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柳井堂言霊綴り  作者: 安芸咲良
一 三人吉三巴芝居
4/17

四幕目

 一方、通り三つ先、左に折れて真っ直ぐ行った先。開けた土地で、梅乃は言霊と対峙していた。

 開けてはいるが、袋小路だ。なぜだかいつもより軽やかに走れたものの、逃げ場はない。影はいまや梅乃の二倍以上の大きさと化していた。その目はしっかりと梅乃を捉えている。

 食われるのだろうか?

 梅乃は肩で息をしていた。必死に考えを巡らすが、逃げる算段が思いつかない。

 のこのこ付いて来たのが間違いだったのだろうか。それとも柳井堂を頼ったところから? いや、そもそも江戸に来るべきではなかったのだろうか。故郷で大人しくしていれば、こんな目に遭うこともなかった。

 均衡を破ったのは狐だった。大きく開けた口からは鋭い牙が覗き、無防備な梅乃を狙う。梅乃は思わずぎゅっと目を瞑った。

 これまでか。

 梅乃が覚悟を決めようとしたときだった。


「惑い迷いし言の霊 在るべき場所へと戻りたまえ」


 低い声が響いた。

 梅乃のよく知る声。これは――


「徳蔵さん……」


 目を開けた梅乃の先、そこには息を切らせた徳蔵がいた。

 目の前の狐は動きを止めている。徳蔵が手にしている和紙に引っ張られているようだ。やがて耐え切れなくなり、狐は和紙へと吸い込まれていった。

 梅乃は動くことができなかった。徳蔵が固い表情のまま近づいてくる。


「怪我はねぇか」


 そう言って手を差し伸べてくる。梅乃はしばらくその手を見つめて、そしてぷっと吹き出してしまった。

 眉を顰めたのは徳蔵である。


「何がおかしい」

「だって、初めて会ったときとまるで同じなんですもん」


 あの時もそうだった。言霊に追い掛けられて、もう駄目だと思った瞬間、徳蔵たちが現れた。


「本当は今日も駄目かと思ったんです。でも、目を瞑った瞬間、徳蔵さんの顔が浮かんだんです」


 あの時とは違う、言霊使いの存在。彼らがいるから、きっと大丈夫だと思えた。

 徳蔵はそんな梅乃の表情を見て、目を反らすとぽりぽり頭を掻いた。そして梅乃の手を掴むと無理矢理引っ張り起こした。


「わっ!」


 梅乃はたたらを踏んで何とか体勢を整える。見上げると、思いのほか近い場所に徳蔵の顔があった。


「徳蔵さん……?」

「お前、あんまり弥吉を信用するな」


 は、と梅乃は問い返そうとした。


「やっと追いついたー。徳蔵君、道具置いていかないでよー」


 しかし弥吉の言葉に遮られてしまった。声の方を見やると、道具箱を抱えた弥吉が立っている。徳蔵の手が離れていった。


「あれ? もう終わっちゃった?」

「来るのが遅い。俺一人で充分だった」


 いつも通り無表情で言う徳蔵に、弥吉は笑い声を上げる。


「徳蔵くん、文字担当なのに無茶するよねぇ。よっぽど心配だったのかな?」

「うるさい」


 からかい声に、徳蔵はつれない。弥吉はまだ笑いながらも、徳蔵の肩を叩きながら労りの言葉を掛けている。

 梅乃は徳蔵に言われたことを考えて、ただぼんやりと二人を見ていることしかできなかった。




 柳井堂に戻ると、総兵衛がお茶を用意して待っていてくれた。四人で囲炉裏を囲みながら、それをいただく。


「鼓に狐……。義経千本桜ですか」


 言霊を封じた和紙には、鼓を抱えた小狐が描かれていた。それを見ての総兵衛の言葉である。梅乃は首を傾げた。


「分かるんですか?」

「はい。この言霊を生み出したのは、恐らく若いお嬢さんでしょう。大方、義経に憧れて、じゃないですか?」


 梅乃は目をぱちくりさせる。あの客のことは総兵衛に伝えていなかったのに、そこまで分かってしまうとは。伊達に柳井堂の店主をやっていないというものだ。

 総兵衛が和紙を宙に放つと、和紙はひらひらと外へ飛んでいってしまった。


「柳井さん! 紙が……」

「いいんですよ。封じた言霊は自分で元いた場所へ戻れるのです。今頃、この言霊を生み出した方の本の間に、挟まっていることでしょう」


 封じられた言霊は元の本へと戻り、人知れず紙も消えていくのだ。


「はぁ、本当に摩訶不思議ですね……」


 梅乃はまだ和紙が消えた窓の外を見つめていた。


「さて、初めての言霊退治はどうでしたか?」


 総兵衛に問われて、梅乃は苦笑いした。


「私はただ走っただけでした。誰かさんのせいで」


 じろりと隣を睨む。お茶を飲もうとしていた弥吉は、心外だとでもいうかのような表情を浮かべた。


「えー? 僕のせい? ちゃんと集まる場所も伝えたし背中も押したよね?」


 説明が足りないのだ、と梅乃は頬を膨らませて顔を背けた。総兵衛はくすくす笑っている。

 そういえば、と梅乃は総兵衛の方を向いた。


「柳井さん、行く前にいただいたあのお守り。何だったんです? 言霊と対峙している間、こう、じんわり暖かかった気がするんですけど」

「あぁ、あれは徳蔵君の文字が書かれた紙が入っているんですよ」


 ぴくりと徳蔵が眉を動かした。


「ご覧のとおり、私には言霊を祓う力がありませんからねぇ。徳蔵君が心配して、身体能力が上がる言霊を込めてお守りにしてくれたんです」


 それでか、と梅乃は思い至った。言霊から逃げる間、いつもより軽やかに走れると思ったのは勘違いではなかったらしい。総兵衛のおかげで命拾いした。


「柳井さん、それを持ってない間に何かあったらどうしてたんだよ」

「大丈夫だったじゃないですか」

「そうじゃなくて!」


 徳蔵が声を荒げるが、総兵衛はくすくす笑うばかりでまさに暖簾に腕押し。その名のとおり柳のようで、徳蔵は二の句を続けることができない。


「心配しなくても店にいる間は大丈夫ですよ。柳井堂の品々が守ってくれます。……でも勝手に梅乃さんにあげたのは悪かったですね。すみません」


 言われてみれば、店の中で悪い言霊を見ることはない。店の品々には魔除けの効果もあるのか、と梅乃は今さらながらに気が付いた。

 すんなり謝られて、徳蔵はぐっと言葉に詰まる。謝ってほしい訳ではないのだ。だけどそれをうまく言葉にできない。


「良ければもう一つ、梅乃さんのためにお守りを作ってくれませんか?」


 優しく問われるが、徳蔵の想いはやはり口にできない。黙ったまま、道具箱を開けた。

 和紙にさらりさらりと文字が乗る。言霊を込めているのか、紙自体がぼんやりと光っている。

 徳蔵は筆を置くと、和紙を梅乃に突き付けた。


「乾いたら袋に入れておけ。袋くらいは自分で用意しろ」


 それだけ言うと、道具を片付けどたどたと出て行った。

 梅乃は勢いに押され、「あ、りがとうございます……」と小さく返事をしたが、聞こえただろうか。他の二人同様、ぽかんとそれを見送った。

 やがて総兵衛と弥吉の笑い声が重なる。


「ほんっとうに徳蔵くんは歪みないね」

「えぇ。不器用だけど、仲間思いな子ですから」


 二人の言葉に梅乃は目を瞬かせる。どういう意味なのだろうか。

 弥吉が眉を上げて梅乃を見た。


「徳蔵くんも徳蔵くんなりに梅乃ちゃんを心配してるってこと。万一僕らの手が届かないことがあっても、梅乃ちゃんの力になれるようにって」


 梅乃は和紙に視線を落とした。そこには美しい文字が並んでいる。書いた人の想いが流れ込んでくるようだ。何だかほんのり暖かく感じる。


「徳蔵さん……」


 和紙を見下ろす梅乃の瞳は、どこか熱が込められていた。


     *


 それからしばらくは、平穏な日々が続いた。

 時折言霊を見かけることはあるが、あの晩の蛇のような凶暴さは持ち合わせていない。梅乃に反応してもらえて嬉しそうな言霊ばかりだった。

 こういう言霊がいるのは梅乃も喜ばしい。江戸に来てから忘れかけていたが、言霊は何も悪いものばかりではないのだ。小さな人の姿の言霊や犬の姿の言霊は、梅乃に撫でられて嬉しそうにしていた。




「柳井さん、この紙を頂いてもいいですか?」


 ある日のこと、梅乃は故郷の両親に手紙を書くため、柳井堂の売り物を手にしていた。兄探しの進展はない。ただの近況報告になってしまってはいるが、梅乃は暇を見ては両親と手紙のやり取りを続けていた。


「あぁ、ご両親にお手紙ですか? それでしたら私の部屋に余りがあったような……」

「いえそんな! ちゃんと買います!」

「いいんですよ。余り物で良ければ、ですけど」


 その笑顔に押し切られてしまった。総兵衛の言葉に甘えることにする。

 梅乃はその場でしばらく待っていた。


「おい」


 現れたのは徳蔵だった。相変わらずの仏頂面だ。

 もう少し愛想良くしたら言い寄る女の人もいるだろうに。と考えて、梅乃はちくりとした胸に気付く。

 胸の違和感について考えようとしたところに、徳蔵から細長い物を差し出されて、それは叶わなかった。

 滑らかな竹の筆である。徳蔵は無言で筆を差し出している。何事か、と梅乃が思い始めた頃だった。


「やる」

「え!?」


 梅乃は勢いよく徳蔵の顔を見上げた。そこにはいつも通りの仏頂面があるだけだ。どういうつもりで筆をくれるのか、皆目見当が付かない。


「あの、これ徳蔵さんが作ったものですよね……? お店にも出してる」


 徳蔵は頷いた。梅乃は慌てふためく。


「なら尚更いただくわけにはいきません! 結構なお値段しますよね!?」


 徳蔵の筆の価値を知らぬ梅乃ではない。梅乃が今までここで働いて得た給金で買える代物ではないことは百も承知だ。


「余った材料で作ったからそれは気にするな。魔除けにもなる。持っておけ」


 そう言って徳蔵は梅乃に筆を押し付けると、背を向けて去っていった。

 つるりとした竹の筆は、梅乃の手によく馴染んだ。大きさも丁度良い、梅乃に合わせて作ってくれたのだろう。


「梅乃さん、お待たせしました。ってあれ? 徳蔵君の筆ですか?」


 そういえばお礼を言いそびれてしまった。

 梅乃はぎゅっと筆を握り締め、誰もいなくなった廊下の先を見つめていた。


     *


 その日、何事もなく仕事を終えた。相変わらず兄の情報は集まらず、焦りばかりが募る。

 梅乃の部屋は、店から一番離れたところにある。夕食も終えて、あとは寝るだけという頃だった。


「あれ、どこにやったかな……?」


 いつも懐に入れておいたはずのお守りがない。徳蔵にもらった大切なものだ。ぱたぱたと自分の体を触ってみるが、その感触はない。


「そうだ、戸棚を整理した時だ」


 物置の整理をする時に、踏み台を上り下りしてお守りを落とさないように出したのだ。その時に棚に置いたのだった。

 梅乃は物音で皆を起こさないよう、そっと部屋を出た。


「良かった、あった」


 お守りは確かに棚の上にあった。ほっと息を吐いて、懐に入れる。

 梅乃は物置を見回した。ここには店に出し切れない分の商品や、包み紙などが仕舞われている。墨のにおいを胸いっぱいに吸い込んで、そして吐き出した。

 このにおいが好きだ。初めて徳蔵たちに会ったとき、このにおいが漂ってきたことを覚えている。墨のにおいはもう梅乃の心を落ち着かせるものになっていた。

 感慨深く思っていた時だった。店の方でかたんと物音がした。梅乃の心臓がどくんと脈打つ。

 総兵衛たちの部屋の戸が開く音はしなかったはずだ。それとも足音を忍ばせて来たのだろうか。

 梅乃は立て掛けられていた木刀を手に取った。総兵衛か弥吉か徳蔵ならいい。もしかしたら梅乃が探し物をしていることに気付いて、見に来ただけかもしれない。

 もし、そうでなかったら。

 梅乃は店の中をそっと覗き込んだ。暗闇を動く影がある。ぼさぼさの頭、大柄な体型。間違いない。柳井堂の面々ではない。

 梅乃は勢いよく飛び出した。


「貴方! 何をしているの!」


 突然現れた人影に、男はびくりと身を竦ませた。

 やはり柳井堂の者ではない。手には何やら硯のような物が握られている。

 梅乃はそれを見て、一瞬で判断した。


「泥棒!」


 梅乃は叫ぶと同時に床を蹴った。木刀を振り被る。

 男は慌てて逃げ出そうとしたが、襲い来る木刀に避け切れないと悟ったのか、硯でそれを受けた。乾いた木の音が店内に響く。


「ちっ」


 梅乃は木刀を引くと、下段に構え直した。その間も男は逃げる算段をしているのか、視線をあちこちに漂わせている。

 気が散っているなら好機。梅乃は再び床を蹴った。


「やぁぁぁ!!」


 しかしその後の男の動きは完全に不意打ちだった。突っ込んでくる梅乃に、男は硯を投げ付けてきたのだ。

 木刀を振り抜こうとしていた梅乃は受け切れない。鈍い音を立ててそれは額に当たった。


「殺しちゃ駄目だよ」


 倒れ込もうとした梅乃の耳に、凜とした声が届いた。そしてふわりと抱き止められる。この声は――


「やき、ちさん……?」


 梅乃が見上げると、そこには弥吉の顔があった。どうしてそんなに心配そうな目をしているのか。梅乃はそう尋ねようとしたけれど、痛みでうまく声を出すことができない。


「うわぁぁ! 助けてくれ!」


 泥棒の悲鳴が聞こえて、梅乃はそちらに目を向けた。見ると徳蔵が泥棒に跨って、拳を振るっている。泥棒はもう気を失っているようだ。


「徳蔵君、やめやめ」


 いつの間に現れたのか、総兵衛が徳蔵の腕を掴んだ。


「それ以上やったら死んでしまいますよ」


 ようやく我に返ったのか、徳蔵は息を切らして総兵衛を見上げる。意識を失った泥棒を見下ろして、そして立ち上がった。


「まったく、うちの物を盗んでも何もなりませんのにねぇ」


 総兵衛はそう言いながら泥棒を縛っていく。梅乃はぼんやりとそれを見ていた。

 ざっと目の前に徳蔵が立ち塞がる。


「徳蔵さん……」

「なぜ俺らを呼びに来なかった」


 その声にはどこか怒りが込められている。

 梅乃は返事をすることができない。

 自分でどうにかできると思った。腕には自信があった。

 それがこの結果だ。


「自分で対処できないなら引っ込んでろ馬鹿。迷惑だ」


 そう言い捨てると、徳蔵は去っていった。

 梅乃は顔を上げることができない。全くそのとおりだ。自分の力を過信しすぎていた。


「とりあえず手当てしよう。梅乃ちゃん、立てる?」


 梅乃は弥吉に支えながら、店の裏へと向かった。




 店の裏手で、弥吉に包帯を巻いてもらった。血は出なかったものの、鈍く痛む。青痣になるかもしれないが、髪に隠れて見えはしないだろう。

 同心に泥棒を引き渡しに行っていた総兵衛が戻ってきた。


「痛みますか?」

「冷やしてもらったので大丈夫です。……あの、すみませんでした」


 先程徳蔵に言われた言葉が頭の中を渦巻いていた。

 徳蔵たちが出てこなかったらと思うとぞっとする。泥棒を取り逃がし、自分も怪我をし、倒れるところだったのだ。打ち所が悪かったら死んでいた。勝手に動いたことに、後悔の念しかない。


「徳蔵くんに言われたこと、気にしてる?」


 俯く梅乃に弥吉が問い掛けた。

 気にしない訳がない。自分の腕を過信しなければ、こんなことにはならなかったのだ。


「僕らを呼んでほしかったのは事実だけどね、梅乃ちゃんが悪い訳じゃないよ。徳蔵くんは梅乃ちゃんに重ねてるだけだから」


 その言葉に梅乃は顔を上げた。どういう意味なのだろうか。

 梅乃の問い掛けるような視線に気付いたのか、総兵衛は口を開いた。


「徳蔵君が筆職人の家系だということは聞きましたか? 幼い頃から小刀を握っていたと聞いています。ただ、徳蔵君の筆が世に出回ることはなかったそうです」

「どうして、ですか……?」

「徳蔵君には言霊使いとしての力があります。彼の筆を使うと、物の怪に襲われると言われていたのです」


 思わぬ話に梅乃は目を見開かせた。


「でも! このお店には徳蔵さんの筆があります!」


 徳蔵の筆は店にいくつも並んでいる。梅乃がここで働き始めてから売れた筆は一つや二つじゃないはずだ。売った客からあやかしの話を聞いたことなどない。


「それは僕がいるからだよ。柳井さん曰く、僕の声の力と徳蔵くんの文字の力で相殺されるんだって。僕の声も魅惑的って言われてたんだけど、徳蔵くん程じゃあなかったよね。それはそれは大変だったみたいだよ」


 梅乃は何も言うことができなかった。二人にそんな過去があるとは想像も付かなかったのだ。


「徳蔵君はずっと、閉ざされた部屋で筆を作り続けていたそうです。家族の者も、徳蔵君を追い出すことも、筆作りを辞めさせることもできなかったそうです。あやかしを呼び寄せるものを作るといっても家族ですし、筆作りは徳蔵君の心の拠り所だったから。そんな時、言霊が徳蔵君の家を襲う事件があったのです」


 梅乃は息を呑んだ。


「私たちが徳蔵君の元に辿り着いたのはその時でした。ひどい光景でした……。黒い影が家全体を覆い、私たちが飛び込んだ時には家の人たちは皆倒れていました。奥で倒れていた徳蔵君も、危ないところだったんです」

「それで、どうなったんです……?」

「徳蔵君の文字と弥吉君の声で無事言霊を祓うことができました。家の人も回復に時間が掛かりましたが、何とか無事でした。ただ、その後の徳蔵君がですね……」


 総兵衛はそこで言葉を濁す。弥吉も物言いたげな表情を浮かべている。


「自分のせいで家族が傷付いたことに、徳蔵君はひどく落ち込みました。筆作りさえもやめようと思った程です。ですが私には徳蔵君の力が必要でした。江戸まで一緒に来てもらいましたが、今もあの時の後悔は消えていないようです」


 梅乃は目を伏せた。

 自分の行動は、徳蔵の傷を抉ってしまったのだ。頭の傷を作ったのは、徳蔵の筆ではない。だが徳蔵が働く店の物で梅乃が怪我をした。それだけで昔のことを思い出すには充分だったのだろう。


「それでも梅乃ちゃんに怒鳴るのはお門違いだよ。守れなかった自分自身を責めるべきだ」


 珍しく弥吉は冷たく言い放つ。彼とて梅乃が怪我したことで自分を責めているのは同じだ。梅乃に当たった徳蔵を許せないのだろう。


「弥吉君は梅乃さんには優しいですね」

「うん、可愛い子には優しくしなきゃ」


 軽口を叩いているようだが、自分を気遣ってくれているのだと梅乃には分かった。弥吉が女性に優しいのは事実ではあるが、包帯を巻いてくれた手は優しかった。


「私、どうしたらいいのでしょう……」


 徳蔵の傷を抉ってしまったことは後悔の念しか起きないが、悔いてばかりでは仕方がない。

 梅乃が俯くと、弥吉に頭をくしゃりと撫でられた。


「いつもどおりでいいと思うよ。あいつもきっと、後悔してる」


 見上げると総兵衛も頷いている。

 梅乃は徳蔵の部屋の方を見つめた。


     *


 柳井堂の二階。そこには総兵衛の自室がある。

 総兵衛はそこで文机に向かい、帳簿付けをしていた。開け放した窓から、春の柔らかい風が吹き込んでいる。

 総兵衛の後ろでは、徳蔵が横になっていた。足元には柳さんも丸くなっている。暖かい日差しが差し込むこの部屋は、まどろむには丁度良かった。

 ふいに徳蔵が目を開けた。その目が総兵衛の瀬を捉える。


「なぁ」

「はい?」


 総兵衛は文机に視線を向けたまま応えた。徳蔵は一瞬言いよどむ。目を見て言うよりは話しやすいかと思ってまた口を開いた。


「どうしてあいつを入れたんだ」


 部屋にまた沈黙が落ちた。風の音と、柳さんの寝息だけが二人の耳に聞こえている。

 徳蔵は総兵衛の返事を待った。


「……私は、言霊使いにも見えぬ言霊があると思っています。生まれて紡いできた言葉が積み重なって、今ここに在る理由となる……。そんな風に、梅乃さんは来るべくしてここに来たのではないでしょうか」

「でもあいつには力がない」

「おや、力がないのは私も同じですよ?」


 徳蔵は渋面を作る。そうだけどそうじゃない。総兵衛がいなければ、徳蔵はここにはいないのだ。


「力がないなりにも何かできることはないか、探しているのですよ。私にできることは少ないですけど、多少なりとも梅乃さんの助けになるのなら、ここにいてもらいたいのです。徳蔵君が紡いできた言葉でも、梅乃さんと知り合うことに繋がっていたと思えば出会いは必然だったと思えませんか?」


 徳蔵は黙ってそれを聞いていた。

 店の主は総兵衛だ。彼がそう言うのなら従うしかない。

 だが梅乃のこととなると話は別だ。言霊を呼び寄せるだけなら、これまでどおり墨で充分だ。泥棒を相手にするとしても、女の力は高が知れている。


「心配なら、守ってあげてください。もっとも、梅乃さんは守られるだけじゃ嫌だと言いそうですけど。とりあえずはお兄さんが見つかるまでですし」


 総兵衛は振り返って笑みを見せた。徳蔵は面食らう。

 出て行ってほしい訳ではないのだ。だがそれをうまく言葉にできない。

 結局何も言わず、徳蔵は総兵衛に背中を向けて寝転がった。

 柳さんが「気にするな」とでも言うかのように、総兵衛に向かって尾を振った。

 総兵衛は笑みを深めて徳蔵の背中に目を向けた。

 それはまるで子を見守る親の目のようであった。

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