愛の重み
どさっ。
玄関をくぐった瞬間、俺は床に叩きつけられた。
上からのしかかられるような
押さえつけるような
押しつぶされるような
ぺちゃんこになりそうな
強烈な重みに、俺は為す術もなく、床に叩きつけられた。
半分、悲鳴のような、心配する母の声が遠い。
見えるものが全部ぼやけて、意識すらもぼやけるていくけど、それでも気絶はしなかった。
否、できなかった。
それは、目が閉じれないレベルの重さだった。乾いた目を濡らそうと出た水滴が、木の床を濡らした。
「あ…あ゛ア゛ァ゛……ぁ゛ァ゛あ゛」という、声より音に近いものが、口から漏れ出るほどだった。喋るなんてできるわけない。
動かせない指が、しびれて痙攣し出すほどだった。
重い。
もうそれしか言う言葉が見つからない。
あまりの重さに、圧死してしまいそうだ。
窓から見える、2月の真っ白な世界は、ぼやけて灰色になっていた。
ぼぉっとする頭と動かない身体を、ベッドに沈めていると、気分まで沈んでく。
いきなり強くなった圧力に襲われてからずっと、父親に放り出されたベッドの上で、過ごしていた。(こんな状態なんだから、もうちょっと労わってほしい)
世の中がバレンタイン一色で賑わってる中、一人寂しく重みに耐えることしかできないのは、本当に惨めだった。本当なら、今頃こんなところで押しつぶされていたりなどはせず、俺もバレンタインを楽しんでいたはずなのに。
そんなことを考えてしまうと、腹の底から何かがふつふつとこみあげてきた。無性にイライラした。目に映るものすべてが煩わしく思えてきた。汗が気持ち悪い。時計の音がうるさい。シーツがまとわりついてうざったい。
全部振り払ってしまいたいのに、俺をベッドに押し付ける重みがそうさせてくれなかった。それがまた腹立つ。なんで、俺だけがこんな目に合わなくちゃなんないんだ。
って、あれ? 俺だけ? なんで、俺にしかかかってないんだ?
なんで、俺には重みがかかっているのに、俺の寝てるベッドはビクともしないんだ? 一応鍛えてる俺が、どうやっても起き上がれないぐらいの力はかかってるんだぞ。
いや、ベッドだけじゃない。人一人を叩きつけられるぐらいの力がかかっているなら、抱えた側だって重いはずだし、叩きつけられた床だってへこんでるはず。なのに、親父はいともたやすく俺を放り投げ、床は俺をしっかり受け止めた。
どういう原理なのかは、さっぱりわからないが、俺にしかこの重みはかからない……らしい。
ホントなんなんだろこれ。どう考えても、魔法とかファンタジーとしか思えない。考えれば考えるほど、他人事のように思えてくる。
それでも、自分にのしかかる重みが「現実だ」と言ってくる。
俺にしかかからない、わけのわからない重みかー。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い!!
一体いつ、この重圧から解放されるんだ? もう、ベッドの上は御免なんだ。寝たきりなんて絶対嫌だ! 俺は、二度と起き上がれないのか? 二度と外に出られないのか? 二度と自分から彼女のそばにいくことすらできないのか? そんなの考えたくもない!!
だって、この重みを背負ったまま、一生動けないなんて。この重みに縛られたまま生きていくなんて……。……それはとても辛いじゃないか。そんな事には耐えられない……!
いや、そもそも俺がこのまま耐えていられるなんて保証はあるのだろうか?
このまま、押しつぶされて死んでてもおかしくないんじゃ……?
僕が思い至ってしまったその答えは、なによりも鋭い刃物で、なによりも堅い鈍器で、なによりも酷い拷問で、そして何より恐ろしいものだった。
その凶器は、ひどく無慈悲に僕の心を切り裂いて、せき止めていた何かを溢れさせた。
いきおいよくボロボロと零れだすそれのせいで、顔が濡らて、すごく気持ち悪かった。
肌を伝うソレが生あたたかくて生ぬるくて、ゾワっとした。
それでも。どれだけソレが気持ち悪くても、どれだけソレが怖くても、僕をベッドに縫い付けている重みの所為で拭えない。
服も枕もマットレスも掛け布団も、何もかも濡らしたソレを止める方法を、俺は持っていなかった。
だから、俺はソレが止まるまで、ずっと垂れ流していた。出すだけで疲れる嗚咽と一緒に、全部吐き出せるまで、全部が空気の中に溶けるまで。
散々泣いたおかげか、少しずつ落ち着いてきた。
今思えば、全部考えすぎだった。本当に息子が死にそうなら、父親が息子を放り投げる訳が無いんだ。
────人間って、追い込まれると本当に頭回らなくなるんだなぁ。追い詰められた先の奈落しか見えなくて、すぐ近くにある非常口なんて見えないんだなぁ。
なんて、他人事のように考えていた。数時間前の自分じゃ絶対考えられないことだ。
気が少し軽くなった。重みは軽くはならないけど。
眠気に誘われて、ゆっくり目を閉じた。
窓の外では、シンシンと、静かに雪が積もっていた。
眠気に身を任せて、初めて目に映った世界は、あの窓の外と同じようにぼんやりとしていた。
この世界の全部に、霞がかかっていた。
この世界の全部が、不確かだった。
そんな中、目の前にいる彼女だけは、はっきりとしていた。
ここにいる確かな存在として、色づいていた。
風にゆらぐ黒髪が、
柔らかな白い肌が、
淡い桃色をした唇が、
俺の視界を美しく彩っていた。
けれども、彼女は泣いていた。やさしい茶色の目を、悲しみに沈めて。心をぽろぽろとこぼしながら。
美しい彼女はその姿すら、美しかった。それでも、泣いてほしくなかった。泣かせたくなんてなかった。
笑っていて、ほしかった。
まだ幼さが残る、あどけない少女の笑顔で。いつもみたいに、クスりと、からかうような、なだめるような。俺が好きになったあの笑顔で。
手が、自然と彼女の方に向かっていた。なにをしようと思ったの? 理由なんてなかったんだよ。
手を差し伸べずにはいられなかった。泣いている姿を見るのがつらくて、泣き止んでほしかったんだ。
だけど、差し伸べようとした手は、止められた。彼女がその手を掴んだ。
彼女の目からは、変わらず、悲しみが溢れ出していた。
その顔を見た途端、息が詰まった。時間が止まった。嗚咽交りに吐き出された言葉を、俺は黙って聞くしかなかった。
「ご……っめん…。
わった……わた…しも………すきぃ……。」
彼女の答えに、頬が緩んだ。胸が熱くなった。彼女の声で、自分の心臓が動き出したようだった。絶対フラれると思ったのに。
嬉しすぎて、彼女の体に飛びついた。この上ない幸せを味わう様に、彼女の首筋に顔をうずめた。
ごめんの意味は、なんて聞きもしなかった。
ピンポーン!という音で、意識が夢から戻る。
また、随分重くなった瞼を開けて、暗闇から抜け出そうとするが、目を開けても大して明るくなかった。日はすっかり傾いていて、辺りを静かで穏やかな影で覆っていた。
一階から、話し声が聞こえていた。少し掠れた明るい声は母で、もう一人は、澄み切った湖のような、清らかな声。
──あぁ、来てくれたのか。
その声が聞こえた瞬間、フフッと笑みがこぼれた。彼女だけはずっと来てほしかったのにずっと来なかったから、見舞いに来てくれないのかと思っていた。バレンタインなんだから、今日こそは来てくれるのでは、と期待してたところだった。
声の主は、夢にも出てきた彼女だった。あの時、彼女になってくれた恋人だった。
100年ぶりにあったような懐かしい声に、しばらく耳を傾けていると、違和感に気付いた。声がいつもと違う。大人しめというか、どこか元気のない切ない声だった。
彼氏の母親の前だからかもしれないが。
二人の話が終わると、階段を上る一つの足音が聞こえてくる。
ゆっくりと近づいてきた足音には、謎の重みがあった。言い表すとしたら、これから断頭台に向かうような。そんな悲しい重みがあった。
とうとう、部屋の前まで来た少女は、不安と逃げ出したい気持ちを、唾と一緒に飲み込んで、扉を開いた。
さっきの彼女の声は、母の前だからなどでは無い。黒ずんだ目の下が、噛みしめられた唇が、結んでない髪が、握りしめられた拳が、強張った身体が、何かを決意したような顔つきが、そう教えてくれた。
とても、不吉な予感がして不安になった。
「お邪魔します。」
そう言って彼女は、悲しく微笑んだ。
胸がツキンと痛んだのは、きっと重みのせいじゃない。
後ろ手でドアを閉め、俺が寝ているベッドの横に座り込む。
彼女の背中を照らす淡い青色が、彼女の顔を影の中に沈めた。
「……………ひ……ぃ………………り……」
数日ぶりに出した声は、聞き取れないぐらい掠れていた。言った本人がなんと言ったか分からないほどだったので、きっと彼女も聞き取れなかっただろう。
それでも彼女は、口の動きを真似して、分かろうとした。彼女のやさしさが、じんわりと体に染み入った。
「うん。久しぶり。」
身体にかかる重みが、一段と重くなった。
彼女は、また微笑んだ。さっきと、全くおんなじ笑顔で。
そんな顔で、笑わないでほしかった。
誤魔化すような、お愛想はやめてくれ。無理矢理張り付けた、歪な笑顔はやめてくれ。悲しいなら悲しいと言ってくれ。悲しいのを笑顔で抑え込まないで。
そう、言ってやりたいのに、
「つらそうだね。無理して、喋らなくていいよ。」
君が先にそんなことを言ってしまうから、言えなくなったじゃないか。つらいのは、君の方だろう?
だけど、彼女は本当に強情で、僕の想いをかき消すように、明るい声をで話した。
身体が重くなった。
「しっかし、ホント久しぶりだね。」
彼女の言葉に、深く頷いた。
彼女は、全てを投げだしたような虚を、目と声に忍ばせていた。
「元々、部活が忙しくて会えるとき全然無かった上に、風邪。
神様が『会うな!』って言ってるみたいだよねー。」
俺はできうる限りの全力で、首を横に振った。
その直後に、また重みが強くなった。
その時、彼女は下を向いて、自分の目を伏せた。そのせいで、前髪で顔が隠れて良く見えなかった。結んでない髪が垂れて、なんだか不気味だった。
彼女は、気遣うような、優しい声で話す。もう、一周回って不愉快だ。
顔は伏せたまんまで。下を向いたままで。俺の目を見ないようにして。
「痩せたね。全然食べてないの?」
確かに、倒れてからは食欲も失せて、大して食べていなかった。きっと、体重もごっそり持ってかれたのだろう。
でも、俺は首を横に振った。暖簾のようにかかった前髪の隙間から、彼女はそれを見ていた。
「嘘。」
だから当然、自分を気遣った嘘に気付く。
重みが強くなった。
「髪もベトベトだし、汗のにおいがする。歯も磨いてないっぽいね。
ずっとベッドの上だったの?」
俺は、首を振った。
「また、嘘吐いた。」
彼女は、うんざりしたような、ため息交じりに言った。
重みが強くなった。身体が痺れてきた。
「ねぇ、もうさ、」
彼女の声が、若干潤んだ。
重みが強くなった。息がしづらくなるぐらいの、重みがかかった。
なんなんだ、コレは。なんなんだコレは!
彼女が来てから、徐々に強くなっている?
彼女の顔が曇るたびに、強くなっている?
コレは彼女のせい?
そんなわけがない。そんなことあるわけない!
こんな意味不明な現象が、人の手で起こせるわけないだろ!自分の妄想に彼女を巻き込むな!
そうは思っても、一度思ってしまったものは、止められないのだ。さっき、身をもって経験したように。
心の中のもう一人の自分は、畳みかけるように語る。
どう考えたって、この重みは彼女に関係してるだろう?だって、彼女が何かするたびに、強くなっているじゃないか。
それに、そうじゃないというならば、さっきからの彼女のおかしな反応は、どう説明するんだ?
僕を突き放すような行動は、自分のせいでこうなっていると、知っているからじゃないのか?全部、分かっているからじゃないか?
違う!違う!違う!ちがう!!
そんな僕の考えをはっ倒すように、重みは強くなっていった。もう、身体がグチャグチャに潰れそうだった!最初のときと同じ重みが、今、俺にかかっていた。
彼女の言葉は、容赦なく続いた。
もう今の僕にとって、彼女の言葉は、自分に向かって大量に降り注ぐ槍の雨と同じだった。
「私たち、」
やめてくれ!その先は聞きたくない!
だけど、声も出せないこの状態じゃ、そんな言葉は届かなくて。彼女を黙らせることもできなくて。自分の耳を塞ぐこともできなくて。
何もできない自分の不甲斐無さと、彼女が言おうとすることへの不安に、身も心も押しつぶされそうになっても、彼女の言葉を聞くしかなかった。
「別れ……っ。」
そこで、彼女の言葉が途切れた。重みが、強く強くとなるのも止まった。
驚いて、何があったのかと、しばし呆然と彼女を見つめていた。
彼女が独り言のように、ぼそりとなにかを言った。
「………ヤ……。」
余りにも、か細い声で言われたそれは、全く聞き取れなかった。
聞き返そうと思ったが、そんなことはできなかった。押しつぶされそうになっているから、ではない。
さっきまで伏せていた顔を、唐突に上げた彼女を見れば、そんなこと聞けるわけが無かった。
泣いていた。
「ヤダ。やっぱヤダ。ヤダよっ!」
子供の様に、ヤダヤダと繰り返しながら、彼女はぽろぽろと涙を零した。
彼女は、寝ている俺の首に抱きついた。縋りついた、と言った方が良いかもしれない。いや、絞めたの方が合ってる。冗談でも比喩でも何でもなく、そんなことが言えるぐらい、ギュウっと絞めてきた。俺のことなんて考えず、ただただ、自分のために縋りついた。
「別れたく…っない!一緒に…居たい!ずっと……一緒が…いい!!
いっしょにっ……いさせて………よぉ。」
そう言って、わんわん泣き始めた。子供の様にではなく、これじゃ本当に子供だ。
クスり。と、微笑んで、彼女を撫でる。あぁ。やっと、触れられた。
俺は、彼女が泣き止むまで、ずっと頭を撫で続けていた。
部屋には、彼女の泣き声だけが、鳴り響いていた。
その泣き声に溶けていくように、重みが消えていった。
「一番最初は年中の時だった。
仲良しだった男の子が、いきなり引っ越すことになって、『もっと一緒に遊びたい』って思ったら、その子がいきなり地面に叩きつけられた。まるで何かにのしかかられたみたいに。
後で、私はあの子のことが好きだった、ってことには気付いたけど、なぜあぁなったのかは考えもしなかった。」
ベッドに座る俺の膝の上に抱きかかえられている彼女が淡々と語る、俺以外の男と彼女の恋物語。
無機質な声と俯いた顔の代わりに、俺のシャツを握りしめる手と震える小さな肩が、彼女の気持ちを代弁していた。
彼女のその声は、いまだに窓の外で降り続ける雪のように、繊細で儚くて、今にも消えてしまいそうで……。今、自分の腕の中に彼女がいることが奇跡のように思えてしまう。膝の上の暖かな重みが、なによりも愛おしかった。
「二番目は小学四年生。
イケメンで、勉強が出来て、友達も多くて、サッカーが強い、漫画のヒーローみたいな子を好きになった。バレンタインデーにその子にチョコを渡そうとしたけど、『気持ち悪い』と、受け取ってくれなかった。
悔しくて、悲しくて、腸が煮えくり返りそうになってたら、その子の腸の方がひっくり返ってた。好きだった子の顔が、その子の吐き出したもので汚れるのを見て、私は気絶した。
この時に、違和感はあった。不吉な感じがして、考えることが怖くなったから、忘れることにした。」
彼女の声にだんだんと強みが出てくる。シャツを握りしめる手に力が入り、息が荒くなる。
辛いのだろう。消えて無くなればいいと思う、過去をなぞるのは。
でも、今度ばかりは止められない。止めてはいけない。だってこれは、彼女が過去を清算して、向き合うためのものだから。
俺は、彼女を励ますように優しく撫でる。
「三番目は中学二年生。
一つ年上の三年生の先輩に、階段の踊り場で告白した。受験に集中したいからと、曖昧に答えを返された。
前と同じ感じがして、嫌な予感がすると思ったら、先輩が階段から転げ落ちた。傷口から流れ出す大量の血に沈んでいく先輩の姿が、過去と重なって私は絶叫した。
何かおかしい。何か変!なんなのこれは!そうやって考えて、私は救いの無い答えにたどり着いた。
私が好きになった人は、みんな私の重みに押し潰される。
『もう誰も愛するな、誰も頼るな。お前は独りで生きろ』って言われたみたいで辛かった。絶望したよ。私は、この重みを一生背負わなくちゃいけないんだって痛感した。」
耳を塞ぎたくなるほど悲痛で、沈痛な、声が部屋に染みいった。
彼女は、限界まで引き伸ばされた糸が切れそうな、そんな声で、次の物語を語る。
「でも、君と会った……!
君が私に、話しかけて、手を取って、微笑むから、優しくするから。何度だって拒絶したのに、何度でも歩み寄るから。そんなの好きにならないわけないじゃん。
重みのことも全部忘れて、ただ、君と一緒の時間が楽しくて幸せだってこと以外何にも考えられないぐらいに、好きになっちゃったじゃん……。」
この話を、彼女は今までで一番辛そうに話した。腕の中の最愛を、抱きつぶしたくなるほど幸せな話が、とても辛かった。
でも、一番辛いのは、辛かったのは彼女なのだ。
そんなことは、考えるまでもなく彼女のことを聞いていれば分かった。
「君に告白されたとき、本当は断るつもりだった。君にだけは絶対に重みをかけたくないって思ってたから。
『ごめん。付き合えない。』って言えばそれでいいはずだったのに、出来なかった。君と一緒になりたいって思っちゃった。
君が私を救ってくれたあの笑顔で笑って、子供みたいにはしゃいで、私のこと抱きしめたから、もういいやって思ったの。この腕の中の幸せに溶けていけるならいいやって思ったの。しあわせだからいいやって思ったの。
ホントさいってーだよ。自分が好きになった相手がどうなったか見てきたくせに、知ってるくせに、自分さえ良ければいいんだよ?
私は! 君が自分のせいで押し殺されたって、自分の想いを押し殺すぐらいならいいって思ったんだ! ほんっとうにクズだよね!!」
彼女はとても辛そうに、最後にいたっては気持ち悪そうに吐き捨てて言った。
乱れた髪でヒステリックに怒鳴る姿は、とても見ていられなくって、彼女が今までどれだけ追い詰められていたのか、胸に突き立てられた爪の痛みと共に、思い知らされた。
自分がもっと早く、彼女の重みに気付いて、こうするべきだったんだと、思い知らされた。じぶんがどれだけ無力だったかということを思い知らされた。
「そうやって、重みから目を背けて、君と付き合い始めた。
…………幸せだった。嫌なこと全部忘れれて、久しぶり|《*》に心の底から笑えた。
でも…今日のこと……」
そこで彼女はいったん言葉を切り、深呼吸をしてから言った。
「バレンタインのこと考えてたら……思い出したの、あの子のこと。
何作ろうかなー? どんな風に渡そうかなー? って考えてたら、小学四年生に気絶したときの記憶が蘇って……。
おにごっこのときに追いかけた、小さくてかっこいい背中が、地面に打ち付けられた瞬間が。聞いているだけで満たされたあの声が、苦しげにうめくのが。頭に包帯を巻いて、脚を曳きつりながら歩く先輩が、私を避けて歩いたのが。君の姿と、重なって、
そし、たら、あの、全身を、まさぐる様な、不安が襲っ、てきて。頭、グチャグチャ、になっ」
彼女に全部言わせてしまう前に、強く抱きしめた。
一瞬、身体が強張ったけど、彼女も甘えるように抱きついてくれた。
要するに、彼女は自分が恋をした相手に対して、思い詰めてしまうと重みをかけてしまう……らしい。
一番最初は、引っ越す彼と離れたくなくて。
二番目は、想いを撥ね除けられたのが悲しくて。
三番目は、ちゃんと返事をしてほしくて。
俺のときは……傷つけたくなくて、でも一緒に居たくて。
一人で思い悩んだ分の想いが、重みとなって相手に向かう。
愛の重み
想像するだけで、気が重くなった。不安で目眩がした。胸が締め付けられた。
一体、彼女は今までどんな気持ちで生きてきたのだろう? 一体、どれほど自分を責め続ければ、あんなふうに、自分のことをクズと吐き捨てられるのだろう?
腕の中のこの子が、とても小さく、細く、ボロボロなものに思えてきた。守りたいと思った。自分に守らせてほしいと思った。一生離したくないと思った。
「一緒に居たい」なんて完全にこちらのセリフだった。
たまらなくなって、顎を彼女の頭に埋めると、ささやくような不安げな声で彼女が聞いてきた。
「幻滅、した?」
「全然。」
言い終わる前にもう条件反射でそう返す。
それでも、彼女は何か言いたそうにしていた。
言いたいことは、何となく察せた。
彼女の背中を優しくポンポンと叩き、一旦彼女を胸から放す。
彼女は、気まずさからか、不安からか、頑なに顔を上げようとしない。スッと頬に手をやり、彼女の顔を上げさせる。
そうして、やっと彼女は恐る恐る伏せていた目を起こした。
彼女と目を合わせた。
身体は震え、目は不安で埋め尽くされていたが、それでも僕をしっかりと見つめていた。
「ありがとね。」
「? 何が?」
「話しにくいだろうに、重みのこと話してくれて。」
「……私が勝手に話しただけだから。
………むしろ聞かせてゴメン。こんな話聞いてて嫌だったでしょ。」
彼女は、とてもバツが悪そうに言った。言ってしまったことを、心底後悔しているようだった。
やはり、その言い方だと、俺が言った「全然。」も本気にされて無さそうだ。
きっとコレは、面と向かって言葉にしなくちゃ伝わらないのだろう。伝えなくてはならないのだろう。
「………聞いてて苦しくなかったって言ったら嘘になる。」
「……………。」
彼女の目から不安が消え、代わりに諦めが浮かんだ。
――ほら。やっぱりこうなった。そう言う彼女の声が聞こえてくるようだった。
だから、彼女にとって僕が次に言う言葉は、信じられないものになるだろう。
「でも、君のこと嫌いになったって言っても嘘になる。」
「えっ…………?」
予想通り、彼女は驚きの声を上げた。突然目の前にいる人間が誰かわからなくなったかのように、俺をまじまじと見つめた。
「……嘘………。」
「ホント。
勘違いしてるみたいだから言うけど、俺が苦しかったのは、君が苦しかったからだよ。好きな人が苦しい思いしてたらこっちも苦しいのは当たり前でしょ?
だから今度からそうゆーの、俺に言ってよ。相談して。」
「!? そしたら君が!!
……君に、また重みが……。」
俺の言葉に、ハッ! っと目を見開いて彼女は言った。「そんなことは考えられない。ありえない」と青ざめながら必死に首を振る。
俺に迷惑をかけるのが、好きな人に重みをかけるのが、本当に嫌なんだろう。怖いんだろう。
そうじゃないんだよ。
「いいよ別にそれぐらい。てか、かけてよ。面倒も、迷惑も、重みも。遠慮しないで言って。」
「だから!」
「君が、俺に重みをかけたくないって思ってるのとおんなじように、俺も君にだけ重みを背負わせたくはないんだ。」
「っ!」
俺の言葉に、えらく衝撃を受けたように、言葉を詰めらせる彼女。こんな風に言われるだなんて、思ってもみなかったんだろう。
俺の言うことが信じられないというようにこちらを見るのは、さっきからずっと変わらなかった。その様子にまた胸が締め付けられた。
「一人で悩んでたって、行き詰まるだけだよ。誰かに話すなりなんなりして発散しないと、どうしたって溜まってくよ。
君の重みもそうなんじゃないかな?
こう……自分の悩みを溜める器みたいなのがあって、抱えきれなくなって溢れ出したのが重みになる……みたいな。
だから一人で悩まないで。相談して。」
「でも! ホントにそうだなんて保証、どこにも……!」
頑なに俺の言葉を認めようとしない彼女。流石に長年思ってきたものを、今いきなり変えるのは難しいのか。今まで悩んできたものが無駄だったと認めるのが辛いのか。
どちらにしても、彼女には苦しい思いをさせるだろうな。
それでも、今までより絶対幸せにするから。だから、俺に君を支えさせて。
「そりゃそうだけどさ。でも、好きな人がなにか苦しんでたら悲しいじゃん。それが自分のためだったら、尚更悲しいし、自分も苦しくなると思う。そういうのって、結局、相手に重みかけることになんない?
だからさ、全部言ってよ。かけてよ。重み。
俺も一緒に背負うから。二人で持ったらきっと重みなんて気にならないよ。」
俺の言葉に、彼女は少しの間呆然と固まっていた。
そして、彼女はゆっくりと話し始める。
「………頼っていいの……?」
「いいよ。」
「話していいの?」
「もちろん。」
「私、ホントにどうしようもないんだよ?」
「そんなこと無いよ。」
「君が思ってるよりもずっとずっと酷いんだよ?」
「俺だってそうだよ。」
「すっごい嫉妬深いし、欲深いんだよ?」
「割と前から知ってる。」
「君に嫌なこといっぱいすると思うよ?」
「それはお互い様ってことで。」
彼女は、泣きながら笑顔で言った。
「好きでいて……いいの?」
俺は、ぎこちなく笑いながら言った。
「末永くよろしくね。」