●☆第7話「夜の訪問者と夢を見ない夜に」
ウイの部屋に一人、私はぽつんと座っていた。
チハヤの部屋での出来事のあと、ウイに手を引かれてこの部屋まで来た。
「使っていいよ」と促されて、私はベッドに腰を下ろした。
ウイは私を案内した後、すぐに気を使って部屋を出ていってくれた。
とりあえず今は一人になりたかった。
ぼんやりと室内を見渡す。
壁紙や小物はピンクで統一されていて、「女の子の部屋」といった可愛らしさにあふれていた。
普段なら心が躍ったかもしれない。でも今はそれどころではなかった。
(今はもう、何も考えたくない)
明かりを点ける気にもなれず、部屋は月の光だけが差し込む薄暗がりに沈んでいた。
唯一の光源は出窓から差し込む冷たい月の光。
(こんな訳のわからない世界でも、月はちゃんとあるのね)
ぼんやりと月に手を伸ばす。
夜風がカーテンをゆらりと揺らし、微かに肌をなでていく。
私の右手が月を覆ったとき、その指の隙間に妙な影が重なった。
手を下ろすと窓の外、出窓の縁に、誰かが立っていた。
(……戌?)
月を背にして、無言でこちらを見下ろしている。
あの仮面は、まるで夜そのものを貼りつけたように、すべてを映さず沈黙していた。
(鍵、かけていったよね……?)
ウイは確かに窓の鍵を閉めていた。
窓は今、開いている。でもここは二階だ。
(どうやって入ってきたの?)
そう思うのに、驚きも恐怖も、なぜか湧いてこない。
心が鈍くなっているのが自分でも分かった。
戌の仮面は何も語らない。
だが、じっとこちらを“見ている”ことだけは分かる。
沈黙の時間が、ただ静かに流れていく。
──その沈黙が、言葉よりも何倍も重たく意味深く感じられた。
まるで、何かを問われているような。
あるいは見定められているようなそんな感覚。
でも今の私は、それを受け止める余裕すらなかった。
私はほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
月明かりがまぶしかったのか、それとも──ただ彼の視線から逃げたかっただけかもしれない。
次に目を向けたとき、そこに彼の姿はもうなかった。
まるで最初から、誰もいなかったかのように。
戌の姿が闇に溶けるように消えて、最初から何もなかったかのような静寂が訪れる。
私はしばらく、彼がいた出窓の方から目を離せずにいた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ウイの部屋に、コンコンと控えめなノックの音が響く。
「ミヤちゃーん、大丈夫?」
返事をする前に、そっと入ってきたのは温かな香りを纏ったウイだった。
小さなティートレイに乗った湯気立つカップ。琥珀色の液体がゆらゆらと揺れ、甘く優しい香りが部屋に広がる。
「これ、コハクくん特製のハーブティー。私たち、みんな寝る前に飲んでるの」
(……なぜ、私に?)
疑問は湧いたが、今はそれを言葉にする気力もなかった。私はただ、ウイを見つめる。
「別に、無理に飲まなくてもいいの。飲まない人もいるし……。でも、ミヤちゃんにはきっと必要だと思ったんだ」
そう言って、ウイはカップを私の前に差し出した。
「……飲まないとね。ここでは、眠れないから」
「──え?」
「世界そのものが、そういうふうに作られてるの。たぶん、神様の気まぐれかな?」
冗談のように言ったけれど、その声には冗談らしさがなかった。
「どれだけ疲れてても、頭だけは起きてる感じなの。ベッドに横になっても、朝がこない。夜が終わらないの」
窓の外、月はまだ同じ場所に浮かんでいる。
「体の疲れもね、一瞬だけ。すぐに何もなかったみたいになっちゃう。……元気なのはいいことなのかもしれないけど、心だけがどんどん減ってっちゃう」
ウイは、困ったように笑った。
「だからね、みんな寝るためにこれを飲むの。心を、少しだけ休ませるために。……ミヤちゃんにも、きっと必要でしょ?」
私はしばし迷ってから、黙って頷いた。
「ふふっ、やっぱり持ってきて正解だった」
私の無言の返事にも、ウイは嬉しそうに笑う。
「このお茶を飲んでもね、不思議と夢は見られないの。……多分、私たちの体が元々そう作られてないのかもね。でも今のミヤちゃんにはその方がいい気がするな 」
私はカップを受け取り、そっと口をつけた。
あたたかく、優しい甘さ。乾いていた心に、じんわりと染み込んでいく。
飲み終えた瞬間、静かに沈み込んでいく感覚が訪れる。
思考の輪郭がぼやけて、意識が遠のいていく。
(こんなに即効性があるなんて)
私はベッドの縁に身を預けるようにして、そっと目を閉じた。
(──夢は見られないんだっけ……)
けれどその夜、私は――確かに夢を見た。
◇ ◇ ◇
──ドアの向こうで、誰かが囁いている。
(……また、来るね……)
いつもより視点が低い。
見知らぬ部屋。見覚えのない手。
暗い部屋の中、布団の中で膝を抱え、ただ震えていた。
何も見たくない。聞きたくない。息すら止めたい。
(やだ……こないで)
ドアノブがゆっくりと揺れる音──。
(鍵、かけたのに。どうして……どうして……)
ここは、私の夢ではなかった。
壁の絵が落ちていた。花の鉢植えは倒れ、土が床に広がっている。
ここは、私の小さな世界。唯一の安らげる場所。なのに──。
足音が、こちらに向かってくる。
ずっと、ずっと遠くから見られていた。
その“誰か”が、ついにこの部屋に入ろうとしていた。
「ネネ……いるんでしょう……?」
誰の声だったのか、幼い耳にはもう分からなかった。
ただ、ひたすらに怖かった。
「また、来るからね」
低く、柔らかく、それでいて残酷な囁き声。
それと共に、気配がすうっと消えていった。
そして夢もまた、ゆっくりと、静かに溶けていった。
◇ ◇ ◇
(……ネネ?)
私は、誰の夢を見ていたのだろう。
そもそも夢は見られないはずなのに。
それでも胸には誰かの孤独と怯えの感触が、まだ残っていた。
まるでそれが、かつての自分の記憶だったかのように。