<7>
ぼんやりと、茜は熱弁を振るう教師の言葉を聞き流していた。
黒板に並べられた白い文字は着実に増えていく。入学してから初めての授業である。
本来ならば遅れないように必死に授業を聞くはずなのだが、茜は深くため息をついた。
「……なんで私の部屋なの?」
昨日柊という男に触れられた直後意識を失った茜が目を覚ました先は、自分の部屋だった。
そして傍にはあの蔵の中にいた少年。
今度こそ悲鳴をあげた茜はわけもわからず携帯電話に手を伸ばそうとして、いつの間にか傍にいた柊に止められた。
――しばらくここでかくまっていてください。
柊はそう言い残し、混乱した茜を放って少年をもうひとつの部屋に移した後どこかへ消えた。
「なんなの。なんで私なの? こういうのって警察とかなんじゃないの?」
けれど柊は、学校はおろか警察にも電話するなと言う。またあの蔵に閉じ込められるからと。
「閉じ込められるって……なんで」
まだ目の覚まさない彼に事情を聞くことはできず、茜は眉根を寄せた。
そして真っ白なノートに視線を落とし、はっとし慌てて黒板の文字を写す。始まったばかりの授業は中学校で習ったことの復習である。
けれど基礎は大切だと身をもって知っている茜はシャープペンを走らせた。
そして授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、放課後へと突入する。まだほとんどの生徒が部活には入っておらず、興味のある部活を見学しに行ったりこの後の時間をどう過ごすかを話し合いながら皆が教室を出て行く。
廊下や各休み時間には、先輩たちが自分らの部活に勧誘しようと熱心に新入生に声をかけている。今年こそはと、大会優勝を目指す部活は新しい人材を取り入れようと道行く一年生を取り合っていた。
茜はそんな人たちを横目に忙しなく鞄に教科書とノートを詰めて席を立った。
「茜? どこ行くの?」
「え、あ……ちょっと」
同じく鞄を手に席を立った菊乃がきょとんと小首を傾げる。茜の慌てっぷりに驚いたのだろう。
意識を失ったままのあの男の子を放って学校へ来たのだ。見たところ外傷はないみたいだったが、もしもということもある。
「帰んのか?」
まさか部屋に知らない男の子がいるとも言えず、返答に困っていると遼平が口を開いた。
「う、うん。ちょっと用が……」
怪訝な顔をする二人にごめんと謝って、茜はそそくさと教室を出て靴を履き替え寮へと続く道を走り抜けた。
寮のエレベーターが来るのももどかしく感じながら自分の部屋にたどり着き、鍵を開けて茜は弾む息を整える間もなく少年のいる部屋のドアを開けた。本来ならばここに住むもう一人の女子生徒が使うはずだった部屋だ。
茜の部屋と同じ家具が並べてある中でベッドの上に横たわり、目を閉じたままの少年は茜が朝困惑しつつ見に来た姿と変わりがなかった。
喜んでいいのか心配すればいいのか、複雑な気持ちで茜は深く息を吐く。
そして、茜は床に腰を下ろした。
規則正しく上下する胸に安堵しつつ、少年の顔に視線を移す。わずかな明かりの下でしか見えなかった顔は目を閉じていても驚くほど整端な顔をしていた。
艶のある黒髪はさらりと流れ、筋の通った鼻に形のよい唇。全体的に痩せた印象を持つが、しばらく経てば元に戻るだろう。
「やっぱり、病院行ったほうがいいのかな」
けれど学校側がこれを認知しているという。こんなことを黙って黙認しているのか、それとも学校側が進んで行ったことなのか。
「……本当に、先生たちがやったの?」
茜と同じくらいの歳の少年を、あんな蔵に閉じ込めておくなど。
「いえ。正確には学校が、というわけではありません」
突然聞こえた声と、部屋の中に響き渡った電子音に茜はびくりと飛び上がって細く悲鳴をあげた。
「驚かせてしまいましたか」
「ひ、ひっ……!!」
ぱくぱくと、言葉にならない声を漏らしながら茜は目を見開いて真後ろに立った男を見上げる。
誰もいなかったはずのそこにいきなり現れたのは、昨日柊と名乗った男だった。
「電話が鳴ってますよ」
「え、あっ……」
制服のポケットに突っ込んであった携帯電話が震えているのを慌てて耳にあてる。
「も、もしもし」
傍にいる柊の存在が気になったが、電話の相手は菊乃だった。
「菊乃? どうしたの?」
教室で別れたはずの幼なじみの突然の電話に疑問を覚えていると、何かあったのかと聞かれる。
「何かって?」
どうやら昨日も電話したけれど電波がこなかったため繋がらなく、さらに今日の行動を見て心配になったらしい。
余計なお世話だったよね、ごめん、とくぐもった菊乃の声が耳朶を打つ。
「ううん。ありがと、大丈夫だよ」
ふわりと心が温かくなった茜がゆるく首を振ってそう答えると、菊乃はじゃあ明日ねと微かに笑って電話を切った。
少し罪悪感を覚えながら携帯電話を閉じると、柊の存在を思い出してはっとした。
「ど、どうしてここにいるんですか!? っていうか、どこから入ってきたの!? 鍵はっ……」
「一応声はかけましたが。あなたが考え事に夢中だったので」
昨日と変わらないその姿はどこか異質の空気を纏っている。
色素の薄い髪はさらりと伸び、どう考えてもこの時代には不釣合いな狩衣は不思議と整った顔立ちをしている男の容姿にあっていた。
「誰ですか、あなた」
寮の部屋の鍵はスペアキーと寮側が管理している鍵で予備は二つしかない。そしてスペアキーは茜の手元にあり、きちんと鍵はかけたはずだ。
村の人かとも考えたがこんな人は見たことがなく、茜は身構えつつ静かに問う。
「柊と言ったでしょう。――あなたを導く役割を持っています。千年前から」
「千年……?」
「昨日、話しましたでしょう? 鬼と半鬼」
「……真面目に答えてください」
確かに昨日聞いた。その聞きなれない単語は彼であると。
そして、半鬼は忌み嫌われる存在なのだとも。
「確かに昨日言いましたけど、そうじゃなくて」
「鬼は存在するのですよ。……こうして話していると、あなたは同じようなことを何度も言うのですね」
「え?」
柊は茜と同じように床に腰を下ろし、目を瞬く茜を真っ直ぐに見つめた。その瞳はどこまでも深く、茜はその瞳を見つめていると深い場所へ吸い込まれるような感覚を覚える。
「半鬼というのは、もとは人間なのですよ。けれどそこに鬼が宿り、半分人、半分鬼となった者を半鬼と呼ぶ」
「鬼が、宿る?」
「産まれたばかりの赤子に気に入った鬼が宿るんです。それには相性などがありますが……基本はこれが、半鬼が生まれる理由ですね」
柊はさらに言葉を続ける。
「半鬼となった者は普通の人間とは違う。それ故に人々は半鬼を避け続ける――それは、実の子でも同じです」
茜は口を開くこともできず、静かに言葉を紡ぐ柊を見つめていた。
「半鬼は寿命も人とは違う。宿った鬼の力によってそれは変化し、強さも変わります。中でも一番強く、邪悪とされる鬼――〝鬼神〟が宿ったのが彼です」
ちらりと、柊はベッドに横たわる少年を見る。
いまだ眠り続けている彼は身動きひとつしない。
「強力すぎる故に、彼は捕らえられた。人々を脅かす鬼として」
「捕らえる……? あの蔵に?」
現実感のない言葉の羅列に茜は人知れず口を開いていた。
誰一人寄せつけないような蔵。入った途端、濁ったような、歪んているような空気を感じた蔵は今も茜の体が覚えている。
柊は頷いて、
「あの蔵に閉じ込め、封印を施した。ですが先ほども言ったとおり、学校は直接関わっているわけではありません。学校自体が結界の役割をにたってはいますが」
携帯電話が使えなかったのは、結界が破れた余波が影響していたと柊は付け加えた。
「彼――蒼羽の結界が破れたのは身の内に潜む鬼が封印されるにつれ強くなってきたからでしょう。完全に敗れた封印はもう一度、新しくやりなおさなければなりません」
茜はそこで言葉を切った柊を、ただ呆然と見つめていた。
鬼、半鬼、封印――頭の中で柊の言葉が巡る。あまりにも突然すぎるその内容は、冗談だと笑ってしまいそうなものだった。
実際、鬼などこの世に存在しないのだから。
しかし茜の思考に反して、なぜかその話は彼女の頭の中に浸透していく。まるでそれが事実だとでもいうように。
「じゃあ……あなたは、なんなんですか。その、半鬼だって……言うんですか」
「私は半鬼ではありません。あなたを導く者。それだけです」
「私を?」
「ええ。あなたを導くことだけ。――他に質問は?」
「……その話、本当なんですか」
茜はぐっと柊を見据えた。
どうして自分なのか、導くとはなんなのか、聞きたいことは山ほどある。けれどそのすべてを飲み込んで茜は一番の疑問をぶつけた。
「本当です。信じないなら、それでも構いませんが」
「……じゃあ、その半鬼になった人はどうなるんですか」
柊の言葉に、茜は深く息を吸って疑問を投げつけた。きっぱりと言い切る柊は嘘をついているようには思えない。
「長く鬼との共存がされていれば〝鬼〟と化します」
ひゅっと、茜は息を呑む。
「いずれは鬼がその器である人間を乗っ取ろうとしています。とはいえ、半鬼の寿命は長い。それほど多く鬼となった者はいません」
「鬼になったら、どうなるんですか……?」
「人を喰らい続けるでしょう。もともと鬼には実体がなく、人に憑いて初めて実体を得ます」
完全な鬼となった者があたりをうろつき、人を喰らう。ためらいもなく真っ赤な血に染まった人であった鬼が。
その光景が頭に浮かんで茜はぞっとした。
いままで普通に暮らしていた中に、そんな狂気が存在していたのか。
「学校の中に鬼は入っては来れません。もちろん半鬼もです。蒼羽を封じていた結界は破れましたが、学校の敷地内に張った結界はまだ存在していますので」
それも長くは持ちませんが、と柊は続け、おもむろに立ち上がる。
「では、私はこれで。もうすぐ蒼羽が目を覚まします」
「えっ」
待って、と手を伸ばすがそれは柊に触れた途端空を切った。
「え、ひ、柊!?」
一瞬にして消えた柊に目を見張り、隣からちいさくうめく声が聞こえて慌ててベッドに近寄る。
頑なに閉ざされていた目蓋がそろりと開く。
ぼんやりと薄目があたりを彷徨い、もう一度瞳を閉じる。そして再び少年――蒼羽の目蓋が持ち上がった。
「ん……」
蛍光灯の光が眩しそうに顔の上で手をかざし、蒼羽はのろのろと起き上がる。茜はとっさにその背中を支えるように手をそえた。
軽く頭を振った蒼羽は茜を視界に捕らえると、ふわりと微笑んだ。けれどその刹那、苦しげに眉根を寄せる。ぎゅっと瞳を閉じて深く息を吐き出したかと思うと、また茜に微笑みかける。
「久しぶり、って言ってもわからないよね。大丈夫、君に危害を加えたりしない」
「あ……」
柊と同様に、どこか異様な雰囲気の蒼羽を見て彼が鬼神を宿す半鬼であることを思い出す。
この人の中に鬼がいる。人を喰らう鬼が。
目を覚ましたことに安堵するよりも恐怖が体を巡り、とっさに身を硬くした。
「ああ……柊に聞いたんだ。でも大丈夫、半鬼は人を食べたりしない」
強張った顔の茜を見てどこか寂しげに顔を歪める。
「君の名前は?」
「……あ、茜。楠木茜」
「茜……そう、茜っていうんだ」
舌の上で名を転がした蒼羽は柔らかく微笑む。
「よろしく。この場合は初めましてかな」
「よ、よろしく」
優しげな色が宿るその瞳に緊張が解け、茜はふっと息を吐き出した。微笑むその姿は独特の雰囲気をしているがとても整端な顔をしている。
見た目だけでは人と変わりなく、実際身の内に鬼がいるとはとても思えない。優しげなその瞳に見つめられ、茜は身じろいで視線を彷徨わせた。
思えば、この部屋で二人きりなのだ。二人を包む静寂な空気に耐え切れず、茜は立ち上がった。
「お、お腹すいてない? ずっと、あの蔵にいたから――」
そう言いかけて、茜はとっさに言葉を飲み込む。けれど蒼羽は気にしないでと手を振り、
「お腹は少しすいてるかな。あの結界ってそういうの全部無効っていうか、大丈夫みたいで」
と、そう言って微笑んだ。
「じゃ、じゃあお粥とか作ってくるから……!!」
ずっと、おそらく眠っていたのなら消化のいいものの方がいいだろう。それならお粥が一番だと思い蒼羽に寝ているように言って、茜はリビングへと消えた。
どこか逃げるようなその後姿を、蒼羽は寂しげに見つめていた。