断頭台への行進
視界がぐらりと揺れ、冷たい石畳の感触が膝に伝わったかと思うと、僕は――クリストファー・フォン・ラルスヴァルトは、王城の奥深くにある一室で無様に崩れ落ちていた。
「あーあ。可哀想な王子様。もっとシャンとしてくださいなぁ?」
頭上から降ってくるのは、砂糖菓子を煮詰めて腐らせたような、甘ったるく不快な声だ。
ミリア・フォン・バーネット。
隣国からの留学生という仮面を被った、侵略者の手先。
彼女は僕の目の前で小指ほどの大きさの小瓶をチャリチャリと弄んでいた。
中に入っている紫色の液体、それこそが僕の敬愛する父と母――国王陛下と王妃殿下の命を繋ぐ、唯一の希望だった。
「いいですかぁ? 本来なら明日の式典は両国の『友好条約』を記念するパーティーになるはずでした。でも予定変更ですぅ。陛下が急病で倒れられたので、代理の殿下が『属国化』⋯⋯じゃなくてぇ『包括的支援協定』にサインをする。感動的な親孝行の物語ですよねぇ?」
ミリアがくすくすと笑う。
そう、明日の式典は元々予定されていたものだ。隣国との通商を祝う、ただの形式的な行事のはずだった。
だが彼らはその日程に合わせて毒を盛り、王城を掌握し、書類の中身を「国を売る契約書」へとすり替えたのだ。
「⋯⋯父上と母上の命は、助かるんだろうな」
「もっちろーんです! サインさえ終われば解毒剤をあげますよぉ。⋯⋯まあ、後遺症で一生ベッドの上かもしれませんけどぉ?」
「な、話が違うぞ⋯⋯!」
反論しようとした瞬間、彼女の背後に控える魔術師が杖をコツンと鳴らし、途端に僕の心臓が焼けるような痛みに襲われた。
僕もまた微量ながら毒を盛られている。抵抗する気力を削ぐための、首輪のような毒だ。
「さあ、返事は? あの偉そうな公爵令嬢を捨てて、私を選ぶんでしょう?」
ミリアが僕の顎をつま先でくい、と持ち上げる。
屈辱で奥歯が砕けそうだった⋯⋯今の僕には拒絶する権利すらない。
「⋯⋯ああ。約束する」
僕は魂を殺して、そう答えるしかなかった。
* * *
そして――悪夢のような卒業パーティーが過ぎ去った。
僕は自室のベッドに倒れ込み、泥のような疲労感の中で天井を見つめていた。
眠れるはずがない。目を閉じれば、あの瞬間の光景がフラッシュバックして脳内を焼き尽くす。
『エリザベート・フォン・ローゼンバーグ! 貴様のような冷酷な女との婚約は、今ここで破棄する!』
喉が焼け、心臓が引き裂かれるようだった。
エリザベート・フォン・ローゼンバーグ。
僕の婚約者であり、この世界で最も美しく、賢く、気高い女性。
幼い頃、魔力暴走を起こして泣いていた彼女を抱きしめたあの日から、僕は彼女一筋だった。
「氷の令嬢」などと陰口を叩かれても僕だけは知っていた。彼女の内面がどれほど情熱的で、不器用な優しさに溢れているかを。
そんな彼女を衆人環視の中で罵倒し、傷つけた。
彼女は表情を変えなかったが、いつも通りの鉄仮面の裏で扇子を握る指先がほんのわずかに白くなっていたことに、僕は気づいてしまった。
(僕は、なんてことを⋯⋯! 彼女を守ると誓ったのに、彼女を一番傷つける刃になってしまった!)
堪えきれずに込み上げる嘔吐感に、僕は何度も洗面台に向かって胃液を吐いた。
自分への嫌悪で気が狂いそうで、鼻につくミリアの香水の残り香がさらに吐き気を催させる。
⋯⋯それでも、こうするしかなかったのだ。
もし僕が抵抗すれば両親は殺され、エリザベートもまたミリアたちの標的になるだろう。
彼女は優秀な魔術師だが相手は国家規模の陰謀であり、僕という人質を取られた状態で戦えば彼女まで失うことになる。
だから、突き放した。
「婚約破棄」という形で彼女を王家から切り離し、自由にするために。
(気づいてくれただろうか⋯⋯あの合図に)
『SOSのサイン』
右手の親指で薬指の付け根を二回叩く。
十年も前の幼い日の約束⋯⋯彼女が覚えている保証なんてどこにもない。
それにあの極限状態の僕の演技はボロボロで足は震えるし、声は裏返るし、見ていられないほど無様なものだった。正直⋯⋯記憶も曖昧だ。
「情けない⋯⋯」
もし彼女が合図に気づいたとしても彼女にできることは「逃げること」だけ。
それでもいい。
彼女さえ無事でいてくれれば、僕はどうなってもいい。
明日、調印式で国を売る書類にサインをすれば、僕は売国奴として歴史に名を残すだろう。
その後、用済みになった僕がどう処理されるかなど考えるまでもない。
「⋯⋯エリザベート。どうか、遠くへ。やつらの手の届かない、幸せな場所へ」
僕は濡れた顔を拭うこともせず、暗い天井を見上げた。
彼女の銀色の髪と、氷のような瞳が恋しかった。
もう二度と、その名を呼ぶ資格はないのだとしても。
* * *
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、僕にとっては処刑執行の合図に等しかった。
一睡もできなかったせいで目の下には濃い隈ができ、肌は土気色をしていて、立派な正装に袖を通しても中身が空っぽの人形にしか思えない。
コンコン、とノックの音がしてドアが開く。
「クリス様ぁ~? まーだ寝てるんですかぁ? お迎えに来てあげましたよぉ!」
そこに立っていたのは、目が痛くなるようなショッキングピンクのドレスに身を包んだミリアだ。
過剰なレースとリボン、厳粛な調印式には似つかわしくない下品な派手さが、彼女の浅はかな残酷さを象徴しているようだった。
「あらん、顔色悪いですねぇ。ま、ペンさえ持てれば問題ないですけど」
「⋯⋯」
「ほらぁ、行きましょうダーリン! 今日から私たちが、この国の新しい主役なんですもの!」
ミリアが僕の腕に強引に抱きつき、きつい香水の匂いが鼻孔を犯す。
吐き気を押し殺し、僕は彼女に引きずられるようにして部屋を出た。
王城の長い廊下ですれ違う侍女や衛兵たちは、ぎこちない動作で頭を下げるが、彼らもまた異変を感じ取っているのだろう。
だが誰も声を上げられない。城の中枢である近衛騎士団の多くは遠ざけられ、代わりにミリアが引き入れた「隣国の傭兵」たちが警備のふりをして睨みを利かせているからだ。
(これが、断頭台への行進か)
足が重く、一歩進むごとに心臓が早鐘を打つ。
この廊下の先にある「玉座の間」で行われるのは、本来ならば友好を祝う式典だが、今は隣国の使節団という名のハイエナたちが肉を貪るために待ち構えている屠殺場に他ならない。
「ふふっ、楽しみだなぁ。エリザベート様、今頃どうしてるかしら? 泣き腫らして引きこもってる? それとも田舎に逃げ帰った?」
ミリアが楽しそうに笑うたび、その言葉が鋭い棘となって胸に突き刺さる。
どうかエリザベートには来ないでほしい⋯⋯こんな屈辱的な光景、彼女に見せたくない。
いや聡明な彼女のことだから、きっと既に身の安全を確保してくれているはずだ。
(ごめん。ごめん、リズ、無力な僕を許してくれ⋯⋯)
心の中で何度も謝罪を繰り返す。
「⋯⋯ああ、エリザベート」
無意識のうちに、その名が口から漏れていた。
「ん? 何か言いました? まだあの女のこと考えてるんですかぁ? しつこい男は嫌われますよ?」
「⋯⋯なんでもない」
僕は唇を噛み締め、前を向いた。
玉座の間の大扉が重々しい音を立てて開かれる。
中には既に多くの貴族たちと隣国の使者たちが待ち構えていた。誰もが異様な緊張感に包まれている。
僕が部屋に入ると一斉に視線が集まった。
困惑、憐れみ、侮蔑、そして諦め。
僕は祭壇のように設えられた、調印台へと進んだ。
そこには羊皮紙の束が置かれている。
この国の主権を奪い、民を奴隷とする悪魔の契約書。
「さあ、殿下。こちらへ」
隣国の使者が、ねっとりとした笑顔で羽根ペンを差し出した。
僕は震える手でそれを受け取る。
指が冷たい。感覚がない。
ミリアが僕の耳元で囁く。
「早く書いてくださいね? パパとママがどうなっても知りませんよぉ?」
彼女の視線が僕の背後にある「王族専用の出入り口」――今は閉ざされたままの扉を一瞬見た。
あそこには監視役からの報告が届いている⋯⋯もし拒否すれば、即座に処刑が行われる手はずなのだろう。
僕はゆっくりと、ペン先にインクをつけた。
ぽたり、と黒い雫が落ちる。
(⋯⋯いやまだだ。まだ、諦めるな。ほんのわずかでも抵抗してみせるんだ)
僕はわざとらしく手を滑らせ、インク壺に肘をぶつけた。
ガチャン、と壺が倒れ黒い液体が契約書の端を汚す。
「あ⋯⋯す、すまない。手が滑って⋯⋯」
「チッ! 何やってんですかグズ王子!おい、新しい羊皮紙を持ってこい!」
ミリアがヒステリックに叫ぶ。
わずか数分の時間稼ぎ。無駄な抵抗かもしれない。それでも僕は心のどこかで信じたかった。この状況を打開する奇跡が起こるじゃないかって。
でも⋯⋯そんなわけもなく、予備の契約書が再び僕の前に置かれる。
(⋯⋯これで本当の終わりだ)
僕の人生も、この国の未来も。
最後にもう一度、君に会いたかった。
ただ、一目だけでいい。
あの凛とした姿を、この目に焼き付けたかった。
けれど、それは叶わない願いだ。
僕は息を詰め、ペン先を紙に押し当てた。
「⋯⋯う、ぐ⋯⋯ッ」
手が震えて、文字が書けない。
それでも、無理やりに力を込める。
書かなければならない。愛する人たちを守るために、僕がすべてを背負って死ぬのだ。
「ほらぁ、しっかりしてくださいよぉ。早く! 早く書いて!」
ミリアが焦れたように僕の肩を揺する。
視界が滲む。
涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。
さようなら、エリザベート。
愛している。僕の最愛の人。
ペン先が、紙の上を滑ろうとした――その時だった。




