白銀の開放
痺れるような足先の感覚も薄れ、白銀の礫を踏み締める足取りは鈍い。冷え切った体は既に限界を訴え軋み始めているものの、止まり振り返ることだけはしたくなかった。それは僕達を解放してくれたあの人も望みはしないだろう。
目の前に広がる、朝の光に照らされ輝きを増す雪の広場。鳥達が歌い笑う穏やかな光景は、前日の吹雪が嘘であったかのような錯覚を覚え苦笑が浮かぶ事を感じ――まだ自分にそんな表情を作る力が残っている事に驚いた。
隣を歩いていた少女が弾かれたように駆け出す。彼女も既に限界が近いのだろう、数歩もしないうちに荒い息遣いになるが、青白く変化した顔にははっきりとした笑顔が浮かんでいる。
――彼女はいつもそうだった。ただただ退屈な日々の繰り返しの中であってすら、いつも何か新鮮な情動を汲み、それを喜びという輝きをもって放出する。
陽光の照明を浴びながら、彼女は独り白銀の舞台を舞い踊る。木々の合間をすり抜けるように進み行き、薄い緑色のスカートを靡かせながらリズムを刻む。僕はそれを呆然と見惚れ眺める事しか出来ない。
「ねぇ」
いつの間に近くにまで来ていたのだろう。間近から聞こえる彼女の声に、僕は情けなく体を震わせる。恐らくは彼女の次の言葉が……望みが理解出来てしまっているから、なのだろう。
「名前を呼んで。私の名前を――貴方が愛してくれた女の名前を」
淡い期待に彼女の漆黒の瞳が揺れる。幾度となく繰り返されてきたやり取り。結果はいつも同じなのに、彼女はその問いかけをやめようとはしない。僕はそれが喜びであり――絶望でもあった。
「…………」
輝きから目をそらすように僕はそっと顔をそらす。視界の端で彼女が諦観の笑みを浮かべた事がわかり、唇が裂けそうなほどに悔しさを噛み締める。
「最期まで、貴方は名前を呼んではくれないのね」
不甲斐なさが自身を焼き尽くしそうで怖かった。彼女を悲しませる唯一が、よりにもよって自分である事を呪わずには居られなかった。――そして何より、唯一であれる事を僕の心の澱が昏く笑んでいることが救えなかった。
「そんな情けない顔をしないで。それを含めて貴方は貴方なのだから」
彼女の冷え切った両の手が、傷だらけの僕の頬を掴み正面を向かせる。真っ直ぐに見つめるこの少女の瞳には、僕がどのように写っているのだろう? そんな知る術も無いような益体も無いことをつい考えてしまう。
後ろ手にさがった彼女は静かに腰を落とし、スカートを摘み頭を垂れる。途端に僕の体は月下の晩にくり返された記憶に支配され、知らず手を差し伸べながら告げていた。
「お嬢様、僕と踊っては頂けませんか。――最期の円舞曲を」
「ええ、喜んで。――最期のその時まで」
名すら呼ぶことの出来ない意気地なしを舞台に引き上げ、少女は優美に舞い踊る。嘗ては互いに拙い動きであったのに、今では精緻に噛みあわされた歯車のように他の何者も入る隙間は無い。
「ねぇ、知っている? 私は踊りの練習が何よりも嫌いだったのよ」
それは――と自虐的な考えを絞り漏らそうとする口を、暖かな薔薇の息吹が塞ぐ。そうして微笑んだ彼女は、何の言葉もよこしてはくれない。ただ僕のリードをせがむ様に体を摺り寄せるだけで。
足を踏み出し体を揺らすたび、全身が軋みをあげ強張るのを感じる。しかし刺すような体の痛みとは裏腹に、心は徐々に徐々に熱を帯び踊りという名の心の交歓を急ぎ堰くように訴えかけてくる。
痛い。痛い。体が痛い。
痛い。痛い。裂かれるように。
嬉しい。嬉しい。一体何が?
嬉しい。嬉しい。今この全てが!
心に翻弄されるがままに踊る僕は、何時しか僕の心に溜まっていた澱が溶け消えていくような感覚を得ていた。一歩を踏み出す度に甘美な幸いが内に降り積もっていく事を感じる。
2人だけの世界。2人だけの時間。2人だけの踊り。僕はそれらに酔いしれ溺れ始めていた。
もう痛みは感じない。幸いという色に塗り替えられてしまったから。
心が幸いによって掻き消されていく。
心が体という呪縛を離れ昇華されていく。
全てのしがらみから解放された幸いな悦びと、それに抗う気力も起きない一種の諦念に支配されながら、僕の世界が静かに閉じていく。
解放の時は近い。それはもう幾ばくもないのだろう。僕は昂ぶる心のままに、それを待ち続ける。
ふと、足音が聞こえた。白雪を優しく踏み分ける小さな小さな音。
――解放の福音を僕は確かに耳にした。
4~5章形式でやろうとしていたうちの1章分でしたが、結局書かず仕舞い。
一応書く可能性も考えて、連載での投稿。