息が戻っただけなのに
久しぶりに、外の空気を吸った気がした。
王都の通りは、相変わらず騒がしかった。 人の声。足音。露店の呼び込み。全部、うるさいはずなのに。
ユキは、それが少しだけ嬉しかった。
(……生きてる)
そんな、どうしようもない実感が胸に落ちる。
モユルに許された“短時間の外出”。腕輪はついている。位置も、全部知られている。
それでも。
シェルターの中よりは、ずっと楽だった。
胸いっぱいに息を吸う。途中で止まらない。 ちゃんと、最後まで吸える。
「……はぁ」
小さく吐いた。
その瞬間だった。
「なに一人で黄昏れてんの」
聞き覚えのある、軽い声。
ユキの背中が、びくっと跳ねる。
振り向くと――
そこにいたのは、agjtmだった。
相変わらずの余裕顔。相変わらずの、人を舐めた笑み。
「あ……」
反射で声が漏れる。
逃げたい。でも、足が動かない。
「外、出られるようになったんだ?」
「よかったじゃん」
まるで、世間話みたいに言う。
ユキは、唇を噛んだ。
「……関係ないでしょ」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
agjtmが、少し目を瞬く。
「え、なに。機嫌悪」
「別に絡みに来たわけじゃ――」
「絡んできてる」
即答。
ユキは、俯かずに続けた。
「もう……放っておいて」
agjtmの眉が、わずかに歪む。
「は?」
「なにそれ」
「……俺、助けたよね?」
agjtmの声は、軽い。
まるで、“それで全部チャラだろ”と言わんばかりに。
空気が、冷えた。
「……助けたじゃん」 「ちゃんと」
その言葉が。
ユキの胸の奥に、突き刺さる。
――森。結界。震える膝。喉が裂けそうになりながら、言わされた言葉。
『だ……い……て』 『めちゃくちゃに……して……』
思い出した瞬間。胃の奥が、きゅっと縮んだ。
(……私……)
(あんなこと……言わされて……)
(……必死で……)
(……恥ずかしくて……)
顔が、熱くなる。同時に、吐き気が込み上げる。
情けなくて。惨めで。思い出すだけで、死にたくなる。
「……それと、これとは……」
声が、震える。
一度、詰まって。でも。
逃げなかった。
「……違う」
はっきり言った。
agjtmが、わずかに目を見開く。
「私……あの時……」
ユキは、唇を噛んでから、続けた。
「……怖かったんだよ」
絞り出すみたいに。
「ほんとに……死ぬかと思って……」
「誰もいなくて……」
「助けてって言っても……届かなくて……」
視界が滲む。
でも、拭わない。拭う事を考える余裕すら今はない。
「……なのに」
声が、少し強くなる。
「……なのに、あんなこと言わせて……」
「……それで……」
「それを……“助けた”で済ませないで」
胸が、痛い。
でも、止めない。
「……私は……」
「今でも……思い出すだけで……気持ち悪い」
「恥ずかしくて……」
「情けなくて……」
「……消えたいくらいなのに……」
最後の言葉は、ほとんど音にならなかった。
通りの喧騒の中に、溶けていく。
一瞬。沈黙が落ちる。
agjtmは、しばらく黙ってユキを見ていた。
困ったように。理解できないものを見るみたいに。
それから。
「……え?」
間の抜けた声。
「それくらいで?」
首を傾げる。
「そんな引きずるの?」
本気で。心底、不思議そうに。
ユキの中で。何かが、音を立てて崩れた。
「……それ……くらい……?」
掠れた声。
さっき言われた言葉を、なぞるみたいに。
「……それくらい……って……」
頭の中で、何度も反芻される。
それくらい。それくらい。それくらい。
あの恐怖も。あの屈辱も。あの夜も。
全部。
――“それくらい”。
「だってさ」
agjtmは、悪気なく続ける。
「俺がいなかったら、終わりじゃん?」
軽い調子で。
「マジで」
「結界切れてたら、普通に詰み」
指で、空を叩くみたいに。
「お前さ」
「俺いなかったら、何もできなかったでしょ?」
「実際」
現実だろ?と言わんばかりに。
ユキは、何も言えなくなった。
喉が、完全に塞がれる。
(……何も……できなかった……)
(……私……)
(……そう……なの……?)
言い返したかった。
否定したかった。
でも。
“助けられた”事実だけが、重く残っている。
だから、黙るしかなかった。
agjtmは、そこでようやく気づいた。
ユキの顔色が、異様に悪いことに。
唇が、白くなっていることに。
目が、完全に死んでいることに。
「……あ」
間の抜けた声。
「……わり」
急に、調子が変わる。
「いや……ちが……」
言葉を探すみたいに、視線が泳ぐ。
「今の……言いすぎたわ」
誤魔化すように笑う。
「……別に、責めてるとかじゃ――」
そう言いながら。
無意識に、ユキの腕に手を伸ばした。
その瞬間。
ユキは、反射的に振り払った。
ぱしっ、と乾いた音。
「……っ!」
agjtmが、目を見開く。
「……触らないで」
震えているのに。
はっきりした声だった。
次の瞬間。
ユキは、走り出していた。
人混みの中へ。
逃げるように。溺れるみたいに。
「おい……!」
agjtmの声が、後ろから飛ぶ。
「ユキ!」
聞こえないふりをした。
振り返らない。
振り返ったら。全部、壊れる。
胸が苦しい。
息が、乱れる。
腕輪が、重い。
(……もう……無理……)
(……ここにも……居場所ない……)
涙が、勝手に溢れる。
でも、拭う暇もない。
ただ、走る。
逃げる。
生きるために。
――息ができる場所を探して。




