part 2
これといって事件は起きません。
同じ場所を三周して、ようやく九鬼は「きもちのわるい」大学生のすむアパートを見つけた。家を出てから既に三十分経っていた。右手はずっと平田から渡された携帯電話を握っていた。手の温みがうつって、それはすっかり温かくなっていた。
どうしてもいい、と平田は言っていた。九鬼はアパートの前で立ち止まり、ポケットから携帯電話を出した。汗がついて濡れていた。新品ではなかった。九鬼が持っているモデルの方が新しかった。三千文字のメールだって打てる。取り替えるだけの価値はなかった。試しに見てみたが、メモリーには誰の番号も残っていなかった。生活に紛れ込んだ余分な物。携帯電話を二つ持って悪いこともないが、それは生活を二重にすることだった。
九鬼の前にアパートの郵便受けがあった。アパートの縮小モデルのように上下二段に銀色の金属の箱が並んでいた。上段左から二つめ、二〇二号室の郵便受けには名札がついていなかった。ダイヤル錠も南京錠もついていなかった。口からはチラシがはみ出していた。二〇二号室は空き部屋のようだった。
どうしてもいい、と平田は言っていた。九鬼はチラシとチラシの間から強引に携帯電話を二〇二号室の郵便受けに押し込んだ。ゴト、と紙の上に落ちる音がした。
階段を登り、大学生の部屋の前に立った。表札で一応名前を確かめたが、ドアの向こうから響いてくる子どもたちの大騒ぎを聞いても、ここが目的の部屋であるのは間違いなかった。九鬼はハンカチで顔と首の汗を拭い、笑顔を作ってからチャイムを押した。
ドアが開くと、子どもの笑い声や叫び声、床を踏み鳴らす音が、厚い空気の壁のように、九鬼の身体の前面にぶつかってきた。これが自宅ならどの親も「静かにしろ」と怒鳴っているところだった。
出てきたのはどこといって特徴のない若い男だった。茶髪やピアスもしていない。少し神経質そうなところはあったが、これが「きもちのわるい」大学生なら、見かけはけして「きもちわるく」なかった。
「九鬼ですが。扁理の父親ですが」
「はあ」という間延びした頭の悪そうな返事は、その見かけに似合っていないこともない。
「こちらに扁理がお邪魔しているとうかがったので、迎えに来ました」
「ヘンリくん。いえ、がいこくのこはきてませんけど」
九鬼は苦笑した。そこにいるのは「きもちのわるい」大学生というより「あたまのわるい」大学生だった。九鬼は手を振り、大学生の間違いを訂正した。
「いやあ、名前は変ですけど、私も妻も日本人ですから。扁理は純血種の日本人です」
「あ、そうですか。へんりくんですか。ちょっとまってください」大学生は部屋の中へ向き直ると「へんりくん、へーんーりーくーん」と声を張り上げた。
騒音の混濁の中から扁理が抜け出てきた。「あー、おとうさん」と血がいっぺんに足下へ下がるような声を出した。
「帰るぞ」と九鬼は言った。
「きょうはとまっちゃだめなんだろうなあ」
「いつだって駄目だ。お兄さんに迷惑だろ」
「いえ、めいわくなんてことはありませんけど……」
九鬼は大学生の言葉など聞こえないふりをした。扁理は父親が迎えに来たことで外泊はすっかり諦めたようだった。九鬼は荷物を取ってこさせ、その間に大学生と話をした。大学生は長野から出てきたことを言った。ずっと東京にいる意志があることも付け足した。扁理がスニーカーを履いて大学生の脇から外へ出てきた。「おじゃましました」と夏期講習のテキストが入ったカバンを肩にかけながら、ろくに大学生の方も見ずに言うと、九鬼の先に立ってさっさと歩き出した。九鬼は「お世話になりました」と言い残し、あわてて息子のあとを追った。階段を降りるところで振り返ると、まだドアを開けて大学生が立っていた。
セミがどこかで鳴いていた。扁理は九鬼の前をずっと歩き続けた。九鬼が歩幅を広げると、扁理は足を速めて追いつかれまいとした。ときどき振り向いて、ハアハア笑った。
「みんな、とまっていくんだろうなあ。ざんねんだなあ」
あまり残念でもなさそうな口調だった。九鬼は笑い、他の子たちも泊まらないだろう、と答えた。
「どうして。みんなでとまるってきめたのに」
「お前らだけで決めたってさ。どこの親も許さないよ。あそこに泊まらなければならない理由がないからな。きっとみんな迎えにくるんじゃないかな」
「りゆうがあればいいんだね」
「理由なんかいくらあっても駄目だね。つまり、あそこは何であれ泊まっちゃいけないってことさ」
「ずるいじゃん」
「そうだよ。狡いんだよ。悪いか」
膨れっ面で振り返った息子の頭を、ペタン、と叩いて、その口許に顔を近づけた。煙草の匂いも酒の匂いもしなかった。九鬼は突然走りだし、扁理がむきになって追いかけてくるのを待った。三本めの電柱で止まり後ろを見ると、扁理ははるかに後方でゆっくり歩きながら、九鬼を見てにやにや笑っていた。
またチャイムが鳴り、信輔が出ていくと大家の妻だった。信輔の母親と同じくらいの歳で、肥満しているぶんだけ生命力も増強されているような女だった。大家の家はアパートのそばにあったが、いつ通りかかっても門の前を掃除していた。他にありあまったエネルギーの使い方を知らないように見えた。
「いやもう、この部屋がうるさいっていうから来てみたんだけど、ホントにもうどうしようもなくうるさいわね。あなた、ちょっと常識ってものを考えなさいよ」
大家の妻は初めから怒鳴っていた。大きな胸が喋るたびに揺れた。
「すいません。今後は気をつけますので」
「弟さんがいるなんて聞いてなかったんだけど」
大家の妻は信輔の脇腹の辺りから部屋の奥を覗き、じっと固まっている子どもたちを睨んだ。
「いえ、弟なんかいません」
「じゃあ、その子たちは何なの」
信輔は頭をかいた。「勉強を。ちょっと勉強を教えてやっているんです」
「あなた、人にものを教えられるような大学に行ってたっけ。下手な嘘はやめなさいよ」
「いえ、嘘というわけではなくて……」
「ふつう、大学生の部屋がうるさいっていったら、友だち呼んで麻雀とかって相場は決まってるんだけどねえ。何、これ。ちょっと変なんじゃない」
「そんな。変なことをしているわけじゃありませんから。この子たちはここでふつうに遊んでるだけで」
「あのねえ、うちは学校でも公園でもないの。どうして知らない子どもが遊んでるのかしら。他の部屋の人たちに迷惑だって気がつかないの。田舎の一軒家じゃないのよ。自分のやってることがおかしいとは思わないの、あなた。かなり、おかしいわ。わたしがその子たちの親だったら、どう思うかしら」
大きな胸がやたらと揺れた。大家の妻からは酸っぱい匂いがしていた。夏だから腐ってしまったのかも知れなかった。その女が玄関に立っていると、部屋じゅうが酸っぱくなりそうだった。
「すいません」
「猫とか飼われちゃう方がまだましよ」
大家の妻はこんなことが続けば出ていってもらうと言い残して帰っていった。信輔はTシャツの裾で額の汗を拭った。ひどく汗をかいていた。振り返ると、騒いでいた当人たちは既に帰り支度を始めていた。自分たちへお鉢が回ってくる前に逃げ出す。小狡い小動物たちだった。
それから数分のうちに「お邪魔しましたあ」と口々に言って、子どもたちは悪びれた様子もなく帰っていった。ラップだけが残った。信輔は立ったまま煙草に火をつけた。テーブルには空のコップや喰い散らかしたポテトチップが残っていた。
「あんなババアの言うこと、気にすることないって」
「お前も帰ったら。ここはお前んちじゃないんだからさ」
「煙草、ちょうだい」
「帰れよ、邪魔だから」
信輔はラップが伸ばした手を振り払った。人をなめた目でラップは見上げる。
「いいじゃん」
信輔は喉がつまった。煙草の箱を床に叩き付けた。しかし、もともと軽いそれはカーペットの床で、ペソッ、という情けない音しかしなかった。
「お前なんかが何でここにいるんだよ」
パシッ、と音がした。ラップが膝を鳴らした音だった。
「ふざけてんのか、テメエ」
信輔は腕を振った。殴ると頬骨に当たった。信輔はもう一度殴った。ラップの身体が真横に倒れた。何すんだよぅ、と金切り声をあげるラップの腹を蹴りつけた。ぐえっ、と言って怯えた目で見上げるラップをさらに信輔は蹴った。「やめろぅ」とラップは叫んだ。信輔は蹴り続けた。
やめろぅ、やめろぅ、やーめろー、やめて、やーめーてー、ごめんなさーい、もうしませんからあ、やめてえ、ゆるしてくださあい、やあめえて、やめてよう、もうかえるからあ、やめてよう、いたいよお、やめてくださーい、いたいいい、やめてくださあい、やめて……。
泣き声がただ続くだけになっても信輔は蹴り続けていた。ラップは胎児のように丸まって腹を守っていた。信輔は腿だろうと腕だろうと頭だろうと背中だろうとかまわず蹴り続けた。身体がズルズルと壁の方へ押されていった。壁にぶつかると、ラップは壁の方へ身体をひねり、信輔に背中を向けた。信輔は壁に手をつき、踏み付けるように何度も後頭部を蹴った。ごんごん、と頭が壁に当たった。気がつくと、ラップは何も言わなくなっていた。ふう、ふう、と荒い呼吸を繰り返すだけで、動かなくなっていた。信輔は蹴るのをやめた。
信輔はその場に座り込み、膝の間に頭を入れて、カーペットの毛を見つめた。小さなループが一センチ四方にいくつも密集していた。掌で撫でると、生まれて初めて触ったような感触がした。頭を抱えたまま「おい」と言ったが、返事はなかった。声を荒げてもう一度呼んでみた。やはり何の反応もなかった。
〈施設〉から九鬼にベンジンが送られてきた。その頃ちょうど九鬼はベンジンをかけられ火をつけられて爆発するように頭が燃え上がる神父の出てくるハードボイルドを読んでいた。ひとつの偶然。
送られてきたベンジンは平たい透明な小瓶に入れられてあった。ラベルはなく「中の液体はベンジンです。ご自由にお使いください」というメモが包みに同封されているだけだった。九鬼はベンジンを本棚に置いた。ベンジンの向こうに文庫本の青やオレンジの背表紙が透けて見えた。
平田に提出するためにつけている記録には、その日「ベンジンが到着した」と書いた。頭の燃え上がった神父については記述しなかった。
ベンジンで動くような機械は九鬼の家にはなかった。「しみ抜きに使う」と辞書にはあったけれども、さしあたって抜かなければならないようなしみもなかった。除光液の代わりになるとしても、文子はマニキュアを塗らなかった。神父の頭にかけようにも神父もなかった。
翌週は注射器が送られてきた。まだ包装されたままのプラスチックの注射器。子どもの頃の昆虫採集セットについていたのとそっくりだった。薬液は一緒ではなかった。九鬼は本棚のベンジンを眺めた。台所へ行って冷蔵庫を開けてみた。缶ビール、カルピス、牛乳、麦茶、コカ・コーラ。その週はバロウズを読んでいた。結局、注射器はパッケージも開けずに引き出しにしまわれた。
次はこれまでに比べれは大物だった。一〇キロの鉄アレイが二つ。九鬼は両手に持って数回上げ下げしてみた。毎日二十回これを上げ下げしてみようと決め、記録にも書いた。しかし、三日で面倒になり、一週間続けずにやめてしまった。そのことも記録に書いた。「義妹はこうなることを計算していましたか」とつけたした。黒鉄ヒロシの「信長殺人事件」を読んでいた。
一週間分の記録をまとめて送付すると、三日後に平田から職場へ電話があった。教えた覚えはないのに、平田は九鬼が働く出張所の、九鬼のデスクの内線番号まで知っていた。
「これはこれは」と九鬼は言った。
――せんじつのごしつもんですが。
「何か質問しましたっけ」
――あなたのトレーニングがつづかないことを、いもうとさんがけいさんしていたかどうか、ということですが。
「あ、あれですか。で、どうなんですか」
――じっけんのこうせいをきすため、そうしたしつもんにつきましては、おこたえできません。ごりょうしょうください。
「そうなんですか。でも、それをわざわざ電話してくださったんですか」
――それから、そろそろこちらにおこしいただけませんか。こんどのにちようびにでも。
九鬼は〈施設〉を訪問する日時を約束して電話を切った。手帳に書き込んで舌打ちした。
日曜が来る前にヘンリ・ミラーの「冷房装置の悪夢」が送られて来た。そのとき九鬼は古本屋で買った「冷房装置の悪夢」を読んでいた。二冊の「冷房装置の悪夢」は、一冊が食卓に置かれ、もう一冊はトイレに置かれた。朝食のトーストをかじりながら読み、排便しながら読む。消化器の入口と出口の両方に「冷房装置の悪夢」は接続されていた。しかし、場所ふさぎだと文子はどちらも嫌がった。どちらも本が置かれる場所ではないというのだった。九鬼は聞かないふりで読み続けた。しかし「冷房装置の悪夢」はなかなか読み終わらなかった。いつの間にか、その埃くさい本のページをめくり文字を追うことは、強制された苦行のようになっていた。目玉焼きの黄身をフォークで突つきながら三行、奥歯を噛みしめ下腹に力を集中させて六行。読むことは苦痛だった。が、文子への意地で九鬼は読み続けた。
ようやく終わろうかというところまできて、九鬼は最後の数ページが抜けているのを発見した。破けているのではなく、製本時に抜けてしまったらしい。右手に持ち上げていたマグカップを置き、トイレへ行った。トイレの「冷房装置の悪夢」を持って、朝食の席に戻った。「きたないわねえ」と文子はひどく嫌がったので、九鬼はテーブルから一メートルばかり離れて立ったまま読みかけのページを開いた。その本も同じところが抜けていた。
「どういうことだろう」
「そういうほんなのよ。たべるまえにてをあらってよね」
「お前の妹だろ」
「あんたのほんじゃないの」
九鬼はその夜、二冊の本の落丁を平田に提出する記録に書いた。そして、これがこの二冊だけの偶然なのか、それともすべての「冷房装置の悪夢」が最後の数ページを欠落させているのか確認して欲しいと付け足した。
この日は書くことがあったので、記録をつけるのも楽な作業だった。普段は結構苦労していた。書くことが何もない日もある。というより、そういう日の方が多かった。
記録用紙の上部三分の二はタイムテーブルになっていた。左側に一日を表す垂直な線分がある。その線分と直角に交わって水平な点線が等間隔に配置され、一時間ごとの区分を表していた。紙の上に平面化された一日二十四時間。さらに九鬼はその平面を区切って「出社」だの「昼食」だの記入していく。その作業は大変なことではない。大変なのは用紙の下部三分の一の「あなたに起きた本日の特徴的なこと」の欄だった。
まず「あなたに起きた」というのが難問だった。テレビのニュースで見る殺人事件は明らかに自分に起きたことではなかった。では、増税の話はどうなのか。肺癌の死亡率が上昇しているという事態はどうなのか。どこまでが自分に起きたことと言い切れるのか。息子の中学受験や、娘のオタフク風邪や、妻の懸賞当選はどうなのか。どこから自分の事象が始まるのか。
扁理を「きもちのわるい」大学生の部屋から連れ帰った翌晩、夕食のときに扁理はあの部屋に誰もいなくなったと報告した。大学生もラップも消えていたという。ラップは「おばさん」のところにも戻っていなかった。文子は「またいったの、あんた」と、部屋が空になっていたという事実よりも扁理がその部屋をまた訪ねていったことを問題にした。
「ちょっとよっただけ」
扁理は面倒そうに抗弁し、自分の豚汁からニンジンを選り出して妹の皿に放り込んだ。
扁理の話では、部屋のドアに鍵はかかっておらず、室内は昨日帰ったときのままだった。その証拠に扁理が飲み残したコーラのコップがそのままテーブルの上にあったという。扁理の推理によれば何か事件があって二人はその部屋から連れ去られたのだということになるが、九鬼はその説を「馬鹿」と言ってしりぞけた。
「旅行にでも出たんだろ」
「ぜーったいちがうね」と扁理は言い張った。
「もういくんじゃないよ、ひろし」と文子。
たとえ、扁理の言った通り事件だとしても、それを記録へ記入はできなかった。九鬼の事件ではないからだ。扁理の事件でもない。どう関われば、事件は九鬼のものとなるのか。ホームズは「私の事件」と言う。しかし、ワトスンがそう言うことは許されない。事件という突起を持たない日常は確かに平面的である。
平面的な日常はタイムテーブルに相応しい。慣れると九鬼はその記入を数分ですませることができるようになった。そして、記録が溜まっていくと、そこにはひとつのパターンが現れた。「昼食」の前に「夕食」は出現せず、「起床」前「就寝」後に「入浴」はないといった、当然すぎる単調さ。木曜一四時一五分「来客(N商事F氏)」と火曜一〇時「来客(ATシステム社W課長)」とのちがいとは何なのか。現実に存在した相違の多くはタイムテーブル平面からこぼれ落ちている。とはいうものの、現実の側に残されているはずのちがいもけして明瞭なものではなかった。曖昧さの中にただ漠然と「異なっている」という意識が先行しているにすぎなかった。
九鬼は記録用紙の下欄に書いている。「私の生活にはこれといった特徴はない。毎日毎日が同じように過ぎてゆく。この記録が一年続いたとしても、最初の一枚と最後のそれとの間に大したちがいはないはずだ。全体の順番を変えてみてもいい。それでも、何も変わらないだろう。結局、ここには特定の形がひとつあるだけということなのではないか。そうならば、義妹が言った私の変数はむしろ定数ということになるだろう。日々の細かな差異は観測上の誤差に収まってしまうにちがいない」
平田からは薄黄色いレターペーパーの中央に「貴重な示唆をありがとうございます」と素っ気ない一文が返ってきただけだった。
「本日の特徴的なこと」というのはなかなか難しかった。九鬼の生活にはおよそ事件がなかった。事件に見放されていた。日常は事件を排除して紡ぎ出されていくのではない。事件を構成しえず、予め失われていた時間が日常なのだ。差異としての事件を持たないからこそ日常は普遍性を帯びることになる。「いつ」も「どこ」も「だれ」もそこからは滑落し、無愛想な平面が何もない手術台のようにそこに存在するだけだ。いくら待ってもミシンやコウモリ傘はやってこない。そんな事件が起こらないから、日常。大体、「待つ」ことさえ、時間を持たないそこでは不可能なのだ。
事件がなければ作り出さなければならない。八月に入ったばかりのある日、九鬼は会社を休んだ。家はいつもと同じに出たが、駅に着いたときにはもう決めていた。職場へは「風邪で病院に行く」と嘘をついた。
隣駅で降りて駅前のパチンコ屋に入った。午前中いっぱいそこにいて、一万円使い、勝ちも負けもなかった。ただ肩が凝ったぶんだけ損をした。ネクタイをはずして首を回しながら、九鬼はまた駅へ行き上りの急行に乗った。売店で買った本格推理の文庫本を、車両の隅の座席で読み始めた。
三十ページばかり読んだところで、九鬼は犯人がわかってしまった。困ったことにまだ殺人が起きてさえいなかった。三百ページ以上残っていた。もう二十ページ読んでようやく一人殺された。密室殺人だったが、「黄色い部屋」のヴァリエーションであることは明白だった。
九鬼はページの隅を折っていったん本を閉じ、カバーの絵を眺めた。三匹の落下する猿だった。帯にはこの本が作者のデビュー作であることが記されていた。この作者の前には数千の殺人トリックが既に存在していた。それらのトリックを巧妙に避けて新しい事件を作り出すこと。しかし、九鬼が読んだ限りその企ては無惨な結末を迎えそうだった。それでも微かな希望を持って、九鬼は小説の続きに戻っていった。
煙草が吸いたかった。無意識に右手が胸のポケットをまさぐっていた。終点まで行くつもりでいたが、次の停車駅で降りることに変更した。
ホームに立つと喫煙コーナーの標示を探して、反対の端まで歩いて行った。コーナーには先客がいた。汚れきった灰皿の脇にレインコートの男がせわしなげに煙草を吸っていた。真夏に、雨も降っていないのにレインコートだったが、九鬼は見ていなかった。文庫本を開き、煙草を吸った。
煙草を吸い終えると駅を出て、九鬼は天ぷら屋に入った。天ぷらが食べたかったわけではないが、駅前には天ぷら屋と喫茶店とスパゲティ屋しかなかった。他の二軒よりは天ぷらの方がましだった。その程度の理由で暖簾をくぐり、カウンターに座って並定食とビールを頼んだ。隅の席ではレインコートの男が天丼をかき込んでいたが、九鬼は気づかなかった。
ビールを飲んで天ぷらを待ちながら、九鬼は本を読んだ。二つめの殺人が起きたとき、ちょうど九鬼の前に定食の乗った角盆が置かれた。九鬼は本を閉じ、コップのビールを飲み干して、注ぎ直した。くすんだコップに泡ばかりが立った。ひとつめが半ば偶然的な密室殺人であったから、ふたつめも偶発的なトリックというのはなさそうだった。その章は登場人物の一人の手記という体裁で、九鬼は誰にも気づかれずに笑った。というのは、推理小説に出てくる手記は必ず嘘をついているからだ。読まれたくないことは書かれない。しかし、書かないからこそ見えてしまう。水彩画の下書きのように文章の下から透けて見えるものがある。手記もまた手垢のついたトリックにすぎず、作者の狙いはここでもはずれていた。確かにそこには殺人があったが、やはりそれは事件ではなかった。
天ぷら屋を出た九鬼は文庫本を尻のポケットに入れて、初めての町を散策することにした。寂れた商店街をふらふらと行く。個性のない小さな店が軒を連ねている。緑色の看板に「マーシー・ストリート」とあるのはバーだったが、まだ開いてはいなかった。脇に二階へ上がる狭い階段があり、見上げるとキューのぶっちがいに玉を四つ配したビリヤード屋の看板が出ていた。中では椅子にレインコートをかけた男がワイシャツの袖をまくってキューをしごいていたが、階段を上がらなかった九鬼に見えるはずもなかった。男の手玉が赤玉を二つかすって止まったとき、九鬼は既に店の前を通り過ぎていた。
商店街はすぐに終わってしまった。振り返ると駅が見えた。九鬼はさらに先へと歩いて行った。やがて道は大きく右へ曲がりながら下っていった。アスファルトの固さが膝に響き、身体ががくがくと揺れた。ねじ曲がったガードレールを右手でなぞりながら、坂を下る。その不自然な彎曲が自動車の衝突によるのは無意識に理解された。しかし、真冬のその事故の際、黒いポンティアックにはねられたのがレインコートを着た男であったことまでは、九鬼には知りえない。そして、その男がその夜のうちに死亡したことも。レインコートの男はすべてその幽霊なのかも知れないが、九鬼はまだレインコートの幽霊を見ていない。それは存在しないというのと同じことだ。
坂を下りきると児童公園があった。誰もいなかった。母親たちが子どもを連れて現れるにはまだ日が高すぎた。九鬼もすっかり汗みずくになっていた。ハンカチを出して汗を拭ったが、拭いたところから汗は噴き出す。九鬼は児童公園を突き抜けて、住宅街へ入っていった。いくつか角を曲がると方向感覚が失われた。どこを向いても似たような一戸建てが並んでいる。駅の方角もわからなかった。
九鬼は立ち止まらなかった。あてがあるわけではない。どこかを目指しているのではなかった。だが、何かを目指しているというのは間違いではないかも知れなかった。
いつの間にか九鬼の軌跡はループを描いていたらしい。気がつくと前方に降りてきた駅が見えていた。九鬼はそのまま駅へ行き、上り電車に終点まで乗った。その大きな街で封切ったばかりのSF映画を見て家に帰った。帰りの電車の中で推理小説は読み終わった。あと一つ死体が増えた。探偵は残り五十ページになるまで、九鬼にはわかりきっている真相をわからずにいた。謎などどこにもなかったというのに、あたかもそんなものがあるかのように登場人物たちは戸惑っていた。九鬼はとうとうその本に事件を見つけることができなかった。そして九鬼自身の一日にも事件は起こらなかった。この日、シドニーではレインコートの男が一人暮らしの女性をその寝室で絞め殺していた。その女性が七人めの犠牲者だった。もちろん、これは九鬼の事件であるはずがない。
平田は久しぶりに二十三号の部屋を訪れた。モニターでは毎日見ている相手だが、じかに会って話をするのは実際一ヶ月ぶりぐらいだった。いったん地上に出て、安売りビデオ屋でアダルトビデオを三本買ってから〈施設〉に戻った。二十三号へのプレゼント。二十三号はそれを見て自分を慰める。男優を義兄に、女優を自分に置き換えて、やはり〈施設〉の経費で買ったバイブレーターを使う。モニターで二十四時間観察されているから、自慰行為の回数も文書になって残っている。この十年間の平均回数も、最頻度の時間帯も、計算されて記録されている。
二十三号はビデオの入った紙袋を覗くと、さして関心もなさそうにテーブルの端に置いた。テレビを見ているところだった。再放送のドラマ。平田はタイトルを覚えていなかったが、再放送が始まってから一日も欠かさず見ていることは報告を受けていた。
平田は椅子を引き出すと、浅く腰かけた。
「どうですか、研究の方は」
「どうって言われてもねえ。レポートはちゃんと上げてるでしょ。それを読めばわかるじゃない」
「まあ、挨拶みたいなものですよ」
二十三号の丸い指が髪を掻き上げた。顔はブラウン管に向けられたままだ。髪を離れた指はテーブルに動いて、ポテトチップの袋に入った。毎日一袋ずつ消費されるポテトチップは最近厚切りバター味からフレンチドレッシングに変わったばかりだった。
「お義兄さんはお元気なようです」
二十三号はテレビから目を離さなかった。ポテトチップがひと掴み、大きく開いた口に押し込まれ、ぐわしゃぐわしゃと咀嚼された。平田は二十三号の反応を待った。
「電話があったの」
コマーシャルになってようやく二十三号は口を開いた。しかし、顔はテレビに向けられていた。
「こちらからかけたんです。先日お送りした鉄アレイのことでご質問があったので」
「どんな」
「まあ、大したことじゃありません。今週は何か送る物がありますか」
「今のところないわね。お義兄様はわたしのこと何か言ってた」
「元気ですかって。元気だと答えておきました。嘘にはならないでしょう。高血圧や脂肪肝のことはわざわざ言うことでもないですからね」
「あっ、これ」二十三号は画面に大写しになっているアイスクリームを指差した。「今度、これを買ってこさせて。期間限定なのよ。逃したら悔しいじゃない」
「美味しくないですよ」
「平田、あんた、もう食べたの。嫌な感じ。あんたには不味くてもあたしには美味しいかも知れないじゃない。いいから買ってよこしてよ」
平田は笑った。アイスクリームの商品名を手帳にメモした。「明日とどけましょう。それから、これは電話でお義兄さんに聞かれたんですが……わたしも以前から疑問に思っていたことですが、お義兄さんの数字というのは何についての数字なんでしょう。お兄さんの身体、それとも意識ですか」
コマーシャルは終わり、ドラマが再開された。女が男に向かいナイフを構えている。ナイフに光があたってその反射が画面を覆う。「えー、やりすぎじゃない」と二十三号がつぶやいた。
「もし、意識についてなら、ベンジンや鉄アレイにも数字があるのはなぜなんでしょうか。物質についての数字なら、あのベンジンが蒸発したらどうなるんでしょうか。半分だけ蒸発したら、そのとき残っている分は最初とは数が異なりますか。変数であるなら当然そうでなければおかしいですよね」
ドラマの女はナイフを構えて男に近づいていく。また別の男が女を探して街を走り回っている。女は立ち止まり男を刺さなければならない身勝手な理由を説明し始める。二十三号は頷いたり、首を振ったりした。
「しかし、そうだとすればお義兄さんの頭から抜ける髪の毛や切られた爪にも数字を与えなければならないでしょうし、お義兄さんの身体の数字も変化するはずです。抜け毛の一本一本にこだわっていたら、とてもお義兄さんの数字を出すどころではないでしょうし」
女を探していた男は結局間に合わなかった。男がドアを開けたとき、女は身体ごともうひとりの男にぶつかっていった。しかし、刺された男が生き延びるか死ぬかは次回まで明らかにはされない。
「全然わかってないなあ」と二十三号は不満を太々しい声にした。「そんなの大前提じゃない。もう何年も前にレポートに書いたことなんだけど。あんたたちはちゃんと読んでいないか、理解できないほどの馬鹿か、どちらかね。あのね、意識も物質もどうでもいいのよ。全体だとか部分だとかそんなこともどうでもいいの。まず初めに数字があるの。物質も精神もすべて数字の現れにすぎないの。わたしもあんたも数字の現れなの。お義兄様が数字を持っているのではなくて、ある数字が他の数字との関係からお義兄様を作り出すの。わかるの、本当に」
「つまり、今は――」
二十三号は平田の言葉を遮って、ようやく平田に顔を向けた。
「馬鹿。今なんて何でもないの。それも数字の現れ。先に数字があるの。過去も未来も今も一緒にそこにあるの。それはひとつの展開にすぎないの。過去は過去のカッコで括られた内容でしかないし、未来も同じ。時間が先にあるわけじゃない。あんたはさっきそこのドアから入ってきたと思ってるでしょうけど、そんな過去も記憶もそこに座っている今と一緒に現れたものなのよ。次の展開では今は昨日かも知れないし、明日かも知れない。わたしもあんたも存在しないかも知れない。お義兄様という変数にゼロが入れば、お義兄様は存在しなくなる。それはお義兄様が死んだってことじゃない。その展開では今にも過去にも未来にもお義兄様が存在しないってこと。また別の展開では、人間も世界も存在しない、ただの無意味な数字の羅列かも知れない。あんたはそこのドアから入ってきたって信じてるでしょうけど、あんたがドアから入ってきた瞬間なんてどの展開にも今としては存在しないかも知れない。あるいはやっぱりこうしてこの部屋に私たちがいる今が、他の展開の現れとしてあるかも知れない。でも、その今ではそのドアから入ってきたのはあんたではなく、わたしかも知れない。ただ数字の現れとして、無数の過去と無数の今と無数の未来があるの」
一気にまくしたてて、二十三号はウーロン茶の二リットルペットボトルをラッパ飲みした。ぼこぼこと茶色い水に泡が立つ。ポンと間抜けた音を立てて口唇がボトルの口から離れた。濡れた口唇に丸く痕が残っていた。
「パラレルワールドのようなものと考えれば良いのでしょうか」
「そう考える方がわかりやすいならね。でも、わたしはパラレルでもなければ、ワールドでもないと思うわ。ま、いいけど」
ドラマは終わっていた。二十三号はリモコンをとってチャンネルを変えた。テレビショッピングでは相変わらず穴空き包丁でカマボコ板を切っていた。
「これ、いいと思わない」とブラウン管に視線を戻した二十三号が言った。
「あなたは料理をしないでしょう」
「誰も欲しいだなんて言ってないわ」
信輔はラップを背負って店に入っていった。ウェイトレスに窓辺の席に連れていかれた。信輔はラップをファミリーレストランの椅子に下ろした。ラップはテーブルの上へつっぷした。生きているのは、ざらついた呼吸音とそれにに合わせて大きく上下する肩でわかった。
「大丈夫ですか」とウェイトレスがラップの顔を覗き込んだ。短期アルバイトなのか、迷惑だという気にはならないらしかった。「顔色も悪いみたい」
それは痣なんだよ、と信輔は言いかけた。まだ腫れは残っているし、薄くなったとはいえはっきりと痣はわかる。三日前は真っ黒く膨張していた顔だった。
「ちょっと車に酔ったらしいんだ。何か飲めば治ると思う」
「炭酸の入ってるのがいいですよ」
「じゃあコーラ。ふたつ。おい、コーラでいいだろ」
ラップは明瞭でない音を発した。喉に膿が溜まっているようなうなり声だった。それはイエスなのかノーなのか、あるいはすべてがもうどうでもよくなってしまっているのか。
「コーラふたつで」
ウェイトレスが去ってもラップは顔を上げなかった。
三日間昏睡状態が続いたが、ラップは死ななかった。信輔の車の後部座席で死んだように眠り続けていた。その間、信輔は東京じゅうをぐるぐる回り続けた。夜は車を路肩に停めて眠り、朝になるとまた走り出した。病院へは連れていかなかった。コンビニで使い捨ての保冷剤を買って、膨れ上がった顔や腹を冷やした。息は荒く不規則で、いつまでも続いていることの方が異様な感じだった。瓶詰めの離乳食を意識のないラップの口に入れてみたりもした。しかし、むせるだけでいつまでも口の中に「ホウレンソウと白身魚のクリーム煮」はたまっていた。
ラップが意識を取り戻した日、信輔は東京を出た。公園の駐車場でヨーグルトを少し食べさせた。「ごめんな」と言ったが、ラップには聞こえていないようだった。何の意志も感情もない目で信輔を見ただけだった。責められているわけでもないのに信輔は顔を背けた。
ぐったりと部屋の隅に倒れているラップのために一度は一一九番しかけた。それは事実だった。しかし、電話がつながる前に切ってしまった。部屋には二人きり。救急車を呼ばなければ、まだ何も起こっていないのと同じだった。信輔はあわてて必要そうなものをバッグに放り込むと、グニャグニャに柔らかくなったラップの身体を担いで車に運んだ。信輔はアクセルを思いきり踏み込んでアパートから逃げ出した。後ろの席に死にかけた子どもがいる以上、アパートからどれだけ遠くへ離れても少しも逃げていることにならない。しかし、逃げることをやめれば何かが起きてしまったことを認めることになる。信輔は無限に逃げ続けなければならなかった。その意味では、ラップの意識は戻らない方が信輔には良かった。他の誰にも存在しなかった事態でも、ラップだけは当事者の一方として何もなかったとは言わないはずだった。結局信輔にできることといえば、起きてしまった何かを他人の目から隠しておくことだけ。その何かから逃げ去ることは絶対に不可能なことになった。
意識を取り戻したあと、ラップはまだひとことも喋っていなかった。まだ歩けないし、しっかりと立てない。脳に損傷を受けているのかも知れなかった。
コーラはすぐに運ばれて来た。ラップはだるそうに身体を起こし、赤ん坊のように覚束ない手つきでストローを包む紙を破いた。そして、ひとくちコーラを吸い上げた。うううう、とうなった。
信輔は窓の外に目をやった。国道をせわしなく車が行き交う。その向こうに松の林があり、幹の隙間から海が見えた。海水浴の客がロールプレイングゲームのNPCように砂浜をうろうろしている。
「あとで海の方に行ってみようか」
ラップの答えはなかった。グラスのコーラは半分に減って、その横にうつぶせた頭があった。それはただの物のようだった。フケの浮いた頭が無造作に転がされていた。
「海パンを買って水に入ろう。せっかく夏休みなんだしさ。しばらく風呂にも入ってないからな、身体の汚れも流せる」
信輔は、クックッと笑った。ラップは無反応だった。
信輔は自分のコーラを飲んでしまって煙草に火をつけた。ラップはときどき起き上がってストローをくわえた。まわりを見回すこともなく、もちろん海の方を確かめることもなく、ただストローをくわえ、コーラを飲み、またテーブルに突っ伏した。ランダムな間隔で一連の動作を行う自動人形だった。
ラップがコーラを飲み終えるのを待って、信輔はトイレに連れていった。小便をしている間、ラップの身体を後ろから支えてやった。洗面台では石鹸を泡立てて、ラップの手を洗ってやった。自分も大便がしたくなった。ラップを壁際に立たせ、そこにいるように言うと、個室に入った。
「お前、泳げるか」用を足しながら、信輔は喋り続けた。「俺は中学の頃、水泳部だったんだ。高校へ入ったらやめちゃったけどな。ほら、冬は温水プールへ金を払って行かなけりゃいけないから、毎日ってわけにはいかないだろ。週に一回、近所のプールに練習に行くんだけど、他の日は体育館の片隅で柔軟したり、学校のまわりを走ったり、面白くないんだよ。何であんなこと一生懸命三年間も続けていたのかなあ。高校生になったとたんに、やってらんねえよって思ってさ。結局、高校じゃ何にもやらなかった」
備え付けの固めのトイレットペーパーで尻を拭いた。水を流す。水はいったんぶくぶくと水位を上げて、柔らかめの便を踊らせ、汚れたトイレットペーパーをなびかせる。それから大便もトイレットペーパーもぐるぐる回りながら便器の中央の穴から流れ去り見えなくなった。もう一度水を流す。そういう癖だった。水がたまりまた渦を巻いて流れた。
「なあ、知ってるか。渦巻きってなあ、北半球と南半球じゃ回り方が逆なんだぜ。お前勉強してないから全然知らなかったろ。でも、そんなこと言われなきゃ気がつかないよな、ふつう。日本中どこ行ったって同じ方向に回ってんだからさ、そういうもんなんだって思っちまうよな。っていうか、いつも同じ方向に回ってるなんていちいち気にしない。はっきり目に見えてるのにな、そんなきまりがあるなんてわからないんだ。お前なんかきっと俺が教えなかったら一生知らないままだったと思うよ。たとえばお前が将来結婚してさ、新婚旅行とかでさ、オーストラリアに行ったって、日本と渦巻きが逆だなんて気づくわけないよ。気づく方がおかしいって。でも、それってなんかだまされてるような気がしない。トマトをずっと果物だって言われて喰ってたみたいなさ。うちは仏教徒だからサンタは来ないって言われるようなもんかな」
信輔が黙ると頭上のスピーカーから流れるイージーリスニングだけしか音はなかった。ラップの気配がなかった。布の擦れる音もない。あわててズボンを引き上げ、ドアを開けた。
ラップは立たせた場所にしゃがみ込んでいた。膝を抱え、石のように丸くなっていた。
信輔はラップの前に背中を向けてしゃがんだ。ラップが覆いかぶさるように乗ってくる。いくらチビだと言っても、十一歳の身体は重たかった。信輔が立ち上がると、正面の鏡に自分と首にしがみついているラップの姿が映った。鏡に映った信輔は薄ら笑いを浮かべていた。それを見ている信輔は泣き出してしまいそうだった。ラップの腕が首を締めつける。信輔はよろけるように一歩踏みだした。
「どのくらい泳げるかな。全然泳いでないからなあ。どこまで行けるか、お前、岸から見ててくれよ」
ラップは、ううううううと言った。
はじめ、平田はわたしのことを好きなんだと思ってた。だって、すごく優しかったから。でも、そうじゃないんだとすぐにわかった。平田が優しいのは、わたしが大切だから。わたしは大切だから慎重にあつかわれている。何でも食べさせてくれる。誕生日でもクリスマスでもないのにプレゼントをくれる。でも、その「大切」というのは「好き」とか「愛してる」とかとは本質的にちがう。生物学者は実験用のマウスを愛したりしないでしょ。そういうのってあるじゃない。そういう「大切さ」だ。
きっと平田も心の中ではわたしをデブ(すごく嫌な言葉。皮膚の内側が無意味なもので充満しているといった意味だろう。わたしの肉が無意味だなんて、どうしてあなたにわかるわけ。悪いけど、わたしの肉の価値はわたしが決めさせてもらう)とかブス(これもひどい。ガスが抜けるような言葉だ。何かの欠落かしら。わたしには美しさが欠落しているというの。過剰だとは考えられないものなの。何かが多すぎるんじゃない。肉のことを言ってるんじゃないけど)とか考えているんだろう。もちろん平田はそんなことオクビにも出さない。ずっと優しい。ふかふかのアンゴラのセーターみたいに優しい。でも、それって嫌味だ。この地下室にアンゴラは暑すぎるでしょ。「今度またお義兄さんがいらっしゃいますよ」って、あんた、わたしとお義兄様のこと本当は信じていないくせに。
妄想だって言いたいなら言えばいい。妄想なんてこの世界にはめずらしくもないんだから。今さらひとつふたつ増えたからって、いったい誰がこまるの。だーれもこまんない。真実と妄想をわけることに意味なんかないのよ。ガリレオは真実を言ったのにみんな信じなかったでしょ。いっそ誰も信じないままならよかった。「それでも地球は回る」からって「だからどうした」ってなもん。地球が平らで、世界の果てでは海が瀧になっていても、それで誰かが死ぬわけじゃない。落ちた人がいるっていうの。ゾウやらカメやらの背中にのっかった世界で人間はずーっとやってきたんだから、べつに矛盾なんてありゃしない。フーコーの振り子ってなに。あれってどういうこと。どうしてあれが地球が回ってる証拠なの。人は古い妄想から新しい妄想へ乗り換えたにすぎない。本当のことだって本質的(この言葉が好きだ。簡単にはだまされないよという頭の良さがある。優しさの裏の冷酷。醜さにかくされた美しさ。肉の下のこころ。誰も知らない秘密の関係)には妄想なの。古い本当が新しい本当に変わっただけ。
本当がいくつあったっていいじゃないの。お義兄様は文子と結婚するまでわたしに会ったことがないって、どうして証明できる。たとえ、そうだとしてもそんなことに意味はない。一足す二は三なの。一と二がどこにあってもそれは変わらないじゃない。水素ふたつと酸素ひとつで水になるでしょ。今の姿はちがってもそれは嘘じゃない。本質的ってこと。お義兄様とわたしは本質的に愛しあっているの。お義兄様はそう思ってないって言うのね。そりゃー自覚がないだけよ。自覚症状のない病気だってあるでしょ。静かに、そっと、本質的に、病気は進行して、ある日突然身体中がバラ色の湿疹でおおわれるのよ。もう痒くて痒くてたまらないって言うと、まるでお義兄様とわたしの愛が性病みたいじゃない、やーね。でも、そうなのよ。自覚以前に愛は始まるし、愛というのはひとつの関係だし、関係を生み出すのは数。すべての本質に数がある。そんなことずーっと昔からわかっていたことなのよ。ピタゴラスの定理のピタゴラスだってそう言っていたはず。易だって、姓名判断だって、アインシュタインだってそうよ。「カバラ数」占いって見たことがあるけど、カバラもそうなのかしらね。聞いてみなくちゃいけないかな、平田、ユダヤ人を連れてきて。どのユダヤ人だっていいわけじゃないのよ。ユダヤ四千年(あれ、四千年は中国だけだっけ。じゃあ、ユダヤは何年なのよ)の奥秘に精通した人じゃなきゃ。「奥秘」ってこの言葉もいいよね。奥の秘めたって淫糜な感じもあるし。でも、ユダヤの「奥秘」の人ってみんなフリーメーソンってことはないかしら。べつにフリーメーソンが悪いってんじゃないのよ。そういう人とうまくつきあってゆけるか心配なだけ。だって、ほら、わたしって好き嫌いのはげしい人だから。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い――この性格は嫌いじゃない。はっきりしてるっていいことだと思う。はっきりしていないよりずっといい。本当ははっきりしているのにはっきりしないふりも悪くない。最低なのは、本質的にははっきりしてないのにはっきりしてるふり。かくすものもないのにかくすふりしてどうするのって言いたい。でも、はっきりしてるとかはっきりしてないってどういうことなの、平田。あんた、何がはっきりしてるのかわかってる。どうなの。
案内が来るまで待っていてくれということなので、九鬼はエレベーターを降りたところに立っていた。ここから義妹の部屋までは通路をまっすぐ行けばいいだけだから案内などいらなかったが、そういう意味で案内がつくのではないらしかった。
エレベーターの扉も壁と同じ薄い青だった。昇りのボタンしかなかったが、ここが地下何階になるのか標示はなかった。九鬼は壁にもたれて、通路の先をぼんやりと見た。突き当たりの壁は見えない。そんなに長く通路が続いているはずはないのだが、壁や天井の色のせいで奥がぼやけて見えるのかも知れなかった。それが計算してなされたことなのか、偶然そうなったのか、九鬼にはどうでもよかった。とにかく早く義妹と会い、それもさっさとすまして帰りたかった。家に戻ったところで何があるわけでもないが、ゴロ寝でもしている方が義妹のいつ終わるのかわからない話を聞かされるよりマシだった。
薄青い通路の端に緑色の影が浮かび上がった。それは確かに唐突に「浮かび上がる」といった現れ方だった。一瞬前まで何もなかったところに、瞬きひとつの間にそれは出現していた。困ったことにそれは蛙のカーミット以外には見えなかった。ペタペタと近づいてくる。胸に「9」と大きく濃い緑で縫い取りがあり、赤く開いた口の中に老人の顔があった。これが待っている案内でないのは確かだった。
跳ねるような歩きかたで九鬼の前まで来ると、老人は深々と頭を下げた。仕方なく九鬼も会釈した。
「たかやまかつま、ともうします。せかいはひらいておりますゆえ、ひらにごようしゃねがいます」
後頭部から発声しているような、かすれているのに奇妙に高い声だった。〈たかやまかつま〉に九鬼は壁の隅に追いつめられたような形で立たれてしまっていた。〈たかやまかつま〉はもう一度深く頭を下げた。
「あなたはすでにごぞんじでいらっしゃるかもしれませんが……せかいはひらいておりますゆえ、あしたはもうおわってしまいました。たかやまかつまは、ただあしたをくりかえすのみでございます。ほとほとつかれました。ほとほとのほととはほとのほとでございます。ほんとうにほとほとつかれてしまいました」
「九号室の方ですか」九鬼は〈たかやまかつま〉の胸の「9」を指差した。「お部屋にいらっしゃらないといけないんじゃありませんか」
〈たかやまかつま〉はかくかく頷き、水掻きのある手をぱたぱた打ち合わせた。九鬼の言葉は〈たかやまかつま〉を喜ばせたようだった。
「たかやまかつまはへやにいるきまりがありますので、へやにいなくてはなりません。しかし、きのうのあしたのたかやまかつまはあるいておりましたゆえ、きょうのたかやまかつまはあるかなくてはなりません。しかし、たかやまかつまはへやにいるやくそくでございます」
と言うものの、〈たかやまかつま〉は部屋に帰るそぶりを見せなかった。九鬼をコーナーに追い込んでそこから動かなかった。
「あほうどもとのやくそくなどいつわりでございましょう。きのうのあしたにたがえば、きょうはもはやきのうのあしたではありますまい。そのようなかんたんなどうりのわからぬものはあほうどもであります。あほうはじぶんいがいのものをあほうとしんじているとかもうしますれば、ここのあほうどもがたかやまかつまがやくそくをやぶったとおこるのもむりのないことといえましょうが、せかいはひらいておりますゆえ、たかやまかつまがあるきまわるのもいたしかたのないことともうせましょう」
案内はいっこうに現れなかった。〈たかやまかつま〉はなれなれしく九鬼の肘をつかんでいた。バレエダンサーか、やはり蛙のように爪先を外向きに開いて、ぴょこんと跳ねた。それは右足と左足を時間差で持ち上げるという跳ね方だった。高く跳んだわけではない。もともと〈たかやまかつま〉の身長は、その着ぐるみの頭の上に突き出た目玉のぶんまで入れても、九鬼の顎のあたりまでしかなかった。跳ねるとそれが鼻の高さまでくるという程度。だからといって、跳躍の高低が動作の異常さを強調したり緩和したりするものではなかった。これがもし地上であれば九鬼は我慢しなかった。しかし、〈施設〉では九鬼は「客」だった。つまり、九鬼と〈たかやまかつま〉の間にズレがあるのは、九鬼の方が〈施設〉の基準からずれているからだった。
〈たかやまかつま〉は赤い口の中から九鬼を見上げていた。遮光器土偶のように細い目だった。九鬼が何か言ってくれるのを待っていた。
「歩かなくてはいけないんですね」と九鬼は言った。
〈たかやまかつま〉はまた跳ねた。前よりもほんの少し高く。――しかし、その高低差が何らかの感情の相違に対応しているという保証はなかった。単純な偶然かも知れなかった。
「あるかなくてはなりません。きのうのあしたのたかやまかつまはあるいておりましたので、きょうのたかやまかつまはあるきます。きのうのあしたのたかやまかつまはあなたにあいましたゆえ、きょうのたかやまかつまはあなたにあいます」
「あなたは私に会うことを知っていたわけですか。じゃあ、私が誰かも知っていますか」
最近では九鬼も〈施設〉の目的がどの辺にあるのかわかり始めていた。〈たかやまかつま〉は義妹と同類なのだ。不完全な予知者。時間がくずれている者たち。
「きのうのあしたのたかやまかつまはにじゅうさんごうしつのきゃくとあいました。きょうのたかやまかつまはにじゅうさんごうしつのきゃくとあいました」
「当たりです。私は二十三号室の客にちがいありません。昨日から私に会うとわかっていらっしゃったわけですか。すごいもんだ」
明らかに口先だけだとわかる九鬼の感心にさえ〈たかやまかつま〉はうれしそうだった。
「おどろかれることはありますまい。せかいはひらいておりますゆえ、きょうはきのうのあしたでございます。きのうのあしたはきのうのきのうのあしたでございます。きのうのきのうのあしたはきのうのきのうのきのうのあしたでございます。きのうのきのうのきのうのあしたはきのうのきのうのきのうのきのうの……」
「始めから決まっていたこと、ということでしょうか」
「せかいはひらいておりますゆえ、はじめもおわりもございません。あわせかがみのごとく、どこまでもつづいております。きのうとあしたはむかいあい、どこまでもつづいております。はじめもおわりもありませぬゆえ、どこまでもつづいております」
「じゃあ、どこにいても同じだ。というか、どこにいるんだかわかりませんね。始めも終わりもないんじゃなあ。何番目の今日なのかもわからない」
〈たかやまかつま〉は何も言わず、九鬼の左肘を撫でていた。九鬼は一歩、その手から逃げた。手は追いかけてきたが、身体の位置はわずかながら壁の隅からずれた。
「わかっているなら、ちがうことをしてみようとは思わないですか」
「きょうのたかやまかつまがきのうのあしたのたかやまかつまとちがうことをしてしまったら、きょうのたかやまかつまはきのうのあしたのたかやまかつまではありません」
「いいじゃないですか、べつにそれでも」
〈たかやまかつま〉は連続して跳ねた。しかし、それは動揺の表現ではなかった。あらかじめわかっていた「今日」なら、そこに動揺の入り込む余地はない。
「きょうのたかやまかつまがきのうのあしたのたかやまかつまとちがうことをしてしまったら! ちがうことをしてしまったら! きのうのあしたのたかやまかつまはいつわりです。きのうのあしたのたかやまかつまではなくなってしまいますゆえ、いけません! いけませんいけませんいけません!」
〈たかやまかつま〉は後ろへ跳ねた。九鬼はスペースができたぶんだけ広い方へ移動した。〈たかやまかつま〉は跳ね続けていた。
「いけませんいけませんいけませんいけませんいけませんいけませんいけませんいけません――」
それは「いけませんの踊り」といってもよかった。「いけません」の繰り返しはだんだんに早くなり、それに合わせて跳躍のテンポも上がった。〈たかやまかつま〉の顔は苦しげで、それでいて幸せそうだった。
「そんなに興奮しなくても……」
九鬼が止めようと伸ばした手を避けて〈たかやまかつま〉はさらに後ろへ跳ねた。と、足が滑ってそのまま仰向けに転んだ。両足が持ち上がり、後頭部から床に落ちた。鈍い音がした。ぐう、と言ったきり〈たかやまかつま〉は動かなかった。
九鬼はしゃがみ込んで、白目をむいた〈たかやまかつま〉の顔を覗き込んだ。唇の端に白く泡立った唾液がたまっていた。鼻孔の下に手をかざすと息がかかった。顔を上げると、壁の色と同じ制服を着た男が歩いてくるのが見えた。その男からも倒れている〈たかやまかつま〉は見えるはずなのに、あわてた様子はなかった。微笑を浮かべているようにも見えた。九鬼はしゃがんだまま、男が近づくのを待った。
塾の夏期講習で会った友だちの話では、ラップはまだ家に戻っていないということだった。扁理は大学生のアパートに行ってみようと誘ったが、その友だちには午後はプールに行く約束があると断わられた。友だちは扁理も一緒に行かないかと言ったが、扁理はプールよりもラップの方が気になった。しかたなく扁理はひとりで行ってみることにした。
塾のある商店街の外れから大学生のアパートヘ行くには、商店街を通ってスーパーの横の道からガードをくぐり、それからまだ結構歩かなければならなかった。扁理は途中でアイスキャンディーを買い、それをかじりながら歩いた。ソーダ味のアイスが溶けて、手を濡らした。かじるよりも早く溶けていくようだった。友だちが行くと言っていたプールのそばで、アイスを食べ終わった。棒には「ハズレ」の焼印があった。役立たずの棒はプールに隣接している公園のゴミ箱に捨てた。公衆トイレでべとつく手を洗った。トイレはひどく匂った。足下には破れたヌード写真が落ちていた。臍から腿までの部分だけ。女の陰毛が見えた。「陰毛だ」と声に出して言って、扁理は写真を蹴飛ばした。
アイスが甘かったので、べとつく唾液で喉がふさがれるようだった。扁理は公園を出るとすぐにウーロン茶を買った。友だちにもらった五百ウォン玉を使ってみたが、それは釣銭口へ転がり落ちてきた。何度も試すとブザーが鳴り出すかも知れないので、一度でやめた。自販機で買ったウーロン茶はアイスで痺れた舌にフェルトのように柔らかかった。
扁理はウーロン茶をずるずる飲みながら、大学生のアパートにたどり着いた。階段を一段おきに登って二階に上がると、そこからもう大学生の部屋のドアの新聞受けにあふれた新聞が見えた。念のために扁理は部屋の前まで行ってチャイムを鳴らしてみた。誰も出てこなかった。ドアに耳を当ててみたが、中に人がいる気配はなかった。
扁理はため息をついて、ドアの前を離れた。階段へ歩きだしたが、隣の部屋の前で啓示を受けたように立ち止まった。そして、また向きを変えると大学生の部屋のドアの前へ戻ってきた。新聞受けから新聞を全部取り出し、その狭い隙間に細い腕を差し入れた。二の腕まで入れて、扁理はドアの反対側を探った。ラップはそこに部屋の鍵を貼りつけていた。指先がテープの滑らかな表面に触れた。もう少し指を伸ばすと、鍵の凹凸に爪がかかった。力を入れて引き剥がそうとする。しかし、それは容易に剥がれたものの、指の間から消えた。チンッ、と落ちた音がした。
扁理は、げえ、と呟いて腕を新聞受けから抜いた。もう帰るしかなかった。新聞を拾い上げて、ひとつずつ差し込んだ。どうしても全部は入らなかった。残ったぶんを窓と格子の間に突っ込んだ。
電話が鳴りだした。携帯電話。扁理の知らない曲が着メロに使われていた。それは部屋の中から聞こえた。扁理は鳴りやむまでずっとドアの前に立っていた。
これで終わっているのかと思われるかもしれませんが、終わっています。