下手くそな嘘と氷の仮面
本日中に完結します。
王立学園の卒業パーティー。豪奢なシャンデリアが頭上で煌々と輝き、楽団による生演奏のワルツが耳を撫でる極上の夜――。
だが、そんな夢見心地な空間は、たった一瞬にして凍てつくこととなった。
「――エリザベート・フォン・ローゼンバーグ! き、貴様のような冷酷な女との婚約は、今ここで破棄する!」
唐突な怒声により音楽が止まる。
ダンスを楽しんでいた令息令嬢たちが、まるで波が引くように左右へ分かれていくと、その視線の先――ダンスホールの壇上には、私の婚約者であるクリストファー王太子殿下が立っていた。
その腕には、綿飴を千切って丸めたようなピンク色の髪をした小柄な少女、男爵令嬢ミリアがしがみついている。
周囲からは「やはりか」「氷の令嬢、ついに愛想を尽かされたんだな」「あんな能面のような女より、ミリア様の方がずっと可愛らしいもの」といった、あからさまな嘲笑がさざ波のように漏れ聞こえてくる。
私は扇子を閉じたまま、ゆっくりと彼らを見上げた。表情筋はピクリとも動かさず、いつものように絶対零度の無表情を張り付けて。
けれど私の脳内は――周囲の予想とは全く別の方向にフル回転していた。
(あらあらまあまあ⋯⋯。クリストファー様ったら貴様だなんて、ご無理なさって)
私の愛しいクリストファー様。
金糸のような艶やかな髪に、夏の空を切り取ったような碧眼を持つ、本来ならば絵本から抜け出したような正統派の王子様。
そんな彼が今、壇上でどうなっているかといえば、顔面は幽霊のように蒼白で額には玉のような脂汗が滲み、呼吸は浅く、小刻みに肩を揺らしている有様だ。
そして何より――。
「⋯⋯き、聞いて、いるのか! エリザベート!」
声が裏返った。
あからさまに上ずっている。これは彼が嘘をつく時、極度の緊張状態にある時の悪い癖だ。
それに、よく見れば足元もおかしい。必死に踏ん張ろうとしているようだが膝が笑って内股になっている。その姿はまるで、初めて立ち上がろうとして失敗した、生まれたての子鹿のようではないか。
(か、可愛い⋯⋯ッ!)
不謹慎ながら私は内心で悶絶していた。
あんなに怯えているのに、きっと今すぐ逃げ出したいだろうに、必死に虚勢を張って「悪役」を演じようとしている。その健気さが愛おしくてたまらない。
私がもし普通の令嬢なら「なんて酷いこと仰るの! およよよ」と泣き崩れていたかもしれないが残念ながら、私は彼を観察しすぎて、その瞬きの回数から体調の変化まで把握できる女だ。
(普段の彼は、こんな衆人環視の中で女性を侍らせて怒鳴るような方ではないわ。優しくて、誠実で、道端の花を踏むことさえ躊躇うようなお方)
それがここまで無様な演技をしてまで、私を突き放そうとしている。
つまり、理由は一つしかない。
(――脅されていますわね?)
私の思考は瞬時に「溺愛」から「氷の刃」へと切り替わった。
クリストファー様の背後で勝ち誇った顔をしているあの女――ミリア男爵令嬢。
隣国からの留学生という触れ込みだが、その素性が怪しいことは我が家の情報網で把握済みだ。
「そうそう、そうですぅ! エリザベート様ってば、いつもクリス様に対して偉そうで、全然可愛くないんですものぉ!」
ミリアが甘ったるい猫なで声で追撃してくる。
私のことを「可愛くない」と言ったその口元が、歪な三日月型に吊り上がっていた。
殿下の腕に回した彼女の爪が、彼の礼服に深く食い込んでいるのが見える。
(⋯⋯あの雌豚に高等な魔術を扱える素養はゼロ、となれば呪具の類か⋯⋯毒)
もし、これが本気の心変わりなら私も大人しく身を引いた――とは思えないが、クリストファー様のあの顔色は、恋に浮かれた男のものではない。断じて、ない。
恐怖に支配され、それでも何かを守ろうと必死に耐えている男の顔だ。
私の大切な人を、あんな風に震えさせた罪。
万死に値する。
怒りのあまり握りしめた扇子がミシ、と悲鳴を上げた。
もちろん、顔には一切出さない。私は「氷の令嬢」感情を表に出すのが不器用すぎて、結果として鉄仮面と呼ばれるようになってしまった女。でも今は、この鉄仮面が役に立つ。
私はゆっくりと優雅な所作で一歩前へ進み出た。
カツン、とヒールの音が静まり返ったホールに響く。
「⋯⋯理由を、お伺いしても?」
私の声は自分でも驚くほど低く、冷たかったらしい。
周囲の貴族たちが「ひっ」と息を呑んで後退る。クリストファー様がビクリと肩を跳ねさせた。
「り、理由は⋯⋯そ、その⋯⋯真実の愛、だ!」
殿下が叫ぶ。
その碧眼が、泳ぎながらも必死に私を捉えようとしていた。
「僕はミリアを愛している! 彼女こそが僕の運命の相手だ! だから君とは結婚できない! ⋯⋯わ、分かってくれ!」
彼はそこで、不自然なほど大きく右手を上げた。
聴衆に向けたパフォーマンスのように見せかけて、その手は胸の高さで止まる。
そして――。
右手の親指が、薬指の付け根を、トン、トン、と二回叩いた。
そこは婚約指輪を嵌めるはずの場所。
その動きを見た瞬間、私の記憶は十年前のあの日へと引き戻された。
* * *
『ねえ、リズ。これ、僕たちの秘密の合図にしよう』
幼い頃、堅苦しい王城のパーティーの最中。
大人たちの目から逃れて、バルコニーの陰に二人で隠れていた時のことだ。
まだ背の低かったクリストファー様が、私の小さな手を握りながら言った。
『これから先、僕たちは王族と公爵家として、言いたいことが言えない場面がたくさんあると思うんだ』
『はい、クリス様』
『だから、もし本当に困った時。どうしても助けてほしい時や、言葉と裏腹な気持ちを伝えたい時は⋯⋯こうするんだ』
彼は私の薬指の付け根を、親指で二回叩いた。
『これは、SOSのサイン。「緊急事態だ、話を合わせてくれ」っていう意味。⋯⋯僕、嘘をつくのが下手だから、リズにしか頼めないんだ』
はにかんだような、あの日の笑顔。
夕日を背負って輝いていた、私の大好きな王子様。
* * *
(――ああ、やっぱり)
確信した瞬間、胸の奥で燻っていた怒りの炎が、青白く静かな殺意へと完全に昇華された。
彼は今、人生最大の嘘をつき、必死に私に助けを求めている。
「話を合わせてくれ」と。「僕を嫌いになってくれ」と。
そうすることでしか、私を守れない状況なのだ。
愛ゆえの拒絶。
なんて馬鹿で、なんて愛おしい人なのだろう。
(⋯⋯ミリア。貴女、よりによってこの国で一番怒らせてはいけない女の逆鱗に触れましたわね)
私は公爵令嬢であると同時に大陸屈指の魔術師であり、裏社会でも恐れられる毒物のスペシャリストだ。
私の「趣味」を知る者は少ないが、この知識と技術はすべて彼を守るために磨いてきたもの。
それを、こんなふざけた三文芝居で踏みにじろうとするなんて。
「⋯⋯承知いたしました」
私は完璧な角度でカーテシーを披露した。
ドレスの裾を摘み、膝を折る。その動作一つにも一切の隙は見せない。
「殿下のご意志、謹んでお受けいたします。⋯⋯婚約破棄、ですね」
会場がざわめく。
あまりにもあっさりとした引き際に見物人たちは拍子抜けしたようだ。
ミリアが「えっ?」と間の抜けた声を出し、それからすぐに意地悪な笑みを浮かべた。
「あらぁ~、意外と物分かりがいいんですねぇ。もっと泣いて縋るかと思いましたのに」
「まさか。殿下のお幸せが第一ですもの」
私は顔を上げ、クリストファー様を直視した。
彼は泣き出しそうな顔で、けれど安堵したように小さく息を吐いた。
(⋯⋯ごめんな、リズ)
そんな声が聞こえてきそうなほど、彼の瞳は雄弁だった。
大丈夫ですわ、殿下。
後のことは、すべて私にお任せください。
貴方を縛る鎖も、その首輪を握る害虫も、すべて私が処理いたします。
「では、私はこれで失礼いたします。長居をしては、せっかくの『真実の愛』のお邪魔になりましょうから」
私は踵を返した。
背筋を伸ばし、銀の髪をなびかせて歩き出す。
ミリアの勝ち誇った視線が背中に刺さるが痛くも痒くもない。
だが、このまま黙って引き下がるのも癪だ。
私はすれ違いざま、わざと足を止めた。
そしてクリストファー様ではなく、ミリアの方へと視線を流す。
氷の瞳で彼女を射抜くように見つめ――ふわりと、この場に似つかわしくない優雅な微笑みを浮かべた。
「ミリア様」
「な、なんですかぁ?」
一瞬、彼女が気圧されたように身を引く。
私は扇子で口元を隠し、けれど周囲にははっきりと聞こえる声量で、こう告げた。
「夜道には、くれぐれもお気をつけて」
「え⋯⋯?」
「最近は物騒ですから。⋯⋯怖い影が寄り付かないよう、精々警戒なさることですわ」
それだけ言い残し、私は再び歩き出した。
背後でミリアが「な、なによ今の! 負け惜しみ!?」と叫んでいるが、もはや雑音にしか聞こえない。
大扉を衛兵が開ける。
私は冷たい夜風を浴びながら、ホールを後にした。
扉が閉まった瞬間。
私の瞳から偽装用の「無感情」が消え失せる。
「⋯⋯待っていてください、クリストファー」
廊下を早足で進みながら、私はドレスの袖に隠していた通信用の魔導具を起動させた。
脳内で、最短最速の殲滅プランを組み立てる。
さあ、忙しくなるわよ。
私の可愛い殿下を泣かせた代償、たっぷり払わせてあげるのだから。




