悪くなったことはないが、もしかするとという気持ちが過ぎったのだ。
「もしかしたら、言霊なのかなって」
案じるような梅乃の目に、徳蔵はふむ、と顎に手を当てて考え込んだ。
「俺は特には気配を感じなかったが、念のために柳井さんに報告しておこう。あれだけの人だったから、見つけるのは難しいかもしれないが」
そういえばそうだと梅乃は思い至った。河原崎座は満席だったのだ。もっとちゃんとどこから気配がするか見ておけば良かった。梅乃は目を伏せる。
すると徳蔵の手が頭に触れた。
「余計なことは気にするな。今は具合を治すことだけ考えておけ」
そう言って優しく頭を撫でてくれる。
どうして気付かれてしまったのだろうか。そんなに顔に出ていただろうか。
内心焦りながらも、梅乃はその手の心地良さに大人しく甘えることにした。
「言霊の気配、ですか」
柳井堂に帰ってきて、梅乃は事のあらましを総兵衛に伝えた。
総兵衛はそう呟くと、腕を組んで黙り込んでしまった。
「気配と言ってしまっていいものかは分からないんですけど、何だか嫌な感じがして……」
難しい顔をして考え込む総兵衛に、梅乃はしどろもどろになる。やはり自分の勘違いだったかもしれない。そんな気持ちになってきた。
長年言霊使いをやっている徳蔵でも気付かなかったのだ。ただ言霊が見えるだけの自分が、そんな力を持っているはずがない。
「あのっ、やっぱり私の思い違いかも……」
「いえ、その可能性はあります。私には言霊使いとしての力はありませんが、言霊使いを見抜く力はあるんですよ。梅乃さんは言霊を引き寄せる体質ではありますが、何か別の力も持っているような気はしていました」
「そう、なんですか?」
「えぇ。その力がどのようなものかは未知数でしたが、案外気配を察知できるというものなのかもしれません」
その時、徳蔵の膝の上で撫でられていた柳さんがなーおと鳴いた。三人の視線が集まるが、柳さんはまた気持ち良さそうに目を瞑ってしまう。
総兵衛がくすりと笑った。
「柳さんみたいに」
確かに柳さんのようだ。言霊の気配を察知して、皆に教えてくれる。まるで同じだ。
「じゃあ! 私、言霊の居場所を知らせられるように頑張りますね!」
「そういうのは倒れなくなってから言え」
ずっと黙っていた背後の人物の言葉に、梅乃はうっと渋面になった。
「倒れてはないです。ちょっと気分が悪くなっただけで」
「無茶をするなと言っているんだ。倒れては元も子もないだろう」
「ちょっとくらいなら大丈夫ですっ」
そうやって言い争いを始めてしまった二人だったが、吹き出すような笑いに口を閉じた。
「……何笑ってんだよ、柳井さん」
「いえ、すみません。徳蔵村君がこんな風に、誰かと口喧嘩をする日が来るなんて」
そう言うとまた肩を振るわせ出してしまった。
「喧嘩じゃない。注意しているだけだ」
むすっとしてそう呟く徳蔵に、総兵衛は楽しそうだ。
総兵衛は梅乃に向き直る。
「とは言え徳蔵君の言うことはもっともです。梅乃さん、くれぐれも一人で何とかしようと思わないようにしてくださいね」
総兵衛は真剣なまなざしだ。梅乃は神妙に頷いた。
数日後、梅乃は弥吉と共に河原崎座の前にいた。
今日の公演はないので、表は閉じられている。梅乃は何とか覗き込めないかと思ったが、生憎隙間などない。
「どう? 変な感じする?」
「いいえ……。やっぱりここの人じゃなくて、お客さんだったのかもしれません」
あの日、言霊に取り憑かれた人が、ここにいたのかもしれない。それを確かめに河原崎座まで来た二人だったが、人がいないようでは確かめる術もなかった。
ましてや客の中にいたのなら、もうどうしようもない。江戸中を探して回るなど、到底無理な話だ。
「まぁ害が出ている訳ではないんだし、しばらくは様子見でもいいんじゃないかなぁ?」
弥吉はもう興味を失ったのか、辺りをきょろきょろ見渡している。その視線が茶屋で止まった。
「柳井さん達も待っているだろうし、お団子でも食べて帰ろうよ」
梅乃は後ろ髪を引かれつつも、その言葉に頷いた。
前回はこの茶屋で寝ているだけだった梅乃だ。運ばれてきたみたらし団子に目を輝かせた。
「おいしいですね。前回食べられなかったから嬉しいです」
「徳蔵くんはそういうところ気が利かないからなぁ。お土産に買ってくれればいいのに」
弥吉が食べているのは草団子だ。そちらと悩んだ梅乃だったが、次に来るときはそれにしようとこっそり考えていた。
おいしい団子に舌鼓を打っていると、店の女中が近づいてきた。
「良かった、お客さんまた来てくれて。これを忘れていったでしょう?」
そう言って女中は一冊の本を差し出してくる。
梅乃は首を傾げた。そんなものを忘れた記憶はない。その本に見覚えはなかった。
「あの、人違いじゃないでしょうか? これ私のじゃないんですけど……」
「あらやだお妙ちゃん! その方じゃないよ。それを忘れていったのは男の人だったろう?」
奥から出てきた女将さんが、お妙と呼ばれた女中に声を掛ける。
「そうでしたっけ? ごめんなさい、お客さん。その方と雰囲気が似てたから間違えちゃいました」
梅乃と弥吉は顔を見合わせた。その人物に心当たりがあったのだ。
「あの、その人っていつ来られたんですか?」
「え? ええと、そうだ! そこの河原崎座で公演があった日です。役者さん達に紛れて来たので覚えてます」
やはり兄は芝居小屋に出入りしているのだ。しかもあの日にこの店に来たというのなら、河竹氏に師事している可能性が高い。
女中が去って、弥吉は口を開いた。
「でも河竹様は何も言わなかったんでしょ? 女中さんでさえ似てるっていうのに、毎日お兄さんに会ってるはずの河竹様が気づかないものかなぁ?」
「兄と私は似ているって言う人もいるし、似ていないって言う人もいるから。でも竹彦兄さま、どうして連絡をくださらないんだろう……」
目と鼻の先にいた兄だ。こんなに近くにいたのに、手紙の一つも寄こさなかったことに、梅乃はうな垂れる。
その頭に弥吉の手が乗せられた。そのままぽんぽんと撫でられる。
「何か事情があるんだろうよ、きっと。河竹様のところに行ってみるかい?」
茶屋を出た二人は、河竹氏の住まいへと向かった。
氏には弟子が何人かいるらしい。自宅で脚本の手ほどきを施しているということだ。
二人は長屋の入り口に立った。
ここに兄がいるのだろうか。梅乃はごくりと唾を飲み込んだ。
「ごめんくださーい」
何の前振りもなく弥吉が戸を叩く。
「ちょっ……弥吉さん!」
「なあに?」
「『なあに』じゃないですよ! まだ心の準備が……」
「こういうのは勢いでいった方がいいんだってー」
笑いながら言う弥吉に反論しようとした梅乃だったが、がらりと戸が開いてそれは叶わなかった。
「おう、誰かと思ったら柳井堂さんじゃねえか」
「突然押しかけてすみません、河竹様」
「まだ紙も墨も足りてるぞ。何か頼んでたかな?」
弥吉が梅乃を前に押し出した。まだ心の準備はできていなかったが、こうなっては仕方がない。意を決して顔を上げる。
「あの! こちらに成田竹彦はおりませんか? 私、成田梅乃といいます。妹なんです」
河竹氏の目が驚きに見開かれた。そして次第に苦々しげなものになる。
何かあるのだろうか。
「竹なら……破門にしたよ」
「え……?」
思いもしなかった言葉に、梅乃は頭が真っ白になってしまった。
河竹氏は続ける。
「あいつはな、俺の作品を横取りしようとしたんだ。作家業界じゃあそれだけはやっちゃなんねえ。最初は真面目な奴だと思ったんだがなあ」
梅乃は俄かにはその話を信じることができなかった。うつけと言われた兄だったが、盗みや悪行の類をする人物ではない。
しかし河竹氏の顔は嘘や冗談を言っているものではない。確かな証拠があって、兄を破門にしたのだろう。
「……兄が、ご迷惑をお掛けしました」
梅乃は頭を下げて、そう言うのが精一杯だった。
「いやいや嬢ちゃんが謝んなさんな。嬢ちゃんがやったことじゃあないだろう?」
梅乃は顔を上げるが、どんな表情をしたらいいのか分からない。結局泣きそうなものになってしまった。
「それで、重ね重ねお聞きして申し訳ないんですけど、兄がどこに行ったかご存じないですか……?」
「いんや、荷物まとめさせて追い出しちまったから……。力になれなくて悪いな」
梅乃は河竹氏に何度もお礼を言って、その場を去った。
真っ直ぐ柳井堂に帰る気分にもなれず、梅乃は河原に座り込んでいた。きらきら光る水面が眩しい。
河竹氏の言ったことは事実なのだろうか。何か誤解が生じているのではないだろうか。
そんな考えがぐるぐると頭の中に浮かぶが、答えなど出てくるはずもない。あの兄が盗みなどするとは到底思えないのだ。
「お兄さんは、人のものを取ろうとするような人なの?」
弥吉の声にはっとする。
すっかり落ち込んでしまった梅乃を放っておくでもなく、黙って隣にいてくれた。自分のことで精一杯になっていた梅乃は申し訳ない気持ちになる。
以前、徳蔵に弥吉は信用するなと言われたが、やっぱりいい人なのではないだろうか。
「違います。確かに兄は突拍子もないことを仕出かす人だったけど、誰かを傷付けるような真似はしませんでした」
だからこそ、河竹氏の話に半信半疑になるのだ。
兄は江戸に出てきて変わってしまったのだろうか。
「梅乃ちゃんのお兄さんだもんね。僕もそう思うよ」
梅乃は思わず顔を上げた。すると弥吉の視線と梅乃の視線がぶつかった。弥吉は頬杖をついて、優しい表情で梅乃を見ている。
――やっぱりいい人だ。
梅乃は何だか泣きそうになってしまった。兄が疑われたことに、多少なりとも傷付いていたのだ。信じてくれる人がいて、胸に熱いものが込み上げてくる。
「言霊ってさ、本好きな人のところに憑きやすいんだ」
唐突に弥吉が話し出す。泣きそうになっているところを見られたくなくて、梅乃は顔を伏せたまま話の続きを待った。
「本が好きすぎて、想いが強すぎて具現化しちゃうんだって。この前の女の子も、義経に焦がれてってはなしだったでしょ?」
梅乃が初めて言霊退治に行ったときの話だ。あの家の娘は、義経千本桜を見て想いを募らせていた。
「つまり……?」
「お兄さんに言霊が憑いている可能性は多分にある。妹である君が信じなくてどうするんだい?」
梅乃ははっとした。
そうだ、自分は竹彦のたった一人の妹なのだ。自分が信じなくて誰が信じるというのだ。
「そう、ですよね。家族なんですもの。……兄の無実を証明しなきゃ」
そうと決まればすることは一つ。
「竹彦兄さまを見つけなくちゃ」
梅乃の瞳に光が宿る。
弥吉はそんな梅乃を、意味深な表情で見つめていた。