泥を呑み込むような。
フィールドボス討伐が終わった瞬間。
モユルは、報酬画面すらろくに見ずに走り出していた。
「……悪い、先行く!」
「おい、モユル!」
後ろから声が飛ぶが、構わない。
ユキの顔が、頭に浮かんだ。
不安そうな目。
よく分かってないまま笑う顔。
(……遅い)
嫌な予感しかしない。
モユルは、そのまま王都を突っ切り、シェルターへ向かって全力で走った。
息が切れる。
肺が焼ける。
それでも、止まらない。
(……頼むから、いてくれ)
一方。
ナカジマは、門の前に立っていた。
フィールドから戻ってきたばかりの場所。
だが、足が止まらない。
視線は、すでに外に向いている。
(……遅い)
嫌な遅さだ。
いつもなら、もう戻っている時間。
今日は、戻らない。
「……森か」
初心者の森。
嫌な予感しかしない場所。
ナカジマは、舌打ちして走り出した。
門を抜ける。
風を切る。
装備が擦れる音すら鬱陶しい。
(……間に合え)
――その時だった。
門の向こうから、誰かが戻ってくる。
小柄な影。
見慣れた歩き方。
「……」
足が、止まった。
ユキだった。
門の方から。
足を引きずるほどではない。
けれど、歩幅が小さい。片足だけ、わずかに庇っている。
(……転んだ?)
普通なら、それだけで済む。
なのに。
ナカジマの喉の奥が、ひりっと痛んだ。
ユキの顔が、違う。
表情は平然としている。
「何でもない」顔。
いつも通り、面倒くさそう。
でも――目の奥が、空っぽだ。
(……嫌な切れ方)
ユキは視線を動かさず、まっすぐシェルターへ向かう。
途中で誰かに声をかけられても、首を振って通り過ぎる。
「あれ、ユキじゃん」
声がかかった瞬間、ユキの肩がほんの少しだけ跳ねた。
それだけで、ナカジマの胃が沈む。
(……反射だ)
体が先に怖がっている。
そして。
横から、軽い足音。
長い脚。
余裕のある歩き方。
agjtm。
距離はある。
触れていない。
なのに、並んでいる。
ユキは横を見ない。
見ないまま、何かを言っている。
agjtmは笑っている。
あの、人を舐めきった笑い。
ナカジマの胸の奥で、何かが硬く鳴った。
(……なんで、こいつが)
――何かあった。
確信。
(……あいつ、やったな)
agjtmが去る。
人混みに消える。
ユキだけが残る。
シェルター前。
扉の前で、一瞬だけ止まる。
躊躇。
そして、入る。
扉が閉まる。
ナカジマは、その場で立ち尽くす。
(……あ)
(間に合わなかった)
背後。
ひそひそ声。
「なあ、聞いた? ユキさ」
「森の方でさ、誰かと一緒だったって」
「agjtmらしい」
「うわ、勝ち組じゃん」
「普段はモユルにも守ってもらってさー」
「強いやつばっか色気振りまいてんの、わかりやすw」
下品な笑い。
ナカジマの視界が、狭くなる。
(……黙れ)
舌が動きそうになる。
足が前に出そうになる。
でも、抑える。
抑えきる。
ここで怒鳴ったら、ユキに伝わる。
ユキは、困る。
ユキは、黙る。
ユキは、また一つ「面倒」を増やす。
(……俺がやることじゃない)
そう言い聞かせるのに、胸が焼ける。
ナカジマは歩き出した。
シェルターの前まで。
扉の前で止まる。
ノックはしない。
する資格がない。
(……俺が守るとか言って)
(何も守れてない)
内側から、音がする。
布が擦れる音。
小さな息。
動く気配。
生きている。
それだけで、安堵するのが腹立たしい。
(……生きてるならいい、って)
(そんなわけないだろ)
扉の向こうで、ユキが何かを落とした。
軽い音。
それだけで、ナカジマの肩が跳ねる。
――過剰反応。
自分でも分かる。
分かっているのに止まらない。
(……ユキ)
名前を呼びたくなる。
でも、声にしたら――ユキがこちらを見てしまう。
「何」
「用ないなら帰って」
「めんどい」
そう言われる未来が見える。
そしてそれは、きっとユキの優しさだ。
これ以上、相手をさせないための。
ナカジマは口を閉じたまま、扉の前に立ち続けた。
何分か分からない。
時間は、ここではいつも曖昧だ。
現実の時計もない。
体感だけが、やけに正確に苦しさを刻む。
やがて、扉の隙間から、声が漏れた。
「……ナカジマ?」
細い声。
呼ばれた瞬間、息が止まる。
扉が、少しだけ開く。
顔だけが覗く。
ユキは、笑っていなかった。
怒ってもいない。
ただ、疲れている。
目の焦点が、少しだけ合っていない。
「……いたの」
責める声じゃない。
確認する声でもない。
ただの事実。
ナカジマは、頷くだけしかできなかった。
「……うん」
声が、掠れた。
ユキは、少し黙ってから、短く言った。
「……大丈夫」
その二文字が、ナカジマの胸を殴った。
大丈夫じゃない時ほど、そう言う。
ナカジマは知っている。
(……知ってる)
(だからこそ、言えない)
「……怪我」
ナカジマの目が、ユキの膝に落ちた。
赤い滲み。乾きかけた血。
ユキは、一瞬だけ膝を隠すように姿勢を変える。
その反応で、全てが確定する。
怪我が嫌なんじゃない。
見られるのが嫌なんだ。
(……見られたくない)
(触れられたくない)
(踏み込まれたくない)
ユキは、あくまで平然を装って言う。
「転んだだけ」
「森で」
語尾が、少しだけ軽い。
嘘をつくときの軽さ。
ナカジマは、頷いた。
「……そう」
それ以上、聞かない。
聞けない。
聞いたら、ユキはもっと閉じる。
だから、ナカジマは代わりに言う。
「……水、いる?」
ユキが、瞬きをする。
小さく頷く。
「……うん」
それだけで、胸が痛む。
ユキは、こんな状況でも「お願い」を覚えている。
ナカジマは自分のインベントリを開き、回復用の水袋を取り出す。
扉の隙間から差し出す。
指が触れない距離。
触れたくない距離。
ユキは受け取って、少し飲む。
喉が鳴る音が聞こえた。
「……ありがと」
小さな礼。
ナカジマの中で、別の声が暴れる。
(ありがとうじゃない)
(ごめんだろ)
(俺が、遅かった)
(俺が、守れなかった)
言いたい。
喉まで来ている。
でも、言えばユキは困る。
ユキは「いいよ」って言う。
それが一番きつい。
ナカジマは、ただ言う。
「……今日は、もう休んで」
ユキが少し笑った。
でも、目は笑っていない。
「……うん」
扉が閉まる。
閉まる直前。
ユキが、ほんの一瞬だけこちらを見た。
その目は、怯えていない。
怒ってもいない。
諦めに近い、無色の目。
ナカジマの胸の奥が、冷える。
(……壊れかけてる)
ゆっくり。
静かに。
誰にも見えない速度で。
ユキが削られている。
ナカジマは、その扉の前で拳を握った。
爪が食い込む。
痛みがある。
それでも、足りない。
(……agjtm)
名前を、心の中で呼ぶだけで吐き気がする。
(触れたのか)
(言葉だけか)
(脅したのか)
(泣かせたのか)
どれでもいい。
どれでも、同じだ。
――許せない。
ナカジマは、ようやく扉から離れた。
背中を向けた瞬間、膝がわずかに震える。
ここで崩れたら、意味がない。
守ると決めた。
報われなくても。
ユキが気づかなくても。
ナカジマは、歩く。
人混みに戻り、いつもの場所に立つ。
無表情。無害。穏やかな好青年。
それが自分の仮面だ。
でも、内側はもう違う。
(……次は)
(次は、絶対に)
(遅れない)
その誓いは、祈りじゃない。
刃物みたいに鋭い、決意だった。




