帰郷と芹沢鴨
帰ってきた。〈上洛〉したのではない、〈帰った〉のだ。今自分が京の地に立って居る事が信じられなかった。鴨川や周りの風景を何度も確かめる。
「何も変わってへんな、景色は」
何年か振りに見る景色だけは変化が無かった。変わったのは何やろうか、間違いなく何かは変わっている。急ぎ歩く人、装い、顔つき。それは昔彼が見た人間とは異なっていた。
彼の生家は室町佛光寺を下がったところにあった。室町界隈は呉服問屋が多く、彼の生家も呉服商を営んでおり今は長男が跡を継いでいる。三条通から新選組屯所のある壬生まで通り道だ。だが通らずとも屯所には着ける。
「どないしよか…」悩んだ末、立ち寄る事はせず佛光寺通をまっすぐ西へ向かうだけにしようと決めた。三条通を西に歩き烏丸通に出たところで南に下がった。そのまま歩き佛光寺通を西に入った。室町通の手前で立ち止まり角から下がった方角を覗いた。兄が客と店の前で立ち話をしているのが見えた。
彼は西へ走り「堪忍や!!」と心の中で叫んだ。大宮通まで走り続けた。荷物も心も重かった。この先偶然家族と出会ってしまう事もあるかもしれない。
「そん時はそん時や」大宮通を上がり綾小路通を西へ入った。このまままっすぐ行けば新選組の屯所である八木邸と前川邸に着くはずだ。
光縁寺の坊さんが門の周りを箒で掃いていた。あぁせやせや、此処お寺あったなあ。
そして彼は遂に前川邸の前に立った。
「遅ぇよ」
「待ってくれてはったんですか?」
「誰が待つか馬鹿野郎」
「うちが皆と京へ行かへんて決まった時、泣いて近藤先生に抗議しはったて聞きましたけどな」
「…もたもたしやがって」
「藤堂さんみたいに頭より先に身体が出る人間やないだけですわ」
「さっさと入れよ馬鹿野郎」
素直やないとこは相変わらずやなと思いながらも両手で自分の背中を押して屋敷へ連れてゆく藤堂の行為が嬉しかった。
その夜は試衛館の皆と夜遅くまで語り飲み食べ、沖田の提案で一部屋に皆で雑魚寝した。
気になったのは厠に起きた時に土方が発した言葉だった。
「朝になったら水戸派の奴らに会わせる。お前の目で見た正直な所を聞かせてほしい。敵か味方かをだ」水戸派…芹沢鴨、か。
芹沢らは八木邸で寝起きしていた。
当主の八木源之丞に普段の訛で挨拶し、生家は近くにある事を伝えると随分と驚いた様子であった。
近藤は「何や上手いことやっていけそうな気ぃしますわ」と当主から言われた事に上機嫌だった。
「こいつか、お前らのお気に入りは」
一目見た瞬間〈負ける〉と思った。
これが芹沢鴨…近藤の文に幾度も書かれていた名前だ。隣には新見錦も居た。文には粗暴だの何だのと書かれていたが、違う。そんな単純な人間ではない、芹沢も新見も幅が違う。力も根も必ず近藤先生は負ける、彼は確信した。
「近藤さん、ちょっとこいつ預かるぞ」と言いながら屋敷の中に連れて行かれた。土方は斎藤に目をやった。
「近藤さんからは聞いている。芹沢鴨と申す。ま、表面上は仲良くやろうぜ」
隣で新見は黙って目を閉じた。
「表面上って何ですのや」
「判ってて聞いているのか?」
「そうです」
「表と裏って事さ。京の人間がお得意のな」
彼は暫く問答を続ける事にした。面白そうやないか。
「お二人は尊王攘夷派…ですね、公武合体派ではなく」
新見は目を開き彼を睨んだ。芹沢は新見を制した。
「水戸藩の思想は知っているな?」彼は頷いた。
「なら答えはそれで十分だろ。お前は幕府がこの先も続くと思うか?」
「…さぁどうでしょうね」
「質問を変えよう。永遠に幕府政権が続いてほしいと思うか?」
「民が幸せに普通に暮らせるなら。普通を維持する大変さを知っている方の政権であるなら」
「それは裏か?」
「表ですよ」
斎藤が立ち去った気配を彼は感じた。
「何故近藤側にいるんだ」新見が話に入ってきた。
「うちは自分の政治的な思想はあらしまへん、まだ今は。ただ江戸に居った時に近藤先生の心根に惹かれたんですわ。人間っちゅうもんは相手の心根が信じられへんかったら思想が的射てても本心から付いていこうとは思われへん。せやけど…的射てとった思想は時が変わればどうなりますやろな」
彼は心根は近藤派だが思想は芹沢派かもしれない。江戸を立つ前にツネと話した事に偽りは無かった。
今の自分はまさしく表と裏であった。どっちや?正しい駒は…