夏休み
夏休みになったからといって、特別何かが変わるわけではない。
良樹は休みに入った途端、毎日のように遊びに出かけていた。
その楽しそうな背中を見送るたびに、志保の胸の奥がズキリと痛む。
志保はといえば、なんとなく何もする気が起きず、ただダラダラと毎日を過ごしてしまっていた。
窓の外では、蝉がうるさいくらいに鳴いている。
その鳴き声は「オマエはいつまでそうしてるんだ?」と急き立てているように聞こえた。
「図書館にでも行こうかな……」
カレンダーはもう8月に変わっていたが、まだ宿題には手を付けていなかった。
別にどこでもよかった。別に何でもよかった。図書館じゃなくっても、今のこの気持ちを紛らわすことが出来れば、それでよかった。
「図書館で宿題しようかな……」
美咲と遊びに行ってもいいのだが、誘えばきっと付き合ってくれるとは思うのだけれど、それでも何となく遊びに行く気分にもなれず、結局その日は家から歩いて10分ほどのところにある区立図書館へ行くことにした。いずれにしろ宿題はしなくてはならないのだし。
「あれ? 槙原さん? 槙原さんだよね?」
売店でジュースを買って飲んでいた志保に、そう声をかけてきたのは藤原だった。
「あ、藤原くん」
もう夏休みなので、藤原が志保に会ったのは花火大会の時以来だ。
「1人?」
「うん。ヒマだったから宿題しようかなって思って。藤原くんは?」
「僕も1人なんだ。僕は本を読みに来たんだけどね」
「そっか。藤原くん、本好きだもんね」
「槙原さんは、もうお昼食べた?」
「ううん。まだだけど」
「そっか……槇原さん、あのさ……よかったら一緒に昼ごはん食べない? その、せっかくここで会ったんだし、さ。どう?」
「うん、そうだね……いいよ。ちょうどお昼だし、もう食べに行く?」
「え……」
藤原から一緒にお昼ご飯を食べないかと誘われて、志保は少し迷ったけれど一緒に食べることにした。
行き先は図書館から歩いて5分くらいのところにある、駅前の森永ラブ。ハンバーガーのお店だ。
良樹以外の男の子と2人きりでご飯を食べるのは初めてなので、志保は少しドキドキしながらストローでソーダをかき混ぜる。
「宿題やってたんだよね? 進んだ?」
沈黙を破ったのは、藤原の方からだった。
「うーん、まだちょっとしか進んでないかな。実は今日からやり始めたの」
「えっ、そうなの?」
藤原は、ハンバーガーを口に運びかけたまま、心底意外だという顔で目を見開いた。
「槙原さんのことだから、もう半分くらいは終わらせてるかと思ってたよ」
その反応に、志保は思わず小さく笑ってしまった。
「……意外?」
志保がそう言うと藤原は頷いた。
「意外って言うか……うーん……あの、槙原さんって要領が良いって言うか、無駄が無いって言うか……なんかそんな感じが僕はしてたからさ」
「私って、そんな風に見えるんだ」
「だってクラス委員の仕事とか、いつも完璧にこなしてるじゃない? だから、てっきり私生活でも、何でもきっちり計画通りに進めるタイプなのかなって」
「そんなことないよ。全然。夏休みの宿題は、毎年ギリギリになるタイプだもん」
「そっか……」
藤原は、なんだか嬉しそうに、はにかんだ。
「なんだか、安心した。僕も、読書感想文がいつも最後まで残っちゃうんだ」
「ふふ、一緒だね」
共通点を見つけたことで、ふたりの間の空気が、ふっと和らいだ。
藤原は、彼女が笑ってくれたことが嬉しくて、少しだけ饒舌になった。
二人の柔らかな時間が、静かに過ぎていく。
――こんな風に笑ったの、いつ以来かな。
良樹の隣で無理やり作っていた、あの引きつった笑顔とは違う。
美咲や市原くんに心配をかけまいと被っていた、あの仮面とも違う。
目の前で、藤原は少し照れくさそうにはにかんでいる。
その穏やかな空気が、ずっと張り詰めていた志保の心の、何かをふっと緩めていった。
「でも、やっぱりすごいよ、槇原さんは。僕にできないことができるし、よく気がつくし、いつも尊敬してるんだ」
真っ直ぐな瞳でそう言われて、志保は顔が熱くなるのを感じた。良樹や市原からは、絶対に言われない種類の褒め言葉だったからだ。
(そっか……私、そんな風に見えてたんだ……)
良樹は「手が、かかる、ヤツ」だと言う。
美咲は「放っておけない」と言う。
だが、目の前の彼は「尊敬してる」と言ってくれる。
――そんな私がいるって、知らなかったな。
それはまるで、埃をかぶっていた宝物を見つけ出してもらったような、ちょっと不思議で、そして少しだけ誇らしい気持ちだった。
藤原と別れた後の帰り道、志保はさっきまで彼と交わした会話を思い出していた。
まだ、胸の奥は痛い。良樹のことを考えると、すぐに涙が出そうになる。
けれど、その手に持った図書館の貸し出しカードが、なんだか明日への切符のように思えた。
(……明日も図書館、行ってみようかな)
約束をしたわけでもないけれど、藤原は明日も来るだろうか? それとも……でも……。
志保はほんの少しだけ、灰色だった夏休みに色がついた気がした。
「少しだけ、明日が来るのが楽しみになったかも」




