白い少年
走って、走って、走り続けて。
王都の喧騒を抜けて、
人の声も、足音も、視線も、全部振り切って。
気づいた時には――
初心者の森に立っていた。
「……は……っ……」
足が止まった瞬間、肺が悲鳴を上げる。
喉の奥が、じわりと鉄の味に染まる。
息は整わない。胸が痛い。視界が揺れる。
――ここは。
ユキにとって、深い傷を刻まれた場所だった。
怖かった。
泣いた。
壊れた。
二度と思い出したくない場所。
……なのに。
今、目の前に広がる森は、まるで別世界みたいだった。
さざ波みたいに重なる虫の声。
ふわふわと宙を漂う、オレンジ色の花粉。
淡い金色にきらめく泉。
すべてを包み込む、やわらかな光。
優しい。
苦しいほど、優しい。
「ここなら……」
ユキは、木の幹に手をついて、ゆっくり腰を落とした。
「……ひとりで、なける……」
ぽつりと、こぼれる。
誰にも見られず。
誰にも触れられず。
誰にも期待されず。
ここなら、壊れていい。
胸の奥に溜まっていたものが、溢れ出す。
――どうして。
どうして、みんな。
私を見るとき、同じ目をするの?
「……女だから……?」
小さく、笑ってしまう。
欲しがる。
縛ろうとする。
消費しようとする。
まるで、自分にはそれしか価値がないみたいで。
「……もう……」
声が、震える。
「……私を……削らないで……」
女としてじゃなくて。
使うためだけの存在じゃなくて。
ちゃんと、“私”を見てほしいだけなのに。
それって、そんなにおかしいこと?
「……消えたい……」
溜めていた澱が、栓を失ったみたいに、ぽろぽろ落ちていく。
汚いものしかない世界で。
同じくらい、自分も汚れていくのが分かる。
ユキは、そのまま動けなくなった。
泣いているのか。
泣いていないのか。
自分でも、もう分からない。
視界は滲んでいるのに、
頭の中は、妙に静かだった。
――ああ。
これ、多分。
壊れた。
何も考えたくない。
何も感じたくない。
何も、思い出したくない。
ただ、ここで。
呼吸だけして。
時間が過ぎるのを待つ。
それだけでよかった。
――はずだった。
その時だった。
――サラサラ。
紙をこする音が、静かな森に溶けるように響いた。
ユキは、びくっと肩を震わせた。
心臓が、一拍遅れて跳ねる。
「……だれ……?」
掠れた声。
泣いたあとで、喉が痛い。
そっと、音のした方を見る。
少し先。
大きな木の根元に、人影があった。
白いシャツ。
汚れも、装飾もない。
装備らしい装備も、武器もない。
少年だった。
地面に座り込み、膝の上にスケッチブック。
鉛筆を、淡々と走らせている。
サラサラ。サラサラ。
(……え……なに……)
初心者の森に。
こんな無防備な人間がいること自体、おかしい。
狩りもしない。
警戒もしない。
逃げる気配もない。
ただ、描いている。
ユキは、しばらく動けなかった。
逃げるべきか。
声をかけるべきか。
無視して去るべきか。
頭が、うまく働かない。
無意識に、一歩踏み出してしまった。
ぱきり。
小枝が鳴る。
「……っ」
自分で驚く。
その音で。
少年の鉛筆が、止まった。
――止まって。
すぐには、こちらを見なかった。
「……まって」
小さく呟いて、
もう数本、線を引いてから。
ようやく、顔を上げた。
目が合う。
淡い色の瞳。
感情が薄い。
興味と無関心の境目みたいな目。
逃げない。
警戒しない。
ただ、そこにあるものを見る目。
風景を見るみたいに。
ユキの喉が、ひくりと鳴る。
(……見ないで……)
そう思ったのに、声にならない。
でも。
その目には、何もなかった。
欲も。
評価も。
期待も。
ただ、観察。
沈黙。
森の音だけが流れる。
やがて。
少年が、ぽつりと言った。
「きれい」
一言だけ。
抑揚もない。
感想というより、記録みたいに。
「……え……?」
ユキは、間抜けな声を出す。
少年は、少し首を傾げて。
続ける。
「……あか。とうめい。しずく……」
「……ほし」
「……きらきら」
途切れ途切れの言葉。
説明もない。
飾りもない。
事実を並べるみたいに。
ユキの思考が止まる。
(……なに……それ……)
今まで。
可愛い。
欲しい。
守る。
離さない。
俺のもの。
そんな言葉しか、向けられてこなかった。
なのに。
この人は。
「きれい」しか言わない。
欲がない。
所有もない。
評価ですらない。
ただ、見えたままを言っている。
胸の奥で、何かがほどける音がした。
苦しくて。
あたたかくて。
訳が分からない。
「……きれい……?」
「……わたしが……?」
確認するみたいに呟く。
少年は、こくりと頷く。
「うん」
「でも」
少しだけ間を置いて。
「かわる」
「ひかり。なみだ」
「きえる」
「いま、かく」
残酷なほど、淡々と。
ユキは言葉を失った。
それでも。
その言葉は、なぜか怖くなかった。
少年は、また鉛筆を動かす。
サラサラ。サラサラ。
視線は、ユキのまま。
逃がさない。
縛らない。
ただ、描く。
ユキは、その場に立ち尽くしたまま。
気づいたら。
泣くのを、忘れていた。
サラサラ、という音に混じって。今度は、別の音が混ざった。
……ふう、ふう、ふふ。
かすかで。調子外れで。旋律とも呼べないような、奇妙な鼻歌。
森の奥から、ゆるく漂ってくる。
(……なに……これ……)
子どもが、気まぐれに口ずさんでいるみたいな。意味も、感情も、乗っていない音。
でも、不思議と、不快じゃなかった。
むしろ。
風の音みたいに。虫の声みたいに。この森の一部みたいに、馴染んでいた。
ユキは、気づかないうちに、その音に耳を澄ませていた。
サラサラ、という音に混じって。 今度は、別の音が混ざった。
……ふう、ふう、ふふ。
調子外れで、意味もない鼻歌。 森の奥から、ゆるく流れてくる。
(……なに……これ……)
子どもが、気まぐれに口ずさんでいるみたいな音。
でも、不思議と、不快じゃなかった。
風の音みたいに。 虫の声みたいに。
最初から、ここにあったみたいに。
ユキは、気づかないうちに、その音を聞いていた。
サラサラ。 カリカリ。 ふう、ふふ。
三つの音が、ゆっくり重なる。
胸の奥で、絡まっていた何かが、 静かに、ほどけていく。
(……あ)
息が、すっと入る。
さっきまで詰まっていた肺に、 ようやく空気が戻る。
ユキは、胸に手を当てた。
(……そっか)
視線が、涙の跡に落ちる。
そこにあるのは、 濁りじゃなく、 ただ光を映す水滴だった。
「まだ」
小さく、呟く。
「汚れてないんだ……」
誰かに欲しがられても。 傷ついても。 利用されても。
それだけで、 全部になるわけじゃない。
今ここにいる自分は、 まだ、ちゃんと残っている。
少年の鼻歌は、変わらない。
慰めもしない。 救おうともしない。
ただ、そこにある。
それが、 今のユキには、十分だった。




