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慟哭

 いろいろなことがあった修学旅行も終わり、良樹と志保は家に帰った。

 だが良樹は帰るなり部屋に直行して、そのまま出てこない。

 

「良樹は部屋から出てこないし、お父さんも竜樹もまだ帰ってこないし、志保ちゃんのお土産でお茶でも飲みましょうか。三人で」

 

 薫子のその言葉で、女子三人のお茶会が始まった。

 お土産の八つ橋を食べながら、お茶を飲みながら、志保は二人に修学旅行での出来事を話した。

 

「鹿にせんべいを全部食べられちゃったんだよ!」

「あ、なんか聞いたことある。奈良の鹿って、人に慣れててすっごい図々しいんでしょ?」

「そうなの。どんどん寄ってきて怖いぐらいだったぁ」

 

 そんな他愛のない、けれど楽しい会話が長らく続いた。

 

 志保の話すのは楽しかったことばかり。だが思い返すと、それは藤原と一緒にいた時の思い出ばかりなことに彼女は気づいた。

 

(行く前は、よしくんと楽しい修学旅行の思い出を作れるかも……って思ってたんだけどなぁ)

 

 藤原といるのが楽しくないわけではないのに、それでもやはり良樹のことが気になってしまう。

 自分のそんな気持ちが良樹をあんな風にしてしまったかもしれないことを思い出し、志保はまた気分が沈んでいった。もちろんそんなことは、おくびにも出さないが。

 

 そんなことを考えていた志保に、瑞樹がふいに「そういえば良にい、なんか帰ってきた時に元気なかったね。修学旅行で何かあったの?」と問いかけた。

 

「え? そうかな? 別に何もなかったと思うけど」

「ウソだぁ。絶対何かあったでしょ。良にいはわかりやすいから、わたしにだってすぐわかるんだから」

 

 志保が答えに困っていると、瑞樹の口から信じられない言葉が飛び出した。

 

「良にい、もしかして渡辺さんにフラれたのかな?」

 

 どうして瑞樹が渡辺のことを知っているのか、志保にもわからない。志保は絶対に話していないのに、いったいどこで知ったのだろう。

 

「うーん、良にいからよく渡辺って名前を聞くからさ。女の子の名前みたいだったし、良にいが志保ねぇ以外の女の子の名前を言うなんて今までになかったから、だからカノジョなのかなぁって思って」

 

 瑞樹の観察眼に志保は舌を巻いた。とても小学4年生とは信じられないくらいに周囲をよく見ている。

 だが瑞樹の言葉に、志保は何も答えられなかった。

 ただ俯いて、膝の上の拳をぎゅっと握りしめるだけ。

 そんな彼女を見て、瑞樹は何かを察したようだった。

 

「……そっかぁ。良にい、フラれちゃったのかぁ、だから元気ないんだね」

 

 少しだけしょんぼりした声で、瑞樹は一人で納得したようそう呟いた。そして志保の顔を覗き込むようにして、こう言った。

 

「でもさ、志保ねえ、大丈夫だよ!」

「え……?」

 

 瑞樹は、しょんぼりした顔から一転、太陽みたいな笑顔になって志保の手をぎゅっと握った。

 

「良にいはすぐ元気になる! だって良にいには、最強の志保ねえがいるじゃん!」

 

 まるで秘密の呪文を教えるかのように、瑞樹は声を潜めた。

 

「渡辺さんなんかいなくたって、へっちゃらだよ。志保ねえがいれば、良にいは絶対すぐ元気になる。だってね、私は知ってるもん。良にい、本当は志保ねえのことが、いっちばん大切なんだもん!」

 

 悪意のない瑞樹の純粋な励まし。だがその言葉が、今の志保には何よりも残酷に突き刺さった。

 

(違うの、瑞樹ちゃん。違うんだよ……一番大切?  私が?  そんなはずない。よしくんが一番大切に思ってるのは私じゃないの)

 

「……ちがう……」

「え?」

「ちがうの……っ!  よしくんが一番大切なのは、私なんかじゃ、ないの……っ!」

 

 一度口に出してしまったら、もうダメだった。

 あれほど抑えていた自分の想いが、絶対に隠し通そうと誓っていた感情が、ぐちゃぐちゃになって次々と溢れ出してくる。

 

「私……私が、よしくんを……もう、前みたいに、なれないの……っ!」

 

 そこまで言って、志保は言葉に詰まってしまった。俯いた彼女の眼からは涙がポロポロ溢れてしまい言葉にならなかったのだ。

 

 そんな志保に対して薫子は「志保ちゃん、こっちにいらっしゃい」と優しく言った。

 志保が言われるまま泣きながら薫子のそばに寄ると、薫子は志保をギュッと抱きしめた。

 

「志保ちゃん、誤解しないでね。もちろん良樹のことは心配よ。でもね、それ以上に私はあなたのことが心配なの。あなたは昔からそう。辛いことがあると、全部自分一人で抱え込もうとするクセがあるわよね。ここに来たばかりの頃みたいに」

 

 確かにそうだった。志保は川島家の皆に気を遣うあまり、そして自らの居場所を失いたくない想いが強すぎるあまりに、どうしても自分の中に全て抱え込んでしまうクセがあった。

 それは幼少期の体験で培われてしまった彼女の生存本能によるものだったかもしれない。

 

「でもね志保ちゃん、あなたはもう一人じゃないのよ? 昔とは違うの」

 

 薫子は優しく志保をそう諭した。まるで本当の母親のように。

 

「あなたたちに何かあったのは、帰ってきた時すぐにわかったわ。言いたくないのなら言わなくてもいいけれど、でももしよかったら話してもらえないかしら? やっぱり、あなたの、そして良樹の2人の母親として心配なのよ」

 

 2人の母親。薫子は確かにそう言った。

 

(2人って、私も含めてなの?)

 

 志保には信じられなかった。彼女はどこかでやはり実の子供と自分は違うのだと思っていた。そしてそれを当然のことだと思っていた。それもまた幼少期の体験からくる自己防衛なのだが、もちろん気づくはずはない。

 

「でも……、私は、みんなとは血が繋がっていない、し……赤の他人、なのに……」

 

 志保は泣きじゃくりながら、そう言った。

 

(違う、私はあなたの娘じゃない。私は、ただの厄介者。この家に転がり込んできた、赤の他人なの……。あなたの本当の子供の幸せを、私の存在が、私のこの恋心が、全部めちゃくちゃにしてしまう……)

 

 志保はギュッと唇を噛み締め、こみ上げてくる嗚咽を必死に堪えた。

 そんな彼女の心の壁を全て見透かしたように、薫子は、まるで聖母のような優しい声で志保に語り掛けた。

 

「志保ちゃん、あなたの境遇が境遇だから信じてくれなくてもいいのだけど、私は志保ちゃんがこの家に来た時から、ずっとあなたの母親のつもりよ? 血の繋がりなんて関係ないわ。お腹を痛めて生んだ子供たちと同じように接してきたつもり。でも、もしかしたら違ったかしら?」

「違い、ません……違いません!」

 

 志保は声を振り絞るようにして、そう言った。それは迷うことなく即答できる。

 

 川島家に来てから、彼女はただの一度として肩身の狭い想いをしたことがない。イヤな気持ちになったことがない。

 今まで普通だったことが、この家に来てからは普通ではなくなった。むしろ真逆のことが普通になったのだ。

 

「そう。私の気持ちは伝わってたのね。嬉しいわ」

 

 そう言って薫子は志保の頭を優しく撫でた。その手は優しくて温かくて、志保はますます涙が溢れてしまった。

 

「私……私、よしくんが好きなんです。ずっと前から、よしくんのことが大好きなんです」

 

 志保は薫子に抱きしめられながら、とうとう自分の本心を打ち明けてしまった。

 あれほど隠し続けていた、心の奥底に封印していたはずの秘めた想いを。

 そして、その一言を口にしてしまったら、もう戻れなかった。

 志保がずっと心の最も深い場所に鍵をかけて、誰にも見つからないようにと必死で隠してきたパンドラの箱。その蓋が、とうとう開いてしまったのだ。

 

「……ずっと、好き、だったんです。きっとこの家に来て、よしくんに会った、あの時から……ずっと……」

 

 途切れ途切れの言葉が、涙と一緒に溢れ出す。

 

「でも、言えなかった……絶対に、言っちゃいけないって……思ってたから……」

 

 志保の脳裏に、いくつもの幸せな光景が蘇っては消えていく。

 

「だって、もし、私がよしくんを好きだって言って……もし、よしくんに断られたら……私、もう、今までみたいに、みんなと笑えない……っ」

 

 みんなで笑いながら囲んだ、温かい夕食の風景。

 

「もし、万が一、よしくんが私のことを好きになってくれたとしても……きっと、いつかは喧嘩したり、別れたりするかもしれない……そしたら私……もうこの家にいられない……っ!」

 

 竜樹が志保の苦手なピーマンをこっそり食べてくれた、あの日の夜。

 

「この場所が、なくなるのが、怖かったの……っ! 薫子さんが『おかえり』って言ってくれる声も、樹さんが頭を撫でてくれる手も、全部、全部……私が我慢すれば全部守れるって……そう、思ってたのに……」

 

 瑞樹と二人で、リビングのソファで毛布にくるまって怖い映画を見た、あの日の温もり。

 

「だから、決めてたのに……私は、よしくんの『家族』でいよう、って。恋なんか、しちゃいけないん、だって……この幸せを、壊さないために、私のこの気持ちは、お墓まで持っていこうって……そう、決めてたのに……っ!」

 

 志保が熱を出した日、薫子が一晩中そばにいて、冷たいタオルを何度も取り替えてくれた、あの匂い。

 その全てが大切な思い出。大切な宝物、絶対に失いたくない、手放したくないもの。それを守るために自分の気持ちを押し殺そうとしていたのに……。


 ――ごめんなさい。ごめんなさい。


 ――私が、我慢できなかったから。私が、弱いから。


 ――そのせいで、この宝物みたいに大切だった場所を、私が壊してしまう。


「ごめんなさい……っ! ごめんなさい……薫子さん……っ!」

 

 志保は、ただ泣きながら謝り続けることしかできなかった。

 

「そう……志保ちゃん、あなたそんなことを考えていたのね。そんなふうに思っていたのね。ずっと一人で悩んでいて、辛かったわね」

 

 薫子は、より強く志保を抱きしめた。

 その時、志保の頭の中で誰かが囁いた。

 誰だかわからない。だが、ハッキリとその声はこう言った。「もう疑わなくていいんだよ。信じていいんだよ」と。

 

「わた、しの……私の、せいで……私、これからどうしたら……いいのかわからなくって……」

「違うよ、志保ねえ!」

 

 それまで黙って話を聞いていた瑞樹が、声を荒げて叫んだ。

 

「それって、志保ねえは何にも悪くないじゃん。なのに、なんで志保ねえはそんなに自分を責めるの?」

 

 そう言うと瑞樹は、志保の手を優しく握った。

 

「志保ねえが、そんな風に思ってたなんて全然知らなかった。気づけなくってごめんね」

「違うよ、瑞樹ちゃん。瑞樹ちゃんは何も悪くないの。だから謝らないで。悪いのは私なの」

 

 瑞樹は大きくかぶりを振った。

 

「志保ねえ、志保ねえは何も悪くないよ。誰にも謝る必要ないじゃん」

「瑞樹ちゃん……」

「聞いて、志保ねえ。私もね、お母さんと同じで、志保ねえのことを本当のお姉ちゃんだと思ってきたよ。志保ねえが初めてこの家に来た時、私は本当に嬉しかったの。お姉ちゃんが出来て、ホントにホントに嬉しかったんだよ? 血の繋がりなんて関係ないって、私もずっと思ってた。志保ねえは私のお姉ちゃんだって、最初からずっとそう思ってるよ。もちろん、これからもずっとね」

 

 瑞樹は、握っている手にギュッと力を込めながらそう言った。自分よりも小さなその手は、けれどとても温かくて、志保はますます涙が止まらなくなってしまった。

 

「ねえ、志保ちゃん。恋愛はね、理屈じゃないの。誰が良いとか悪いとか、そういうことでもないの。たしかに良樹の本心はあのコにしかわからないから、志保ちゃんの願うような結果にはならないかもしれないわ。こと恋愛に関しては、親だって指図することなんて出来ないから……たとえ本音では志保ちゃんと付き合って欲しいと思っていてもね。それはわかるでしょう?」

 

 志保は小さくコクンと頷いた。

 

「でもね、私と瑞樹も、もちろんお父さんと竜樹だって、みんないつでも志保ちゃんの味方なのよ? たとえ何があってもね。だから。それだけは忘れないで」

「薫子さん……」

「ねえ志保ちゃん。さっき血の繋がりなんて関係ないって言ったけど、だからこそ志保ちゃんは良樹のことを好きになってもいいのよ。むしろその方が自然かもしれないわ。アナタは何も間違っていないの。だから、自分の気持ちにフタをしてガマンすることだけはしちゃいけないわ」

 

 話しながら薫子はずっと志保の頭を優しく撫でている。そして涙で濡れた頬を、その温かい指で優しく拭った。

 

「私……このままでいいの? よしくんを好きなままでいいの?」

「いいに決まってるじゃない!」

 

 瑞樹が、力強くそう断言した。

 

「志保ねえ、自分にウソつかなくっていいんだよ! だいたいさっきも言ったけど、良にいだって、ホントは志保ねえのことが大好きなんだから」

「……瑞樹ちゃん……」

「良にいってバカだからさあ、きっと自分でもわかってないと思うんだよねぇ。でも絶対そう。良にいが一番好きなのは、絶対絶対志保ねえだって。間違いないって」

 

 瑞樹はそう言って、一生懸命に志保を励まそうとした。その気持ちがありがたくて、志保はとても嬉しかった。

 

「良樹は私の息子よ。でもね志保ちゃん、あなたは亡くなったご両親から託された大事な娘でもあるの。私はずっとそう思ってきたわ。だからね志保ちゃん。あなたの心が一番大切なの。あなたの笑顔はこの家の宝物なんだから。あなたはご両親と私たち夫婦の大切な宝物なんだから」

 

 薫子は、志保を抱きしめる腕に優しくそっと力を込めた。その包まれるような安心感、遠い昔に感じた気がする。

 

(私はこの家に来てよかった。川島家の一員にしてもらえて本当に幸せだ。こんなに愛情を注いでくれる人たち、絶対他にいないもの。こんなに優しくて温かい人たち、絶対他にいないもの)

 

 言葉にはならなかった。感情が、思考が、ぐちゃぐちゃに溶けて溢れ出してもう止まらない。

 志保は、自分から薫子の胸に顔をうずめていた。その温かさは、知っている匂いは、遠い遠い昔の記憶の扉を容赦なくこじ開けた。

 

(お母さん、だっこして)

 まだ小さかった自分が、大好きだった母に飛びついていく。優しく頭を撫でてくれる、そのやわらかい手。

 それはもう二度と戻らない、もう二度と手に入らないと思っていた温もりだった。

 それが、今、ここにある。

 

「う、うわあああああああん……っ!」

 

 志保はあの頃に戻ったように、ただ声を上げて小さな子供のように泣きじゃくった。

 

「う、うわあああああん……お母さん……っ! お 母さん……っ!」

 

 それは、彼女の本当のお母さんに向けた叫びだったのかもしれない。

 しかし同時に、今、目の前で自分を強く抱きしめてくれている、もう一人のお母さんに向けた、生まれて初めての心からの叫びでもあった。

 そしてこの時、志保は初めて薫子のことを、ごく自然にお母さんと呼んでいた。

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