第1話 女医は毒の匂いに釣られる
私は、人より少しだけ毒が好きだった。
誤解のないように言っておくと、別に人を殺したかったわけではない。
むしろ逆だ。
毒で死にそうな人間を助けるのが仕事だった。
だから毒に詳しくなった。
救命医というのはそういう生き物である。
農薬を飲んだ人が来れば農薬を調べる。
睡眠薬を飲んだ人が来れば睡眠薬を調べる。
覚醒剤を使った人が来れば覚醒剤を調べる。
そうやって気がつくと、同僚から、
「桐谷先生、なんでそんなに毒物の本ばかり持ってるんですか」
と言われる人間になっていた。
知らない。
気づいたらそうなっていた。
たぶん、毒は嘘をつかないからだ。
人間は嘘をつく。
患者も家族も警察も嘘をつく。
けれど毒だけは正直だ。
飲めば死ぬし、飲まなければ死なない。
実に分かりやすい。
だから好きだった。
そしてたぶん。
その報いを受けたのだと思う。
目を開けたら、私は知らない天井を見ていた。
「……ああ」
木だ。
木の天井である。
病院ではない。
少なくとも大学病院に木の天井はない。
それは断言できる。
私はしばらく瞬きをした。
身体が重い。
喉が渇く。
頭が痛い。
風邪をひいた翌日のような感覚だ。
ゆっくり起き上がる。
見慣れない畳。
見慣れない障子。
見慣れない着物。
そして。
見慣れない自分。
鏡台の前で固まった。
黒髪。
十代半ば。
白い肌。
やや吊った目。
美少女ではない。
しかし気は強そうだ。
救急外来で暴れる酔っ払いを黙らせられそうな顔をしている。
嫌いじゃない。
「誰だ、お前」
鏡の中の少女が同じ顔をした。
当然だった。
私だった。
困る。
非常に困る。
せめて美少女ならもう少し感動があった。
いや、十分可愛いのだが。
そういう問題ではない。
私が欲しいのは若さではなく戸籍である。
そう思った瞬間。
頭の奥に大量の記憶が流れ込んできた。
長崎。
蘭方医。
楠本イネ。
シーボルト。
出島。
銅座。
文久二年。
「……うわ」
頭が痛い。
吐きそうだ。
私は慌てて口を押さえた。
転生。
というやつらしい。
流行りの。
まさか自分がやるとは思わなかった。
しかも異世界ではない。
幕末である。
よりによって医療が最悪だった時代だ。
抗生物質なし。
輸血なし。
CTなし。
内視鏡なし。
衛生観念も怪しい。
医者としては地獄である。
私なら神様にクレームを入れる。
そんなことを考えていると。
障子が開いた。
「いねさん!」
中年の女性が飛び込んできた。
「起きられましたか!」
「あー……はい」
「三日も熱を出して!」
三日。
なるほど。
その間に中身が入れ替わったらしい。
便利な設定である。
私は心の中で神様とやらを褒めた。
会ったこともないが。
「お春さん」
口が勝手にそう呼んだ。
記憶が残っているらしい。
助かる。
お春はほっとした顔をした。
「先生も心配しておいでですよ」
先生。
つまり楠本イネ。
私はその名前を思い出した。
日本初の女医。
この時代ではほぼ伝説である。
その弟子が今の私。
悪くない。
むしろ面白い。
医者が好きなことをして生きるなら、案外悪くない人生かもしれない。
そう思ったときだった。
お春が持ってきた茶碗から妙な匂いがした。
私は反射的に顔を近づけた。
「……?」
薬草茶らしい。
だが何か混じっている。
苦い。
独特の刺激臭。
私は茶を舐めた。
ほんの少しだけ。
「げ」
思わず顔をしかめた。
「どうされました?」
「これ誰が煎れました?」
「近所の薬売りですが」
「二度と買わないでください」
「え?」
「附子が混ざってます」
お春が固まった。
私も固まった。
やってしまった。
普通の十六歳はそんなこと言わない。
しかし口が勝手に動いた。
職業病である。
「……ふし?」
「毒草です」
「ええっ!?」
私は茶碗をもう一度嗅いだ。
間違いない。
極微量だ。
死ぬ量ではない。
だが長く飲めば危険である。
たぶん薬売りの調合ミスだ。
私は深いため息をついた。
転生初日。
まだ布団から出てもいない。
なのにもう毒を見つけてしまった。
嫌な予感しかしない。
そのとき。
表戸を叩く音が響いた。
どん、どん。
昼前だというのに妙に急いている。
お春が出ていく。
しばらくして戻ってきた。
困った顔だった。
「いねさん」
「はい」
「また毒です」
私は天を仰いだ。
なぜだ。
なぜ私の周りには毒ばかり集まる。
前世でもそうだった。
死体と毒と救急車ばかりだった。
今世くらい平和に生きたい。
できれば猫でも撫でながら。
しかし。
次のお春の言葉で。
私は立ち上がっていた。
「白菊屋の若奥さまが、急におかしくなったそうで」
「症状は」
「手が震えるとか」
「ほう」
「夜になると誰もいない部屋に話しかけるとか」
「ほうほう」
「最近は口の中が青くなったとか」
私は着物を掴んだ。
お春が呆れた顔をする。
「行かれるんですか」
「もちろん」
「さっき平和に生きたいと言ってませんでした?」
「言いました」
「では」
「でも面白そうです」
それが本音だった。
たぶん私は死ぬまで治らない。
救命医だった頃からずっとそうだ。
変な症例。
奇妙な毒。
説明のつかない病。
そういうものを見ると。
どうしても知りたくなる。
私は診察鞄を抱えた。
そして笑った。
「さて」
長崎の空は青かった。
幕末は騒がしい。
そしてどうやら。
私の転生人生も、あまり平穏には終わりそうになかった。




