遣手婆①
「珠里、ちょっと!」
夜、客の前では満面の笑顔のくせに、昼間はしかめっ面の『遣手婆』が珠里を呼んだ。
「はい」
床磨きをしていた珠里は立ち上がろうとして、足が痺れてよろけてしまった。
一人で慌てる珠里を、遣手婆はちらりと振り返った。
煌びやかな大廊下から、目立たぬように派生する狭い通路。
ここから先、客は立入禁止。
店の裏。
遊女と使用人の生活の場。
遣手婆は寄ってきた珠里をくいっと顎で通路へ促した。
珠里と遣手婆が通路へ消えた。
とたん、それまでツンと澄まして掃除をしていた少女達が顔を見合わせ、きゃあきゃあと騒ぎはじめた。
「あいつ何で婆に呼ばれたん?」
「知らんが叱られるんちゃうか?」
「叱られるん!?叱られるん!?」
「良い気味じゃ!」
それはまるで餌を目の前にした雛鳥のような騒がしさだった。
「お前たち!」
怒声と共にぬっと顔を出した遣手婆に、少女達はヒッと小さく声を上げ固まった。
「……………仕事しな。」
低く唸るように発せられた言葉に、少女達は四散した。
そのさまを一睨みすると、遣手婆は再び通路へ消えた。
珠里はムカムカと腹の中に沸き上がる悔しさに唇を噛んだ。
珠里としては今すぐ駆け戻り、好き放題言う少女達の額に拳骨を喰らわせたかった。
だが後ろにいる遣手婆はそんなこと許さないだろう。今だって無言の圧力を珠里の背中に放っている。
珠里はため息をこっそり吐くと、諦めて通路を歩み始めた。
ひたひた…
ひたひた…
無言が気まずい。
歩き出してから気がついたのだが、さて、何処に向かえばいいのだろうか?
遣手婆は珠里の後ろ三歩ほどの距離を空けて歩いている。
振り返って聞けばいいのだろうが、何となく気が引ける。
少女達が騒いでいた通り、自分は叱られるのだろうか?
心当たりはない。
心当たりはないが、知らないうちに粗相をしている可能性がある。
珠里はまだ、ここでのしきたりを全て学んだわけではない。
やがて通路は突き当たり、左右の分かれ道となった。
迷うことなく左へ曲がった珠里の背中を、遣手婆は曲がり角で立ち止まって見つめた。
「…?」
遣手婆の気配がついてこない。
振り返った珠里は、遣手婆の顔を見上げた。
「…あの、仕置き部屋に行かんのですか」
珠里の問い掛けに、遣手婆は眉間のシワを深くした。
「仕置きされるようなことでもしたのかい?」
「いや、おれはしてないと思ってますけど…」
遣手婆はじと目で珠里を睨んだ。珠里は冷や汗をかいた。
「“おれ”じゃない。」
「え?」
「今度あたしの前で、“おれ”なんて使ってみな。それこそ仕置きだよ」
「は…はい」
珠里は瞬きした。