氷の女王による断罪
「――そこまでです。その汚らわしい紙切れに、王家のサインをする必要はありません」
凛とした、しかし絶対的な強制力を持った声が響き渡ると同時、カァァァァァァァンッ!! という耳をつんざくような硬質な破砕音が轟いた。
玉座の間の巨大な観音開きの扉が一瞬にして白く凍りついたかと思えば、次の瞬間には無数のダイヤモンドダストとなって砕け散ったのだ。
「うわぁあああ!!」
「な、なにごとだ!?」
「敵襲か!?」
会場がパニックに陥り、舞い散る氷の結晶がキラキラと光を反射する中、その向こうからカツン、カツンと優雅な足音を立てる。
逆光を背負い、銀の髪をなびかせて――私、エリザベート・フォン・ローゼンバーグは静かにその場へ足を踏み入れた。
背後には武装した近衛騎士団の精鋭たちが、抜き身の剣を手に整列している。
私は扇子で口元を隠し、凍りついた扉の残骸を踏みしめながら、悠然と歩を進める。
まるで最初から自分がこの場の支配者であるかのように。
「遅くなりまして申し訳ありません、迎えに参りましたわ殿下。⋯⋯少々、ゴミ掃除に手間取りましたの」
壇上で呆然としているクリストファー様に、私は極上の微笑みを向けた。
彼は大きく目を見開き、信じられないものを見るように私を凝視している。その碧眼に、じわりと涙が滲んだ。
「エ、エリザベート⋯⋯? 君、なのか⋯⋯?」
「ええ。迎えに参りましたと言ったでしょう?」
彼の手からペンが滑り落ち、カラカラと乾いた音を立てるのを見て私は内心で安堵の溜息を吐いた。
(間に合った⋯⋯! あと一秒遅ければ、彼は自分自身を殺すサインをしてしまうところでしたわ)
しかし感動の再会に浸っている時間はない。視線を横にスライドさせれば、そこには状況が飲み込めず口をパクパクと開閉させているピンク色の髪の女――ミリアがいる。
「な、な、なによこれぇ!? どうして貴女がここにいるの!? 追放されたんじゃなかったの!?」
「追放? 誰が誰をですって?」
私は冷ややかに小首を傾げた。
「私がいつ、そのような戯言を認めると言いましたか? 私はただ、昨夜は『殿下の名演技』に合わせて退室して差し上げただけですわ」
「え⋯⋯?」
「それにしてもミリア様。貴女、随分と趣味が悪いですわね。殿下にそのような顔色の悪い化粧を施し、脅迫まがいの調印式を行うなんて。これが隣国のやり方ですの?」
私の挑発に顔を真っ赤に染めたミリアは、ヒステリックに叫んだ。
「う、うるさぁぁぁい! 部外者は黙っててよ! この式典は正当なものよ! だって陛下が病気で、殿下が代理を務めることになってるんだから!」
「ああ、陛下の『ご病気』ですね」
私は懐から手のひらサイズの魔導具を取り出した。
通信用の魔石だ。
そこに魔力を流し込むと玉座の間の空中に巨大なホログラム映像が投影された。
映し出されたのは、豪奢な王族の寝室。そこには――。
『うむ。ローゼンバーグ公爵家の紅茶は、やはり香りが違うな』
『ええ、本当に。身体もすっかり軽くなりましたわ』
ベッドの上で優雅にティーカップを傾け、談笑する国王陛下と王妃殿下の姿があった。
顔色は血色が良く、どこからどう見ても健康そのものである。
会場がどよめいた。
「陛下!? お元気そうではないか!」
「ああ⋯⋯よくぞご無事で⋯⋯!」
「重体だという話は嘘だったのか?」
ミリアが悲鳴のような声を上げる。
「な、なんで!? あの毒は解毒剤がないと治らないはずじゃ⋯⋯!?」
私は扇子をパチンと閉じた。
「ええ、おっしゃる通り。ですから昨晩、私の可愛い『影』たちに、特製の解毒剤をお届けさせましたの」
昨夜、不眠不休で作り上げた最高品質の解毒薬。
それを公爵家の隠密部隊に託し、厳重な警備網を潜り抜けさせたのだ。
陛下たちは既に全快しており、さらに、この映像はリアルタイムで中継されている。
映像の中の陛下が、厳しい表情でカメラ代わりの魔石を見据えた。
『――ミリア・フォン・バーネット、ならびに隣国の使者たちよ。余の不在をいいことに息子を脅し、国を奪おうとした罪⋯⋯万死に値すると思え! 近衛騎士団、構わぬ! 逆賊どもを捕らえよ!!』
「はっ!!」
私の背後にいた騎士たちが、一斉に雪崩れ込む。
会場に潜んでいた隣国の傭兵たちは、不意を突かれた上に指揮系統が混乱しており、次々と制圧されていく。
「嘘よ⋯⋯嘘よ嘘よ嘘よぉ!!」
ミリアが髪を振り乱して後退った。
彼女の切り札だった「人質」というカードは完全に消滅し、隣国の使者たちも真っ青な顔で逃げ道を探しているが、既に出口は氷の壁で塞いである。
「く、くそったれめ⋯⋯! 私たちを誰だと思っているの! 隣国の貴族である私を捕らえれば、我が国が黙っていないわよ!?」
最後の悪あがきとばかりに喚くミリアに、私は呆れてため息をついた。
「まだ状況が理解できていないようですわね? 宣戦布告なしに王城を制圧し、国王陛下を暗殺しようとした時点で、貴女たちは外交官ではなくテロリストですのよ」
「っ⋯⋯!」
「我が国が黙っていない? ええ、そうでしょうね。ですが、それは『貴国が我が国に侵略戦争を仕掛け、失敗した』という事実に対する国際的な糾弾を受ける準備で、それどころではないでしょうけれど」
正論の刃に貫かれ、ミリアが言葉を失う。
だが追い詰められた獣は最も凶暴になるものだ。
彼女の瞳に昏い狂気の色が宿る。
「だったら⋯⋯だったら、このまま手ぶらで帰るもんですかぁ!!」
ミリアがドレスを引き裂き、隠し持っていた赤い魔石を掲げた。
「この玉座の間にはねぇ! 私の合図一つで爆発する『連鎖爆炎陣』が仕掛けてあるのよぉ! 全員道連れにして死んでやるわ!!」
悲鳴で包まれる会場⋯⋯でも私だけは扇子の陰で冷笑を漏らした。
「ああ、カーペットの下の魔法陣のことですの? 雑な術式でしたから、入室と同時に『冷却凍結』して無効化しておきましたわ」
「は⋯⋯?」
「起爆してみればよろしいのでは? 湿気った花火程度の音はするかもしれませんけれど」
カチリ、と彼女が魔石を作動させるが、床下からはシュウゥ⋯⋯と情けない音が聞こえるだけ。
「な、なんでぇぇぇ!?」
「準備不足ですわね。それでは――」
絶望に歪む彼女の顔を見据え、私はとどめを刺すように微笑んだ。
「お遊びは終わりです」
「ちくしょう! ふざけるじゃないわよ!」
彼女は用をなさい魔石を床に叩き付けるとドレスの袖から数本の毒針を取り出し、さらにドス黒い魔力を右手に収束させた。
標的は私――ではない。
「クリストファーだけでも殺してやる!! あいつのものになるぐらいなら、壊れてしまえばいいのよぉぉ!!」
「クリストファー!!」
私が叫ぶより早く、ミリアの手から放たれた毒針と闇の弾丸が無防備な王太子へと殺到する。
距離はわずか数メートル。
クリストファー様は毒の影響で身体が動かない。避けることは不可能だ。
「死ねぇぇぇ!!」
ミリアの叫びが響く。
クリストファー様が覚悟を決めたように目を閉じた。
――けれど。
キィィィィィン!!
甲高い音が響き渡り、毒針と闇魔法は空中で弾け飛んだ。
「⋯⋯え?」
ミリアが間の抜けた声を出す。
クリストファー様が恐る恐る目を開ける。
彼の目の前には分厚い氷の壁――『絶対零度の盾』が展開されていた。
ダイヤモンドのように硬度を高めた多重結界は、ミリア程度の攻撃など蚊が止まるほどの衝撃も通さない。
私は指をパチンと鳴らし、結界を解除すると、ゆっくりとクリストファー様の前に立ち彼を背中で庇った。
「⋯⋯愚かな」
私の声は地獄の底よりも低く、冷たかったと思う。
周囲の気温が急激に下がり、吐く息が白くなる。
「よくも⋯⋯よくも私の目の前で、私の愛する人に、その汚い殺意を向けましたわね?」
全身から魔力が溢れ出し、ドレスの裾が舞い上がると同時に銀髪が逆立つ。
その圧力に、ミリアが「ひっ」と尻餅をついた。
「法的な処罰など今の貴女には生温い。私のクリストファーを傷つけ、怯えさせ、あんなに悲しい顔をさせた罪。⋯⋯その身を持って償いなさい」
私は右手をかざした。
「極大氷結魔法――『氷棺』」
ゴオオオオッ!!
床から巨大な氷の柱が突き出し、ミリアの身体を包み込んだ。
「いやぁぁぁぁ冷たいぃぃぃぃ!!」
断末魔のような叫び声。
だけど彼女が死ぬことはない。首から下だけが分厚い氷の中に完全に封印され、指一本動かせない「生きた彫像」と化したのだ。
「連れてお行きなさい。一生さらし者にしてあげますわ」
私の指示に近衛騎士たちが敬礼し、氷漬けになったミリアと腰を抜かしている隣国の使者たちを引きずっていく。
会場には、嵐が過ぎ去った後のような静寂が戻った。
私は大きく息を吐きつつ乱れた前髪を直し、ゆっくりと背後を振り返る。
そこには、今にも倒れそうなほど蒼白な顔をしたクリストファー様が立っていた。
彼は私を見ると、安堵で膝から崩れ落ちそうになったが、王太子の矜持でなんとか踏みとどまる。
「⋯⋯リズ⋯⋯」
「クリストファー様」
私は彼の元へ歩み寄り、その震える身体をそっと支えた。
彼の体温は氷のように冷たい。毒の影響と極度の緊張のせいだ。
ここで泣き崩れたいだろうに、彼は多くの貴族や騎士たちの手前、必死に唇を噛んで耐えている。
(ああ、なんて健気で立派な方⋯⋯)
私は彼にだけ聞こえるような小声で、耳元に囁いた。
「よく頑張りましたね。⋯⋯さあ、もう帰りましょう。後始末は、お父様と陛下に任せて」
「⋯⋯ああ⋯⋯ありがとう、エリザベート」
彼は私の肩に頭を預け、弱々しく、けれど確かな信頼を込めて頷いた。
私は顔を上げ、未だ呆気にとられている貴族たちに向けて凛とした声で宣言する。
「本日の調印式は中止です。殿下はご気分が優れませんので、これにて失礼いたします」
私はクリストファー様を支えながら、ゆっくりと出口へと歩き出した。
その背中を騎士たちの敬礼と万雷の拍手が見送る。
「行きましょう、クリス様」
大扉を抜けるその瞬間まで、私は完璧な「氷の公爵令嬢」を演じきった。
内心では早く二人きりになりたくて仕方がなかった。
早く部屋に戻って、この可愛い婚約者を思いっきり抱きしめて慰めてあげなければ。
だって婚約者としての本番は、ここからなのだから。




