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美咲の怒り

 良樹が渡辺と付き合い始めるまで、約束していたわけではないが屋上で良樹・志保・市原・美咲の4人で弁当を広げるのが昼休みの常だった。

 だが良樹は今、渡辺と二人きりだ。

 もちろんそのことに何の不満もない。相変わらず彼は浮かれていた。

 そんな良樹の前に、江藤美咲が立ちはだかった。


「川島、ちょっといい?  話があるんだけど」

 

 その表情は、普段の快活な彼女とは程遠い、氷のような冷たさを帯びていた。

 とてもじゃないが断れないその雰囲気に気圧され、良樹はしぶしぶ美咲についていった。

 話があるからと言われて女子と2人きり。普通に考えるとこれは告白パターンなのだが、もちろんそんな漫画の世界のようなことがあるわけない。

 

(俺がそんなにモテるわきゃないよ。まあ、渡辺にモテてるけどさ)

 


 昼休みの体育館裏。美咲はおもむろに振り返り、良樹と相対した。

 

「それで、話ってなんだよ」

 

 良樹がそう尋ねると、美咲は遠回しな言い方を一切せず、単刀直入に切り出した。

 

「ねえ川島、アンタ志保の事どう思ってるの?」

「志保の事? どう思ってるって、前から言ってるだろ。志保は俺の家族だよ」

「それは知ってるけど、そうじゃなくて志保を女の子として見てはいないの?」

「女の子として? うーん……正直アイツをそーゆー目で見たこと無いんだよなぁ。何しろ小学校の頃から一緒に暮らしてるじゃん。姉ちゃんとか妹に恋愛感情抱かないだろ? 志保は俺と双子みたいなもんだしさ」

 

 いつものように良樹がそう答えると、美咲はハァと、心の底から呆れているかのような、大きなため息をついた。


「アンタ、まだそんなこと言ってんだ……そう。わかった。じゃあ、もういいわ」

「……は? なんだよ、それ。話があるって呼びつけておいて」

「アンタに言ってやろうと思ってたことがあったんだけど、アンタがそういうつもりなら、もうアタシは何も言わない。言っても無駄だしね。まあせいぜい、志保を他の男に取られないように気をつけることね」

 

 その吐き捨てるような一言は、良樹にとって想定外の言葉だった。

 

「はあ!? なんだよ、それ! 志保を取られるって、誰にだよ!」

「さあね。 でもアンタが渡辺さんとイチャついてる間に志保のこと狙ってるヤツ、結構いるからね。そんなこと知らないでしょ?」

「えっ!? 志保ってそんなモテんの?」

「当たり前でしょ! あんな良いコなんだから。志保はね、アンタが思ってるよりずっとモテるんだよ。ただ今までは、アンタと付き合ってると思ってたからみんな諦めてただけ」

「……いや、でも、志保が誰と付き合ったって、俺は別に……」


 その言葉とは裏腹に、良樹は明らかに狼狽していた。

 美咲は、そんな良樹をもうまともに取り合おうとしない。


「もういいよ。アンタはずっと一緒にいて一番近くにいたくせに、あのコの事を何にもわかってないってことが、よっくわかったから!」

「いや、そりゃそうだろ。俺だって志保だって、お互いの事を全部知ってるわけないじゃん」

「……ああ、もういい。アンタと話してるとイライラする」

「勝手にイラついて、話終わらしてんじゃねーよ。オマエは何が言いたいんだよ。志保が俺のことを好きだとでも言いたいのか?」

「だったら、どうだっていうのよ」

「ないない、そんなことあるわけねーじゃん。アホか。絶対に無いわ!」


 美咲の肩は震えていた。


「……もうこれ以上アンタと話すことはないわ!」


 怒りの表情でそう言った美咲は踵を返そうとしたが、良樹は「待てよ、江藤! 話はまだ終わってねえぞ!」と言って彼女の肩を掴んだ。


「離しなさいよ! もうアンタと話すことなんてない!」

 

 振り向いた美咲は、ハッキリとそう言った。

 

「……アンタはさ、志保がなんであんなに元気ないか、本気でわかってないんだよね」

「アイツ、元気ないか? 市原もそう言ってたけど、俺にはいつもと変わらなく見えるぜ?」

「だから、それは!」

「だとしてもさぁ、そんなの俺が渡辺と付き合い始めたから拗ねてるだけだろ?」


 その一言が、最後の引き金だった。

 

 ――拗ねてる。


 市原との会話でも出たその致命的な一言が、美咲の理性を焼き切った。

 

「……っ、あんた、本気でそう思ってるの?  あの子が、そんなくだらない理由で泣くようなコだって、本当に本気で思ってるわけ!?」

 

 美咲は、堰を切ったように言葉を叩きつけた。

 

「あのなぁ、俺だって志保のことは大事に思ってるさ。家族だからな。 でも、恋愛は別だろ!」

「……アンタのその無自覚さがねぇ、いちばんあのコを傷つけてるんだよ! いい加減そのことに気づけ、この鈍感バカーッ!!!!!」

 

 その叫び声と同時に、良樹は左の頬に思い切りビンタを喰らった。

 一瞬意識が飛びそうになるほど強烈なビンタだった。目から火が出るというのを、生まれて初めて経験した。

 

「……いっ、痛えな! 何すんだよ!!」

「うるさい!」

 

 美咲の一喝に良樹は思わず怯んだ。

 

「もう、アンタと志保のことに口出しするのはやめる。でも、ひとつだけ覚えといて。アタシは、アンタを絶対に許さない。志保を泣かせた『ただのクラスメイト』として、アンタのことを見てるから!」

 

 美咲は良樹の瞳を真っ直ぐに見つめてそう言った。

 ただのクラスメイト——その言葉は良樹の胸に深く突き刺さった。

 それは今まで仲間意識の中にいたはずの美咲からの、明確な「決別宣言」だったからだ。


「……俺だって、志保が大事だよ! そんなの当たり前だろ!」

 

 良樹は、初めて声を荒げた。

 

「でも、だからこそだよ! 小学校の時、俺は志保が傷ついてるのに気づいてたのに、何もできなかった! 見て見ぬふりして、もっとあいつを一人にしちまってた! あの時の後悔、今でも覚えてんだよ!」

 

 彼の瞳に、本気の痛みが宿る。

 

「渡辺を見てると、あの時の志保を思い出すんだよ! だから今度こそ、見て見ぬふりだけはしたくねえんだよ!」

 

 良樹の言葉は、彼の中では100%の善意だ。

 だが、その善意が志保を傷つけているという事実に、彼は全く思い至らない。それが美咲の怒りの根源だということに気づきもしない。

 

「……そう。わかったよ」

 

 美咲のその声は、驚くほど静かだった。

 

「アンタの正義は、アンタだけのものなんだね。その正義のために、一番近くにいる人間が血を流していても、気づかないんだ。知らん顔なんだ」

「なんだよそれ。何が言いてえんだよ」

 

 美咲はもう答えなかった。

 怒りを露にしたまま良樹を睨みつけ、そのまま振り返り駆けだして行った。


「あー、ちくしょう。あの野郎、思い切りひっぱたきやがって」

 

 ひっぱたかれた頬は、ヒリヒリを通り越してジンジン痛む。きっとクッキリ手形が残っているだろう。

 

「それにしても……」

 

 美咲が言ってた事はホントなのだろうか。

 

「アイツ、志保が男に凄く人気があるって言ってたよな」

 

 たしかに客観的に見れば可愛いのかもしれないけれど、いまさら志保を客観的に見ることも良樹には難しい。あぁでも……。

 

「アイツ、付き合ってくれって男から言われたらどんな顔するんだろ……」

 

 そういえばそんな想像などしたことがなかった。

 自分以外の誰かが志保と一緒にいるなんて考えたこともなかった。

 

「でも俺は渡辺と付き合ってるんだから、志保が他の男と付き合ってもおかしくないよな」

 

 そう、おかしくない。本来は何もおかしくないはずなのだ。だが……。

 

「あれ、でも、なんかヘンな感じするぞ」

 

 志保が他の男といる想像をしただけで、なぜか胸の奥がザワザワと不快な音を立てた気がした。

 

(なんだろう、この気持ち……)


 良樹は最近、自分でもよくわからない感情がどんどん生まれている。

 


「どうしたのそのほっぺた。赤くなってるじゃない!?」

 

 教室に戻って席に着いたら渡辺がそう話しかけてきた。

 左隣りだから良樹の左頬が丸見えだ。手で隠していたのだが、アッサリとバレてしまった。

 

「ねえ、それ手形になってるよ? 誰かに叩かれたの?」

 

 美咲にひっぱたかれたとはさすがに言えない。

 チラっと美咲の方を見ると、彼女はまだ怒りが収まらないって顔をしてる。

 

「あ、いや、ちょっと友達とふざけてたら横っ面張られちゃってさ。はは、痛えの何のって、あはは」

 

 自分でも下手な言い訳だなと思った。

 渡辺は一瞬だけ良樹の目を見つめた後、ふいと視線を逸らして、『そっか。あんまり無茶しないでね』とだけ言った。

 だがその声はいつもの声とは違って、なぜか少しだけ冷たく聞こえた。

 


 良樹が学校から帰ると、リビングのローテーブルの上に古いアルバムが数冊広げられていた。

 母の薫子が、コーヒーを飲みながらページをめくっている。

 

「ただいま。母さん、何してんの?」

「あら、良樹おかえりなさい」

「何それ。アルバム?」

「そうよ。昨夜お父さんと昔の話をしていて、なんだか懐かしくなっちゃってアルバムを引っ張り出して二人で眺めてたの。それで、せっかくだから少し整理しようかと思ってね」

 

 良樹は、特に興味もなさそうに「ふーん」と相槌を打ち、その場に座り込んだ。

 彼は目の前のアルバムのうち一冊を手に取り、何の気なしに1ページ、また1ページとめくっていった。

 

(……これ、いつのだっけ)

 

 あるページが、ふと彼の目を引く。それは見覚えのある写真だった。

 ハチマキを締めた、日焼けした自分。

 そしてその隣りで、肩を組んで満面の笑みを浮かべてピースサインをしている志保。


 ――運動会の写真か。


 写真の中の志保は、心の底から楽しそうで、幸せそうで、輝いて見えた。

 写真の中の自分も、そんな彼女の隣りで誇らしげに胸を張っている。

 美咲にひっぱたかれた頬が、まだ痛む。


 ――アンタの正義は、アンタだけのものなんだね。その正義のために、一番近くにいる人間が血を流していても気づかないんだ。知らん顔なんだ。


 市原の、冷たい声が蘇る。


 ――その『当たり前』が、どれだけ貴重なもんだったか、オマエは一生わかんないんだろうな。


 良樹は、写真の中の二人の笑顔を、指でそっと撫でた。

 

(志保のこんな顔……最後に見たのはいつだっけ……)

 

 その時、彼の胸の中で、何かが小さな音を立てて少しずつ崩れ落ち始めた。

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