06
放課後を知らせる鐘が鳴っても、教室にはまだ少なくない人が残っていた。がやがやとうるさく雑談するでもなく、それぞれ机を向き合わせてシャーペンをノートに走らせる音が聞こえる。
というのも、あと数日で恐るべきテストと言う名の戦いがやってくるのである。いつもは放課後となれば速攻で教室を飛び出していく運動部の人たちもテスト期間中の部活動は禁止。迫り来るテストという共通の敵を前に、友人同士で共同戦線を張っている人ばかりだ。そして、それは当然ながらあたしたちも同じである。
「――若葉、ここの解き方って何だっけ?」
「ええっと、それは教科書の……ここ。この三十二ページの公式を使うの」
美弥子が頭を抱えながら問題をシャーペンで示す。あたしはその問題に目を走らせると、側に置いていた数学の教科書を開いて該当の場所を美弥子に見せた。美弥子が躓いていたのは応用問題ではなく、練習問題だったので教科書を読んでその通りに解けば解ける問題である。
「それで?」
「みっこ、教科書読んだ?」
「ぐ……」
「読んで分からなかったら聞いて」
「鬼!若葉の鬼!」
「厳しくするのは心が痛いけど、これが真の優しさ。ちゃんと理解しないとテストで解けないよー」
「みっこ。若葉の言う通り。授業で居眠りしてたの、見てたよ」
「ナナも若葉も自分が数学得意だからってー!」
わざと美弥子に突き放したように言うと、美弥子は苦虫を噛んだような泣きそうな顔であたしと奈々を見た。数学が苦手らしい美弥子は、数学の授業では特に居眠りの誘惑に負けがちである。苦手な科目の授業は呪文に聞こえるというのはよく分かるけれど。
「若葉は数学以外もできるようにならないとね」
「……ナナって意外と優等生だよね」
「ふふ。勉強は出来て悪いことはないもの」
勉強中だけ眼鏡を掛けているナナはそう言ってにこりと口角を上げて笑った。勉強なんて興味の無さそうな雰囲気を醸し出しているくせに、それでいて奈々は成績上位者である。学年の三十番までの名前が廊下に張り出される成績順位表の常連で、入学以来ずっと十番以内に名を連ねているのだ。
あたしはというと、奈々が言った通りに数学が全てである。昔から算数、数学が得意だったけれど、それ以外はからっきしである。でも、数学が跳びぬけているから、いい……よね?全部だめよりも、何か一つ得意なものがあるって良いじゃない!みんな違ってみんな良い!
「奈々ちゃん!数学教えてー!」
「亮くん」
「こら。亮、いきなり割り込んだら迷惑だろ」
そこへ飛び込んで来たのは、今日は虎柄のパーカーをお召しの亮くんだ。亮くんはノートと問題集を持参して、奈々の横に張り付いてそれらを広げる。そんな亮くんの後ろからは悠真くんが、諌めるような声色で注意していた。
「かまわないけど、悠真くんの方が成績良いと思うの」
「俺がかまう!男に教えてもらってもつまんないんだもん!華やかさがないよね!あっちのグループ見てよ!むさくるしいったら!」
亮くんはそう言って、さっきまで座っていた男子グループの机を指した。亮くんの嘆きの声は当然ながら向こうの机の人たちにも聞こえていて、大ブーイングを持って返されている。
彼が言うように、王子たる悠真くんの成績は常に上から三番目から落ちたことがない。サッカー部の練習がキツくないわけがないのに、ガリ勉の様子もなく好成績をさらりと修めている。
「おい。そういうこと言うなら、俺にも考えがあるんだぞ?予習、宿題、いつもどうしてるんだっけ?」
「じょ、冗談だって!神様、仏様、悠真様!いつもありがとうございますー!」
「ったく、亮は調子が良いよ」
そんなことを言いながらも、亮くんはすんなりと奈々の隣に椅子をくっつけて今日はここで勉強する気満々のようである。そんな亮くんに対して、悠真くんは呆れたようにため息を付いて少し後ろに同じように座る。
「アレ?悠真も、もしかして?」
「アホ。見張りだ。お前の」
そんなこんなで時々亮くんに悠真くんが呆れたようにため息を吐きながら放課後の時間は過ぎていったのである。
時折質問の言葉が飛びながらも、真面目に勉強していたと思う。しかし、頭を使っているとお腹が減るのだ。
「――お腹空いた……」
「飴食べる?」
「うーん。なんか購買で買ってこようかな」
「購買?あ、もうすぐ閉まるよ。4時に閉まるはずだから」
お腹が減って力が出ないとはこのことだ。机に突っ伏すようにして言うと、横の奈々が飴を差し出してくれる。それはありがたいけれど、この空腹はそれだけじゃ治まりそうにもない。最後の力を振り絞って立ち上がると、カバンから財布を出してみんなを見た。
「行ってくる。みんなも何か欲しいものあれば聞くけど」
「ミルクティーとルーズリーフ」
「オレンジジュースとパン」
「ぶどうゼリー」
友人たちはこれ幸いとそれぞれ思い思いの注文をする。確かに、何か買ってこようかと聞いたのはあたしだけれども。
そこでふと、美弥子、奈々と亮くんはそれぞれ欲しいものを言っていたけれど、悠真くんは言わなかったことに気づいて悠真くんを見た。
「ええと、悠真くんは?」
「……俺も行くよ。若葉さんだけじゃ大変だろ」
「え?えー……」
「悠真くん優しい!」
「良かったね!若葉!」
「あー、うん……」
なぜか嬉しそうな女子二人の言葉に押しきられるように、悠真くんと一緒に購買に行くことになったのだった。
成り行きで二人並んで購買に向かう途中、悠真くんの口数は少ない。というか、全く口を開かない。そう遠くない道すがらとは言え、正直気まずい。
あたしは何か話そうとしながらも、口を開けて閉じるを繰り返していた。
だって、あたしたちの共通の話題と言えば、彼の頭にある愛らしいお耳の一点である。クラスメイトではあっても、女子に近付かない悠真くんとの話題なんてさっぱり分からない。
だけど、あたしにも分かることが一つ。それはこんな誰が聞いているか分からない場所で耳の話題を出したら、烈火のごとくお怒りになられるであろうということである!
「――若葉さん」
「え?な、なに?」
二人の沈黙を破ったのは、まさかの悠真くんの方であった。驚いて彼を見上げれば、彼はじっと探るような目であたしを見ている。
「噂、知ってる?」
「噂?何の?――あ。オノセンのズラなら噂じゃなくて真実だと思うよ!」
噂話の類は好きでも嫌いでも、女としてコミュニティに属していれば嫌でも耳に入る。だから、噂という言葉にはいくつか覚えがあった。
オノセン――地理の小野寺先生のズラ疑惑については、真実だと思っている。だって、もみあげのところが浮いてるんだもん。真実はいつも一つ!
「そうじゃない。……放課後、理科棟にオバケがでるってやつ」
「あー、あれね。1年の子が、尻尾の生えた何かを見たとか、鋭い牙があったってやつでしょ?よくある学校の七不思議でしょ。――え?あたしは何も言ってないよ!」
噂の内容を話していると、悠真くんが探るような目であたしを見ている理由に思い立つ。慌てて否定しながら見上げれば、悠真くんは不承そうな顔で頷いた。
「だろうな」
「じゃあ、何?どうしたの?」
「この先の話は……用事を済ませてからにしよう」
悠真くんはそう言うと、またさっきと同じように黙りこみさっさと購買へと歩いていく。ちらりと時計を見れば、確かにのんびり話していては購買が閉まってしまう時間になりそうだったので、あたしも同じように後に続いた。
購買で頼まれていたものを買い終わると、悠真くんはあたしを人気のない理科棟裏の中庭のような場所まで連れて行った。それだと言うのに、悠真くんは一向に話を始めない。二人の間は、時折風に揺れる草の音だけが流れている。
「――若葉さんは普通だね」
「え?そ、それは悠真くんと比べればど真ん中で普通だけど」
片やイケメン王子、片や特別に可愛くも、美人でもないど真ん中の普通女子である。比べる方が土台間違ってるんですが、と隠しきれない感情を滲ませて悠真くんを見れば、彼はそうじゃないと首を降った。
「違う。そうじゃなくて」
「うん?」
「若葉さんはさ、俺がこんなんだって分かっても普通に接してくれるよね。恐がるでも、騒ぐでもなくさ」
「そうかなぁ?」
ぽつりと呟いた悠真くんの言葉に首を傾げる。恐がってはいないけれど、かなり愛でてはいると思う。正直、隙あらば触りたいと、この右手が疼いている……!
「その、恐く、ないの?」
「何で?」
「何でって、だって、俺耳生えてるんだよ?」
「まぁ、そうだけど。耳くらいあたしにもあるし」
全く何を言っているんだ。耳がなければホラーだ。
呆れた顔で悠真くんを見ると、悠真くんは伏せていた目をこちらにちらりと向けて言う。
「尻尾もあるよ?」
「え!やっぱり、尻尾もあるの!」
「あるけど、短いから」
「そ、そうなんだ……。あ、あの。尻尾の毛並みって……」
「柔らかいよ。耳よりも毛が長いし」
「な……なっ!」
驚愕の事実である。あたしはわきわきと動き出す右手を止めることも出来ず、悠真くんの腰に視線を遣った。
「触りたい?」
「触りたい!」
「若葉さん、俺のこと好き?」
「好き!」
「えっ……」
「柔らかくてつるつるの毛並み、ぴょこぴょこ動く長い耳。大好き!」
悠真くんの問いに当然のように即答で返す。あたしは動物全般をこよなく愛している。そして、当然ながら悠真くんの長い耳も、短いけれど柔らかい毛並みも大好きだ。
「……はぁ。戻ろう。みんなのおつかいあるし」
「えっ!触らせてくれないの!」
「まだだめ。ほら、戻るよ」
「そ、そんな……!」
がっくりと崩れ落ちるあたしに悠真くんは少しだけ意地悪そうにくすりと笑って、さっさと歩いて行ってしまう。
てっきり触らせてくれると思ったのに、こんなの詐欺だ!




