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part 1

SFのような、純文学のような。

ずいぶん前に書いたものなので、時代設定が前世紀末です。

 薄青い制服の男は立ち止まると振り返った。男は黙って頷いた。

 九鬼は男の後ろにまだ通路が続いているのを見た。それはどこまでも続いているようだった。壁も天井も、男の制服と同じ薄い青に塗られていて、通路の先は蛍光灯の光の中に溶け込んでいくように見えた。

 男はもう一度頷いた。

「ここですか」と九鬼は小声で聞いた。

 男はまた頷いた。顎の上げ下げに力が入っていた。

 九鬼の右の壁にドアがあった。壁がまだ柔らかいうちにコテで四角く切り出したようなドアだった。ドアの上部に透明なプラスチックの2と3が張り付けられていた。九鬼はドアに向き直り、左手に持っていたケーキの小箱を右手に持ち直した。

 制服の男は動かなかった。九鬼が顔を向けると、男はどうでもよさそうに「どうぞ」と言った。九鬼はまたケーキの箱を持ち替えて、軽くノックした。反応はなかった。九鬼は自分の靴先の汚れを眺めて待った。やはり反応はなかった。

「出かけているんでしょうか」

「ありえません」とだけ男は答えた。ただ立っているだけで、何もしようとはしなかった。しつけられた犬のように、姿勢だけは良かった。

 九鬼はこぶしを固く握って、薄青いドアを三度叩いた。四度めを叩く前に、鍵の開く音がした。それから、ほんの数センチ、トンボも飛び込めないほどドアが開いた。

「おにいさま?」

 ガラスのかけらを乳鉢ですり潰したような声だった。九鬼は制服の男を見た。男は目をそらしていた。ドアの向こうから何かが肉に張り付いてまた剥がれるときの音が聞こえた。九鬼はこわばる喉から無理矢理に「そうです」という音だけ吐き出した。

 ドアが勢いよく開かれ九鬼の肩にぶつかった。「あら、ごめんなさい。でも、うれしくって」と言いながら、ピンクのナイティを着た義妹が立っていた。「いらっしゃい。どうぞ、おあがりになって」

 ラグビーボールのような足の、肉に隠れそうな小さな爪の、ナイティと同じピンクのペディキュアに、九鬼は目を吸い付けられた。義妹の身体は膨満していた。皮膚の許す限り脂肪の詰まった肉体が、そこに転がりもせずに直立している。ふつうなら垂れ下がるはずの肉が、義妹の身体では重力に逆らってあらゆる方向へ噴き出そうとしていた。針のひと刺しで腹からはゲル化した脂肪が一気にほとばしり出るにちがいなかった。

 九鬼は唾液を飲み込み、目をじわじわと上げていった。盛り上がった肩に太い円柱状の首が付き、その上にバスケットボールのような頭が乗っていた。鬘のようなオカッパの髪がボール頭の上半分にかぶさっている。百円ショップに棚に放り出されているような、やはりピンクのカチューシャが巨大な頭から今にも弾け飛びそうだった。

「あがってあがって」

 短く太った指が九鬼の右腕を掴んで、部屋へ引き込んだ。もちろんその爪もピンクに塗られていた。ところどころ剥げて、黄褐色の、死んだような爪の表面が覗いていた。

 九鬼はつんのめりそうになりながら靴を脱いだ。東京ディズニーランドのタグの付いたマットの上に揃えられたスリッパに足を差し込む。足裏全体にじっとりとスリッパが張り付いた。

 まだ開いているドアにもたれかかるようにして、義妹は制服の男にコーヒーを頼んでいた。ポットで持ってくるようにと早口に言っていた。それから、ドアを閉めると膨満した身体をひねるのが大変そうに息を吐いた。にやにや笑う。九鬼の肩甲骨へ柔らかな二つの掌をあてて、部屋の中央の白いテーブルの方へ押しやった。

 この部屋へ来るのは初めてではなかった。文子と結婚して十四年の間に三度ほど、それぞれ数年の間隔を開けて訪れたことがあった。それはつまりそれだけの回数しか義妹と顔を合わせたことがないということでもある。文子の方はもっと頻繁に、といっても年に一度程度だがやってきているはずだった。九鬼が来るときはいつも文子が一緒だった。それは九鬼が来たというより、文子に付き合ったというのが正しい。

 義妹は二人の結婚式に出席しなかった。電報を送ってきただけだ。そのときにはもうこの〈施設〉に入っていた。文子もその家族も義妹を呼びたがらなかった。九鬼はこの部屋の住人となる前の義妹を知らない。義妹は文子の家では恥部であるらしかった。だから、九鬼もその辺りを詳しく聞いたことがなかった。普段の生活では、義妹は存在しないに等しかった。夫婦の話題にのぼることもない。上の息子はともかく、下の娘は自分にそんな叔母がいることさえまったく知らない。

 いつ来てもおかしな部屋だった。窓がない。地下だから当たり前なのだが、そんな生活空間を九鬼は他に知らなかった。窓をもたない壁はただ白い垂直の平面でしかないのだが、その裏にとんでもなく分厚いコンクリートがあるように見えた。

 家具やインテリアを見れば〈十代後半の女の子〉の部屋だった。ただし、〈一九八〇年の女の子〉の部屋だ。薄ぼんやりと重たげなパステルカラーで揃えられたベッドカバーやクッション。サンリオやディズニーのキャラクターグッズ。ただもう明るく青い、海と空のポスター(左下に大きく白抜きで California と印刷されている)。白い戸棚。白いテーブル。白い食器。九鬼の記憶などいい加減なものだが、ここで十四年間に変化したものなど何もない。あるいはもっと以前から、この部屋は義妹が〈施設〉に入って以来、何も変わっていないのかも知れなかった。

 しかし、そうした〈一九八〇年の十代後半の女の子〉的統一から突出して奇妙な物がこの部屋にあった。

それがそこにあるために、ただの時代遅れから歪な生活空間へとこの部屋は滑落しているのだった。ベッドの正面の壁の上半分を覆って学校の教室にあるような黒板が取り付けられている。およそよこ四メートル、たて一メートル三〇センチの黒板には、いつ来てもぎっしりと数字が書き殴られていた。その前には埃のようにチョークの粉がたまり、折れたチョークが転がっていた。

 九鬼にはこの黒板と数字の意味がわからなかった。文子もわかってはいないようだった。ただ、これが義妹の秘密のコアであることは間違いなかった。

「おにいさま、さあ、すわってくださいね」と九鬼は白い椅子に座らされた。学生の頃、似たような椅子を夏の軽井沢で見た記憶があった。

 九鬼は、これ、とケーキの箱を突き出した。義妹は九鬼が部屋に入ってきたときからその箱を睨みつけていたが、目の前に差し出されると、いかにも今気づいたかのような素振りで喜んだ。早速に箱をくるんだ包装紙を剥がし、その指にはそれ以外使い途がないみたいに素早く箱を分解した。義妹の好みがわからなかったので、九鬼は種類のちがうケーキを三つ買っていた。

 義妹の虫のような指はケーキの上をさまよった。「おにいさまはどれになさいます」と言いながら、目はケーキから離さなかった。九鬼は、そのオペラを、と言いかけて、義妹の指がためらうのを見てやめた。

「どれでもいいです。甘い物はあまり得意じゃないんで」

「まあ、おにいさま、きがきかなくてごめんなさい。でも、ここはのめませんのよ」

 義妹はケーキから顔を上げずに言った。やがて決心したように太い鼻息をひとつ。立ち上がると、小走りにキッチンになっている小部屋から皿を二枚持ってきた。一枚に洋梨のタルトを乗せて九鬼の前へ置いた。自分にはオペラを取った。モンブランが残っていたが、義妹は器用に再び箱を組み立てると、九鬼に持って帰られるのを恐れているのか、キッチンへ持っていってしまった。

「どうかしたんですか」

 九鬼はなるべく穏やかな調子に聞こえるように切り出した。義妹は、キッチンから戻ってくるなりケーキにフォークを突き立てて持ち上げ、皿の上へ身体をかぶせて犬食いしていた。

「なにがでしょう」

「いや、急に来て欲しいなんて知らせを受けたから。文子と二人でびっくりしてしまって。しかも僕だけということでしょう。文子抜きというのはどういうことなのかな、と思って」

 義妹は上半身を前傾させたまま、かくっ、と顔だけ上げた。前髪の毛先に黒いチョコレートクリームがついていた。

「おねえさんはいいんです、おねえさんは。これ、おいしいわ。おにいさまもめしあがって」

 仕方なく九鬼はフォークを取った。それは洗っていないように見えた。

「病気にでもなったのかと思ったんですけど、それなら文子抜きというのはおかしいでしょう」

 義妹は自分のオペラを食べ終えると口のまわりのチョコレートをなめた。目はじっと九鬼の前の洋梨のタルトに落ちていた。

「よかったらこれもどうぞ。僕は甘い物はどうも」

「おやさしいのね、おにいさま」義妹は人差し指と親指で皿の端をつまむと自分の方へずるずると引き寄せた。そして、オペラのときと同じ格好で洋梨のタルトにも襲いかかった。

 まだコーヒーは来ていなかった。煙草を吸おうにも灰皿は出ていなかった。酒類と同様、煙草も〈施設〉では禁止されているのかも知れなかった。九鬼は手に取ったまま汚さなかったフォークをそっとテーブルに置いた。自然と目は黒板に行った。全体くまなく白く汚れている黒板を、怒りにかられて書いたような数字が埋めている。様々な数式があり、様々な記号があった。Σや sin や cos はわかったが、GOD や STN というのは見当がつかなかった。九鬼が知るかぎり USSR はソヴィエト連邦のことだったが、ここではそれがπの分母になっていた。

 GOD(1.38n+sin26+3sex) をぼんやり眺めていると、チンッ、とフォークと皿のぶつかる音がした。義妹に向き直ると目が合った。九鬼は目をそらした。既に義妹の前の皿は空だった。口のまわりにクリームもついていなかった。

「おにいさまは、もうしんでいます」

 九鬼は黙っていた。口を開けば「ぶぎゃへ」とか「ぐぷが」とか言ってしまいそうだった。

「おにいさまは、もうしんでいます」

 義妹は繰り返した。「それは」と言って九鬼は口ごもった。目が部屋中をさまよった。ようやく義妹の顔へ戻ってきたとき、義妹は微笑していた。ひしゃげた西瓜のような微笑だった。

「それは比喩として言っている? 僕が死んだような生き方をしているという意味ですか」

「いいえ、たとえではありません。ほんとうにしんでいるの」

「死んだ人間はケーキなんか持ってきませんよ」

 義妹は、けけけけ、と笑った。

「そうですわね。よかったわ、おにいさまがいきてて」

「死んでいるかどうか確かめるために僕を呼んだんですか」

「それもありますの。だって、わたくしのけいさんでは、どうしてもおにいさまはしんでいるんですもの」

「計算ですか」九鬼はまた黒板を見た。二〇エレのリンネル=〇・五の上着……θxy=xa+yb+Gould/Bach……7GHQ=IT1-(Sun~Fri) …………どこかに九鬼の死を意味する計算式が書かれているはずだった。

 チャイムが鳴った。義妹が立って玄関へ行った。コーヒーだった。九鬼は、義妹がどぷどぷと注いだ象牙色のカップへ砂糖とミルクを足して飲んだ。既にぬるくなっていた。

 太い小指を立ててコーヒーのポットを掴んだ義妹が、九鬼のカップへ減った分だけ注ぎ足した。

「おにいさま、おひるはなんになさいます」

「いや、僕はその前に帰りますよ。あんまり長居をしちゃあ――」

「うなぎなんていかが。そうね、うなぎがよろしいわ」義妹は九鬼の言葉など聞こえないかのように一人で決めた。そして、壁に付いた電話を取ると、鰻重と肝吸いを注文した。〈施設〉のどこかでその電話を受けている誰かに、ほとんど命令するような口調だった。

「計算というのはどういうことなんですか」

「おにいさまがいきているんですもの。けいさんはまちがっていたのですわ」

「僕の寿命を計算したんですか。僕の寿命はもう尽きていましたか」

 義妹は人差し指を顎にあてて、小首を傾げた。それはちょうど肥大したQの字のように見えた。

「けいさんのやりかたがまちがっていたのかしら。それとも、おにいさまのすうじがまちがっていたのかしら。せっかくおにいさまによろこんでいただこうとおもったのに」

 鰻重がすぐに届けられるはずもなかった。九鬼は会話を続けなければならなかった。さもなければ、義妹の身体は沈黙を蓄積して、部屋中に膨れ上がりそうだった。

「僕に数字があるんですか」

「わたくし、おにいさまのすうじをとうとうみつけましたのよ。ほめていただけるかしら」

 テーブルの向こうから目を覗き込んでくる義妹から逃れようと、九鬼は身体をよじらせた。しかし、義妹は壁にも椅子にもあらゆる物にしみ込んで、部屋中から九鬼を見つめていた。

 エアコンの効いた部屋で、汗が頬を流れた。九鬼は上着を脱いだ。義妹は答えを待っていた。九鬼の唇は乾いて上下がくっついていた。コーヒーを飲むと、義妹がすかさず元の水位まで注ぎ足した。

「はあ、誉めないこともないですけど……。何だかよくわからないな。僕には数字があるんですね。で、計算すると僕はもう死んでいるんだ。だけど、僕はこうして生きているから、あなたの計算は間違っているということなんでしょう。それはどんな計算なんです」

「ひとことではちょっとむずかしいですわね」

「毎日計算しているんですか」

「いまはたいてい、おにいさまのけいさんですのよ」

 義妹は赤くなって、くくく、と笑った。丸く盛り上がった肩を揺らして、いつまでも笑っていた。

 

 家に帰り着くなり、文子が玄関へ駆け出してきた。そして、「ねえ、むかえにいってくれない」と言った。九鬼はまだ靴も脱いでいなかった。

「扁理?」

「とまるっていってるのよ、あのばか」

「あの大学生のところか。塾はどうするんだよ」

 息子の夏休みは二日前に始まっていたが、塾の夏期講習もそれと同時に始まっていた。

「むこうからいくって」

「馬鹿か」九鬼はまるでその場に息子がいるかのように怒鳴った。

「あんたがいって、つれてかえってきてよ」

「面倒くさいなあ。お前が行けよ」

 文子は怯えた子どものように何度も首を振った。

「だめよ。あのこ、あたしのゆうことなんて、ちっとも、ききゃしないんだから」

 九鬼は顔をしかめた。かなり険悪な顔になる。家族にしか見せない表情。しかし、妻も息子も娘も、その顔を見た目ほど悪く取る必要がないことを、経験的に知っていた。なかば怒り、なかば諦め。いつも妥協の一歩手前でその表情は現れるのだった。

 うううう、と九鬼は呻いた。

「どこなんだ。近いんだろ」

 文子が今へ戻って住所を書いたメモを取って来るあいだ、九鬼は靴をはいたまま壁にもたれていた。目の前に下駄箱があり、その上に家族の、といっても九鬼と文子と扁理と美代の四人の写真が立っていた。もう五年も前の家族旅行のスナップ。小学校に入ったばかりの息子が、茶色い岩の上に立って何か特撮物のヒーローのポーズをとっている。それが誰のまねなのか、今はもう息子本人に聞いてもわからなくなっていた。

 そこに五年前の写真がある意味などなかった。ちょうどその旅行の後に、知り合いの一人が結婚して披露宴の引出物に写真立てをもらった。それだけの理由で、そのときから、そこに、その写真は置かれているのだった。意味などないから、写真が換えられることも、写真立てが片付けられることもなかった。

 九鬼は踵で壁を蹴りながら、文子を待った。メモを取って来るだけにしては時間がかかっていた。駅から歩いてかいた汗がひきかけていた。ようやく戻って来た文子の手から黄色いメモ用紙をひったくると、舌打ちを一つして、九鬼はドアを開けた。

 マンションを出ると、夏の太陽はまだ空の高いところにあった。全身の毛穴が開き、汗がにじみ出す。今夜も熱帯夜なのは間違いがない。

 メモにあった住所は、九鬼のマンションと駅と直角三角形を作るその頂点のあたりだった。車を出すような距離ではなかった。九鬼はマンション脇の坂を下りながら、扁理の馬鹿が、と呟いた。煙草を吸おうと上着のポケットを探った指が固い物に触れた。

 携帯電話だった。自分の物ではない。〈施設〉で平田から預けられた物だった。どう使っても、何をしてもかまわない、という話だった。捨てても分解してもいい。ただ、何かしたらそのことを記録して提出しなければならない。九鬼はポケットの中で携帯電話を握ってみた。何もかも熱を持ち溶けるか揮発しかけている夏の住宅街とは別の次元に存在するように、それは冷たかった。


 平田は二十三号の面会がいつ終わるかわからなかった。ただ、短くすむことはなさそうだったので、昼食は外に出た。出がけにスタッフの一人が「二十三号は鰻ですよ」と言ったので、自分もそうすることにした。鰻屋には待たされたが、地下に戻ると二十三号の面会はまだ終わっていなかった。

 平田は自分の部屋で二十三号室のモニターを見た。二十三号と義理の兄は昼飯前と変わらず、白いテーブルを挟んで向かい合っていた。最後に見たときとちがうのは二人の前に鰻重が入っていたらしい空の容器があることだけだった。音声も聞けるのだが、ヴォリュームはゼロにしてあった。映像も音声も別の場所で記録されている。あとで何度も繰り返し見て分析し、担当スタッフと討議するのだった。

 コーヒーメイカーで午後のぶんのコーヒーを用意しデスクに戻ると、平田は横目にモニターを眺めながら、このあとの準備を始めた。デスクの隅に置かれていたグリーンのバインダを開け、中身を出した。不足がないのを確認すると、またバインダの中へと戻した。それから引き出しを開けると、茶色いストラップのついた携帯電話を出した。背面に数字の打たれた黄色いテプラが張りつけられていた。その十桁以上ある数字を机上用メモパッドに写し取って、携帯電話をバインダの上に乗せた。

 電話が鳴った。携帯電話ではなかった。アイボリーの内線電話のランプが赤く点滅していた。五回鳴らして取った。直属の上司だった。

「もう会ったか」

 苦しそうに甲高い声で上司が聞いてきた。

「いえ、まだ二十三号と話しています」

「大丈夫なんだろうな。もう予算は下りているんだし、駄目でしたではすまされないぞ」

「大丈夫でしょう。すんなりいかなければ謝礼の額を吊り上げます」

 モニター画面から二十三号の姿が消えていた。平田はボタンを押してカメラを切り替えた。トイレにはいなかった。キッチンで見つけた。二十三号は冷蔵庫のドアを開けたまま、そこにしゃがみこみ手掴みでケーキにかぶりついていた。

「足下を見られなけりゃいいがな」

「そこはうまくやりますよ。終わったら報告に行きます」

 平田は電話を切った。上司はしつこくまだ何か喋っていた。

 二十三号との面会が終わったあと、義理の兄にはこの部屋へ寄ってもらう手筈になっていた。そこで新しいプロジェクトへの協力を要請する。九鬼辰夫はこのプロジェクトの要だった。必ず協力させなくてはならなかった。

 二十三号はケーキを喰い終わると義理の兄のいる部屋へ戻っていった。九鬼は立ち上がっていた。平田は伸び出した髭がざらざらする顎を撫でた。二十三号は九鬼と玄関の間に立ちふさがった。平田は、くくく、と笑った。「デブが」と呟いた。

 五分後には、九鬼は平田の部屋で早く帰りたがっていた。平田が注いだコーヒーには指も触れていなかった。平田は灰皿を押しやり、自分も一本くわえた。

「彼女のことはよく知らないんですよね。前にそうおっしゃっていたと思うんですが。彼女が何をしているかも奥様から聞いていらっしゃらないですか」

「妻は義妹のことを話したがりません。どうやら計算をしているようですね」

 九鬼は煙草を深く吸って、ようやく背もたれに身体をもたせかけた。それまでは前屈みに、合図さえあれば即座に立ち上がれる姿勢でいたのだ。

「彼女はあらゆる事象を計算します。何でもかんでも計算します。彼女の考えでは、すべての物は変数なのです。物と物とが関係を持つとはそこにある式が当てはめられることなんです。式が展開されるように物事は展開し、変数である物は新しい値を得、さらなる展開を喚起します。たとえばここに3という数字があるとします。どうしてそれが3なのかはわからない。答えが3になるような式は無限に存在するでしょう。でも、そこへもう一つ2を持ってきたとします。3と2です。3たす2なら5ですし、3ひく2なら1、3かける2が6、3わる2が1・5でしょう。3の二乗なら9、ま、ある程度次の展開は限定されるわけですよ。ですから、3のところへ2が現れることをあらかじめわかっているなら、そこに3があるだけでも次の状態が絞れることになります。彼女は物でも同じことが言えると考えたわけです」

 九鬼はつまらなそうに聞いていた。せわしなく吸われる煙草が長々と灰を伸ばしていた。

「占いみたいなものですか」

「そうですね。確かにわれわれが期待しているのは未来予測としてです。ただ、彼女の発想にわれわれが惹かれたのは、未来予測を志向しているわけではないという点です。未来予測をはじめから目的にすると、どうしても偏向が生じます。結果として望ましい方法とはならないことが多いのです。しかし、彼女は未来予測を目的とはしなかった。それは計算には過去も未来もないからです。たとえば円周率はいつ計算しても同じでしょう。百年前でも百年後でも変化はありません。物と物との計算でも同じことです。いつ計算したかによって、それは未来予測か過去の確認になりますが、それは計算の方法や内容とは関係がないわけです。あくまでいつ計算したのかというちがいだけです」

「本当なんですか」

「本当というのは?」

「義妹にはそんな計算ができるんでしょうか。どうも信じがたい話ですよね」

 平田は微笑してコーヒーを飲んだ。顎を撫でた。眼が熱かった。バインダと携帯電話を引き寄せた。

「いや、まだ、結果は出ていません。私たちとしても彼女が正しいのかどうかはわかりません。私個人としてはその可能性は一パーセントもないと考えてます。しかし、たとえ一パーセントに満たない可能性だとしても、可能性がある限り〈施設〉は彼女の『研究』を支援します。〈施設〉とはそういう存在なのです。これまでもそうでしたし、これからもそうです。もっとも、そろそろ私たちにも答えが与えられるかも知れません。というのも、彼女はこの十五年間あの部屋でただ無意味な計算を繰り返していたわけではないからです。わずかずつではありますが、確かに『研究』は進んできました。そして、ようやく検証可能な段階に達したんです。もしかしたら彼女の正当性が証明されるかも知れません」

「そうなればいいですね」と九鬼は心のない返事をした。煙草を吸い終えて、所在なさげだった。目が泳いでいた。また心持ち前屈みになったようだった。

「で、今日あなたにいらしていただいたのは、実は私たちに助力をお願いできないかと思いまして」

 九鬼は膝に目を落とした。右手が怖いものを追い払うように振られた。

「助力だなんて、とてもとても」

「彼女はあなたの数字について何か言っていませんでしたか」

「ええ、何かそのようなことを言ってました。計算によると、私は死んでいるとか。でも、こうして生きていますからねえ。彼女の計算が間違っているという証拠でしょうか」

「そうかも知れませんが、ちょっとした数字の間違い、あるいは計算方法の間違いかも知れません。彼女にはその点を修正してもらいます。その結果、あなたについて正確な説明ができるようになるかも知れません。あなたには何か特別なことをしてもらいたいわけではないんです。普段通りに生活していただいて、ただ毎日がどんなだったか、簡単にメモ程度のものでかまいませんので記録していただきたい。私たちは彼女の計算結果とその記録を突き合わせて、その差異を彼女の『研究』にフィードバックさせていくつもりです。もちろん、長期に渡る話ですし、無料でというような図々しいことは申し上げません」平田はバインダから茶封筒を出すと、椅子から立って九鬼の脇へとデスクを回ってきた。「とりあえず、これが今日の謝礼です。お納めください」

 九鬼は条件付けられていた犬のようにそれを受け取った。手にした封筒をそれが何かわからないような目で見つめていた。

「その額ではご不満でしたら、遠慮なくおっしゃってください」

「金銭の問題ではないんです。というか、別にあなた方に協力することに問題はないんですが、その、私でなければならないんでしょうか」

「彼女が変数を発見した人間はまだお義兄さま一人なんです。他の誰かというわけにはいきません。ぜひお力を貸していただきたい」

 平田は立ったまま深々と頭を下げた。芝居がかった大仰さに内心苦笑していた。九鬼が封筒をしまうまで、ずっと頭を下げていた。

「メモ程度でいいんですね」

「あと、この携帯を」平田はあわてて携帯電話を掴んで九鬼に差し出した。「これをお持ちください。この携帯の数字もわかっているんです。この携帯をあなたがどうするかで彼女の計算との比較がより明瞭になりますので。あとから返還を求めたりするものではありません。使用料金も当然こちらで負担させていただきます。もちろん、それはあなたに使用を強制するものではありません。これを使おうが使わずに捨てようがどうしようとあなたの勝手です。ただし、どうされたかだけは必ず記録に残してください。このあとも数字の判明した物件をご自宅の方へその都度遅らせていただきます。まあ、モニターのようなものだとお考えいただければいいと思います。どれについても記録さえ残していただければ、その扱いはあなたの意志に任せます。よろしいですか」

 九鬼は頷いた。携帯電話を上着のポケットへ滑り込ませる。平田は椅子へ戻りながら、九鬼からは見えないように、ふうっ、と息を吐いた。

「でも」と九鬼が言った。

 平田は振り返った。険しい目つきになっていた。「何です」と聞き返す声にもどこか鋭角的な響きがあった。九鬼はうろたえたように尻を半分浮かした。

「どうして私なんでしょうか。実の姉もいるし、身近な人ということであれば平田さんだっていらっしゃるのに、なぜ私を義妹は選んだんでしょうか」

「それは、つまり」平田はつまらなそうに自分の椅子へ腰を下ろした。「お二人が愛し合われていたからですよ」

「私と義妹とですか。いや、それは何か勘違いされてます。私は結婚するまで彼女のことは知らなかったし、その時にはもう彼女はここに入っていたんですから」

 平田は、唾を飛ばし、腰を完全に浮かして抗弁する九鬼を、真面目な顔で見つめていた。

「あなたは奥様と知り合われる以前に彼女と愛し合っていた。しかし、よんどころない事情で、あなたは妹ではなく姉の方と結婚しなければならなかったんです」

「義妹が、彼女がそう言ったんですか。そんな馬鹿なこと。それは彼女の妄想です。彼女は頭がおかしいんじゃないですか」

「まあ、落ち着いてください。確かに地上ではあなたの言う通りです。でも、この地下にはあなたが考えているような真実は存在しない。ここでは彼女が基準なのです。彼女の『研究』の進捗のためには、私たちは妄想も受け入れます。誤差は修正すればいいんです。あなたが死んではいないということを彼女に教えるようにね。いずれあなたとの間には何もなかったということも彼女にはわからせなければいけない。でも、今はまだその時期じゃないというだけのことです。今その間違いを修正すれば、彼女は計算をやめてしまうでしょう。それは困ります。ですから、今後もたびたび彼女には会っていただかなくてはなりませんが、絶対にそのことだけは言わないでください。もちろん、あたかもそんな過去があったかのように振る舞う必要もありません。それは彼女に誤った情報を与えることにもなりますから。とにかく彼女の妄想を否定するようなことだけは避けていただきたいんです。よろしいですか」

 九鬼は顔をしかめ、平田からは目をそらしていた。平田は返事を待った。

「……どれくらいかかるんですか」

 九鬼は顔を背けたまま、呻くように言った。胸にあてた手は上着の内ポケットの封筒を押さえていると見えた。平田は冷たくなってしまったコーヒーを飲んだ。

「期間ですか。約一年というところでしょうか。それぐらいなら何とかなるんじゃありませんか」

「ここには何度も来なければいけないんでしょうか」

「なるべくなら頻繁に顔を出していただきたいですが、あなたもお忙しいだろうし……。そうですね、月に一度くらいは何とかなりませんか」

「それぐらいなら……まあ、何とか」

「よろしくお願いいたします」

 平田は椅子に座ったまま、コクン、と頭を下げた。

 

 扁理のいるアパートはもう近いはずだった。文子から渡されたメモが正しければ、見えてきてもいいはずだった。あるいはもう見えているのかも知れなかった。周りにはどれもそれらしいアパートが建ち並び、九鬼を迷わせた。

 どこか近くに「きもちのわるい」大学生が住んでいる。しかし、どのアパートもそれらしく見えた。実際どのアパートにも、一人くらいは「きもちのわるい」大学生が暮らしていて、九鬼が訪ねようとしている「きもちのわるい」大学生も、この界隈では珍しい存在ではないのかも知れなかった。

 「きもちのわるい」とは文子が言った。九鬼ではなかった。その大学生のことは以前から何度も話には出ていた。小学校でも問題になったことがあるらしかった。

「こどもとあそんでいるのよ」と文子は言った。文子は冷凍室に一本だけ残っていたアイスキャンディーを嘗めていた。青リンゴ味は扁理も九鬼も嫌いだから、もう一週間以上も箱の中にそれだけが残っていたのだ。

「いいじゃないか、遊んだって」

「へんたいなのよ、きっと」

 文子はアイスキャンディーを喉の奥の方まで差し入れて、ズルズルと吸い上げた。

「ただの子ども好きかもよ」

「いろいろわるいことをおしえてるらしいのよ」

「悪いことって」

「おさけとか、たばことか、ほかにもなにかあるかも……」

 眉間に皺をよせて、文子は垂れてくるのを根元から嘗め上げると、先端に歯を当てた。

「扁理も酒を飲んだりしてるのか」

「してないっていってたけど、どうかしら」

「あいつ、意気地がないからな。やってないんじゃないか」

 文子はアイスキャンディーを頬張ったまま、フガフガと何かはっきりしないことを言った。それから、鼻で息を吐いた。そして、またあわてて手を動かした。

「何言ってんだ。全然わからない。そいつを口から出して喋れよ」

「ともだちがわるいのよ」

 「わるいともだち」はラップと呼ばれていた。「小学生のラッパーか」と九鬼は聞いたが、そうではなくて、ラップ音のラップだと文子は答えた。そして、ひざがなるんだって、と付け足した。

「ラップ音て何だか知ってるのか」

「だからひざがなるんでしょ」

「まあいいや」

 「きもちのわるい」大学生と最初に知り合ったのが、その「わるいともだち」ラップだった。ラップの父親は九州へ出張に出たまま帰って来なかった。母親はカラオケボックスに行ったまま戻らなかった。今ラップは「おばさん」と暮らしていた。「おばさん」がどういうおばさんなのか、誰も知らなかった。

「血はつながっていないんですけど」

 「おばさん」本人が学級懇談会の母親たちの前で証言した。

 母親たちがそれ以上何か聞く前に、担任の前山は「では、次の方」と自己紹介の順番を回し、魚に似た顔の母親がおずおずと立ち上がった。

 ラップが何度か万引きで輔導されていることを、親たちはしばらくして知った。それが知れたのはラップ本人が級友たちに自慢したためだった。五月に誰もいない理科室で小火があった。原因ははっきりしなかったが、たちまちラップの放火と言われるようになった。クラスで飼っていたハムスターが夏休みの直前に死んだのも、ラップが毒殺したことになった。

 こどもの社会に起こる悪事のことごとくがラップのところへ押しやられ、彼のしたことと決めつけられた。おそらくは誰かがその役を担わなければならないからというだけで、ラップは大人たちから「悪い子」というレッテルを貼られた。そして、本人はそれを喜んでいるようだった。

「くさったみかんなのよ」と文子は新発見でもしたように言った。

「古いなあ」

 煙草をくわえて、九鬼はベランダへ出た。後ろ手にサッシを閉める。こうしていつも二人の会話は中絶される。マンション購入以来、九鬼は室内での喫煙を禁止された。しかし、それは九鬼に面倒な話題から逃げ出す口実を与えることにもなっていた。

 しかし、吸い殻を缶ミカンの空き缶に捨てて部屋に戻った九鬼に、文子は時間の空隙などなかったかのように「まわりもくさらせてゆくんだわ」と続けた。脚にまとわりついてくる下の娘を抱き上げて、九鬼は頬ずりした。扁理は塾に行っていなかった。

「その子が悪いのはいいけど、その腐ったミカンってのはやめろよ。聞いてて恥ずかしくなる」

「だってそうなんだもん」

 大人からは腐って見えるラップだったが、こどもたちには人気があった。前山が「ともだち」という題で作文を書かせると、三十人に欠けるクラスのうち七人がラップのことを書いた。扁理もその一人だった。

「ひざがなるくらいで」と文子は言った。

「そういうことじゃないだろう」

 九鬼は扁理の作文を読みながら答えた。扁理はラップを「大人っぽい」と書いていた。その点について「大人には悪く思えるところが、こどもには大人びて見えるようです」と前山は個人面談会で語った。

「つまり、大人は悪だってことだよな」

 文子から前山の言を聞かされた九鬼はそう答えた。

「わるいおとなもいるということよ」と文子は真面目くさって言い返した。

 それはとりもなおさず、文子にとっては「きもちのわるい」大学生のことだった。

 大学生の部屋でラップは煙草を覚えた。酒で酔うことも知った。大学生はいつでも部屋に入れてくれたし、帰れとも言わなかった。代償を求めることもなかった。

「いやな小学生だよなあ」とラップの煙草に火をつけてやりながら大学生は笑った。

「スッゲーわるみたいじゃん、おれ」といきがったポーズでラップは煙を吹き出す。

 大学生と付き合いだしてラップはさらに悪くなったと言われるようになった。しかし、その付き合いがいつ始まったのか、どうやって知り合ったのか、誰もわかっていなかった。こどもたちさえ知らなかった。気がつくと、ラップの知り合いにその大学生は存在し、その部屋が生活圏の中に入り込んでいたのだ。

 ラップは「きもちのわるい」大学生と知り合ったいきさつを隠していたわけではない。ラップはどんなことにせよ説明するということがほとんどなかった。物事を順序だてて話せるほど頭が良くなかった。しかも忘れっぽかった。約束はいつも破られた。悪意があるわけではなく、ただ忘れてしまう。数時間前のことさえよく忘れていた。

 後に大学生のことが学校で問題になったとき、前山はラップにどこで知り合ったのか問い質した。

 しばらくラップは担任から目をそらし、黒板の方を睨んで唇を尖らしていた。

 前山は緊張しているときの癖で左手の甲を何度も右手で擦りながら、けしてひねくれているわけではない少年の返事を待った。

 溶けた蝋が再び固まるほどの時間が経った。

「覚えてない」とラップは答えた。嘘をついたのではなかった。

 ラップにとって「きもちのわるい」大学生は、自分を拒否しないという点で、できそこないの大人だった。ラップはそれを「いい人」という言い方で、他のこどもたちにも紹介した。他のこどもたちを巻き込まなければ、おそらく大人たちはラップと大学生のことなど何も知らずにいただろう。しかし、ラップは自分の悪を自慢したい気持ちから他のこどもを誘って大学生の部屋に行き、大学生と同じように煙草を吸い、ビールを飲んでみせた。

 真似をしたがる子もいて、それをまた得意気に吹聴するお調子者もいた。すぐに大学生とその部屋のことは親たちの知るところとなり、学級懇談会の議題に登った。そのとき「おばさん」は出席していなかった。だから、発言を求められて、また「血はつながっていないんですけど」と答えることもなかった。

 前山は教室にラップを残して説教した。「やっていいことと悪いこと」などと言いながら、彼女は自分の言葉に何の力もないことをわかっていた。教師としてやるだけのことはやっているという、親たちへのアピールでしかなかった。彼女は三日ばかり自己嫌悪でヒステリー気味になり、給食に出たレバーのカリン揚げを、食べられずに残した生徒の口へ無理矢理ねじ込んだ。

「まさにごうもんだよ」と扁理は言っていた。

「やりすぎのかんがあるわね」と文子は眉間に皺をよせた。

「レバーのカリン揚げって何だ」と九鬼は言った。

 その件については急遽、臨時学級懇談会が開かれ、彼女は校長と一緒に親たちへ謝罪しなければならなかった。懇談会の終わったあとで、校長が顔ほどには笑っていない冷ややかな声で「レバーを突っ込むならあの子にすれば良かったのに」と言った。「あの子」というのがラップのことであるのは聞き返すまでもなかった。確かにラップの口なら、レバーでもキドニーでも羊の脳味噌でも、そこへ何を突っ込もうと文句はどこからも出ない。


 信輔が帰って来ると、玄関のドアを開ける前から子どもの声が聞こえて来た。

 先週、信輔は下の部屋の住人から「うるさい」という意味の嫌味を言われていた。信輔の部屋は角部屋で、右隣は空室だった。だから、階下の若妻の「お隣さんは何も言ってこないの」という言葉に反して、まだ他からはクレームはついていなかった。

 しかし、このアパートの住人が信輔の隣室が空いていることを知らないはずがなかった。「お隣さんは何も言ってこないの」とはそんな「お隣さん」が存在しないことを承知したうえでの言葉だった。若妻はそんな「お隣さん」を望んでいたのだ。もし存在していたならば、その「お隣さん」が自分に代って信輔を厳しく責めてくれるはずだった。

 もっとも、信輔にはそんな願望までは読めなかった。ただ自分の部屋がうるさいらしいと、そのとき初めて知ったにすぎない。「うるさい」という事実、ただそれだけ。信輔はラップに少し静かにするように言った。「えー、下のババアうるせー」とラップは口を尖らせた。

「ババアっていうような歳じゃない。まだ二十四、五だろ」

「あー、セックスしたいんだあ」

「馬鹿か、お前」と信輔は笑った。

 翌日、ラップは仕返しに下の部屋の郵便受けへ、階段の裏に生えていた草と土を入れた。信輔には黙っていた。「うるさい」のは変わらなかった。

 今、部屋にいるのは一人二人ではなかった。五、六人の声が聞こえていた。信輔はすっかり疲れていた。子どもの声は、信輔の身体の中心にある棒を掴んで乱暴に何度も揺さぶった。脳味噌や膀胱やその他の肉がグチャグチャになる。

 自分の留守中にも入れるように、ラップにはスペアキーを渡してあった。それ以来、ほとんど毎日やってくる。最近ではまるで自分の部屋のように友だちまで連れてきていた。そして、夏休みに入るとラップはとうとう家に帰らなくなった。

 信輔がドアを開けようとすると鍵がかかっていた。鍵を開ける手が震えた。無言で部屋に入った。見知らぬ子が、あるいは信輔が顔を覚えていないだけの子が「おかえんなさい」と言った。信輔は「ただいま」とは言わなかった。

 五人いた。子どもたちは信輔が買っておいたポテトチップを勝手に食べていた。飲んでいるジュースは買い置きなどなかったので、自分たちで買ってきたらしい。ラップだけが缶ビールを飲んでいた。今朝空にした灰皿に、今は二本吸殻が転がっていた。

「お邪魔してまーす」

 息の合わないコーラスグループのようだった。

「早かったじゃん」と窓枠に腰かけていたラップが言った。

 信輔は答えなかった。子どもたちの間を抜けて、ラップの方へ歩いていった。ラップが微かに身体をこわばらせた。信輔はラップに手を上げたことはない。叱ったことさえない。ラップは信輔に怯えたのではなかった。一気に距離を縮めてくる大人すべてが恐ろしいようだった。

 信輔は手を伸ばした。ラップが首をすくめた。刷り込み。意識されない身体の規則。しかし、信輔の手はラップの方へ伸びたのではなかった。その頭の上の、カーテンレールにぶら下がったハンガーを取った。

 一着しかないスーツを脱いでかける。それは今年の初めに買ったものだった。総裏のスーツは暑すぎる。裏地には汗を吸って白く塩を吹いているところもあった。こんな時期まで着る予定ではなかったから仕方がないのだった。大学の友人たちは夏期休暇が始まる前に大抵はスーツから解放されていた。内定が出ていないのは信輔だけではなかったが、少数派にはちがいなかった。東京での就職を諦めて故郷に帰って職を探している者もいる。今年は諦めて来年仕切り直しだという者もいる。東京でずるずると就職活動を続けているのは、信輔の周囲では信輔だけになってしまっていた。

 今日の面接では露骨に「君はこういう仕事に向いていない」と言われた。顔じゅう脂が光っている中年男だった。どこまでも続く額にも満遍なく脂が浮いていた。脂のせいで前髪は失われたにちがいなかった。事務所の片隅をパーテーションで仕切っただけの応接室に信輔が入っていくと、この脂男は安っぽい応接セットに猫背になって履歴書を読んでいた。そして、履歴書から顔も上げずに「座って」と言った。

 信輔の「よろしくお願いします」に頷いて、どうでもよさそうに「就職活動は大変ですか」と言った。「審査には影響しませんから正直に答えて欲しいんだけど、本当にまだどこからも内定をもらっていないんですか」

 七月も終わりになってまだ内定も出ていないような学生はハズレだと、薄ら笑いを浮かべた口唇が語っていた。七月の終わりになってまだ新卒者を探しているような自社のいかがわしさは棚に上げられていた。

 大学では何をやっていたのか、自分をどんな人間だと思うかなどとありきたりの質問がひととおりあって、これもありきたりな質問にはちがいなかったのだが「わが社を志望した理由は何でしょう」と口にしたところで、脂男は大笑いした。

「そんなの決まってるよねえ。他が採用してくれなかったからだよね。本当にうちに来たければもっと早く訪ねてきてるよなあ」

 信輔はうまく答えられなかった。正解は既に脂男が言ってしまった。真実がいったん二人の間へ言葉となって出てしまった以上、どんな飾られた答えもこの部屋の中では口に出したとたんに死んでしまう。それからあとはお互いにわけのわからないやりとりに終始した。信輔にも脂男にも、もはや面接試験ではなく、その演技でしかなかった。結局、「君はこういう仕事に向いていない」と結論らしいものが出て、面接は終わりになった。

「今日、みんな泊まっていってもいいよね」とラップが言った。

「この部屋にこんなに泊まれるわけないだろ」

「何とかなると思うよ。さっきみんなでやってみたけど、何とかなった」

「そりゃ、寝っ転がるくらいはできるだろうけど、布団がないじゃないか」

「ふたつあるから平気だ」と、ラップはまるで自分の布団のように言い放った。


「part 2」でも、事件はとくに起きません。

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