鈴の声
夜明けの花街は、独特の倦怠感に包まれる。
それは決して、満ち足りた昼の世界へと昇華される類のものではない。
それはもっと泡沫のようにわびしく、澱のように濁っていくものだ。
夜の喧騒が嘘のような、つかの間の静寂の中。
狭い路地裏に座り込んだ珠里は、先程から苦労して干からびて固くなった芋の尻尾をしゃぶっていた。
どうにかして噛み切り、咀嚼しようとしても顎の力が弱くて上手くいかない。
腹が、減っていた。
昨日から何も食べていなかった。
新入りは、いびりと言う洗礼を受ける。
昨日、珠里の飯は全て勝手口の三和土の上にまかれ少女達に踏み潰された。
女の園で生き延びるのは骨が折れる事だ。
どんなに幼い子供でも女は女。
ねじくれた女は悪意で満ちている。
台所のごみ溜めの中に見つけた何時のものか判らない芋の尻尾を手に取る時、珠里にためらいなどこれっぽっちも無かった。
表を掃いてくるようにと渡された箒は、脇に転がっている。
珠里の荒れた唇の端は切れて瘡蓋になっていたが、再びその傷口が開きかかり、血がにじみはじめていた。
芋の甘みではなく、砂のじゃりじゃりした感触。
そして鉄のような血の味。
珠里はとうとう芋の尻尾を道に叩きつけた。
すくりと立ち上がった珠里の土埃で汚れた頬に、一筋の涙が流れた。
珠里は腕で頬を乱暴にこすった。
涙の跡が、煤だか砂だか判らぬもので混ぜられた。
その時だった。
突如ころころと鈴を転がすような澄んだ笑い声がした。
びくりと肩を震わした珠里は左右を見回した。
通りには人っ子一人いない。
笑い声はさらに踊るように降ってくる。
混乱した珠里は眉間にしわを寄せて少し顔を上げた。
それだけの動作で、空腹の少女は目の前が白くなり、後ろに倒れ込みそうになる。
慌ててぐっと首に力を入れた珠里の目に、二階の窓の欄干にしどけなく寄り掛かる一人の遊女が映った。
遊女は鮮やかな緑色の着物から、白くすらりとした腕を出し頬杖を付いていた。豊かな亜麻色の髪はゆるやかに編み上げられ、所々こぼれた巻き毛が優しく遊女の卵型の顔を縁取っている。
遊女は珠里と目が合うと、大きな目を細めてにっこり笑って小首を傾けた。
「ふふふ…」
遊女は再び笑い出した。
間違いない。
細く、余韻を残す鈴の音のような。
珠里は黙って笑う遊女を見詰めた。
自分が笑われているのに、不思議と憤りは感じなかった。
それどころか、固く丸められた紙が少しづつ伸ばされていくかのような、重苦しかった心が不思議とふかりと凪ぐのを感じた。
「そんなに、面白かった?」
気が付けば珠里は遊女に尋ねていた。
小娘の馴れ馴れしい口の聞き方を、遊女は気にする様子も無く答えた。
「芋を、地面に力一杯投げつけたところが。」
遊女は右腕を大きく振りかぶった。
白みかけた空に、長い緑の袖が鮮やかに舞った。
「すごく必死で。」
今度は珠里も一緒に笑った。
ああ、そうか。
珠里は合点した。
この人はおれを笑っているけど、おれに対する毒が無いんだ。
それが、出会いだった。