04
古びた本の独特な香りと、せいぜい囁き声しか聞こえない静寂な空間。木々の木漏れ日越しの穏やかな光しか入らないように作られた立派な図書室には、たくさんの本が本棚に隙間なく詰め込まれ、次の借り手を静かに待ちわびていた。
ずっしりとした重みが腕にかかっているのを感じながら、静かに図書室を歩く。あたしは今年も図書委員になっていて、今日は図書委員の当番の日であった。司書の先生に言われるままに、返却処理のされた本を所定の場所に戻す作業の真っ最中なのである。
「ええと。金魚の種類と育て方っと……」
数冊抱えた本のうち、一番上の本のタイトルは自然科学に区分される、動物科学の場所にある本だ。あたしはすっかり慣れた足取りで動物科学の本棚を目指し歩いて行き、その本が入っていたはずの下段の隙間にそれを入れ込んだ。そして立ち上がって何気なく視線を遣った先にあった本のタイトルが目に止まる。
「うさぎの生態?」
いくら広くて充実した図書室とは言え、金魚からうさぎまでをカバーするとは雑多すぎる本の種類である。あたしはついその本を手にとって見ていると、他の図書委員が声を上げた。
「その本、あたしが希望出して買ってもらったの。牧瀬さんもうさぎ好きなの?」
「え、あー……うん。最近気になってて」
「そうなんだ!あたしその本読んでから飼い始めたんだけど、おすすめだよ。うさぎ、かわいいよー?結構懐くし、毛並みは柔らかいし!」
「そ、そうなんだ!でも、うちに犬いるから」
「そっかー。別の部屋で飼えば良いかもよ?とにかく考えてみて。愛らしいうさぎワールドが牧瀬さんを待ってるよ!」
同じ学年の彼女はにこにこ顔でうさぎ教を布教すると、満足そうに自分の仕事に戻って行った。購入図書の希望を出せる制度があるのだが、図書委員の希望は優遇される傾向がある。だから少しマニアックな本があるときは、図書委員の希望が通った本であることが多い。
『――うさぎの特徴とも言える大きな耳は、重要な器官でもある。集音機能に優れているだけでなく、熱を放散して体温調節も行っている』
ぱらぱらと開いた本にはそんなことが書かれていて、あたしの脳裏には悠真くんの大きな耳が思い浮かんだ。大きくて長い耳は確かに集音機能に優れていそうである。耳の内側はきれいなピンク色をして、人の声が音がする方をあっちこっちと向いているのをよく見かけた。
あたしは返却作業を続けながらそんなことを考えていて、それを終えるころにはうさぎの生態に関する本を借りていたのである。
図書委員の当番を終えて廊下を歩いていると、窓の外はすっかり茜色に染まっていた。本の返却作業をしていた時に外から聞こえていた運動部の声も今は聞こえないということは、部活動も終了しているのだろう。いつもはそうでもないのに、今週に限って返却本の量が多かったのである。すぐに終わるだろうと思って僅かな教科書とノートが入った鞄を教室に置いて行っていたのだが、図書室に持っていけばよかった。持って行っていればそのまま帰れたのに、とくやしく思っていると教室に人の気配があることに気が付く。
「……あれ?」
ここまで戻ってきた廊下の道すがら、先生くらいにしか会わなかったように学校に残っている人はほとんどいない。部活動のある生徒はその活動場所に鞄ごと移動しているし、学校に残っているよりもさっさと帰っている生徒が多いのだろう。
「若葉さん、今日は遅くまで残っていたんだね」
「ゆ、悠真くん。ええと、うん。あたしは図書委員の当番で」
茜色を浴びてこちらを見た人影にあたしは心臓をどきりと飛び跳ねさせずにはいられなかった。あたしは咄嗟に持っていた本を隠すように、お腹のところで両腕で抱える。彼を目の前にしてうさぎの本を持っているのを気付かれるのはまずいことだと本能的に悟ったのだ。内心ビクビクしながら、あたしは何でもないように顔を取り繕って高いところにある悠真くんの顔を見上げる。
「そうなんだ。図書委員って遅くまでかかるんだね。俺のサッカー部の練習の方が早く終わったよ」
「うちって蔵書数が多いのもあるけど、今日はたまたま返却本の量が多くて。えっと、悠真くんは何で残ってたの?忘れ物?」
あたしは悠真くんの愛らしい耳が視界に入る。それを凝視したい気持ちを必死に抑えて、何気ない調子で話しながら視線を下げた。ふわふわな毛並みを見ると、手を伸ばさずにはいられない不治の病に疾患して十数年。耐え難い衝動を感じてはいるが、今それをすると高校生活が終わってしまう可能性がある。あたしは心の中で血の涙を流しながらそれの誘惑に耐えていた。
「俺は忘れ物しちゃって。明日、数学の宿題あったよね」
「あ。そうだったね」
悠真くんは表紙に数学と綺麗な文字で書かれたノートを顔の横で振って見せた。確かに今日は数学の宿題が出ていて、それの提出日は明日の朝一である。今日の夜にやらなければ間に合わないだろう。あたしは目を伏せて頷くと、悠真くんを横目に自分の机に向かって歩く。
「ねぇ。若葉さん」
「……うん?」
悠真くんの声があたしの背中に掛かるけれど、あたしはそれに振り向かないで返事をした。体裁としては、帰りの準備をしている、である。
「若葉さん、『視えてる』よね」
「な、何が?」
あたしはやっぱり振り向きもせずに言葉を返した。何が、だなんて分かりきっている。だけど、あたしはそれに気付かないふりをしてやり過ごそうとしたのである。
なぜならば、彼の声の温度はいつもの穏やかな人気者のそれではなくて、初夏だというのに凍りつきそうな温度であったからだ。これは素直に頷いたら危険であると、あたしの本能が告げている!
「若葉さんが、俺のこと顔から上、絶対見ようとしなかっただろ?それって、何かが見えてるからじゃないの?」
「……何のことか分からないんだけど?」
あたしがその場を離れようと鞄を持って教室の後ろにある扉に向かって歩いていると、いつの間にかあたしの伏せた視界には彼の白い制服のシャツでいっぱいになった。ふわりと香る匂いは制汗剤のものだろうか。そして背中には教室の硬い壁。横を見れば、彼の腕。どうやらあたしは彼の腕に捕らわれているらしい、とそこでようやく気付いて動揺が体を巡った。
「じゃあ、俺の顔を見て」
「……み、見ればいいんでしょ!見れば!」
あたしは半ば自棄になって、彼の顔を見上げた。百六十センチほどのあたしからすると、彼の頭の位置は見上げる位置にある。そして、彼の顔を見ようと顔を上げると自ずと彼の頭も視界に入る。
「若葉さんたちが昼休みに話してたのでようやく分かった。僕の『耳』が視えてるんだろ?」
そう言った彼の耳が音に反応するようにぴょこりと動く。あたしが思わずそれに目を奪われたのを、彼は当然ながら見逃すことは無かった。
「見えてない、見えてない、見えてない!」
「嘘だ。若葉さんの視線、俺の耳を見てるけど。どう?俺の耳、結構手触りいいんだけど」
「ぐっ……!」
「視えてるって言うんなら、触ってもいいよ?」
「……み……」
「毛並み、柔らかいよ?」
そしてあたしは毛並みの魔力にあっさりと敗北したのである。
「……すいません!初めから見えてました!触らせて下さい!」
あたしは彼が頷くのを視認すると、高い位置にあるその耳に手を伸ばして思う存分もふ――撫でさせてもらった。彼の毛並みは思っていた通り、柔らかくて艶やかだった。我が家のポン太の毛並みもボリュームがあってで素晴らしいが、悠真くんのそれは犬のポン太よりも柔らかくてまた違った良さがある。つまり、みんな違ってみんな良い!という一言に尽きる。
「それで?」
「え?悠真くんの耳、とっても触り心地が良かったです!ラビットファー素敵です!」
「……そうじゃなくて、どうして見えるの?」
満足!という感情を全面に出しながら、はりきって感想を伝えると悠真くんは呆れたような顔であたしを見た。酷い。せっかく感想を言ったのに、彼が求めていたのはそういうことではなかったらしい。
「今年の春に高熱出して、しばらく休んでたでしょ?それで治って学校に来たら、悠真くんにうさぎの耳が生えてたよ」
これは嘘偽りのない真実である。確かに去年悠真くんを見かけた時には彼の頭に大きな耳は生えていなくて、彼は正真正銘ただの美少年であった。それなのに、熱が下がって学校に来たら彼の頭には大きなうさぎの耳が生えていたのである。
「生えてって、元からなんだけどね。じゃあ、それまでは見えてなかったのか」
「うん」
「……ばあちゃんがたまに見える人間がいるって言ってたけど、あれって本当だったのか……」
そう頷きながらもあたしの視線は悠馬君のぴょこぴょとと動く長い耳に釘付けだ。それまで自制していたものが外れたかのように彼の耳に夢中である。
そんなあたしの邪まな視線に気付いていないのか、完全に無視しているのか彼は考え込んだ様子で眉を顰めている。
「あの!もう一回触っても良いですか?」
「……若葉さんさ、これが何とか気にならないわけ?」
「気にならないと言ったら嘘になるけど、それよりも耳の肌触りが最高で!こんなに素敵なものがこの世に存在していたのかと、今はそのことに心が奪われています!」
思い切ってあたしが頼んだ言葉に、悠真くんは呆れた顔であたしを見た。だけど、あたしはそんなことには決して屈しない。畳み掛けるように彼に言い放つと、彼は心底嫌そうに顔を歪めた。
その後、彼が人間の世界で身を隠して暮らす獣人であること、このことを他の人にバラしたら殺すようなことを言われたような気がする。
でも、そんなことよりも彼の耳をこれからもたまに触っていいと言う旨を無理やり承諾してもらって、そのことに胸を躍らせていたのだった。
「ちょ、若葉さん!もういいだろ!」
「いやー、まだ触り足りない。まだ撫でたい。もうちょっと!もうちょっとだけだから!ね、お願い!」
誰だ、顔がセクハラオヤジと言ったヤツ!セクハラではない、これはアニマルセラピーである!