居場所なんてどこにもなかった
シェルターに戻った時、もう辺りは薄暗くなっていた。
通路の灯りは一定の明るさで並んでいるのに、ユキの視界は少し滲んでいて、遠近感がうまく掴めない。
泣いたせいだ。
走ったせいだ。
考えすぎたせいだ。
全部だ。
扉の前に、人影があった。
――モユルだった。
腕を組んでいるわけでも、壁にもたれているわけでもない。
ただ、そこに立っている。
まるで、最初からユキが帰ってくる場所を知っていたみたいに。
「……ユキ」
名前を呼ばれただけで、胸がぎゅっと縮む。
泣き跡なんて、きっと丸わかりだ。
目も赤いし、息も乱れている。
でも。
モユルは、何も聞かなかった。
「疲れたよね」
いつもの穏やかな声で。
「部屋、入ろっか」
責めない。
詮索しない。
問い詰めない。
ただ、当たり前みたいに“帰る場所”を用意する。
――ずるい。
(……このまま)
(全部……任せたほうが……)
(楽なんじゃ……)
モユルが作ってくれた、真綿みたいな居場所。
ここにいれば、考えなくていい。
傷つかなくていい。
何も決めなくていい。
――ずっと、この中にいればいいんじゃないか。
そう思った時だった。
ふと視界の端で、月明かりに照らされた暗い水面のように。
銀の腕輪が、かすかに光った。
部屋に入ると、モユルはすぐに動き出した。
「なにか飲む?」
「温かいのにする?」
「甘いのもあるよ」
「寒くない? 上着持ってこようか」
間髪入れず、迷いなく。
まるでプログラムされたみたいに。
ユキは、ベッドに座ったまま、ぼんやりそれを見ていた。
優しい。
本当に優しい。
何も考えなくていい。
判断しなくていい。
全部、任せていい。
それが、今は楽で。
……同時に、痛かった。
(やっぱり)
(わたしには)
(モユルしかいないのかな……?)
思考が、溶けていく。溺れるみたいに。
「……モユル」
気づいたら、そう呼んでいた。
「どうしたの?」
ユキは、ためらってから。
そっと、指先で、モユルの指に触れた。
ほんの一瞬。
なのに。
モユルの指が、ぴくりと跳ねた。
微細な反応。
でも、はっきり分かる。
「あ……ごめ……」
謝ろうとした、その時。
ユキは、モユルの顔を見てしまった。
――ぐちゃぐちゃだった。
悲しそうで。
怒っていて。
安心していて。
嬉しそうで。
そして。
ユキを見る目に、はっきりと“欲”が混じっていた。
抑えていたものが、一気に溢れたみたいな顔。
ユキの喉が、ひくりと鳴る。
モユルは、ゆっくり近づいてきて。
ユキの頬に、そっと触れた。
親指で、涙の跡をなぞる。
確かめるみたいに。
その感触が、くすぐったくて。
ユキの体が、わずかに震えた。
それを見て、モユルの呼吸が、少し乱れる。
「……ユキ」
低い声。
「agjtmに……なにされたの?」
隠しきれていない。
嫉妬。
不安。
焦り。
恐怖。
全部、混ざっている。
「え…なんで…」
「答えて」
即答だった。
「ねえ……」
切羽詰まったかのような。
モユルの声が、わずかに震えた。
「……俺のユキをさ」
ユキの心臓が跳ねる。
「なんで、他のやつが壊してんの?」
静かで、低くて、抑揚のない声。
「どうやって、ユキをこんな顔にさせたの?」
指が、まつ毛に触れる。触れるか触れないかの優しさで、涙をすくい取る。
「……どうやって?」
「どうやって、ユキは傷付いたの?」
――執着。
背中に、冷たいものが走る。
「……なにも……」
嘘だった。
言えないだけだ。
「……なにも、してない……」
モユルの目が、細くなる。
「……嘘」
静かな声。
「そんな顔で?」
ユキは、唇を噛んだ。
思い出したくない。言いたくない。恥ずかしい。気持ち悪い。
全部、ぐちゃぐちゃになる。
「…やだ…」
かすれた声。
「言いたくない…」
その瞬間。
モユルの表情が、わずかに歪んだ。
「……俺には?」
「俺にも、言わないの?」
責めてないふりをした、責め。
ユキの胸が、ぎゅっと潰れる。
「……ごめん…」
反射で謝る。
その言葉が、決定打だった。
モユルの理性が、切れる。
ぐっと距離が縮まる。
額が、触れそうになるほど。
モユルは、ユキの頬に触れたまま、離さなかった。
近い。
吐息が、首元にかかる。
ユキは、無意識に息を止める。
モユルの喉が、小さく鳴った。
――欲の音だった。
「ユキ」
低く、掠れた声。
指先に微かな力がこもる。
逃がさない、みたいに。
「俺がいるでしょ」
「他なんていらない」
「俺だけでいいって、言って……」
最後は懇願だった。
指が、顎にかかる。
顔を上げさせる力。
キスしようとしているのが、はっきり分かった。
(いや)
頭が真っ白になる。
微かに開いたくちびるが震える。
怖い。
違う。
これは、違う。
「……やだ……!」
ユキは、思いきり胸を押した。
「っ……!」
モユルが、よろける。
「……ごめん……」
震える声。
「………無理」
「今、無理……」
モユルの目に、深い傷が走る。
「…ユキ?」
その隙に。
ユキは、立ち上がった。
そして――走った。
扉を開けて。廊下に飛び出して。振り返らずに。
「ユキ…!」
後ろで呼ぶ声。
聞こえないふりをした。
聞いたら、戻ってしまう。
走る。息が切れる。胸が痛い。
腕輪が、重い。
(逃げたい)
(どこか)
涙が、止まらない。
でも、止まらなくていい。
今は、安心して息ができる場所が欲しかった。
廊下を抜けて、王都の通路に出た瞬間。
誰かと、ぶつかった。
「……っ!」
肩が当たって、体が揺れる。
「……ユキ?」
聞き慣れた声。
ナカジマだった。
驚いた顔でユキを見てる。
「大丈夫か――」
最後まで聞けなかった。
「…どいて!」
ユキは、両手でナカジマの胸を押した。
思いきり。
「……っ」
ナカジマが一歩、下がる。
どうすればいいか、わからない顔。
でも、ユキは見ない。それより今ははやく、ひとりになりたかった。
「今…無理だから……!」
「触らないで…!」
ほとんど叫びだった。
そのまま、走り去る。
背中が遠ざかる。
ナカジマは、追わない。
追わずに。
ただ、拳を強く握った。
(……やっぱり)
インベントリを、静かに開く。
小さなウィンドウ。
そこに表示されているのは――
《ユキ:現在位置》
点が、激しく揺れている。
走っている証拠。
(外に出てるのは知ってた)
(だから、ここに来た)
誰にも言わずに。
モユルにも。
本人にも。
(……間に合ってよかった)
でも。
(……間に合ってないな)
ナカジマは、ゆっくり息を吐いた。
「……ごめん」
誰にも聞こえない声で。
「勝手に、見てて」




