彼女の心境
最近「○○ロス」という言葉が流行してるけど、まさか私もそのロスの一員になるとは思わなかった。手の届かない相手だというのは分かってるんだけど、それでもやっぱりなーんかもやもやするのだ。
社長がご褒美で連れて行ってくれた試写会と食事会…彼は私がスクリーンや画面越しに見ていたまま、子犬のような目をしているのに大人の男性の色気も備わっていてもう“ありがとうございますううう!!”とお礼を言いたくなるくらい素敵だった。
あんなに素敵なんだもの。そりゃ恋人がいるのは当たり前よね。
今年の夏のはじめ、彼は長年交際していた女性と入籍をしたのだった。
とりあえず、秋は食欲の秋が最優先だ。秋刀魚の塩焼きとレンコンのチーズ焼き、焼き鳥とハイボールが美味。
「佳野子、その辛気臭いためいきやめて。いい?もう季節は秋なのよ、秋!!」
「そんなの分かってるわよ。うちの事務所、毎年この時期から忙しくなるんだもん。ためいきくらいつかせてよお」
「そのためいきは俳優の結婚が原因のくせに」
学生時代からの親友である水鈴(:みすず)は、外見はクールビューティーだけどその実態はきっぷのいい性格かつ肉食系だ。
「入籍はおめでたいことだし、別にそれ以上になりたいとかないんだけど、もやもやするんだよ。水鈴はそういう気持ちになったことない?」
「ない。私にとって男は遠くで愛でるもんじゃなくて、近くで愛でるもんよ」
「相変わらず肉食だよね…」
「いい加減、現実をみなさいよ。でもイケメンばっかりの職場にいるから無理か」
「イケメンっていうけどさ、見慣れると普通だよ」
「ちなみに佳野子のいう普通って誰?」
「うーん。quattuorのみんな?…ちょっと、顔が怖いって」
「なにその無意識面食い。信じられないっ!!王子が普通ってないから!!」
「いや、さすがに冬芽くんは慣れるまで2時間かかったよ。もしかして水鈴は冬芽くん推しなの?」
「CMで“いたずらにする?それとも……キスにする?”って言ってるでしょ。あれはいたずらしたあとにキスをするのが正しいと思わない?あー、王子で試してみたい」
「頼むから妄想だけにしといてよね」
水鈴が言うCMは間違いなく秋限定の初恋ショコラのものだ。テレビで放送されているものは眼鏡とスーツ姿で彼女に迫り、ショコラをあーんと食べさせたあと“いたずらにする?それとも……キスにする?”とささやくというシチュエーションだ。で、各々自由にやってねということで、ネクタイをゆるめたり眼鏡を外したりとそれぞれ好きに演じたらしい。ちなみに公式サイトにはヴァンパイア、海賊、執事、死神に扮装したハロウィンバージョンCMが掲載されていて、こちらも話題だ。
「当たり前でしょ。そうそうCMといえば、昨年の初恋ショコラbitterの相手役の子って結局誰だったんだろうね~。あれは私ですなんてうそついて非難されたモデルもいたっけ。ちょっと佳野子、なんで顔がひきつってるのよ」
「……いや、その騒動のときに発揮された社長の怖さを思い出しちゃってさ……」
あの読者モデルのせいで社長の笑顔の真っ黒度数が増して社員だけでなく、記者会見をしたときに取材に来たメディアの方たちも怯えていたよな…でも親友の水鈴にも言えない。相手役が私だったとは。
「そういえばあのモデル最近全然見ないね。やっぱり嘘ついでまで売れようとしたのがいけなかったんだね」
「うん、そうだと思うよ」
あのモデルが表舞台から消えたのは間違いなく社長を怒らせたからだ。社長はそのモデルはもちろん同じ事務所のタレントとこちらのタレントとの共演NGを相手方に伝えた。すると、なぜか数々の大手事務所や各テレビ局も同じような方針になったらしい。
で、顔面蒼白になって抗議しにきた相手方に対して社長は “私はうちとそちらの共演NGは出しましたが、他の事務所の方にまで働きかけてはいませんよ?”と笑顔で伝えたとか。
嘘だ。ぜったい、社長何かしたよ…その場に居合わせてしまった社員は皆そう思ったらしいけど、社長にそれを問える猛者は事務所にいない。
芸能界ってこわいよな。だけど、そこに片足つっこんで生活してるのも事実だから、こわいなんて言ってる場合じゃないんだけどさ。
「私、絶対同じ業界の人間とはつきあえない」
「ふーん。だったら今度合コンでもする?同期から話を持ちかけられてるんだけどさ」
水鈴は商社勤務。普通の会社員とあんまり接したことないからチャンスかも。
「うん、お願いしようかな…」
「わかった。日付が決まったら連絡するから。そろそろ普通の男を見せておかないと、佳野子の無意識面食いに拍車がかかりそうだもんね」
「だから私は面食いじゃないって」
「そう思ってんのは佳野子だけだから。あ、ハイボールおかわりくださーい」
水鈴は2杯目のハイボール(しかも濃い目)を注文すると、うっとりした顔で厚焼き玉子を食べ始めた。彼女はこれが大好物なのだ。