氷解、そして永遠の誓い
王城の廊下を抜け、僕の私室に入った瞬間だった。
背後で重厚な扉が閉まり、カチャリと鍵のかかる音が響く。
その無機質な音を合図に張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、僕の膝から力が抜け落ちる。
「――っ、は⋯⋯」
情けないことに僕はそのまま床にへたり込みそうになった。でも硬い床に打ち付けられる痛みはやってこない⋯⋯ふわり、と甘い香りが鼻腔をくすぐり、柔らかく温かいものが僕を受け止めたからだ。
「おっと、危ないですわクリス様」
頭上から聞こえる鈴を転がすような声。
ああ、エリザベート、彼女だ。
彼女は僕の身体を抱き留め、そのまま子供をあやすように背中をポンポンと叩いてくれる。
「もう誰も見ていませんよ。⋯⋯我慢しなくていいんです」
その優しすぎる声音が、僕の理性のダムを決壊させた。
僕は彼女のドレスに縋り付き、顔を埋めた。
王太子の威厳も、男としてのプライドも、この際どうでもよかった。
「う⋯⋯うぅ⋯⋯っ」
「はいはい」
「こ、怖かった⋯⋯っ! 本当に、もうダメかと⋯⋯君を失うんじゃないかって⋯⋯!」
涙が止まらなかった。
ミリアに毒を盛られ、両親の命を盾に取られたあの日から、ずっと地獄を歩いている気分だった。
誰にも相談できず、たった一人で孤独と恐怖に耐え続けてきた。
それでも何より恐ろしかったのは自分の手で最愛の人を傷つけ、彼女に嫌われることだった。
「ごめん、酷いことを言って⋯⋯ごめん⋯⋯ッ!」
「謝る必要などありませんわ。貴方がどれだけ頑張ったか、私は全部知っていますから」
彼女の手が、僕の汗ばんだ髪を優しく梳く。
その冷んやりとした指先の感触が、火照った僕の頭を鎮めてくれる。
「リズ⋯⋯ああっ、リズ⋯⋯!」
僕は彼女の名前を呼び続け、その華奢な身体を抱きしめた。
彼女は拒絶しなかった。いつもは「氷の令嬢」と呼ばれ、誰にも触れさせない彼女が、今は僕の体温を全て受け入れてくれている。
しばらくして僕がようやく泣き止むと、彼女はハンカチを取り出して顔を拭いてくれた。
覗き込んだその瞳は凍てつくような青ではなく、春の湖面のように穏やかで慈愛に満ちた色がたゆたっている。
「落ち着きましたか? 私の可愛い泣き虫王子様」
「⋯⋯う、うるさいな。⋯⋯本当に、君には敵わないよ」
僕は鼻をすすりながら、彼女に導かれてソファに腰を下ろした。
毒の影響はまだ少し残っているが、彼女がそばにいるだけで不思議と力か湧いてくる気がした。
* * *
ソファに並んで座るとクリストファー様はまだ捨てられた子犬のような目で私を見ていた。
赤く腫れた目元や少し乱れた金髪が、先ほど大勢の貴族の前で見せた悲壮な決意とのギャップを生んでいて――。
(⋯⋯はぁ。なんて可愛らしいのかしら。今のこのお顔、肖像画にして寝室に飾りたいですわ)
私は内心で悶絶しながらも、表面上は優雅にティーカップ(魔導具で温めたもの)を差し出した。
「それにしてもクリス様。あんな下手な演技、私には通用しませんわよ?」
私がくすりと笑って茶化すと、彼はたちまち耳まで真っ赤になった。
「うっ⋯⋯! そ、それは言わないでくれ⋯⋯。必死だったんだよ。どうすれば君に『嫌われた』と信じ込ませられるか、そればかり考えていて⋯⋯」
「ふふ。声は裏返っているし、生まれたての子鹿のように足は震えているし。極め付けは『真実の愛』だなんて⋯⋯聞いていて背中が痒くなりましたわ」
「うあああ! 忘れてくれ! 頼むから!」
彼が頭を抱えてソファに突っ伏す。
その背中を愛おしく見つめながら、私は声を潜めた。
「⋯⋯でも。本当によかったですわ、クリス様。もしあの時、貴方が本当に心変わりして私を裏切っていたら――貴方を誰にも渡さないよう、氷の塔に閉じ込めて、一生私だけしか入れない結界を張って飼い殺すところでしたのよ?」
「えっ」
クリストファー様がバッと顔を上げる。
私はニコリと天使のような(あるいは悪魔のような)笑みを向けた。
「冗談ですわ」
「⋯⋯め、目が笑ってないよ、リズ⋯⋯」
「あら、失礼。⋯⋯でもね」
私はふっと表情を緩め、柔らかな声色に戻る。
「全てが嘘のようなあの舞台で、あのサインだけは⋯⋯真実でした」
クリストファー様が息を呑む。
『右手の親指で、薬指の付け根を二回叩く』
「よく、覚えていてくださいましたね。十年も前の、幼い約束でしたのに。嬉しかったですわ」
「当たり前だろ」
彼は身を起こし、私の手を両手で包み込んだ。
先ほどまでの怯えは消え、その碧眼が真剣な光を帯びて私を射抜く。
「君との思い出を忘れるはずがない。あの瞬間、僕に残された希望は、君との絆だけだったんだ。⋯⋯リズが気づいてくれなかったら、僕は本当に終わっていた」
「気づかないはずがありません。私は貴方の婚約者ですもの」
私は彼の手を握り返した。
あの日、彼が必死に送ってくれたSOS。
それは私への信頼の証であり、私たちが積み重ねてきた時間の結晶だ。
「ねえ、リズ。⋯⋯怒っていないのかい? 君を巻き込まないために、君を突き放したことを」
「怒りましたよ、ええ」
私が即答すると、彼がビクリと肩を揺らす。
私は目を細め、わざと意地悪く続けた。
「私を信じてくださらなかったことに、です。⋯⋯私を誰だと思っていて? ローゼンバーグ公爵家の長女にして、大陸一の魔術師ですわよ? 貴方一人守れなくてどうしますの」
「⋯⋯あはは。そうだね。君は最強だった」
彼は困ったように笑い、それから急に表情を引き締めると握っていた私の手を引き寄せてその甲に口づけを落とした。
「⋯⋯愛している。エリザベート。君の強さも、優しさも、その冷たい指先も、全部」
「⋯⋯ッ」
不意打ちの言葉に、今度は私が赤くなる番だった。
至近距離で見つめる彼の瞳には、熱っぽい感情が渦巻いている。
さっきまでの泣き虫王子はどこへ行ったのか、ここにあるのは一人の男性としての情熱的な瞳だ。
「もう二度と離さない。どんな脅しがあっても、どんな敵が現れても、君の手だけは絶対に離さないと誓う」
「⋯⋯クリス様」
彼の顔が近づいてくる。
私は逃げなかった。いや、逃げたくなかった。
ゆっくりと瞳を閉じる。
唇が触れ合った瞬間、身体中に電流が走ったような甘い痺れが広がった。
それは毒などではない。
愛という名の、甘美な魔法。
長い、長い口づけの後。
私たちは額を合わせ、お互いの体温を確かめ合うように吐息を漏らした。
「⋯⋯ええ。離れませんわ。覚悟してくださいませ?」
私はとろけるような笑顔で、彼に囁いた。
「これからは私が、貴方のとこへ来る悪い虫を片っ端から凍らせて差し上げますから」
「⋯⋯それは頼もしいな。お手柔らかに頼むよ、僕の氷の女王様」
私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑い合った。
窓の外には、嵐の去った後の突き抜けるような青空が広がっていた。
* * *
それから数ヶ月後。
王都の大聖堂はかつてないほどの熱気に包まれ、鳴り止まない鐘の音、空を舞う白い鳩と鮮やかな花びら、そして広場を埋め尽くす国民たちの割れんばかりの歓声が響き渡っていた。
「王太子殿下万歳!!」
「ローゼンバーグ公爵令嬢万歳!!」
「国を救った英雄夫婦に神の祝福を!!」
今日は私とクリストファー様の結婚式だ。
あの「毒殺未遂事件」の後、隣国との関係は一変した。
ミリアたちの自白と数々の証拠により隣国の侵略計画は国際社会に露呈。彼らは多額の賠償金と領土の割譲を余儀なくされ、我が国の立場は盤石なものとなった。
ちなみに、氷漬けにされたミリアと使節団たちは、解凍されることなく「生きた戒め」として王都の広場に展示されている。
夏場は涼をとるための観光名所として、市民に大人気だそうだ。
そして私は――「国王夫妻を救い、悪の陰謀を粉砕した最強の公爵令嬢」として、国民からの人気を不動のものにしていた。
「リズ、準備はいいかい?」
隣を歩くクリストファー様が私に腕を差し出した。
純白のタキシードに身を包んだ彼は太陽の化身のように眩しく、かつて震えていた手は、今は力強く私の身体を支えてくれている。
「はい、クリストファー様」
私は純白のウェディングドレスの裾を翻し、彼の腕に手を添えた。
銀の髪には王家に伝わるティアラが輝き、いつもの「氷の令嬢」としてのすました表情で、私は大聖堂の回廊を進む。
けれど祭壇の前で彼と向き合った瞬間だけは、仮面を外さずにはいられなかった。
神父の誓いの言葉が響く中、ベールを上げられる。
目の前には世界で一番愛しい人が、世界で一番幸せそうな顔で私を見ていた。
「綺麗だ⋯⋯。本当に、世界一美しいよ、リズ」
「ふふ、お上手になられましたね」
公衆の面前での口づけ。
民衆からの歓声が最高潮に達する中、彼は唇を離すと誰にも聞こえない声で私に囁いた。
『愛しているよ。僕の人生を照らしてくれた、氷の花』
その言葉に胸がいっぱいになり、私はこみ上げる涙をこらえて彼にだけ向ける、とびきりの笑顔を咲かせた。
もう、誰も凍らせることのない温かな笑顔を。
『私も愛しています。⋯⋯私の、太陽』
青い空に、二人の未来を祝福するように太陽が輝いていた。
王子様と氷の令嬢の恋の物語は、これにてハッピーエンド。
もちろん、これからも彼に近づく害虫が現れれば、即座に氷漬けにする準備はできているけれど。
それはまた別のお話。
(完)




