不穏な男
王都郊外の森は、昼間でも少し薄暗い。
木々が密集していて、光が地面まで落ちてこない。足元の土は湿っていて、踏むたびにじっとりと沈む。
「この辺、素材多いからさ」
前を歩きながら、モユルが振り返る。
長身で、装備も洗練されていて、動きに無駄がない。いかにも“上位プレイヤー”のそれだった。
「ユキ、足元気をつけて」
「……うん」
ユキは小さく頷いて、少し遅れてついていく。
この世界に来てから数日。まだ何もかもが慣れない。息の仕方すら、少し違う。
でも、モユルと一緒にいる時だけは、呼吸が楽だった。
視線を浴びない。囲まれない。探られない。
ただ、人として扱われる。
たったそれだけのことが、異様にありがたい。
「疲れてない?」
「……ちょっとだけ」
「じゃあ、ここで休憩しよ」
モユルはすぐそう言って、近くの岩に腰を下ろした。
ユキの前に回復ポーションを差し出す。差し出し方が、いちいち丁寧だ。
「はい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
笑顔。押しつけがましくない、温度の低い笑い方。
それが妙に安心できて、ユキはポーションを飲みながらぼんやり思う。
(……この人といると、変に緊張しなくて済む)
森の空気は冷たい。
それでも胸の奥にずっと残っている圧迫感だけが、少し薄まる。
男たちの視線。探る目。欲を隠さない視線。
それらから、今だけは切り離されている。
「今日は無理しなくていいからね」
モユルは素材を整理しながら言う。
「まだ慣れてないんだし」
「……うん」
「誰かに絡まれたら、すぐ言って」
さらっと。
でも、逃げ道のない口調で。
「俺が対応するから」
ユキの胸が、じんわり温かくなる。
怖い。なのに、嬉しい。
「……モユルってさ」
「ん?」
「……優しいよね」
ぽつり。自分でも驚くくらい自然に出た。
モユルは少し目を瞬かせてから、苦笑した。
「そうかな」
「普通だよ」
「……普通じゃない」
ユキは小さく言った。
普通の人は、ここまで距離を測らない。
ここまで守ろうとしない。
「……ありがとう」
もう一度言う。
モユルは照れたように視線を逸らす。
「どういたしまして」
――その時だった。
「へぇ……」
背後。
足音は聞こえなかったのに、声だけが近かった。
二人同時に振り返る。
そこにいたのは、ランキング2位のagjtmという男だった。
野性的な美貌。モユルとは正反対のタイプのイケメン。
腕を組み、木にもたれかかるようにしている。
まるで、最初からそこにいたみたいに。
いや、実際……いたのかもしれない。ずっと。
「仲良いじゃん」
にやっと笑う。軽い。あまりにも軽い。
ユキの背中に、ぞわっと寒気が走った。
(……なんで、ここに)
「偶然?」
モユルが静かに聞く。
「まあね」
「たまたま通りかかった」
嘘だ。
タイミングが良すぎる。場所が良すぎる。
そして、agjtmの視線が“遊び”のそれじゃない。
agjtmは、ゆっくりユキを見る。
頭から、足先まで。
なめるみたいに。測るみたいに。剥がすみたいに。
「……ふーん」
間延びした声。
「お前が、噂の?」
ユキは息を止めた。
視線が皮膚に貼りつく。気持ち悪い。逃げたい。
でも体が動かない。いつものやつだ。
「確かにさ」
agjtmは続ける。
「男が騒ぐのも分かるわ」
口元は笑っている。
目は笑っていない。
欲と好奇心が、そのまま光っている。
「顔いいし」
「雰囲気もあるし」
「……なるほどね」
値踏み。完全に値踏み。
ユキの指先が小さく震えた。
「……でさ」
agjtmが一歩近づく。
距離が詰まる。近い。近すぎる。
「ひとつ聞いていい?」
にこっと笑う。
悪意のない顔で。だからこそ、余計に怖い。
「……お前さ」
「処女だろ?」
一瞬。世界が止まった。
音が消える。空気が抜ける。視界が白くなる。
勝手に踏み込まれた視線。
勝手に決めつけられた言葉。
勝手に奪われた安全。
ユキの喉がひくりと鳴った。
声が出ない。呼吸が浅くなる。頭が真っ白になる。
agjtmは、何も悪いことを言っていないみたいな顔をしている。
「いや、なんとなくさ」
「雰囲気で分かるっていうか」
「……違った?」
追撃。容赦なし。
ユキの中で、何かが静かに折れる音がした。
モユルが、一歩前に出た。
「……お前」
低い声。
怒鳴らない。
でも、温度がない。
「ライン越えてる」
agjtmが肩をすくめる。
「えー?」
「そう?」
「冗談じゃん」
「冗談じゃない」
モユルは淡々と言った。
言い終える前に、結論がもう出ている。
「デリカシーなさすぎ」
「ユキ、行こう」
迷いなく、ユキの手首を取る。
優しく。けれど強く。
逃げ道を作る掴み方。
ユキはようやく息を吸った。
けれど心臓が追いつかない。
背後で、agjtmの声がする。
「あー、ごめんごめん」
軽い。
笑いながら、さらに追い打つ。
「でもさ」
くすっと笑って。
「事実じゃん?」
その一言が、背中に刺さる。
ユキの足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
モユルの指が、少しだけ強くなる。
二人は無言で森を抜ける。
しばらくして、人の少ない場所まで来て、ようやくモユルが足を止めた。
「……大丈夫?」
振り返る。心配そうな顔。
ユキは少し間を置いてから頷く。
「……うん」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
胸の奥がざわざわしている。
気持ち悪い。怖い。恥ずかしい。全部混ざっている。
「……ごめん」
モユルが言った。
「気づけなくて」
「……いい」
ユキは小さく首を振る。
「……助けてくれたし」
「……ありがとう」
モユルは、ほっとしたように息を吐く。
「無理しなくていいから」
「嫌なことは、嫌って言って」
「俺がいる」
その言葉は優しい。
でも、ユキの胸には別の思いが浮かんでいた。
(……ここも、安全じゃないんだ)
誰かが来れば壊れる。
誰かが踏み込めば終わる。
この世界に、完全な安全なんてない。
あるのは、仮の避難所だけ。
ユキはそっと視線を落とす。
小さく息を吐く。
(……逃げ場、ないな)
そう思いながら。
それでも、モユルの隣を歩くしかなかった。




