公爵令嬢は静かに激怒する
王宮を出てローゼンバーグ公爵家の馬車に乗り込んだ瞬間。
パタン、と扉が閉ざされ、外界との繋がりが絶たれた。
その刹那、私は座席に深く身を沈め、天井を仰いで盛大なため息を吐き出した。
「まったく大根役者にも程がありますわよ」
先ほどまでの「氷の令嬢」としての鉄壁の仮面は、見る影もなく崩れ去っていた。
私は両手で顔を覆い荒くなった呼吸を整える。怒りで指先が震えていた。
「もっとマシな嘘はつけませんの? 声は裏返る、膝は笑う、挙句の果てには『真実の愛』だなんて⋯⋯台詞選びのセンスまで壊滅的でしたわね」
御者席には聞こえないよう防音の魔術を展開し、私は誰にともなく喚き散らす。溜まったストレスをこうして発散しなければ腹の収まりがつかなかったからだ。
思い出すだけで胃が痛い。あんな無様な姿を晒して、さぞ怖かっただろう。悔しかっただろう。
あの真面目な彼のことだ。今頃、自分の部屋で「リズに嫌われたらどうしよう」と枕を濡らしているに違いない。
「⋯⋯可哀想なクリストファー。待っていてくださいね。私を突き放したその勇気に免じて、貴方を追い詰めた害虫は、一匹残らず私が駆除いたしますから」
決意と共に懐から取り出したのは、一枚の絹ごしらえの上質なハンカチだ。
今はくしゃくしゃに丸まっているそれは、先ほど彼が壇上で大量の脂汗を拭い、ミリアに腕を引かれた拍子に落としたものを、去り際にさりげなく足元の影から回収しておいたものである。
ぐっしょりと濡れた布切れなど、常人ならば「汚い」と敬遠するところだろうが、私にとっては至高の証拠品であり、愛しい彼の一部に他ならない。
「⋯⋯匂いますわね」
ハンカチを鼻に近づければ、彼自身の清潔な石鹸の香りに混じり、ツンと鼻を刺す甘ったるい異臭と、微かに残る痺れるような刺激臭が漂ってくる。
馬車が公爵家の屋敷に着く頃には、私の頭の中で初期解析は終わっていた。
出迎えた執事にコートを預け、私は父への挨拶もそこそこに自室の奥にある「研究室」へと直行した。
* * *
私の研究室は、年頃の令嬢の部屋とは思えない様相を呈している。
壁一面の本棚には古今東西の魔導書がぎっしりと並び、机の上にはフラスコや蒸留器、怪しげな色の液体が入った瓶が乱雑に置かれていた。
私は眼鏡をかけ机にハンカチを広げるとその周囲にチョークで複雑な魔法陣を描き始めた。
「解析開始――対象物質の構成要素を抽出。毒性反応の特定」
呪文を唱えると魔法陣が青白く発光する。
ハンカチからゆらりと紫色の煙が立ち上り、空中で文字の列へと変換されていく。
『主成分:トリカブト⋯⋯否。これは北方の山岳地帯に自生する『紫水晶』の根』
『混合物:遅効性の神経麻痺毒、および幻覚作用を持つ香草』
やはり、睨んだ通りだ。
私は眼鏡の位置を直し冷静に、しかし瞳の奥に冷たい火を灯して分析結果を見つめた。
「隣国特有の『紫水晶の毒』ですね。無味無臭で食事に混ぜやすく、摂取してから一週間の間に突然、心臓麻痺を引き起こす。解毒にはマンドラゴラの根と、聖銀の粉末が必要⋯⋯」
非常に厄介な代物だ。市場には出回らない暗殺ギルド御用達の逸品。
これを王太子に、それも気づかれないように摂取させるなど警備体制が万全な王城では至難の業だ。
そもそもクリストファー様は、自分の命が惜しくて私を裏切るような人ではない。
彼が自分の誇りを捨ててまで「服従」を選んだということは、人質は彼自身ではないのだ。
「陛下と王妃殿下⋯⋯」
ここ数日、国王夫妻は「風邪」を理由に公務を休まれている。
公式発表では軽症とされていたが面会謝絶が続いていた。
もし、彼らが外遊などで警備の隙をつかれこの毒に侵されているとしたら?
そして、その解毒剤をミリア――あるいはその背後にいる組織に握られているとしたら?
「クリストファー様はご両親の命を盾に取られ、私の婚約破棄を強要された。⋯⋯私が『氷の令嬢』であり、毒物のスペシャリストであることを警戒して、まずは私を王城から遠ざけることが目的だったのでしょう」
浅はかだ。あまりにも。
彼らは一つだけ計算違いをしている。
私がただの「詳しい令嬢」レベルではなく、彼らを地獄の底まで追い詰めることができる「魔王」レベルの執着心を持っているということを。
私は棚から大釜を取り出し、バーナーに火を点けた。
通常、この解毒薬の精製には一週間の煮込みと、月の満ち欠けに合わせた魔力調整が必要となるが、明日には隣国との式典がある。もし⋯⋯いや間違いなく一枚噛んでいるあの国が仕掛けるならそのときだ。時間がない。
「工程を短縮します。⋯⋯私の魔力を直接、触媒として流し込む」
禁忌に近い荒技だが、背に腹は代えられない。
私はナイフで自分の指先を少し切り、血を一滴、大釜に垂らした。それを呼び水として体内の魔力を奔流のように解き放つ。
ごうっ、と炎が色を変えて釜の中の液体が激しく沸騰し、全身の血管が焼き切れるような熱さと魔力枯渇による激しい倦怠感が襲いかかるが、私は詠唱を止めない。
止めるわけには、いかない。
なぜなら、この力は彼のためにあるのだから。
* * *
私の脳裏に再び、十年前の光景が蘇る。SOSのサインを決めるもっと前――。
あの日は冬の嵐のような日で、八歳の私は強大すぎる魔力を制御できず、魔力暴走による事故を起こしてしまった。
公爵家の庭園が一瞬にして氷の世界に閉ざされ、美しい薔薇も噴水も、すべてが凍りついてしまったあの日。
『化け物だ!』
『近寄るな、凍らされるぞ!』
『呪われた子だ⋯⋯』
大人たちは恐怖に顔を歪めて遠巻きに私を罵り、両親でさえどう扱っていいか分からず困惑していた。
私は自分のしたことに怯え、泣きじゃくりながらただ氷の棘で作られた檻の中に閉じこもり、もう誰にも触れられたくない、誰かを傷つけるのが怖いと震えていた。
だけど、彼だけは違った。
『リズ!』
当時まだ幼かったクリストファー様は、制止する護衛の手を振り払い、氷の檻へと走ってきたのだ。
鋭い氷の棘が彼の手を切り裂き、頬に傷を作っても、彼は止まらない。
『来ないで! 傷ついちゃう!』
『平気だよ! 痛くない!』
彼は私の拒絶を無視して、凍りついた私の身体を力いっぱい抱きしめてくれた。
彼の体温が、冷え切った私の心にじんわりと染み込んでいく。
彼は、真っ赤になった私の目を見て、にこりと笑ったのだ。
『君の魔法は、ちっとも怖くないよ』
震える手で、私の涙を拭いながら。
『見てごらん、リズ。光が当たってキラキラしてる。君の作った氷は、ダイヤモンドみたいに綺麗だ』
その言葉で私の世界は色を取り戻した。
呪いだと思っていた力が彼のおかげで「綺麗なもの」に変わった。
あの瞬間、私は誓ったのだ。
この強すぎる魔力も、誰もが恐れる知識も、すべて彼を守るために使おうと。
彼が私に世界を与えてくれたように、今度は私が、彼の世界を守り抜くのだと。
* * *
「――っ、はぁ、はぁ⋯⋯!」
一時間後。
大釜の中には、透き通るような黄金色の液体が完成していた。
全身から汗が噴き出し、立っているのもやっとの状態だが私は満足げに口角を上げた。
「最高品質の解毒薬、完成ですわ」
小瓶に手際よく詰め替え、私は部屋の隅にある闇に向かって声をかけた。
「いるのでしょう? 出てきなさい」
音もなく、影の中から黒装束の男が姿を現した。
ローゼンバーグ公爵家が抱える隠密部隊「影」の隊長だ。彼は片膝をつき、恭しく頭を垂れる。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
「国家の危機よ、肝に銘じなさい」
私は二本の小瓶を彼に投げ渡した。
「一つ目は王城の国王夫妻の寝室へ潜入し、お二人にこれを飲ませること。警備が手薄なルートは把握しているわね?」
「はっ。ミリア一派が雇った傭兵が警備に就いていますが、我々の敵ではありません」
「陛下たちの寝室前には強力な結界が張られているはずよ。解除に手間取ればいるであろう監視役に殺さねかねない」
私は隊長の目を真っ直ぐに見据え、冷酷に告げた。
「強行突破しなさい。貴方の腕一本、足一本と引き換えにしてでも必ず陛下たちを生還させるのよ。⋯⋯貴方の働きに全てが掛かっている、失敗は許しません」
「⋯⋯御意。この命に代えても」
「結構。そしてもう一つ」
私はさらに声を低くし、氷のような殺気を込めた。
「あの泥棒猫――ミリアの部屋に侵入し『証拠』を見繕ってきなさい。毒の出処、隣国との通信記録、なんでもいいわ。彼女が言い逃れできない致命的なものを」
「⋯⋯お嬢様の婚約者を誑かした報い、ということですね」
「ええ」
私は髪をかき上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「私の可愛いクリストファーを泣かせた罪、本国ともにきっちりと落とし前をつけさせる。⋯⋯明日の式典までに揃えなさい。遅れたら、貴方を実験台にするわ」
「⋯⋯肝に銘じます」
隊長が一瞬身震いし、再び影の中へと消えていく。
部屋に一人の静寂が戻る。
窓の外では、東の空が白み始めていた。
決戦は数時間後。
私はドレッサーの前に座り、目の下のクマを指でなぞった。
明日は最高に美しく、冷酷で、完璧な役者として舞台に立たなければならない。
「さて、ミリア様。精々いい夢を見ていらっしゃい。⋯⋯目覚めた時が、貴女の悪夢の始まりなのだから」
鏡の中の私は、かつてないほど楽しそうに笑っていた。




