初恋バタフライ
翌日の朝は、前日の出来事がウソのように、いつもと同じく平穏で穏やかな朝でした。
「志保ちゃーん、そろそろ学校に行く時間よ!」
「はーい!」
私は「いってきます」と言ってから、元気よく歩き出します。
住宅の入り口にある門を出ると、そこに人影がありました。
「あれ? よしくん?」
それは先に学校へ行ったはずの、よしくんでした。
「どうしたの、よしくん。先に行ったんじゃなかったの?」
「ああ、まあ、そうなんだけどさ……」
よしくんは、なんだか口ごもっていました。
「また一緒に行こうかと思って……」
「えっ?」
「ダメか?」
「ううん。ダメじゃない、ダメじゃないよ。いいよ。一緒に行こう」
私たちは久しぶりに二人並んで学校へ向かいました。
でも、やっぱり昨日のこともあって、少し気まずくて重たい空気です。会話も途切れ途切れで、あんまり弾みません。
「あのさ……」
しばらく歩いていたら、よしくんがふいに口を開きました。
「昨日のことなんだけどさ……」
「……うん」
私は少しだけ身構えて、よしくんの言葉を待ちました。
「昨日俺に言ってくれたこと、嬉しかったよ。本当に」
「……うん」
「でもさ、昨日の今日ですぐ頭が切り替わるほど、俺は器用じゃないみたいなんだ。渡辺のことを本気で好きだったのはウソじゃないし」
「……うん」
「だからさ、えっと、あの……とりあえず今日から、俺に勉強を教えてくれないか?」
「えっ!?」
私は、思わず大きな声を出してしまいました。よしくんが、あんなにイヤがっていた勉強を私に教えてほしいって……そう言ってる?
その言葉の意味を、私は一瞬で理解しました。
(ああ、そっか)
よしくんは言葉じゃなくて、こうやって……こうやって私に答えをくれようとしてるんだね。
不器用で、まっすぐで、でも誰よりも優しいよしくん。
そのよしくんらしいやり方で、私が一緒の高校に行きたいと言ったことに、応えようとしてくれてるんだね。
視界が、急に滲んできちゃいました。
目の前にいるよしくんの顔が、ぼやけてよく見えなくなります。
(ダメだよ。泣いちゃダメ。せっかく、せっかくよしくんが勇気を出してくれたんだから)
私は溢れそうになる涙をぐっと堪えて、今の自分にできる最高の笑顔を作りました。
「……うんっ!」
私は、何度も、何度も、力強く頷きます。
「うん、もちろん! 私でよければ、いくらでも教えるよ! 一緒に頑張ろうね、よしくん!」
私のその言葉によしくんは少しだけ驚いたような顔をした後、照れくさそうに、でも本当に嬉しそうに、はにかんで笑ってくれました。
私たちは、また並んで歩き出します。
さっきまでの、あの重たくて気まずい空気は、もうどこにもありませんでした。
まだ少しだけお互いに照れくさくて、たくさんは話せないけれど。でも隣にいる彼の体温と時々触れ合う腕の感触が、どんな言葉よりも雄弁に私たちの新しい関係の始まりを教えてくれているようでした。
冷たく澄んだ冬の朝の空気が、なんだかとても心地いい。
(ああ、神様、ありがとう)
私の長い長い片想いが、今やっと、ほんの少しだけ報われた気がします。
私たちの新しい朝が、今、始まりました。
あれから、季節は少しだけ進みました。
凍えるような寒さはだいぶ和らぎ、ガラス窓越しに差し込む日差しには、どこか春の気配が混じっています。
とある日曜日の午後。区立図書館の自習室は穏やかな静寂に包まれています。
参考書とノートが広げられた長机で、私たちは並んで座っています。
「あー、くそっ……! なんでこのXがこっちに来んだよ……!」
向かいの席の受験生が、迷惑そうに一瞬だけ顔を上げました。
私は慌てて人差し指を口に当てて、「しーっ」と小さな声で注意します。
よしくんは、「わ、悪い……」と、バツが悪そうに頭を掻きました。
あんなに勉強を嫌がっていたのが嘘みたいに、彼は今、毎日必死に数学の問題と格闘しています。
時々わからないことがあると、子供みたいに悔しそうな顔で唸るのがなんだかおかしくて、そしてとても愛おしい。
「もー、よしくん。ここは、さっき教えたでしょ? この公式を使うんだよ」
私はクスクスと笑いをこらえながら、彼のノートをそっと覗き込みます。
顔を寄せると彼の髪から、いつもと同じ、太陽みたいな匂いがしました。
あの修学旅行の夜、布団の中で感じた匂いとは少しだけ違う。
今のこの匂いは、ただ、ひたすらに心地良いんです。
「あ……そっか、こうか! なんだ、そういうことかよ!」
私が教えたヒントで、ようやく答えにたどり着いたらしいよしくんは、パアッと顔を輝かせました。
その、あまりにも無邪気な笑顔に、私の心も温かくなります。
「すげえ! 解けた! お前、やっぱ教えんの上手いな! サンキュ!」
彼は、心の底から嬉しそうに、そう言って笑いました。
その素直な感謝の言葉。
私は、世界で一番幸せな女の子なんじゃないかなって、本気で思いました。
「……よしくんが頑張ってるからだよ。私、信じてたもん。よしくんなら、絶対できるって」
私の言葉に、彼は少しだけ照れくさそうに視線をそらし「……おう」と短く呟きました。
私たちは、また静かに、それぞれの問題集へと視線を戻します。
カリカリ、と、二人のシャープペンシルがノートの上を滑る音だけが、静かな空間に響いていました。
窓の外の空は、どこまでも青く澄み渡っています。
私は、ペンを走らせる手を一度止めて、真剣な眼差しで問題集に向き合うよしくんの横顔をそっと見つめました。
(これでいいんだよね)
恋人同士ではないけれど、今はこれでいいや。
(来年は、よしくんと同じ高校に通えたらいいなぁ……)
私は心の中で、そう呟きました。
私は、よしくんという、たったひとつの花を見つけた。それは私の初恋。
今はまだ、その花の周りを少しだけ臆病に飛び回っている小さな蝶々かもしれない。
でもいつかきっと、その花にちゃんと留まれる日が来るって、そう信じているの。
<完>




