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市原の決意

 市原慎司のグループが宿泊するホテルに着いたのは、良樹たちよりだいぶ後だった。

 

(楽しかったけど、さすがにちょっと疲れたなぁ)

 

 とりあえず部屋に行って少し休みたい。ゴロゴロしたい。そんなことを考えながら、彼はグループの仲間とともにロビーへと入った。

 

「ねえ、市原くん。少しおみやげ物とか見ていかない?」

 

 グループの女の子たちにそう誘われた市原は、内心では早く部屋で休みたいと思いつつ、彼女たちに付き合った。女の子からの誘いを断るという選択肢は、彼の中にはない。

 


「市原くんは、今日楽しかった?」

 

 女の子の一人がそう尋ねた。

 

「もちろん楽しかったよ。神社とかお寺とか正直興味ないけどさ、キミらと同じグループだからかな、すごく楽しかったよ」

 

 女の子たちが頬を赤らめた。こうして彼は、また女子人気を高めていく。

 

「んっ?」

 

 売店のある場所はロビーに近い。そこで話し込んでいる良樹と渡辺の姿が、市原の目に飛び込んできた。

 

(……ちっ!)

 

 彼は内心で舌打ちしながらその場を通り過ぎようとした。あまり見たくない光景だからだ。

 そして良樹たちの前を通り過ぎようとした時、ふたりの会話が漏れ聞こえてきた。

 

「川島くん、今日の夜の約束、忘れないでね?」

「わかってるって。……あー、でも、だりーな。一日中、江藤と藤原と一緒で、マジで疲れたわ。正直、部屋でゴロゴロしてえ」

「え……」

「わりいわりい、冗談だって!  絶対行くから、待ってろよな!」


 良樹がヘラヘラと笑いながらそう言い、それを聞いた渡辺が、少しだけ傷ついた顔で作り笑いを浮かべている。

 その光景を見て、市原の頭の中で何かが、ぷつりと切れた。

 腹の底から、黒いマグマみたいな何かが、せり上がってくる。

 

 ――コイツ……ぶっ殺してやろうか。


 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 内心の事とはいえ、誰かを「ぶっ殺したい」なんて衝動にかられたことは一度もない。

 それが親友であるはずのあの男に対して、生まれて初めて、一瞬とはいえ本気でそう思った。

 


(オマエが「だりい」って捨てようとしたその時間は、僕が喉から手が出るほど、欲しくて欲しくてたまらない時間なんだよ……!)

 

 どうしてアイツは、女の子を悲しませることばかり言うのか……。

 


 夕食後、市原はひとりでホテル内の自販機コーナーにいた。市原がジュースを飲んでいると、そこに偶然渡辺が現れた。


(えっ!? わ、渡辺さん!?)

 

 市原の存在に気づいた渡辺は、笑顔を浮かべながら歩み寄ってきた。好きな女の子と二人きりになる、初めての瞬間だった。

 

「ジュース飲んでるの?」

「う、うん。ちょっと喉が渇いちゃってさ」

「ふーん」

 

 市原は、勇気を振り絞って当たり障りのにない会話を試みた。

 

「……今日の奈良、どうだった?」

「うーん、お寺とか神社の良さって正直よくわからないんだけど、友達と一日一緒に出掛けてるみたいで楽しかったな」

 

 渡辺は、にこやかに答える。しかし、ふと真顔になって市原に尋ねた。

 

「ねえ、市原くん」

「な、なに?」

「市原くんって、川島くんの親友だよね?」

「え? あっ、ま、まあね」

「川島くん、なにかあったのかな。なにか聞いてる?」

「え……? どうかしたの?」

「なんか川島くん、ずっと上の空でさ。私と一緒にいても全然楽しくなさそうだし……もしかして私、何かしちゃったのかな……」

「……」

「さっきも、夜部屋に来てねって言ったら、正直だりーとか言われちゃって……冗談だって言ってたけど」

 

 その、か細く不安げな声。普段の彼女からは想像もできない、あまりにも儚げな横顔。


 ――違う。君は、何も悪くないよ。悪いのは、全部川島なんだ。アイツが君を、こんな顔にさせてるんだから。

 

「……アイツは、バカなんだよ」

 

 市原は、気づけばそう呟いていた。

 

「え……?」

「川島は、悪気があるわけじゃないんだ。ただガキなだけなんだよ。自分がどれだけ幸せな場所にいるのか、アイツは全然わかってない……だから、渡辺さんが気にする必要は全くないと思うよ」

 

 それは親友を庇っているようで、その実、最も手厳しくその本質を断罪する言葉だった。

 渡辺は、驚いたように市原の顔をじっと見つめた。

 

「……市原くんって優しいんだね。川島くんのこと、庇ってくれるんだ」

「庇ってるつもりはないよ。ただ事実を言ってるだけだから」

「……そっか」

 

 渡辺は、ふっと、自嘲するように小さく笑った。

 

「……私が子供なのかなぁ。川島くんの冗談だって、わかってるのにね。それなのにいちいち傷ついちゃってさ。バカみたいだよね」

 

 その強がりの下に隠された、あまりにも素直な弱さ。市原は、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。目の前の少女は今にも泣きだしそうだ。

 

「……そんなの、傷ついて当たり前だよ」

 

 市原の声は、静かで、しかし有無を言わせぬ強さを持っていた。

 

「好きな男にそんなこと言われて、傷つかない女の子なんているわけない。渡辺さんは、何も間違ってないよ」

 

 その、あまりにも真っ直ぐで、絶対的な肯定の言葉に、渡辺は何も言えなかった。

 ただ潤んだ瞳で市原の顔を、じっと見つめ返すことしかできなかった。


 

 好きな女性が、親友のせいで悲しんでいる。

 市原は聖人君子などでは決してない。

 今の彼は良樹に対して怒りしかなかった。ふたりを会わせたくないと、彼は初めて思った。

 

(少しぐらいお灸をすえたっていいよな……)

 

 市原はそう思った。

 そうだ。これは罰だ。渡辺さんを、そして槇原さんを傷つけた川島が、受けるべき当然の罰なんだ。

 だが、それを肯定しないもう一人の自分がいた。

 

 ――本当にそうなのか?

 

 もう一人の自分が、そう問いかけてくる。


 ――これは、本当に彼女たちのためなのか?

 

 ――お前が、親友から好きな女を奪うための、汚い言い訳じゃないのか?


 彼の脳裏に先ほどの、渡辺の泣き出しそうな顔が蘇った。

 

(部屋に川島が来なかったら、渡辺さんは悲しむだろうな……)

 

 彼女は今夜、川島が部屋に来るのを心待ちにしているはずだ。それを自分の嫉妬心のために邪魔するのか? そんなことをして、彼女のあの悲しい顔をもう一度見たいのか?

 市原は自問自答を繰り返した。

 

 ――違う。


 それは断じて、違う。

 市原は、脳裏に今日の全ての光景をもう一度再生した。

 土産物屋での、良樹の上の空の態度。

 志保と藤原を見つめる、あの黒い炎のような嫉妬の瞳。

 

(……今のあいつは、もう、まともじゃない)

 

 彼は、確信した。

 今の良樹が、渡辺の部屋へ行ったらどうなる? 彼はきっと、また上の空だろう。心はずっと、志保のことでいっぱいなはずだ。

 そして、そのどうしようもない苛立ちを、彼はきっと無意識のうちに渡辺へぶつけてしまうだろう。

 あるいは、嘘で塗り固めた空っぽの優しさで、彼女を欺こうとするだろう。

 

(そんなもの、渡辺さんが、本当に望んでいるものかよ……)

 

 違う。そんなのただ、彼女をより深く、そしてじわじわと傷つけるだけの、ただの毒だ。

 

(……なら、俺がすべきことは、ひとつだろ)

 

 たとえ今夜、彼女が一時的に悲しむことになったとしても、その毒から彼女を遠ざけなければならない。

 あの何もわかっていない親友が、これ以上彼女の尊厳を踏みにじる前に。

 市原は、強く唇を噛んだ。ポケットの中で、握りしめた拳が小刻みに震えている。

 

(……ああ、そうだよ)

 

 彼は、心の中でハッキリと認めた。

 

(これは、正義なんかじゃない。ただの醜い嫉妬だ。わかってる)

 

 でも、それでも。

 

(それでも、キミが傷つくのをわかっていて見過ごすことなんて、僕にはできない)

 

 市原は、顔を上げた。

 その瞳からは、もう迷いは完全に消えていた。

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