花火大会
毎年楽しみにしている地元の花火大会。いつも良樹と2人で見に行っていた花火大会。去年は自分と良樹、それに美咲と市原を加えた4人で見に行った花火大会。
(去年は楽しかったなぁ……)
たった1年前のことなのに、志保にはもう遠い昔のように感じられた。
(今年は浴衣どうしよう。よしくんは、きっと渡辺さんと行くんだろうな……)
それでも志保はかすかな期待を抱いて、薫子にお願いして浴衣の準備をしてもらうことにした。
夏休みを明日に控えた終業式の日。教室は通信簿の結果に一喜一憂する声と、「じゃあ、またなー!」という解放感に満ちた挨拶で溢れかえっている。もしかしたら今日が、一年で一番騒がしい日なのかもしれない。しかし、かつての「4人」の間に、その空気はなかった。
良樹は渡辺と楽しげに話している。
市原は、良樹に背を向けるようにして別の友人と話している。
美咲は、心配そうに志保のそばに寄り添っている。
そんな中、クラスの誰かが無邪気に言った。
「なあ、来週の花火大会、みんなで行かねえ?」
すぐに1人、2人と賛同の声があがった。
「アタシたちは……どうしよっか。ねえ志保?」
「う、うん、どうしようね……」
「川島は? 川島はどうする? 一緒に行かねえか?」
クラスメートの一人が良樹に声をかけた。だが良樹は、まるで今日の天気の話でもするかのように、あっさりと言った。
「あ、わりい。俺は渡辺と2人で行くからさ」
その瞬間、騒がしかったはずの教室の喧騒が、志保の耳から消えた。渡辺はほんの少しだけ困ったような表情をしていたが、志保たちの視線に気づくと、まるで「ごめんね」とでも言っているかのように、申し訳なさそうに会釈をした。だが、その瞳の奥に隠しきれない喜びの色が浮かんでいるのを、美咲は見逃さなかった。
「……そうかよ。そりゃよかったな、二人とも」
市原が静かに、しかし明確な怒りを込めて反応する。渡辺の肩が、わずかに震えた。
「なんだよ、その言い方。カノジョを優先すんのは当たり前だろ?」
そのやり取りを眺めていた美咲は、宣言通り何も口を出さなかった。良樹を責めもせず、ただ憐れむような冷たい目で彼を一瞥するだけだった。
良樹たちが帰ったあと、市原が志保のもとへ歩み寄った。
「……ごめんな、槇原さん。俺、あんな言い方しかできなくて」
「ううん、そんなことないよ。ありがとう、気遣ってくれて」
「……志保、アンタ、本当にそれでいいの?」
美咲が、志保の肩にそっと手を置く。その優しさに、志保は堪えていた涙がこぼれそうになった。
「うん、いいの。これで、いいんだよ……渡辺さん、きっとよしくんと行くの楽しみにしてるだろうし……」
「そんなの、アンタが気にすることじゃないじゃん。バカ」
「だって……」
本当は、全然よくなんてない。志保の胸にはぽっかりと穴が開いて、そこから冷たい風が吹き込んでくるみたいに、ひどく寒い。
(お願い、誰か私を助けて……)
それは、親友にすら漏らせない彼女の悲痛な心の叫びだった。
花火大会の当日。薫子は手際よく志保に浴衣を着付けてくれた。淡い水色に朝顔が描かれた、志保がお気に入りの浴衣。
だが、鏡に映る自分の姿を見ても、彼女の心は少しも弾まない。
「あらあら、志保ちゃん可愛い。……でも、ちょっと元気ないわね。何かあったの?」
「ううん、そんなことないですよ。市原くんと美咲ちゃんが一緒ですから、楽しみです」
薫子を心配させまいと、志保はまた、いつものように笑顔の仮面を被った。
「まったく、良樹にも見せてあげたいわ。志保ちゃん、こんなに可愛いのにねぇ。他のお友達と行くなんて、ホントにあの子ったら」
薫子は、たぶん自分たちの間で何があったのか気づいているんじゃないかと志保は思っていた。
それでも何も言わず、いつも通りに接してくれる。それは薫子の優しさなのだが……。
(もし、私が本心を全部打ち明けたらどうなるのかな。受け入れてくれるかな。それとも……)
志保が待ち合わせ場所に行くと、美咲と市原はもう待っていた。
結局今年の花火大会は、3人で行くことになった。美咲が「3人で行こう。その方が100倍楽しいから」と半ば強引に押し切ったからだ。
「お、槇原さん、やっぱ浴衣似合うな! 可愛いよ!」
「志保、すっごく可愛い! 髪飾りも素敵だよ!」
「ありがとう。美咲ちゃんの浴衣も可愛いね。似合ってるよ」
「よし、行こうぜ! 今日は僕が槇原さんを楽しませてやるからさ! 期待しててよね!」
市原がわざとおどけて志保の背中を軽く叩き、美咲が「ちょっと、志保に乱暴しないでよ!」と笑いながら志保の手を引いた。
「市原、今日は両手に花じゃん。嬉しい?」
「右手は文句なしだけど、左手は江藤さんだからなぁ」
「えーっ、何それ、ひどくない? こんな可愛い女の子つかまえて、何か文句でもあるわけ?」
「はは、うそうそ。ナニモモンクナンテアリマセンヨー」
「全然気持ちがこもってなーい! やり直しー!」
ふたりは志保の気持ちを知っているからこそ、いつも以上に明るく振舞って志保を楽しませようとしている。それがひしひしと伝わってきて……けれど、その優しさがかえって申し訳なくて、志保は胸が苦しくなった。
人の波に乗り、屋台の賑やかな光の中を3人は進んでいく。たこ焼き、りんご飴、射的。ふたりが「あれ食べよう!」「これやろう!」と誘ってくれるたびに、志保は「うん」と頷いて、笑おうと努力した。
けれど、どうしても心から楽しむことができない。楽しそうな周りの人たちの声が、まるで分厚いガラスの向こう側から聞こえてくるみたいに遠く感じる。
(こんなんじゃ、ふたりに申し訳ないよ……)
「――……っ」
志保は不意に立ち止まり、こめかみを、そっと押さえた。
それに気づいた美咲が心配そうに声をかける。
「どうしたの、志保? 具合悪くなっちゃったの?」
美咲は、そう言って志保の顔を覗き込む。
「……ううん、ごめん。なんだか、ちょっと人混みに酔っちゃった、みたい……。少し休めば治ると思うんだけど……」
「え、大丈夫かい、槇原さん!? だったら、どこか座れるとこに……」
「ううん! 大丈夫、大丈夫! それより、ごめん、美咲ちゃん、市原くん。私、先に帰ってもいいかな……? せっかく三人で来たのに、本当にごめんね……」
志保は、これ以上ないくらい申し訳なさそうな顔を作った。
「二人は、私のこと気にしないで楽しんできて? ね?」
具合が悪いから先に帰ると言われては、市原も美咲もそれ以上何も言えない。
だが、そのまま一人で帰すのも不安だった。
「そう言われても、槇原さんがそんなんじゃ、僕たちも楽しめないよ。送っていくから一緒に帰ろう」
「ううん。ホントに大丈夫だから。一人で帰れるから、心配しないで二人は花火大会楽しんで?」
「でもっ……」
その時、市原の脇腹を美咲が肘で軽く小突いた。彼女は小さく首を横に振る。何かを察したようだった。
「……志保、ホントに大丈夫? 一人で帰れる?」
「うん。大丈夫だよ。ごめんね、心配かけて」
美咲が志保の肩を、優しく叩いた。
「わかった。気をつけて帰るんだよ?」
「でも、江藤さん」
「いいから。志保の言う通りにしてあげよ。ねっ?」
美咲にそう言われ、市原は渋々口をつぐんだ。
二人と別れた志保は、花火の会場から少し離れたところで、一人自己嫌悪に陥っていた。
(……私、なにやってるんだろう)
具合が悪くなっただなんて、そんなの全部ウソだ。
でもそうでもしないと、あの優しい二人の前から消える理由が見つからなかった。
美咲はきっと気づいている。気づいていて、わかっていて自分を一人にしてくれたのだろうと思う。
だからこそ、なおさら自分のしていることが恥ずかしくなってくる。
(……バカだな、私。結局私は、いつだってこうやって逃げてばっかりだ……)
息が切れる。涙が滲んでくる。
「槇原さん?」
穏やかな声に顔を上げると、藤原肇が少し驚いた顔で立っていた。
「え? 藤原くん……なんで……?」
「……なんとなく。槇原さんなら賑やかな場所より、こういう静かな場所の方が好きかなって思って……探してたんだ」
「探してた? 私を? どうして?」
「どうしてって……この前みんなで花火大会行かない? って話してた時、その、川島くんが……」
藤原は、あえて言葉を濁した。
「その時の槇原さん、すごく悲しそうに見えたから……そのまま休みに入っちゃったし、どうなったかなって気になって……」
「それで、探してくれたの?」
「探してたというか、いないかなーって思ってたというか……」
そう話す藤原は、ひどく照れくさそうに見えた。
「槇原さんは一人で来たの?」
「ううん。そういうわけじゃないんだけど……」
言葉を濁すその様子に何かを察した藤原は、それ以上何も聞かずに、ただ優しく微笑んでくれた。
「そっか。じゃあ、よかったら僕と一緒に花火見ない? ここでじっとしていても危ないし、あっちなら少し座れる場所があるよ」
彼が指差してくれたのは、少し小高くなった神社の石段だった。
そこに並んで座ると、会場の喧騒が少しだけ遠く感じられる。
ドーン、と、空気を震わせる大きな音が響いた。
「あ……」
見上げると、夜空に大きな花が咲いている。花火が、始まってしまった。
「……きれいだね」
藤原が、ぽつりと呟く。
「……うん」
隣にいるのは良樹ではない。
その事実がまた胸を締め付けるけれど、藤原の静かな優しさが、今は少しだけ、志保の傷ついた心に染みるようだった。
ふたりは、ただ黙って夜空に咲いては消える光の花を見つめ続けた。
(……これで、いいのかもしれないな)
新しい夏。新しい思い出。無理に笑わなくても、隣りで静かに寄り添ってくれる人がいる。
(よしくんじゃなくても、いいのかな……)
そう思った、その時だった。
石段の下を、楽しそうな声が通り過ぎていく。
「あーん」
「ん……やっぱ、うめえな、これ」
聞き慣れた、一番聞きたいはずなのに、今一番聞きたくない声だった。
恐る恐る視線を下ろすと、そこには良樹と浴衣姿の渡辺がいた。
良樹の好きなタコ焼きを渡辺が口元に運び、良樹はそれを幸せそうに頬張っている。
息が、止まった。金槌で心臓を真正面から殴られたみたいに、痛くて、痛くて。
(息が、できないよ……)
同じ光景を見てしまった藤原は、隣りで心配そうに志保の顔を覗き込む。
でももう、彼のそんな優しささえも、今の志保には届かなかった。
ドーン!
ひときわ大きな花火が夜空に咲き乱れ、良樹たちの楽しそうな笑顔を、残酷なまでに明るく照らし出していた。




