第一章 イトゥティカムイの伝説
1 高崩山
僕たちが住む県庁所在地から北へ電車とバスを乗り継いで行くこと三時間。距離的にはさほどでもないけど、なにぶん目的地が山なので遠回りで時間がかかるのだ。
そうしてやって来た赤倉山はさほど高い山じゃない。小学生が遠足に使うだけあって、標高も高くないし登山道も迷うような場所は無い。
ただ連峰であり隣の山が千メートル越えなので縦走は途端に厳しくなる。市内の小学校の大半が登山体験を実施しているが、大体は日帰りで頂上折り返しだ。タケのように泊りがけと言うのは結構珍しい。メンバーに山好きの人間でも居ない限りはそんな計画は立てないと思う。
連休の天気予報も問題無し。絶好の登山日和だった。
頂上を経由して午後二時には赤倉山と高崩山の間にある山小屋に到着した。早いようだがこれは遅過ぎない、ベストタイムなのである。
ここで豆知識。
登山においては時間に追われるのが一番良くない。必ず余裕を持って目的地に到着できるスケジュールが鉄則だ。宿泊を含めるなら三時頃到着が理想的。残りの時間を休息に当てる事ができるからだ。
近年急速に増えている登山事故の大半にはスケジュールの失敗が根底にある。特に連日歩く予定なら一日に歩ける時間は休憩を入れて六時間。あとは荷物の重さで判断だ。
正直ここの設備はオートキャンプ場に毛が生えたレベルであんまり良くないが、三十人くらい泊まれる広さがあり、これは地域児童会の行事利用にはちょうど良い塩梅だ。
が、今の小学生が山登りに積極参加するとは思えない。
事実、どこかの小学校では登山を計画したところ当日児童半数が休んだそうな。しかも病欠ではなく、休んだその日に家族旅行でTDLとか行くらしい。会費別徴収制にしたら、バスもチャーターできなくなったそうだ。
閑話休題。
ラッキーだったのは逆方向から登ってきた大学生のグループに会えた事だ。彼らは赤倉山頂上を回らずそのまま僕が登ってきた登山道を明日降りるらしく、荷物を軽くする為食料の処分をここでやるのだ。
僕も自前の物を出して輪に加わらせて貰った。山ではこう言う登山者同士の交流もあり、これから夏休みになれば一緒にファイアストームをする場合もある。これを醍醐味と呼ぶ人もいるくらいだ。
彼らは朝早く出発していった。たぶんバスの時刻に合わせる為だろう。この辺りのバスは日に数本しかない。人家もまばらで間に合わないと大変な事になるのだ。
僕も九時を回る前に出発して昼前に高崩の頂上に到着した。
これで、今回の僕の目的も大半が消化された。
……けれど、順調だったのは、そこまで。
*
朝、山小屋で聞いたラジオによれば今日も天気は問題無く県内は完璧に晴れだった筈。
が、山は天気予報の常識を裏切る時がある。
頂上から下山を始めてすぐに白い靄が周囲に現れた。
「ガス? まさか!」
地上では霧。だが山の上でそれは白いガスである。それがあっと言う間に周辺を真っ白に包み込んでしまった。
普通ガスは上から降りてくる。冷えるから水分が凝結するのは上部からだし、凝固すれば重くなるから上から下に降りてくる。だから登る時には割と早く気が付く。
だけど、下りの時は後ろから来るから反応が遅れてしまう。これだけ早く進行すれば特に。
本当にあっと言う間。
気が付けば周辺はもちろん、足元すら確認できない状況だった。
とにかく荷物から雨具を取り出して上下を身に着ける。
ガスは水分だから衣服を湿らせる。濡れた服は体温を奪い、体力低下はもちろん死に至る原因になる。これに風が加わると、一般人が考えるよりもっと早く、あっと言う間に死ねる。
登山で死ぬ原因の中で結構多いのがこの低体温。主な原因は悪天候だけど、準備不足、あるいは着替えを面倒だと考えてやらなかったりする事も多い。冬山どころか夏山でも、あるいは低山でも人間は簡単に死ねるのだ。
「……これは……少しまずいよ」
着替えは終わって一安心したけれど、その最中に完全に白い壁に包まれてしまった。
悪い事にここは登山道と言っても人が歩けるだけと言う状況だ。方位磁針を使って進む方向を決める事は可能だけど、地形がさっぱり分からない。
おまけと言うか、この山は『高崩』と言う呼び名通り頂上付近は完全な岩山で、登山道を外れると途端に脆い危険な足場が現れる。
「山小屋まで二時間半……」
無理だ。登るならまだしも、このガスの中を下るのは自殺行為に近い。賢いのはガスが収まるまでここを動かない事だ。
できる限り濡れないように身体を冷やさないようにして、ガスが収まるのを待つ。下手にこの無視界の中を動けば迷う可能性が非常に高い。
おまけに登山では登りより下りの方がトラブルが発生し易い。これは精神的な物もあるし、坂道を降りる方が人体に負担をかけるからでもある。まして足元すら確認し難いこの状況ではトラブル発生確率は跳ね上がるだろう。
ここでトラブル発生は即、死に繋がる。当然、ケータイは電波が入らない。
幸い風を凌げそうな地形が近場にあり、そこに入ると何とか体温は確保できそうだった。
体力を確保する為、荷物からチョコレートを取り出して割って欠片を口に入れる。
「……あとは、どれくらいで収まるか、だな」
霧には限度がある。雨になったり夕方に巻かれたのならヤバいけど、まだ昼下がり。晴れる見込みは高い。
時計は一時を指そうとしていた。
真っ白な壁に埋められた視界は得体の知れない恐怖を呼び起こす。
2 山小屋にて
誰かの呼ぶ声がする。
「ほら、私を選ばないから」
黒乃ナイが笑っていた。いや、笑っているように見えた。
*
「うわっ!」
目が覚めた。知らず知らず溜まっていた疲れで落ちていたらしい。
いわゆる寝落ちだが、この状況ではヤバ過ぎる。
「今、時間は……嘘だろ?」
表情が強張るのがわかる。
時計の表示はすでに四時を回っていた。
しかし、白い闇はさっきとほとんど変化していなかった。むしろ、太陽の関係で本当の闇が近いせいか色が深くなっている気がする。
「まずいまずいまずい、いや待て落ち着け。たかだか標高八〇〇程度だ。下るだけなら難しくない」
下ったところで、民家に辿り着けるか? ケータイを使えてもそこがどこか伝えられるか? GPS機能で伝えられたとして、体力が持つのか?
どの道、このままでは夜明かしは不可能だ。野宿を考えていないからそんな装備は無い。食料の備蓄もギリギリ。
いや、そもそもこんな霧は普通なら有り得無い。天気予報を大きく裏切り、天候が明らかに崩れ始めている。
それどころか下手をすればあと一時間もしないうちに雨に化けるかもしれない。そうなると余計にまずい。幾ら雨具で防御しようと、雨に打たれれば急速に体力を奪われる。
「こうなったら磁石を頼りに降りるしかないか」
懐中電灯を二本取り出し一本を点け、もう一本はすぐに取り出せるようにポケットに入れる。
霧は夜の闇よりも酷い。道を照らすと言うより、懐中電灯はあくまでも僕の位置を知らせる光だ。だから今手に持っているのは長い時間使える物。もう一本の方は強く光る物を選んでいる。もし救援の声が聞こえたら、こちらで位置を知らせる為だ。
懐中電灯は二種類持つ。これ、サバイバルの基本。
地図と磁石を頼りに移動を開始する。試しにラジオを付けてみたが、雑音しか入らない。
「……変だなあ。ラジオが入らない?」
天気予報はもちろん、熊避けにもなるし人間の存在を知らせる事もできるラジオは必需品。結構高い山でも電波は入る筈なのだ。
歩くこと数十分。地図通り森に入った。道も何となくだが感触で分かる。
「あとはこのまま道沿いで……」
視界が役に立たないと言うのはおそろしく歩きにくい。しかも山道だからたぶん通常の何倍もの時間が必要になる。百メートルも歩いたようでその実十メートル程度と言うのはよくある。
「……それにしても酷いな。森に入っても状態が良くならない」
むしろ霧が深くなり、森が迷路のように感じられる。少し目を離して歩くと、すぐ前に木の幹が現れたり根っこがあったりと、確実にストレスが蓄積していく。
不意に、左の眼にザリッとした横荒れのノイズが走った。
そこで、道が途切れた。
目の前に広い空間が広がり、山小屋が見える。
プレハブよりも少し立派な避難小屋だ。見覚えも有る。高崩山の登山案内に出ていた山小屋の写真とそっくりだ。この多少の雨風なら充分凌げるだろう。内線で連絡も付くかもしれないし中の装備次第で服も乾かせる。
普通なら、この状況での「これ」は幸運な事だろう。九死に一生を得る、と言うのは大袈裟でもなんでもない。
だが、どこか悪い予感しかしない。
あれは、本当に山小屋か? 幻覚が見えているだけじゃないのか?
さっきのノイズがやけに気にかかる。
ぽっかりと空いた空間に座っている山小屋。
窓に明かりの光が漏れている。
灯り……人が、居る。
人が居るのだ。
僕以外にもこの霧で迷った人がいるのだろうか。
ふと、後ろを振り返る。
ポツリ、と水滴が落ちて来たのを感じた。
雨だ。遂に霧が雨に化けた。
もうグズグズできない。あそこで雨を凌ぐしかない。風が出てきたらもうどうしようもないのだ。僕が今持っている装備では凌げない。
僕は急いで山小屋の入り口に辿り着き、扉を開けた。
周囲の気温が少し上がった気がした。
体温を奪う外気が途切れただけで、随分と違うものだ。
「あら、随分と可愛い子が来たわね」
「大変だったでしょう、さあこっちへ。何もありませんが、ストーブを点けています」
奥から声が聞こえてくる。
奥、と言ってもさほどの奥行きは無い。せいぜい十畳程度の一部屋だけだ。靴を脱いで上がるスタイルになっている。言う通り型の古い石油ストーブが真ん中に置かれ、部屋を暖めていた。ストーブにはヤカンが置かれている。お湯を沸かしているのだ。
「さあ、遠慮せず火に当たりたまえ。身体を冷やしては大変だ」
ストーブを囲むのは三人。
その姿を見た僕は、奇妙な感覚を覚えていた。
僕の右に居るのは髭面の山男だ。大学生くらいの年頃で、冬山登山かと思うような重装備に身を包んでいる。
この高崩山一帯に登ると言うのなら行き過ぎた装備と言えなくもない。山男に憧れる人間がいきなり重装備に身を固める、と言う事もあるけれど、この人からはかなり経験があると言う山男独特の雰囲気が伝わって来る。
ストーブを挟んで向かいに居る人は真逆だった。
三十手前くらいの美女なのだが、ヘアスタイルも整え化粧を決めて今から夜の仕事に向かうような紫のドレス姿だった。胸元は開いているし、袖も短い。腕にはロンググローブを嵌めている。場にそぐわない事甚だしい。横座りの状態から覗いている足元も山登りしているとは思えない模様入りのストッキング。アクセサリーまで身に付けている。
本当は山でこう言う格好をしている人と言うのは実はかなりヤバい。何故かと言うと自殺の可能性が有るからだ。自殺志願者と言うのは幾つかタイプが有り、女性の場合身綺麗にしている人が圧倒的に多い。
でも自殺志願者がこんな所でストーブに当たってる訳が無いし。あれだろうか。知識の無い素人で、散歩気分で山に入ったとか。
僕の知り合いには、買い物自転車で山にやって来て、Tシャツ・ジーパン姿で登山するような人もいる。もちろん山に慣れた人で、その山に年三十回は登る人だが。それでも褒められた行動じゃない。山は基本的にいつ何が起きるかわからないのだ。今の僕が言えた立場じゃないけど。
僕の左。一応位置的には上座と言う場所に居たのは老人だった。総白髪だがおそらく七十まではいっていないだろう容貌と中背ながらもしっかりとした体格。銀縁の眼鏡をかけた背広スタイル。フィールドワークに来た老大学教授と言うイメージがある。
一応おかしくはない。が、奇妙さは拭えない。
「中学生?」
向かいの女性が微笑んでそう尋ねる。ドキリ、とするようなオトナの笑みだった。美人だし、覗く豊かな胸元は魅力的だし、免疫の無い心臓が鼓動を速くする。
「いえ、高校生です。地元の」
中学から進学したばかりだから間違われても仕方ない。
「ほう。一人かね? グループとはぐれたとか?」
「僕一人です」
「自分は飯綱大学薬学部三年、山岳部所属のカワシマです。まあ三年は二回目ですけど。君は高校の登山部なのかい?」
山男がにかりと笑う。髭面なのに人懐っこい笑顔だ。山歩きをする者の連帯感、みたいな物を感じさせる。
「登山部、ではないです。個人の趣味で」
「ほう、個人派ですか。個人も良いですな」
「でも良かったわ。ほら、髭面とお爺さんでしょ。襲われちゃたらどうしようって思ってたの」
それがからかいを込めたエロジョークなのは僕にもわかった。
「山男は紳士です。紳士たるべしと教わっています。なぜなら、山では不和が一番怖ろしいからです。命を預け合う者同士、信頼が無ければ駄目なのです」
それはそうだ。と言ってもこの程度の山で大袈裟な、とも言い辛い。
「若い頃はそれなりに頑張ったものだが、この歳になると諦めねばならぬ事も多いからの」
歳の功なのか老紳士は女性のジョークに適度に切り返している。
「あら、でも女を責める事はできるでしょう? 口と指が有ればね。むしろ歳を重ねたテクニックが怖いわ」
艶っぽい冗談に顔を赤らめた事を知られたくなくて、僕は窓の方に視線を向けた。
雨が酷い。風も出ている。外に居たら、たぶん明日の朝の前に死んでいた。
ここに来たのは正解。正解の筈だ。
ザリッ
陽も落ちたらしく、外は暗い。
ザリッ
いつの間にか部屋は電気の明かりで満たされている。
いや、僕が入る前から点いていた。間違い無い。だって窓から明かりが漏れていて。
「ところで、君の高校には地域の歴史を調べる活動などはあるかね?」
唐突に、老人が僕に訊ねてきて意識を引き戻された。
「え? ああ、地域史ですか。ありますよ?」
「そうかそうか。実は私は地域宗教信仰史を研究しているこう言う者だ」
使う機会が少ないのか、差し出される年季の入った古い名刺。赤牟大学人類文化史教授、サカドメ ミチヘイと書いてあった。
「日本は明治の新政府指導で大小様々な既存宗教・土着信仰を失ったと言われている。しかし、地方にはそれまでの信仰の痕跡や伝承、或いは隠されたそれその物が残っている。私はそう言った物を研究しているんだよ。
これが中々興味深い。山岳信仰と融合したり明らかに仏教が変形したりした物もあれば、遥か古代から続いているのではないか、と言うような特異な物もあるのだ。そうそう、君はこう言う物を見た事は無いかね?」
差し出された古めかしい手帳のページには、逆さにした鳥居のマークとその下にやはり逆さにした八つ股の麦穂らしき記号が書かれてあった。
ザリッ
市の博物館でも見た事は無い。
「これは、記号ですか?」
「記号と言うかシンボルだな。古代日本で飛び飛びながら広域で信仰されていたと思われるシンボルだよ。ちょうどキリスト教の十字架に相当するような物ではないかと思うんだが。神代文字ではないか、と言うオカルト研究者もいるんだが、神代文字にはここまで図案的な物は無いし、どちらかと言うと縄文期、大和朝廷外の文化圏での発見が多い。下の記号は雷の図案にも見える。七支刀と言えなくもないが何で逆さなのか。鳥居など無い時代のこれを鳥居に見立てるのも無理がある。興味は無いかね?」
「はあ、まあ」
不思議な話、と言うのが嫌いな訳じゃない。ただ、こんな所でする話でも無いと思う。
「暖かくなったらお腹が空いたんじゃない?」
「い、いえ、そう言うわけでは」
「残念ながら水以外の食糧が無いですからね。自分も空っぽですし、そっちの二人に期待するのが間違ってますし」
カワシマさんが苦笑する。二人はそれらしい荷物を持っていないので期待できないと言うのはわかる。
「済みません。僕も下山予定だったから殆ど無いんです。チョコレートが一枚あったんですが、さっき半分食べてしまって。残りを四等分します」
「いや、私は構わんよ」
「あたしもいいわ」
「自分も問題はありません。これくらい慣れてますから」
「でも」
こう言う時、食料を分けるのは大事な事だ。
すると、老人がこう話を切り出した。
「こうして出会ったのも何かの縁だ。さっきも言ったが、私は地域信仰を研究しておる。君達にそう言う話は無いかね? 有ったら是非教えて欲しい。話している事でリラックスしたり意識を紛らわせる事もできたりするだろう。
カワシマ君とやら、聞けば日本中の山に登っているらしいが、君などはそう言う話を聞いた事は無いかね?」
「まあ、山に登っていれば色々と神秘体験をするものですが」
「ほほう」
カワシマさんは話を続けた。
「登山家の中では割と常識です。ある登山家は冬山登山で座敷童子に出会ったそうです」
「座敷童子?」
思わぬ話に、僕も聞き耳を立ててしまう。山に座敷童子が出るなんておかしいのに。それじゃあ座敷童子じゃないと思う。
「山で座敷童子なんですか?」
「妖怪には詳しくないが、それが座敷童子としか思えないそうだ。いや、何らかの正しい名前があるのかもしれないが。何故か目の前に子供が現れて、『そっちは危ないそっちは危ない』と言うのだそうです。で、それに従うと命を繋いだそうです。実はその登山家が行こうとした方向には危険なスポットが有り、そちらに足を踏み出せばまず助からなかったと」
「でも、それはこの教授さんの望む話とは違うわねー」
女性はおかしそうに笑った。
「いや、興味深い話には違いない。そう言う話が遡ると土着の信仰に繋がっている可能性も無くもあるまい」
「他にも、いわゆる大陸最高峰に挑んだアルピニストから直に聞いた話ですが、ヒマラヤで彼が七千メートルを越えたデスゾーンに踏み込んだ時、何と『ニンゲン』に出会ったそうです」
高山知識。標高七千五百メートル以上を通称デスゾーンと言う。
その言葉の意味する通り、生命活動限界点だ。
酸素、気温、気候。そこでは全ての物が人の生命を奪う領域。無酸素で挑んだ場合、そこでは十回の呼吸でも酸素は一回分に満たず、食事はエネルギー回復の意味を為さず、それどころか睡眠すら取る事ができないのだ。何故かと言うと、人間は眠ると呼吸数が落ちるからだ。平地なら問題は無いが、デスゾーンでは酸欠死になる。
それでなくとも満足な酸素が無いから五感は次第に狂い、一歩進むのに全力を消耗する。たった一メートルの前進に何十分もかかると言う。
「ニンゲンって、南極観測隊だか調査捕鯨船団だかが目撃したUMAかしら?」
外見にそぐわず変な事を知ってると思って女性を見ると、パチリとウィンクを返された。
「でも、あれって全長二十メートルはあるって言うけど。鯨に手足が生えた様なフォルムらしいわね」
「いや、長身ではありますが二足歩行する人型だそうです。登る自分と擦れ違って降りて行った、と」
「単に同じ山に登っている人だった、と言うオチではないな?」
そんな筈は無いだろう。
「ええ、体長は三メートル以上。装備どころか服すら着ていなかった、と」
「ふむ。ネパールと言えば二足歩行猿人のイエティ、未発見の原人、或いはミ=ゴと呼ばれるものが有名だがな」
「どうでしょうね。高山に挑む人間は殆どが信心深いと言いますから。海外のアルピニストにも天使を見たと言う人間は山ほどいます」
「太古から山岳信仰は有った訳だし、考えてみれば修験道の荒行に近い訳だし、トランス状態になってもおかしくはないわね」
「ほほう。なかなか詳しいですな」
「さっき坊やにもそんな目で見られたけど、仕事柄、ね。そう言う修行の場って大概高い山でしょ? あれの理由の一つは酸素が薄くて高山病になったりトランス状態になったりして幻覚を見るからよ」
「失礼ですけど、お仕事って、何です?」
見たまんま夜の蝶じゃないのだろうか。
「キャバ嬢とでも思った? まあ似たような仕事だけど、本業は占い師よ。占い師ってそう言うオカルト知識が無いとお客に侮られるのよね。ノストラダムスの大予言って知ってるかしら?」
有名過ぎる話だ。もっとも十年も前の話だからリアルタイムで体験したとは言い難い。
まだ小学校に上がる前の話だし。
「一九九九年七の月、ってやつですか?」
「そう。それが政財界の偉い人たちも信じてたって言ったら、貴方は信じるかしら?」
「嘘でしょう?」
「ところが、嘘のようなホントの話。ヨハネ黙示録とかも、キリスト教徒でもないのに生半可に信じてた人もいるわね。この国の政治家や企業のトップで占いを頼る人って結構多いのよ。迷信深くて生半可に知識も持ってる。上客だけど厄介なお客様なのよね。だからハッタリが要るのよ」
「まるで平安時代のような話ですな」
「占いで色々決めていたんですよね」
授業でちょっと聞いた事がある。平安時代は、生活の殆どを決めていたのが占いだった。風呂に入る日や髪を洗う日も占いで決めていたらしい。末期には大便を禁止する日、なんてものもあったそうだ。
「信仰まではいかないけどね。珍しい話じゃないのよ。アメリカの政府や企業だってそう言う物を利用しているもの。中国人は風水を使うでしょ」
「あれはまあ一応技術と思うが」
「貴女はそう言う人々を相手にしていたんですか?」
「私は珠によ。でもそう言う上客を捕まえる努力はしてたって事。でも一度ね、ある大物政治家の事を占ってくれって言われた事があるわ」
そう言われてみれば、彼女が身に付けているアクセサリーは宝石ではなくどちらかと言うとパワーストーン系と言うかそう言う装飾物に見える。アクセサリーの知識なんて無いので言われたからそう見えるだけかもしれないけど。
「……聞いてよろしいですかな?」
「名前は出さないわよ。その某大物政治家がアンチ・キリストかどうか占ってくれって」
「黙示録の偽救世主?」
「そうそう。四十も過ぎた男がそんな質問するのよ。ハッキリ言ってそんな訳無いじゃない。そう言う相談先はバチカンにしてほしいわ。第一、もしそうならローマ教皇が黙っちゃいないわね。でもダメよ、高校生でそんな無駄知識なんか持ってちゃ」
女占い師は「あはは」と笑ってから、急に真面目な顔に戻って窓を見た。
「……風と雨が強くなったわ。電気は大丈夫かしら」
言う通り、風雨はさっきよりも強い。打ち付けるような豪雨に変わっている。これはもう嵐と言っていい規模だ。
ゾッとした。
こんな天候で外に居たいとは思わない。どんな装備をしてもこんな嵐を凌ぐのは厳しい。ここに居るしかない。
「発電機は奥にあるし一晩は充分だろう。しかし、君は運が良かったな。もう少し遅れたらここまで辿り着けなかったかもしれん」
ザリッ
なぜか、その言葉に違和感を覚える。
「イトゥティカムイ」
カワシマさんが不意に呟く。その不思議な言葉に、僕は何か不吉なものを感じた。
「サカドメ教授は北海道にもフィールドワークに赴かれますか? イトゥティカムイと言う神について聞いた事は?」
「いや、無い。北海道は自然遺跡の宝庫だからよく行くんだがね。カムイと言えばアイヌの精霊信仰の総称だが、その名前は知らないね。良かったら聞かせて貰えるかね?」
「……ええ。それは現地の人に、『死風と共に歩む神』或いは『無慈悲な風と吹雪の神』と呼ばれるモノです」
ザリッ
それは、カワシマさんの奇怪な体験談だった。
3 雪山怪談
意外に思われるかもしれませんが、自分が山を始めたのは大学に入ってからです。
中高一貫の男子校だったのでそれなりに身体は動かした方だと思いますが、正直大学に入って体育会系に入るとは考えてもいませんでした。
そんな自分が体育会系の極北とも言うべき山岳部に入る切っ掛けになったのは、予想が付くかもしれませんが有りがちな話です。
……つまり、その、まあ、サークルの或る先輩に一目惚れをしたからです。
あ、ちなみにその先輩は女性です。男子校出身でしたが、自分はそっちには走りませんでした。そう言う嗜好の同級生はいましたが、その頃の自分は余り面白味が無かったので。不思議と言うか当たり前と言うか、同性間でも非モテ系だったんですね。
山岳部系は年々人口が減っていると言う事も聞きますが、自分が所属した飯綱大学山岳部は意外にメンバーも多かったですね。しかも活動も活発でした。一緒に酒を飲むより山に行く方が多いんですよ。
なんでも教養科目の筈の人文系の研究室がよくフィールドワークに出たりするらしく、山岳部は重宝されていたらしいんですね。
彼女は自分の二つ上の先輩で、女子の中でも珍しく積極的に山に登る人でした。
朗らかで明るい、歌が好きな典型的な山女でしたね。飛び抜けた華やかな美人だったとは言いませんが。
ああ、普段の体力作りも手を抜かない人でしたから身体は引き締まっていましたし、そのせいかスタイルも良かったですね。はい。
彼女はすでにベテランなのでプライベートでもよく山登りに行っていました。もし親しくなれたら彼女と行動できるかもしれないと思って必死にトレーニングや活動に参加しましたね。お陰で夏にはもう何とか上級組に着いて行けるようになりました。
今から考えると不思議ですが、ど素人の、しかも受験勉強明けの自分がよく着いて行ったな、と思います。恋する力と言うか下心と言うか、強い物だと思いました。
はは、惚気に聞こえますか?
……済みません。この事を語っておかないと、本題に入れないんです。
その年の秋頃、でしたね。秋山もいいんですが、山岳部としてはメインと言っても良い冬山の準備に入る頃です。
危険度は他の季節を上回りますが、冬山に登ってこそ一人前と言う風潮はあるんです。
そして冬と言えば、そう、クリスマスですよ。それまでに告白しようと思ってました。
なにぶん男だらけの世界にずっと居たもので、大学ですぐ彼女を作りたいと思っていましたし。
勢いもありまして、一念発起して告白しました。夏山登山には着いて行けたし、何とかギリギリ吊り合う所までは来れたんじゃないかと自分ながらに思ったわけです。
まあ、結論から言えば玉砕でした。
好み云々ではなく、すでに付き合っている相手がいたんですね。それも同じ山岳部の先輩でした。彼女の一つ上の人です。
何で気付かなかったんだろうと思いましたよ。普通気が付きますよね。しかも、彼女みたいな人が大学に三年もいてフリーな筈は無い、と考えなかったんだから自分は盲目で重症でした。
その相手の方は一見すると山男には見えないスマートな人物で、医学部なのに山岳信仰やらに詳しい人でした。
そうそう、飯綱大学は医学部や薬学部などの医学系が有名なんですが、一方でそう言った人文社会や文化史なども資料や講義が充実しているんですね。
その時すでに山には半ば取り憑かれていたので部を辞めはしませんでしたが、さすがに気まずい日々でした。事実上人生で初めての失恋です。どうする事も出来なかったし、ただ時間がきっと癒してくれると思っていました。
なぜ、こんな取るに足らない失恋話を前置きにしたかと言うと、これから話す事への大事な説明になるからです。
その年の冬至の日。
先輩は行方不明になりました。
交際していた相手と北海道にある上杆山に行ったきり、消息が途絶えたのです。そう、二人ともです。
山に誘われて一緒に行くのだ、と言う話は以前から耳にしていましたが、自分が行方不明の話を聞いたのは年が明けた頃でした。
すでに捜索が何度も行われたけれど二人の遺体も発見できなかったのです。携帯電話も反応しなくなっていました。
雪崩に巻き込まれたのかもしれないと青くなった事を覚えています。
知っていますか? 雪崩に巻き込まれた場合、無事に助かる為の救助可能時間はたったの十数秒です。つまり雪崩に巻き込まれたのなら、その時点ですでに生存は事実上絶望的でした。
更に、自分どころか山岳部の人間も知らなかった事が浮き上がって来ました。
先輩は地元では大きな病院の一人娘で、中学の頃からすでに二十も年上の相手と結婚が決まっていたと言うのです。色々と事情が重なり病院を存続させる為の政略結婚だったそうです。本当なら大学進学をせず高校を卒業して結婚する筈だったのですが、医学部に入学したので先延ばしになっていたと言う事です。
こうなると、失踪や蒸発、駆け落ちと言う可能性も出てくると警察関係者に教えて貰いました。
しかし、本当にそうだとは思えませんでした。
二人は大学を辞めてはいなかったし、荷物も部屋もそのままだったそうです。ブレーカーはそのままだったそうですし、何よりも先輩の人柄としてそう言う事はしないのではないか、と自分は考えていました。また、彼氏の方には部屋に研究のやりかけが残されていたそうです。
二人は発見されず、時間だけが経過しました。
もちろん、二人は大学にも山岳部にも帰っては来ません。部屋は片付けられ、荷物は実家に返されました。貯金にも旅費以外手を着けていないそうですし、あれから下ろされた様子も無かったそうです。
雪が溶けても捜索は何度か行われましたが、結局荷物も見付からないと言う事でした。獣に遺体が食べられたとしても、荷物は残るものですが。
その年の冬至。自分は先輩が消息を絶った上杆山に向かいました。
生存はしていないだろうと、自分も考えていました。
自分なりの弔いと言うか、山が好きだった先輩を弔うなら山しかないだろうと考えたのです。
……いやたぶん、自分はもう一度会いたかったのです。彼女の笑顔が見れるのならたとえ幽霊でも構わないと言うくらいは想っていたんです。
ところが山に登る前日。自分が取った宿で、思いもしない人物と出会いました。
選んだのは一年前先輩達が泊まった同じ宿だったのですが、そこで自分は先輩達と話をしたと言う老婆と出会ったのです。
その老婆に先輩達の事を聞くと、老婆も覚えていました。二人がここに来ていたのはこれで間違いない訳です。いえ、その老婆は捜索隊や警察にも同じ事を喋ったと言うのです。
しかし、自分は理由も有って先輩達の記事や調査を詳しく聞いていたんですが、この老婆の話があったと言う事は知りませんでした。
重ねて尋ねると、老婆は面白くもないようにこう答えたのです。
「わしはその娘に言ったんじゃ。『冬至の日に上杆山に登るな。登れば、イトゥティカムイに連れ去られるぞ』と。しかし、娘はわしの言う事など聞かず男に連れられて行ってしまった。帰って来んのは当たり前じゃ。イトゥティカムイに連れて行かれたんじゃからな」
警察や捜索隊が相手にしなかったのも無理はありません。いわば迷信の類で、それは彼らが望むような情報と言う物では無い訳ですから。
しかし、山男にはこんな言葉が有ります。山に入る前には地元の話を聞け、と言う言葉です。
そうです。山に登る時は一番に傍に住んでいる人たちの話を聞いておいた方が良いのです。
例えば熊。山登りの最中に熊に出会ったら命に係わる問題です。熊の情報は地元の方が強いですから。まして北海道には羆がいますから。
山について知り抜いた地元の人々の情報は侮れません。
興味を惹かれた自分はその老婆に、「イトゥティカムイとは何か?」と尋ねました。カムイと言うからにはアイヌの神の一柱だろうとは漠然と考えましたが。
すると、老婆は「イトゥティカムイはイトゥティカムイ。死風と共に歩むカムイ。無慈悲な風と吹雪じゃよ」と答えました。
正確に言えば違うかもしれませんが、古来アイヌの人々は自然や動物に精霊を重ねたものをカムイと考えたそうです。ならば老婆の言うそれは凍死に至る吹雪や風に神格を与えたものなのか、と考えました。
自分は老婆に、「明日自分も登るが大丈夫なのか」と聞いてみました。すると老婆は自分を見た後、こう答えました。
「一人なら大丈夫じゃろう。冬至のイトゥティカムイは一人を好まぬ」
不思議な言葉でした。
なぜなら、その老婆は何と言うか、明確に何らかを実在すると思っている感じがしたのです。アイヌの伝説に語られるカムイの物語とは違うような気がしたのです。
次の日の朝早く、自分は上杆山に登りました。
見事に晴れていました。
どうと言う事はない山です。
難易度はそれほど高くはなく、これと言って見るべき物は無いようにも思いました。
そもそもこんなマイナーな山にどうして先輩達はわざわざ登ったのか。無論、遭難するような感じではありません。状態が去年と同じではないとはわかっていましたが。
しかし、それは頂上付近で起きました。
空が急に暗くなり、いつの間にか黒い雲が出ていたのです。
不覚でした。言うまでもない事ですが、冬山の天候急変は文字通り命の危険が有ります。
ところが、その天候の急変は奇妙で奇怪なものだったのです。
普通、風と言うのは一方から一方に吹きます。当たり前ですね? 例外的なのは竜巻のような現象や、岩山で反射するような場合に於いては時折信じられない方向に風が吹く事も有ります。
しかし、それは自分が知る現象のどれとも違いました。
強い風が上から吹きつけてきたのです。文字通り上からです。ほぼ垂直にです。雪が滝のように叩き付け、遥か上空で雷鳴のような音がしたかと思うと、自分の目の前に突然何か大きな物が落ちてきました。
それがかなり大きな氷の塊だと言う事は、まるで周囲を凍りつかせるような強烈な冷気を放つので予想はできました。
しかし、奇妙に渦巻く吹雪で前が見えないのでそれがどう言った物なのかまでは確認する事もできませんでした。
それでも何とか微かに上を見た時、最初自分はそれが何なのか分かりませんでした。
始めは雲だと思ったのです。
次は何かの影かと思いました。
しかし、そこにあったのは雲ではありませんでした。
途方もないほどの高さに、狂ったバランスの途方も無く巨大な人型のような風の塊が、間違い無く空に居たのです。
見間違いではない、とは言えません。天井のシミのように、単なるそう言う風に見えるだけだと思うかもしれません。自分もそうであればいいと思います。
……ただ、その顔のような部分に目と思わしき赤紫の光球が二つ並んで輝いているのを見ていなければ、ですが。
イトゥティカムイ。
そう呟くよりも早く、自分は雪に潜るように身体を地面にペチャンコにしました。
自分、まだ熊には遭った事がありません。北海道なら羆に遭遇するかもしれません。
しかし、これに比べれば羆など話にならないと思います。
直感、と言う物があるのなら、その時の自分はそれだけに支配されていました。
アレは、あの天に居るアレは、全く違う、存在なのだと。
自分にできる事は、見付からないように、まるで虫のように自分の体を何かの陰に隠す事だけなのだと。それすらきっと無意味に等しいのだと。
どれくらい、自分は地面に伏せていたでしょう。
叩き付けるような突然の吹雪は、始まった時と同じように、唐突に掻き消えるように収まりました。
先程までの大荒れが信じられないような晴天が戻り、あの人型も空のどこにも確認できません。
自分は起き上がり、やっとその氷の塊を確認する事ができました。
……いえ、それは正確には氷の塊ではありませんでした。
魂の奥底から絶叫したような表情のまま凍りついた登山服の女性。
そう、それは行方不明の先輩だったのです。
間違い事はありません。すぐに彼女だと分かりました。
……その、文字通り凍りついた表情には、自分の憧れた面影など一欠片も残されてはいませんでしたが。
その場にヘタってしまった自分は、ケータイで宿に救助を要請するのが精一杯でした。
最初にやって来たのは、宿に居た老婆と地元の男衆でした。
「間違い無い。この娘はイトゥティカムイの贄となったんじゃ」
老婆と男衆は先輩の亡骸に手を合わせて拝みました。
贄。その言葉に自分は引っ掛かりました。
その事を尋ねると、老婆は苦い顔で答えました。
「イトゥティカムイは贄を求める悪しきカムイ。冬至の日、遥か天の彼方にある社より吹雪と風を纏った手を伸ばして、山に捧げられた贄を運ぶのじゃ。そして、贄が役目を終えるとこうして投げ返される。このように芯まで凍りついた形での」
自分はあの時見たものを老婆に伝えました。すると、老婆は恐怖で顔を真っ青にして、自分の肩を驚くほど強く掴みました。
「見たのかね。……ならば、おまえさんは運が良い。……イトゥティカムイの御姿を見て尚、人の姿そのままなのじゃから」
地元の警察にも連絡が入り、身元確認が行われた後すぐに火葬する手続きが取られました。
本当なら家族の到着を待つのが筋なのですが、こんな表情の遺体を家族に見せたいとは思わないし、保存もできないと言うのが理由でした。
飛び降りや首吊りと同じ。こうなると、もう普通の遺体処理はできません。
しかもここまで凍っているものが溶ければ肉体がどうなるか。このまま火葬するのが一番だと自分も思いました。
無論、こうなってしまった人の処理法が付近の住民の中で決まっていると言う事でもあるらしいです。確かに、こんな物を、こんな事態を、大っぴらにはしたくないでしょう。
せめて彼女を知る自分が火葬に参列できたのは良かった事なのかもしれません。
骨も細かくなってしまった光景を自分は忘れません。
……しかし。
一つだけ、自分には疑問が残りました。
もしあれが、あのどうしようもない存在、イトゥティカムイが先輩を連れ去ったのだとしたら?
なぜ先輩だけが返って来たのか。
もしかしたら、もう一人も山の何処かに落ちたのではないか。
自分が老婆にそう伝えると、老婆は首を横に振りました。
「イトゥティカムイは贄を求めるカムイ。この娘が贄となったならば、今一人は贄を捧げた者じゃ。だから、居らぬ。どこを探しても」
なぜ? 自分はただそう呟いたのです。
その呟きを聞きとめた老婆は、哀しい声で自分に教えてくれました。
「言い伝えにはこうあるのじゃ。イトゥティカムイは冬至に贄を捧げた者に永遠の命を約束する。
しかし、それは人としての命に非ず。イトゥティカムイの従僕として、かのカムイが纏う一片の邪な風や吹雪の一部となるだけ。だから無慈悲のカムイなのじゃ。
だから居らぬ。何処にも居らぬ。天の社でイトゥティカムイの周りを永遠にただ渦巻く一片の風となる。同じように人の領域を踏み越えて愚かな欲望に取り憑かれた者達と共に」
そう。先輩をこの山に、わざわざ冬至の日に誘ったのは誰か。
山男の習いに逆らって、老婆に止められながら山に登ったのは?
いや、そもそも、この老婆は最初に何と言っただろう?
呼び止めたのは、先輩だけではなかったか?