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ナイは混沌の声  作者: 山和平
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第二章 妙法夜音経異説

0 阿布土上人あふどしょうにん


 今は昔。

 天竺国よりさらに西奥にいらっしゃった阿布土上人は、まだお若かった頃から見事な説法をする事で有名でした。

 ある時、上人は西国の城に乞われ御仏の教えを熱心に姫君に御伝え致しました。

 ところが姫の父君である王は御仏の教えに耳を貸さず、逆に上人の説法に腹を立て、姫を誑かしたと上人を罪人にしてしまいました。

 王は上人の耳鼻陽物を削ぎ落し、人が誰も住まぬ荒れ野へと流罪にしてしまったのです。

 そこは食べる物も飲む水も手に入らず、草木は生えず、雨も降らない酷い土地でした。あらゆる獣が餓える餓鬼道のような場所だったのです。

 誰もが上人は餓えてお亡くなりになるだろうと考えました。

 しかし、阿布土上人はその荒れ野で十年もの月日を過ごし、変わらぬ姿で人々の目の前に戻って来られました。

 これこそ御仏の御加護の為せる業であると、人々は口々に阿布土上人を称えました。

 上人はその後、多くの土地を旅し、更に西方の国で人々に教えを説きながら、傍らで尊い御仏の教えを書き記して暮らしていましたが、ある日の事、多くの人々の前で二体の菩薩を連れた夜空奏如来よくうそうにょらいに導かれ、如来のいらっしゃる華陀洲浄土かだすじょうどへとお渡りになったと言う事です。

 これは正しく御仏の道を歩む者には、如何なる艱難辛苦が訪れようと御仏の御加護が有ると言うお話なのです。


         赤牟書林刊『宇摩衣野説話集うまいやせつわしゅう』より


1 朝の占いお姉さん


 話し終えたカワシマさんの気配が薄くなった。

 それはまるで役目を終えた、かのような。或いは燃え尽きたような、そんな感じがした。

 命を振り絞るような、そんな話。

 その態度が、今の突拍子も無い話の現実味を色濃くしていた。

 しばし無言が支配する。

 他の二人も、たぶん僕と同じような感想を抱いたのだと思う。

「………似たような話を聞いた事があるわ」

 僕の向かいの女占い師さんが呟いた。

「似たような話、ですか?」

「ええ。カナダのネイティブ・アメリカンの部族で、似たような話があるのよ。

 『大いなる白き沈黙の神』『トーテムに徴とて無き神』だったかしら?

 地元ではウェンディゴと呼ばれているわね。神様だったり、或いは堕落した人間が変貌したりするんだけど。似ていると思わない? 神様と神様に似せられた人間と」

「………まあ、そう言う事はどこにでもあると思いますが」

 カナダなら冬季五輪も開かれる雪国だ。雪のある場所に雪に係わる怪談が似通うのは有り得る話だと思う。

 だけど。実在するとなれば話は別だ。そんな怪物が存在するなんて、信じられる筈が無い。カワシマさんの話はあくまでも怪談だ。トモダチノトモダチから訊いたとか言う都市伝説と同じモノ。

「そうね。でも、その神様の方のウェンディゴには別名が有って、或る古文書には『イタクァ』って言う名前で載っているのよ。冬至の日に現れる、と言うのも共通してるわね」

 音が似ている。だとすると、カワシマさんがその怪談を真似たか、或いは誰かが真似たのを聞いた、と言う可能性もある。これも都市伝説の法則だ。

 日本で都市伝説として知られる怪談が、元を辿ればアメリカ産だったり映画ネタだったりする事も有るらしい。

 例えば、俗に『隙間人間譚』と呼ばれる怪談がある。壁の隙間やベッドの下に現れる怪人の怪談だ。妖怪のような扱いだったり、単に変質者だったりするが、共通するのは隙間から現れると言う事。

 実はこれは、アメリカ産の『車の下の強盗犯』と言うフォークロアがルーツなのだそうだ。

 これもその類の、話。

   ザリッ

 だが、老教授が一人得心したとでも言うように首を縦に振り、それを引き継いで話を繋げた。

「そうか、イタカ神か。なるほどなあ」

「イタカ神?」

「『大竹内家伝旧辞記写手本(おおたけうちけでん くじき うつしてほん)』と言う古文書に記された、とてもとても古い風の神だよ。はっきりと分かった話ではないが、おそらく縄文時代の頃から祀られていた、山に住む風の神だと言われている。特筆すべきはこの古代日本の風の神と似た名前の風の神が東南アジアにもあると言う事なんだ」

「同じ神様なんですか? まさか」

 だって、古代日本と東南アジアでは距離が有り過ぎる。

「いや、有り得ん話ではないよ。例えばイタカ神への信仰は近代の東南アジアにも残っていると聞いた事が有る。ミャンマーやマレー半島で確認されたと言う。日本語のルーツが東南アジアの海ルートから伝わったと言う説もあるし、意外と近い関係だったのだよ。言葉のルーツがあるなら、当然神話も伝わって来る。同じ神が居たとしても不思議な話ではない」

「そうね。西洋の話だけど、強くて人気のある神様は驚くほど広く伝わったらしいわ。ギリシャ神話の軍神アテナはアテネの街の守護神、と言う事になっているけど、実際は北アフリカから地中海一帯の一大信仰された大地母神だったと言われているわね。それもさらに遡れば、世界中に影響を与えた強大な暗黒地母神に行きつくのよ」

 ふと唐突に

 『森の黒山羊』

 そんな単語が脳裏を過る。

 ………なんだ、それは?

「知っているかもしれないが、日本神話の基礎は先住民と侵略民の神話の融合でね。先住民に伝わる神話は、北米原住民や中南米、南太平洋と共通する部分が有ると言われている。これは古の時代に太平洋を渡る海のルートが有ったと言う事に他ならない。実際、伊邪那岐、伊邪那美の国産み神話は海から島を釣り上げる、と言う海の民の神話がルーツだと言われているしね」

「知りませんでした」

「まあ雑学レベルの話だよ。受験勉強向きではないね。これに対して、大陸からやってきた侵略民は元を辿ればシュメール文明に行き着くと言われている。この文明はかなり早い段階から鉄器を用いた文化を形成し、その戦闘力で文化と共に彼らの神話、すなわち支配理論もまた伝播したのだ。ギリシャ神話と日本の記紀神話に共通する内容がある理由の一つはこれなんだ。つまり、シュメールオリジナルの神が各地に残って土着化しても全く不思議は無いわけだよ」

 妙な話だ、と思う。

 カワシマさんの話が作り話なら何の問題も無いんだ。

 でも。

 いや、そんなバカな話は無い。人を攫う神様? それはきっと何かの自然現象だ。似通った現象がカナダと日本で起きていた。ただそれだけの話ではないか? 或いは、それに風の神の名前が流用されただけ。

「なるほど、そう言う考え方も出来るか。差し詰め『イタクァ現象』とでも言うのかな。いかんなあ。私のような研究していると、古代に信仰を集めた神が存在しているような感覚になってしまうんじゃよ」

 老教授は笑って答えたけど、占い師さんは笑わなかった。

「あたしは信じるわよ。この世の中では、そう言う事が起きるんだって知っているもの」

 彼女はそう言うと、僕達に自分のホーリーネームを告げた。

 その名前に、僕は聞き覚えが有った。

「確か、何年か前に朝の占いで人気だったような」

 確かセクシー占い師の朝の占いとか何とかと言うやつで、中学の頃、朝の話題によく上っていた。占いよりも中学男子の下世話な話の方でだ。

「ほう?」

「今はすっかり零落れてしまったけれどね。元々辻占い師だし芸能界には興味あった訳じゃないから別にいいんだけど」

 彼女はそう言うと、まるで忌まわしい記憶を掘り返すような目で何処か虚空を見つめた。

「ああ言う体験をしてしまうと、どうしても人の社会に戻り難いのよね」


2 未知なる山奥の即身仏


 元々あたしは辻占い師だったわ。

 それなりに当たって、しかも美人でスタイルも良い。

 この業界、そう言うタイプが売れる傾向は有るけどね。

 それで評判になって、芸能事務所にスカウトされたの。で、タレント占い師としてデビュー。

 キャラクターが受けてそこそこ人気が出てグラビアなんかにも出ているうちに、他の番組にも呼ばれるようになったわけ。

 と、そこまでは良かったのよ。

 虚飾ばかりで本物が何も無い芸能界って新興宗教とか占いの温床なのよね。

 よく芸能人同士が結婚してすぐ別れるでしょ? あれもそう。大概、現実と虚飾の区別が付かないのよ。

 偽物ばかりだから縋る物がどうしても欲しくなる。そこで宗教とかに行っちゃうの。宗教や霊感商法に嵌って散財した芸能人なんて吐いて捨てるほどいるのよ。

 中には何億ってお金を宗教に御布施する人もいるの。ほら、何億円も借金が有る芸能人って時々週刊誌ネタになるじゃない。アレって霊感商法や宗教に嵌った人も多いのよ。

 で、元々優秀な占い師だった私にはプライベートでも色々お話が来たのよ。それで人気も加速するわけ。

 ところがね。そう言うあたしを面白くない目で見ていたのが居たのよ。

 知ってる? 「地獄行きよ」で有名になったババア占い師。

 占い師、なんて言ったら他の真面目な占い師に迷惑なんだけど。

 あたし達真っ当な占い師から見れば営業妨害もいいところの単なる霊感商法詐欺師なんだけど、その頃芸能界でそれなりに幅を利かせてたのよ。

 凄いわよね、芸能界。詐欺師がテレビに出てるんだもの。あのババアに脅されて墓石買わされた人間って多いのよ。ま、テレビ局が霊感商法の片棒担いだようなものよね。

 あ、ちょっと良い事教えてあげる。

 水子供養、って話が出たら九割詐欺だから。水子供養なんて戦後に造られた与太話だからね。

 『水子』って言う単語はもちろん前からあるし、ちゃんとお寺でも普通にするからね。

 まあ水子心配するほど女の子泣かせなきゃ良い話だけど。でも流産した母親って引っ掛かっちゃうのよね………。気持ちは分かるけど。

 あと、ババアが出してる占い本は下請けのバイトが作ったやつだから。って言うか、たぶんあのババアには作れないんじゃない? 知識なんて全然無いっぽいし。あれなら占いマニアの女子中学生の方が知識有るんじゃないかしらね。

 いいわね、「地獄行き」って言うだけでお金稼げるんだから。

 クズだと思うけど。

 で、分かるかしら?

 そのババアから見れば、あたしはシマを荒らしてる女って事。芸能界でもババアの信奉者っていっぱいいたから、気が付いたらもうヤバかった。

 でさ、顔合わせなきゃ良かったんだけど、やっぱり同じ系統で片や美女、片やババアでしょ。セッティングされてさ。ホントは相手なんかしたくないんだけど、本職が詐欺師に負ける訳にもいかなくて、本気出したら凄い顔で睨まれてね。恥かかせられた、みたいな。

 もう放送事故級の顔で。

 悪いのは詐欺師の自分じゃない?

 占い師としてはあたしの方が上だし、若いし美人だしスタイル良いし、ババアが個人的に勝てる要素は何にも無かったんだけど、そのババアにはヤクザと繋がりがあってね。と言うかむしろそのババア自身がヤクザの親分みたいなものなんだけど。

 ヤクザの情報網って怖いのよ? 特に風俗関係はかなり調べられるから。辻占い師も広義で言えば風俗だしね。

 で、このババアは報復って言うか八つ当たりであたしのその情報をマスコミに流したってわけ。

 あたしが売春占い師だって話よ。

 ふざけんな、って言いたい。これでも真面目に占い師やってたからね。占いで金は取ってもセックスで金を貰った事は無いのよ。

 もちろんあたしだってオトナの女なんだからセックスはやって当たり前。モテたし。占いのお客と一夜限りで寝た事もあるけど、それはプライベートなお話でしょ。まして芸能界でセックスなんて当たり前だし。枕営業なんて当然。特にほら、若い子並べてるようなところはほぼ間違い無くやってるわよ。

 と言うかね、結婚詐欺の前科も有るババアに言われたくないって。

 でも、あたしはセクシーで売ったタレントだったから話が自然そうなっちゃってさ。マスコミにもさんざんデタラメ並べられて叩かれてね。所属事務所もあんまり大きくなくて、ババアの差し金のヤクザに脅されて、結局芸能界辞めたってわけ。

 未練は無かったわね。

 で、辻に戻れば良いか、と思ったら今度はあのババアは手下のヤクザ使って営業妨害。どこまでしつこいんだか。誰が地獄行きなのか頭で理解してんのかしらね。


 と、まあ愚痴っぽい事言ったけど、ここまでが前座話。本題はここからよ。

 正直思い出すのも辛いんだけど。


 東京に居られなくなったあたしは西の方に流れてね。名前も元に戻して、運もあって繁華街の占いビルに店を出せたの。お店って言っても共同賃貸で区切られた狭いスペースでね。あたし達は『個室トイレ』って呼んでたわね。それくらい狭い。でも繁華街なのに家賃は格安ってわけ。占い師に広い空間は要らないでしょ? 一つの物件を分割して借りた方がピッタリお手軽なの。トイレ共通なのがキツイけどね。

 で、そこそこ繁盛してた頃にあった、ある夜の話よ。

 その日は珍しく途中でぱったりとお客が来なくなってね。

 経験的に、そういう日はダメだって知ってたし、お隣の手相占いや向かいのタロット店も早仕舞して、あたしもそうしようかなーって思ってた時だった。

 狭いから店の内装次第で廊下が見えるのよ。あたしの店はちょうどそんな感じだった。

 気配も無く、いつの間にかホームレスが入って来たのよ。

 占い屋にホームレスが来るなんて、まず無いわ。

 トイレをわざわざビル内で借りる類の人たちじゃないし、最初はヤバイかも、って思った。金目当てか、或いは物盗りか。それくらい外見は酷かった。

 歳は六十か七十かもっと老けているようにも見えたわ。


 ………でもね。見えちゃったんだよね。

 あたし、そう言うのちょっとだけ分かるのよ。霊感ってやつなのかな。

 人間の大きさと言うか、存在の大きさと言うか。

 そのホームレス、外見とは裏腹に凄い物を持ってるって直感に来たのよ。それこそ、脳が焼き切れるかって思った。後光って、ああ言う物なのかな。

 そうね、きっと恋、に近い。

 だから、誘ったのよ。彼を。

 ………ううん、違うわね。

 傅きたかったのよ。

 たぶん、あたしが見えたのは「徳」ってやつかもね。問答無用の聖人を前にして何を知らぬ者でも膝をつきたくなるような、そんな気持ちよ。

 でも、断られた。

 自分はそう言う目的でここに来たのではない、と。

 ホームレスを誘って振られたのに、全然気にならなかった。

 ………ふふふ。だって、格好は薄汚れていたのに、痩せて干からびたような姿なのに、声はとても良くて、心地いい音色みたいだったの。


 お店の中で、私たちは向かい合っていた。

 本当にドキドキしたのをはっきりと覚えてる。それなりの経験をしてきた自分でも信じられなかったもの。初めてデートした時よりも、心が高鳴ったかもしれないわ。

 向かい合っても、その人の人相が見えなかった。それくらい酷い外見なのよ。

 目の前のその人は「私にお願いをしに来た」と言ったわ。あたしになら頼める、って。

 向こうもあたしのちょっとした霊感的な物が分かったらしいのね。それで人気の無い夜にあたしに会いに来たんだって。

 その内容を聞いた時はさすがに驚いたけど、その時のあたしには拒むと言う思考は無かったわ。

 その夜はそれで終わり。

 入って来た時と同じように、その人は静かに出て行った。


 その時から、あたしの周りでおかしな事が起き始めた。

 部屋が荒らされたの。

 最初は、ババアがあたしの行方を掴んで、手下が嫌がらせしに来たかと思った。

 でも違ったの。

 たまたま監視カメラの映像に映っていたのは黄色いコートを着た誰か。

 それから黄色。黄色。黄色。

 黄色の服を着た人が、あたしの周りで目立つようになった。それが、明らかにあたしを見張っている。

 直接何かをされたわけじゃない。ストーカー被害で届けたけど、警察では相手にされなかった。

 ………法律があるのにストーカー被害に対する警察の対応って冷淡よね。

 もっとも、警察にはどうしようもなかったって事が、後で分かるのよ。

 ………だって、そいつらは。

 

 約束の日にあたしは店を臨時休業にしてレンタカーで目的地に向かったの。

 その場所は、真言宗の総本山である高野山。

 因みに高野山って言うのは正確に言うと地名で、山の名前ではないのね。実際八つの峰に囲まれた蓮のような地形と言う仏教聖地の理想形になっているの。

 金剛峯寺、と言うのもお寺一つではなく、集合体、もっと言えば宗教都市を意味するのよ。

 そう。高野山とは、人工的に作られた仏教都市。

 曼荼羅宇宙観を元に弘法大師空海が築いた、人の手による密教聖地。

 今では世界遺産になってるし、昔から観光とお参りの場所だから車で行くのは問題なかったわ。

 わざわざレンタカーを借りなくても交通機関があるから行けるけど、ある荷物を運ぶためにレンタカーはちょうど良かったの。

 なぜなら、あたしの目的地は高野山の中でも観光地化している部分ではなく別の場所だった。

 詳しい名前は伏せるわね。さすがにあんな事があった後じゃ、大っぴらに喋れないもの。

 そこは、高野山の修行僧でも迂闊に入り込まない、結界の地だったの。

 本当は登るのも厳しい道無き道の山。

 でも、不思議とあたしは苦労無く登れたの。

 背中に五キロ以上の荷物を背負っていたのに。


 歩いていると、自分が異界に入り込んだと言う感覚が分かったわ。

 閉じられた場所。普通の人間では入れない、特別な場所だって直感が教えてくれた。

 時間も、空間すらも意味を為さない捻じれた理の場所。

 そして、あたしはそこに辿り着いた。

 岩窟。入口を木の扉で塞いだ、天然の洞穴。

 懐中電灯を持って、その奥で見つけたの。

 彼の、亡骸。

 ………ううん。即身仏を。


 『即身成仏』と言う言葉と儀式があるわ。

 言葉は読んでその名の如く、輪廻転生の積み重ねを経る事無く、人の身の今この時代に仏へと成る事。仏教の究極の目的、とも言えるわね。浄土宗や浄土真宗のような阿弥陀仏系では僧侶も民草も救済を受ける事が目的だから、そう言う理屈は薄いんだけど。

 そして儀式とは、生きたままその身を仏に変えるもの。

 もっとも、その内容は長年に渡って五穀を断ち、最後は食を断って胃と腸を空にして、地中に埋めた石棺に入り、死を迎えること。

 その亡骸は暫く石棺に残し、数年後に取り出す。

 すると、成功していれば身体はミイラ化するの。これを生き仏として祀る。

 これが、いわゆる日本の木乃伊、即身仏。因みに死後に加工される例もあるわ。

 近代に入って即身仏は禁止されるけど、実際は行われたと言う記録が残っている。


 そこにあったのは、ボロボロの袈裟を纏った即身仏。

 その背には彼の言った通り、千巻を越える大量の経典が仕舞われた棚が設えてあった。

 普通、即身仏は大事な仏として祀られる。

 でも、その即身仏はボロの袈裟を着て、乾いた砂地の上に直に据えられていた。

 まるで背の経典を守る番人。

 ううん、「守る」と言うは違うかもしれない。

 彼は、「誰にも渡さない」為にここで番をしていたの。

 千数百年と言う長い長い月日を。


 棚の中に有った経典を一つ取り出して見る。

 それだけで鳥肌が立ったわ。

 『妙法夜音経』

 それなりに知識があるあたしでも聞いた事も無い物だったけれど、絶対、断言できる。これは良くない物だって。

 呪いなんて生易しいものじゃない。悪意とも狂気とも違う。

 きっとそれは人の手に余る暗闇の絶望を押し付ける物。

 たった一巻を手に取っただけで背筋が強張るほど怖気が立つのに、そこにあるのは千巻。それがどんな代物なのか、あたしの想像を超えてしまっていた。

 恐怖に憑りつかれたあたしは、持って来た荷物を取り出して中身をぶちまけた。

 あたしがここまで持って来ていたのは、ガソリン。レンタカーの予備ガソリンを抜いた物。

 彼に頼まれた事を、あたしは実行する。

 彼の願いは、ここにある物全てを燃やし尽くす事。

 文化財級なのは間違いない。もしかしたら歴史の記述が変わるかもしれない。

 それほどの物だとしても、これを残す事による災害と比べたら、些末な事だと思えた。


 半分閉ざされた空間で考え無しにガソリンを播けば、シンナー中毒に近い現象が起きる。

 俗に「ラリった」なんて言うけど、いざ火を付けようとした時、あたしの眼にそれは映った。


 黄色い袈裟を着た僧侶が、部屋の陰から影法師のように起き上がった。

 どこから現れたのか、そんな事は関係無かった。

 そもそもそれは人の形をしていても人ではなかった。

 捻じれ狂った四肢のバランスを持った黄衣の僧が、あたしに襲い掛かって来る。


 その時だった。

 悲鳴すら出ないあたしの前に、即身仏が立ち上がった。そのまま両手をかざして黄衣の僧を抑え込んでいる。

 火を放て、と言う彼の声を聴いた気がした。

 そこから逃げた私は、発煙筒に火を付けて投げた。

 気化したガソリンに引火して、洞窟内を爆炎が嘗め尽くす。

 外に弾き出されたあたしは、洞窟から燃えがある炎を放心して見ていた。


 何もかもが幻覚だった、そう思ったけれど、一つだけ、終わらない物があった。

 黄色。

 黄衣に身を包んだ連中が、あたしの側から消える事は無かった。

 人ならざる彼らは、歴史の陰に消えたそれをずっと探していた。

 あの、炎の中に消えた『妙法夜音経』を。

 今も。


妙法夜音経解説


 西暦730年前後、西域の阿布土上人によって著された経典を、上人と親交のあった唐帝国出身の三教僧(仏教・儒教・道教のハイブリッド理論)であった呂林りょりんによって注釈を付けられ漢訳された物。全910巻。

 表題は原典が意味する「夜鳴く蟲の音」を略した物である。

 その内容は阿布土上人の夜空奏如来を中心とする独自的な華蛇洲曼荼羅宇宙観とその密教秘事を記した物。

 一部を除き仏教の三位一体は如来を中心に左右に菩薩を置くのが基本だが、夜音経では中心に宇宙の中心たる夜空奏如来。左右に黒面無貌の黒智爾観世音菩薩こくちじかんぜおんぼさつと女性型の州無尼菩薩しゅぶにぼさつを置く。

 尚、前部300巻を『東海蓬莱深院 九頭竜経』と表記する場合がある。

 一説によれば、東西に拡散した阿布土上人の著書の翻訳の中でもっとも再現率が高く、他の翻訳で抜け落ちている断章部分も訳されていると言われる。


 呂林は当時マイナーだった三教学の僧であり、才能豊かであったが玄奘三蔵の偉業に憧れて、未知なる仏典を求めて唐を出奔した。

 彼はインドではなく仏典の流通拠点であった陸路シルクロードを辿り、遂に西側のダマスカスまで辿り着く。

 当時イスラム帝国ウマイヤ朝の後期に当たり、ここで阿布土上人と出会った。

 持ち帰ったのは750年前後ではないかと思われる。

 呂林は漢訳した夜音経を唐帝国に持ち帰り宮廷などに真理を広めようとしたものの、中々中枢に認められず、また、末法思想である三階教と通じる部分もあったため弾圧の余波を受ける。結局中華仏教が最も隆盛した時代に異端として埋没し、呂林は姿を消した。

彼が持ち帰った910巻の経典は長安の竜江寺に置かれたものの、竜江寺は立て続けに不幸が起きて僧侶不在の廃寺になってしまった。

 西暦843年前後に起きた唐代最後の仏教弾圧で竜江寺は本尊三仏と共に火をかけられ、収蔵された経典も焼失したとされる。

   *

 西暦804年、日本から第十六回もしくは第十八回遣唐使が送られ、その中には留学僧に抜擢されたものの、当時無名に等しい空海が居た。

 空海は遭難したものの唐に渡る事に成功し、ここから伝説的な快挙を成し遂げる。

 真言密教の青龍寺を訪れた空海は、第七祖恵果和尚にその力を認められ、並み居る弟子を飛ばして新参の空海は真言密教の奥義を伝授される。第八祖と認められ、『遍照金剛』の名を受ける。

 僅か一年に満たない中で真言密教を伝授された空海は、二十年の留学期間を大幅に短縮し、滞在二年で帰国。留学期間の大幅短縮を罪に問われたものの、彼の持ち帰った真言密教の価値は大きく、天皇より地を賜り、日本仏教の二大聖地となる高野山金剛峯寺を開く事になる。

 また、空海は唐で様々な分野を学び日本に持ち帰った。

 治水土木工事もその一つであり、朝廷の命を受けて難工事を成功させたと言う記録も残っている。こう言った仏教を越えた活躍が、後世の弘法大師伝説のきっかけになったとも言える。 

   *

 空海が長安に滞在していた時の事。

 夜な夜な空海が外に出る事を見咎めた人物がその跡を追うと、何と空海は荒れ寺の中で月明かりを頼りに経文を写していた。

 しかも、その隣には身形は貧しいが、高貴な相を持つ黄衣の僧がついていた。

 その黄衣の僧に人ならざる畏怖を覚えた人物は、空海は観世音菩薩の庇護を受けているのだと感じたと言う。その少し後、空海は青龍寺を訪れて真言密教を修める事になる。


 この時写した910巻の経典は日本帰国と共に持ち帰られたが、公式記録には残されていない。

 ただし、高野山金剛峯寺を開く際に持ち込まれ、空海のみが知る場所に置かれた、と言う異説がある。

 完全な現存は確認されてはいないものの、夜音経に基づく三尊を置く寺が、唐から帰国後空海が関わったと言う九州地方に幾つか記録に残っている他、弘法大師伝説が残る地の中には弘法大師より賜った有難いお経として一部写本が残されている。

 特に1978年の宮城県沖地震で壊滅した宮城県伊須磨郡谷地村跡の洞窟集会場に三尊が置かれていた、と言う記述が残っており、夜音経の写本が大量に発見されたとも。これらは現在飯綱大学の図書館が回収し、鑑定を急いでいる。

 また、宇摩衣野説話集など、夜音経に関わる説話も残されている事から、実在は間違いないと考えられる。


 同じルーツとされる黒蓮蟲声経や朱誅龍経と共通する内容も多いが、単純に二倍以上の量があったとされる。これが呂林による注釈故か、それとも完全に近い故かは不明。



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