砕け散る恋心
美咲の家を出て、志保は1人で家に向かっていた。
もう日が暮れて真っ暗になってしまったけれど、美咲の家から自分の家へ帰るにはずっと商店街を通るから、暗くなっても安心だった。
彼女は商店街の喧騒と人混みの中を、1人でテクテク歩いていた。
「あれ!? 槙原さんじゃない!?」
ふいに後ろで誰かが名前を呼んだので振り向くと、そこには市原慎司がいた。
「今帰り? 随分遅いじゃん」
「今日は美咲ちゃんの家で中間テストの勉強してたの。勉強終わってから話してたらこんな時間になっちゃった。市原くんはどうしたの? 買い物?」
「うん。ちょっと参考書を買いにね」
市原はそのまま志保と一緒に歩き出した。
「ねえ、市原くん」
「ん? 何?」
志保は市原に質問してみることにした。男の子の気持ちを少しでも知りたいな、と思ったからだ。
「市原くんは好きな女の子とか、いる?」
「えっ!? 何その質問。急に何を言い出すのさ!」
「あ、ゴメンね急に。実は美咲ちゃんと好きな人に告白した方が良いかどうかって話をしててね、それで男の子はどうなのかなって思って」
「……勉強してたんじゃないの?」
志保はさっきまで美咲としていた会話をかいつまんで説明した。もちろん例え話として。
「あー、なるほど。そういう状況かぁ。それは難しいよねぇ」
市原はそう言って考え込んでしまった。
意外と真剣に考え込むその姿を見て、志保は少し驚いた。
もしかしたら市原もそんな状況なのかな? などと思ったりする。
「うーん……そうだなぁ、僕もその立場だったら……やっぱり怖くて言えないかなぁ」
「市原くんもそうなんだ……あれ? でも市原くんって、そもそもそんな片想いにはならないんじゃない?」
そう言ったら睨まれてしまった。
「あのね、そりゃまあ自分で言うのもアレだけどさ、女の子に告白されることは結構ありますよ。ありますけどね、それとこれとは話が別だと思うよ」
「別なの?」
「当たり前じゃん。告られて嬉しいのと付き合うのは、全然別だって。僕、そんなに軽くないよ」
ふーん、そういうものなんだ、と志保は思った。男の子から告白されたことがない彼女には、そのへんの気持ちがよくわからない。
商店街の各所に設置されているスピーカーからは、ピンクレディーやキャンディーズ、山口百恵や沢田研二といった、その年に大ヒットを記録した愛や恋をテーマにした曲が、時に会話が聞き取りにくくなるほどの大きな音で絶え間なく流れている。
「そんなにモテる市原くんでも、やっぱり相手も自分の事を好きだっていう自信は持てないの?」
「持てるわけないじゃん。僕、そんなに自惚れてないよ」
市原は「下手に自分の気持ちを伝えて失敗したらって考えると怖いじゃん」と続けた。それは志保と同じだ。
「逆にそんなに自惚れられる性格なら、とっくの昔に告白してるよ。そうじゃないから言えないんじゃん」
「……ってことは、好きなコいるんだ?」
市原は目を丸くして「しまった!」という顔をした。ついうっかり口を滑らせてしまったのだろう。なんだかゴニョゴニョ言い訳している。
「そのコって、私も知ってるコ?」
「言うわけないじゃん! もうこの話は終わり! 終わりね!」
「えーっ? 聞きたいのにー」
「絶対言わないよ!」
市原は口をつぐんでしまった。志保は決してからかったわけではないのだが。
「で? そういう槙原さんはどうなの? 好きな人に自分の気持は伝える派? それとも黙ってる派?」
「私? 私は、そうだなぁ……やっぱり私も同じかな。相手も自分を好きだっていう確信が持てないと、やっぱり怖くって言えないかなぁ」
「だよねぇ。もし断られたらって考えたら躊躇しちゃうよなぁ」
「うんうん、わかる。今うまくいってたら尚更そう思っちゃうよね。告白して断られたらもう今まで通りにはいかないんじゃ? って考えちゃうもん」
「そしたら絶対後悔するもんな」
「よかった。そんな風に思ってるのは私だけじゃないんだ」
だが志保の頭の中には、美咲に言われた言葉がずっとこびりついてる。
ホントの気持ちをちゃんと伝えておかないと、後で後悔するんじゃないか、という言葉が。
「あれ? あそこに居るの川島じゃない?」
市原がそう言って指差した方向には、確かに良樹とよく似た人が歩いていた。
そして隣りを寄り添うように歩いているのは……。
――渡辺さん?
「あれ、川島の隣りにいるの、渡辺さんだよね?」
市原がささやくようにそう尋ねた。
「そうだね。どうしてよしくんと一緒にいるんだろう」
「帰ってく時は一人だったから、途中で会ったのかな?」
何を話しているのかは聞こえない。だが見てしまった。
時折顔を見合わせて、ふわりと笑う渡辺のその表情を。
それを少し照れくさそうに見つめ返す、良樹のその視線を。
(……ああ、そっか)
それがただの友達同士のものではないと志保が悟るのに、そう時間はかからなかった。
やがて渡辺が手を振って良樹と別れた。
一人になった良樹は、志保たちの方へと歩いてくる。
その表情はどこか上の空で、しかし妙に嬉しそうだった。足取りも軽いように見える。
「……っ!」
どちらが先に動いたのか。あるいは同時だったか。
気づけば志保と市原は、店の看板の裏に二人で身を潜めていた。
そして自分たちの存在が彼にバレないように、そっと良樹の様子をうかがう。
――よしくん、なにか独り言を言ってる?
やがて良樹は、二人が隠れている物陰のすぐ前を通り過ぎていく。
その瞬間、二人は聞いてしまった。
彼が無邪気に、そして浮かれて口にしていた独り言の、その正体を。
「……やべえ。カノジョが、できちまった……」
それは、ハッキリと二人の耳に届いていた。
夜、布団に入ってからも、志保はなかなか寝付けなかった。
目を閉じると、どうしてもあの無邪気な声が蘇ってしまう。
「……やべえ。カノジョが、できちまった……」
思い出すたびに、息ができなくなる。
(……終わったんだ)
(もう、全部、終わっちゃったんだ)
何が、とか、どうして、とか、そんなこと、もう何も考えられなかった。
ただ、これだけはわかる。
――よしくんの隣は、もう私の場所じゃなくなっちゃったんだ。
隣りに居ることが当たり前だった良樹。
ずっと一緒に居られると思っていた良樹。
でも明日からは自分たちの間に違う人が入る。
そのたったひとつの事実だけが、冷たい石コロのように、彼女の胸の真ん中に居座って動かない。
(こんなことになるなんて、夢にも思わなかった……)
美咲に言われた言葉が、何度も頭のなかでリフレインする。
涙は出なかった。
こんなにも悲しいのに、こんなにも苦しいのに、これほど辛いのに、それなのに涙は一粒たりとも流れはしなかった。
志保はただただひたすらに、何もない暗い天井を見つめることしかできなかった。
良樹が告白された翌日、朝は一緒に登校したけれど志保はどんな顔をしたらいいのかわからなくて、何を話したらいいのかわからなくて、いつもみたいに話が弾まなかった。
そんな彼女を良樹も、途中で合流した市原も美咲も心配そうに見ていたけれど、志保は自分でもどうしようもなかった。
そして2時限目の授業が終わった後、良樹が志保の席まで来た。
「志保」
話しかけられた瞬間、志保の心臓は大きく跳ね上がる。
(なんだろう。もしかして、昨日のこと?)
自分の聞き間違いかもしれない。そんな一縷の望みをまだ捨てきれてはいない。そうであって欲しかった。
(聞き間違いなら、笑い話で済ませるもんね……)
そんな淡い期待を、それでも彼女は持ち続けている。
だが彼が口にしたのは、志保が一番聞きたくなかった言葉だった。
「志保。今日は渡辺と一緒に帰るから。待ってなくていいぞ」
――ああ。やっぱり。
頭の中が真っ白になる。
良樹の背後に、渡辺が笑みを浮かべているのが見えた。
彼女は志保の視線に気づくと、少しだけ申し訳なさそうに小さく会釈をした。
その微笑みは、志保には完璧な勝者の微笑みに見える。
現実が今、目の前で一枚の残酷な絵となって、志保に鋭い刃を向けている。
淡い期待など、もはや粉々に打ち砕かれてしまって見る影もなかった。
「……うん。わかった」
志保は、力なくそう答えるのが精一杯だった。
待ってなくていいぞというその言葉は、先に帰れと言ってるようにしか聞こえない。
(ああ、きっとこうやって少しずつ今までと変わっていっちゃうんだな)
今日はと言ったけれど、もちろん今日だけのはずがない。
でも、だからと言って自分のこの気持を露わにはできない。
特に家に帰ったら絶対に隠し通さなければいけない。
(そうじゃないと薫子さんが心配しちゃうもの。樹さんも竜樹さんも瑞樹ちゃんも気にしちゃうかもしれないもの)
志保にとって川島家のみんなは、本当に心から大切な存在だ。
そんな人たちを失いたくないし、傷つけたくないし、みんなの気分を害すような真似は、したくない。
――私のこの想いは、自分の中だけに留めておくのが一番良いんだ。辛いけど、悲しいけど、そうした方が良いんだ。
志保は無理やりそう自分を納得させるのだった。
終業のチャイムが鳴り帰り支度の終わった頃、良樹が志保のところに来て「気をつけて帰れよ」と声をかけた。
「うん。よしくんもね」
そう答えるのも待たずに、良樹は渡辺と一緒に教室を出て行く。教室内が少しザワついた。
(気をつけて帰れって……今まではよしくんが守ってくれたじゃない……だから安心してたのに)
わかっている。そんなことを考えてしまうのは間違っているとわかっている。
けれど……やはり仲良さげに連れ立って帰って行く2人を見ると、とても寂しくて泣きたくなる。そこは私の居場所だったのに、と思ってしまう。
「ちょっと志保、どうしたの? 川島とケンカでもしたの?」
美咲が慌てて飛んできてそう言った。
「ケンカなんかしてないよ。ただ……」
それ以上何も言えなかった。
(言いたくないよ……)
言ったら総てを認めてしまうような気がして。きっと心のどこかで受け入れることを拒んでいるのだろう。
美咲はすぐに察してくれたようで、それ以上何も言わなかった。その日、志保は美咲と一緒に帰った。




