宣戦布告
志保はもう、自分でもどうしたらいいのかわからなかった。
(どうしよう。よしくんが、私のせいでみんなを傷つけてる……)
志保は、渡辺の笑顔が忘れられなかった。
きっと全部気づいてしまったんだと、直感的に思った。
(私がよしくんの隣にいようとすることが、渡辺さんを悲しませているんだ。どうしよう。どうしたらいいの……わからないよ)
美咲が「行こ」と手を引いてくれた。その温かさに縋るように志保はその場を離れた。
彼女は、もう良樹の顔を見ることができなかった。
もちろん拒絶したいわけじゃない。
でも自分がいると良樹がおかしくなってしまう。自分がいると、みんなが傷つく。自分の想いが、みんなを傷つけていく。
(どうすればよかったんだろう……)
最初から自分が、ただの家族でいられれば、こんなことにはならなかったのだろうか。良樹のことを好きにならなければ、他の人を傷つけたりしなくて済んだのだろうか。
(どうして私は、よしくんを好きになってしまったんだろう……)
志保は、もはや自分の恋心すら自ら否定するほど追い込まれていた。
――ごめんなさい、よしくん。
――ごめんなさい、渡辺さん。
ただ心の中で二人に謝り続けることしかできなかった。
土産物屋からバス停へ向かう良樹の足取りは、鉛のように重かった。
江藤は彼を完全に無視し、志保は一度も自分の事を見ようとしない。
気まずいなんてレベルのものじゃない。良樹の周りだけ、空気がごっそりとえぐり取られたようだった。
バスに乗り込むと、彼は一番後ろの空いている席に一人で座った。窓の外を流れていく景色を睨みつけても、頭にこびりついて離れないのは、渡辺の悲しそうな笑顔と志保の拒絶の瞳だ。
(俺は、どうすればよかったんだよ……)
答えなんて出るはずもなかった。どれだけ考えても、自分の行動が全て裏目に出ていることしかわからない。後悔と苛立ちが胸の中で渦を巻いて、吐き気がした。
――うるせえ! うるせえ! うるせえ!
良樹の心の奥の奥で、子供のような自分が泣きながら叫んでいた。
――なんで俺ばっかり、こんなに責められなきゃいけねえんだよ!
――俺はただ、初めて女の子のことを本気で好きになっただけじゃねーか!
――志保のヤツだって、なんでただ黙って笑っててくれねえんだよ!
――今までみたいに、俺の隣りで、ただ黙って笑ってくれてりゃよかったじゃねえか!
――藤原なんかの前であんな顔しやがって、ふざけんなよ!
その誰にも届かない声にならない無様な叫びは、後悔と苛立ちが渦を巻く胸の中で、虚しく消えていった。
不意に、良樹の隣に誰かが座った。藤原だった。
いつもの人好きのする笑顔は消え、静かで、底の知れないほど真剣な目をしている。
「川島くん、少しだけいいかな」
断る理由も、権利も良樹にはない。無言で頷くしかなかった。
「キミが槙原さんをどう思っているのか、それは僕が口を出すことじゃないよ。幼馴染だとか、家族みたいだとか、キミにはキミの言い分があるんだろう。それはわかってる」
淡々とした口調。それは江藤や市原のような熱を持った怒りとは違う、もっと冷たくて、鋭い刃物のような響きがあった。
「でもさ、どんな理由があっても、槇原さんをあんな顔にさせていい理由にはならないよ。川島くんのやっていることは、自分の感情をぶつけているだけだ。彼女の気持ちを無視した、ただの暴力だよ」
「……っ」
暴力。その言葉が、良樹の胸に突き刺さった。
(そうだ、俺は志保を傷つけたんだ)
それは暴力だと、そう言われると自分の罪が一段と重くなった気がした。
「はっきり言うよ。僕は槙原さんが好きだ。本気でね」
その告白は、あまりにも静かで、だからこそ揺るぎない覚悟がこもっているのがわかった。
良樹の腹の底で渦巻いていた黒い感情が、嫉妬が、藤原のその一言の前ではひどく陳腐で、みっともないものに思えた。
「僕は、彼女に笑っていてほしい。君のように、自分の感情で彼女を振り回して泣かせるようなことは絶対にしない」
藤原の目は、もう良樹を見ていない。
その視線の先には、少し前方の席で、窓の外をぼんやりと眺めている志保の後ろ姿がある。
その瞳は、ひどく優しく見えた。良樹が、いつの間にか志保に対して向けられなくなっていた優しさだ。
「だから……もう彼女の隣にいるな、とは言わない。それは僕が決めることじゃないからね」
藤原は一度言葉を切り、そして、今度は宣告するように視線を戻した。
「でも、もしキミがこれからも彼女を傷つけるようなら、僕が全力で彼女を守る。いいかい、川島くん」
――君に、槙原さんは任せられない。
それは、恋敵としての明確な宣戦布告だ。
江藤にも市原にも言われた。でも、藤原から告げられたその言葉は、決定的に違った。
(コイツは、本気で志保を奪いに来てるんだ……)
だが、良樹は何も言い返せなかった。
ふざけるな、と殴りかかることも、お前には関係ない、と吠えることもできなかった。なぜなら、藤原の言っていることが、全て事実だからだ。
自分は志保を傷つけ、悲しませた。そして藤原は志保を守ると言っている。どちらが志保の隣に立つべきかなんて、考えるまでもない。
「……まず僕は、彼女が本当は何が好きで、何に傷ついて、何を恐れているのか、その話をちゃんと聞くことから始めるよ」
藤原の言葉のひとつひとつが、良樹の胸に突き刺さる。
「キミは、知ってるのかい? 彼女がキミの隣で、どんな思いで笑っていたのか。キミがいない場所で、どんな顔で泣いていたのか」
「……っ!」
「きっとそんなこと、一度も考えたことすらなかったんだろう?」
藤原はそれだけ言うと、静かに良樹のそばを離れて志保と美咲のところへと戻っていった。バスのエンジン音だけが、やけに大きく聞こえる。
良樹は初めて心の底から理解したのかもしれない。
このままでは、本当に志保は自分の知らないどこかへ行ってしまう。自分の手の届かない、藤原のようなやつの隣で、笑うようになってしまうんだと。
その想像が、どうしようもない恐怖となって、彼の心臓を冷たく握りつぶした。




