●第3話「十二の椅子と余分な一人」
「じゃあ、次はアタシの番でいいかしら?」
場の熱が少し和らいだそのとき、穏やかな声が空気をなぞるように広がった。
振り向けば、すっと立ち上がった人物が一人。
身のこなしはしなやかで、一部を流れるように遊ばせ他は全て右側へ流した長く波打つハニーブロンドの髪は歩く度に優雅に揺れた。
それに合わせてヒールの音も室内に響く。
座っている時は気付かなかったが、目を引くほどの長身にどこか中性的な美しさが宿っている。
紛うことなき美女だった。
「アタシはエンジュ。干支は申。……縁の“縁”に、珠の“珠”って書くのよ」
そう名乗る彼女の柔らかな微笑みは同じ同性の私でも思わず照れてしまうくらいに美しい。
けれどそれ以上に包み込むような眼差しが、安心していいよと言っているかのようで今の私にはどこかほっとする。
「まだ戸惑ってることも多いと思うけど、心配しないで。ゆっくり慣れていけばいいんだから」
エンジュの優しげな声色。
けれど次の瞬間、ヒールがカンと軽く床を鳴らす音とともにエンジュの視線がぴたりと別の場所を向いた。
つられて私もそちらへ視線を向ける。
「挨拶は大事よねぇ。そう思わない? イブキ」
その視線の先。
いつの間にか、背を向けて静かに出て行こうとしていた青年の姿があった。
「チッ、バレたか」
不機嫌そうに振り向くその顔は精悍な顔立ちをした美丈夫だった。
コハクやエンジュは線の細い美術品のような美しさがあるとすれば、彼はもう少しワイルドで真逆なタイプだった。
深みのあるダークブラウンの短髪はややウェーブがかっており、まとめて後ろにワックスか何かで無造作に流してあるようだった。
それが黒の彼にはとても似合っていて、別の意味で目を奪われるような人だった。
そして何よりがっちりと引き締まったその体躯は大人の色気が全開で──。
(これは……目の毒だわ)
マジマジと見てしまいそうになる視線を感じたのか、イブキと呼ばれた彼は鼻で笑って。
「見てんじゃねぇよ。金取るぞ」
「……すみません」
恥ずかしい。
しかし、見ていたのは確かなので素直に謝る。
「イブキ。干支は亥」
「ちょっとそれだけ?」
「他に言うことなんてねぇだろ」
イブキは私たちに背を向けるとヒラリと手を一度だけ振って、今度こそ広間を出て行った。
エンジュは「もう……相変わらずねぇ」と小さく呟いて苦笑した。
(個性が……強すぎる)
私はぐるぐると頭の中で回る名前と干支を必死で整理しながら、思わず小さくため息をついた。
「さて、実はあと二人ほど紹介したい人物がいるのですが」
場の熱がようやく和らいだ頃合いを見計らって、静かに酉が口を開いた。
その声は穏やかで、しかし妙に楽しげでもある。
「とはいえ、今はここにいませんし……そのうち会えますから今は気にしなくて構いませんよ」
軽く首を傾げニコリと笑ってそう言い放つその様子は、思ったよりもずっと投げやりだった。
(この人、見た目より適当かも……?)
そんな疑惑が胸をよぎる。
「先生、ちゃんと自己紹介したの?」
「酉だと名乗りましたよ?」
ウイの問いに、酉──チハヤは無邪気に笑いながら応じる。その様子を見てウイとエンジュが小さくため息をつく。
「……先生ってさぁ」
「そういうとこなのよ、アンタ」
呆れ顔の二人をよそにチハヤはちょっと肩をすくめて私へと向き直る。
「改めましてチハヤと申します。干支は酉。皆からは先生なんて呼ばれています」
その柔らかな笑顔にはどこか掴みどころのなさがあった。
「この流れで、ついでに園の説明もしてしまいましょうか。少しでも不安を減らしておきたいですから」
促されるように私は頷く。
何も分からないよりは知るほうがマシだと思えた。
「ここは《輪廻の園》と呼ばれる場所です。誰がそう名付けたのかは不明ですが、古くからこの名で通っています」
「リンネ……?」
「ええ、命の巡りを意味する言葉ですね。……皮肉にも、ね」
(命が巡る場所……?)
どこか引っかかりを覚えつつも、チハヤの説明は淡々と続く。
「まず、大前提として。園から“外へ出る”ことはできません」
「──え?」
あまりに唐突で重い言葉に、思わず声が漏れた。
「どういうこと? 出られないって……?」
「そのままの意味です。いずれ嫌でも理解できるでしょう。今は細かく考えなくて構いません」
「先生って……やっぱノンデリだよね……」
「この園にデリカシーある男がいたら逆に怖いわよ……」
ウイとエンジュのつぶやきが聞こえるが、チハヤはどこ吹く風だ。
「君は今現在記憶を失っていますね」
その言葉は問い掛けのようにみえて断言していた。
「……うん。何も、思い出せない」
「それも普通のことです。ここへ来た時に私たちは何らかの理由で全員記憶を失っています」
(記憶を失うのが普通……?)
受け入れがたい事実に、頭がじんじんしてくる。
「けれど、記憶が無いからこそ、新しく始められることもある。私はそう思っていますよ」
「……あんまり慰めにならないんだけど」
苦笑まじりに呟くと、チハヤはふっと目を細めて言った。
「それでも、記憶が無いだけでそれ以外は穏やかに暮らすことは可能です。……ルールを守る限りは」
「ルール?」
「はい。細かいものはいくつかありますが、最も重要なのはひとつだけ──」
言葉が落ちると同時に、室内の空気が僅かに張りつめた。
「──“名前”を、知ってはいけません」
「名前……?」
唐突なその言葉に、私は思わず聞き返していた。
あまりに抽象的すぎて、何を言われているのか分からない。
「チハヤとかウイとか……名前、知っちゃってるけどいいの?」
「それらは“仮名”です。本当の名前。つまり、ここに来る前の“過去の名前”は、思い出してはいけない」
「それってつまり記憶を、取り戻すなってこと?」
「そういうことになります。だから、決して自分の名前を探ろうとしないでください」
「……もし、どうしても思い出したくなったら?」
「諦めてください」
チハヤはきっぱりと言った。
静かだが、揺るがぬ強さを持った声だった。
(名前を知ることがいけない? 本当に?)
納得はできなかったが、今は何も言い返せなかった。
「ルールを守れば穏やかに過ごせますからね。絶対に破ってはいけませんよ」
続けたチハヤの言葉はなんとなく私では無い誰かに向けて言っているような気がしていた。
「ねぇねぇミヤってどう?」
ふいに、ウイが飛びついてきた。
「ミヤ?」
「うん、猫ちゃんの新しい名前! 猫ちゃんは役割の名前であってお名前ではないでしょ?」
「確かに……」
「他のみんなの名前も、私がつけたんだよ!」
「全員?」
「正確には一人だけは無理だったけどね。でもそれ以外は全部ウイ製!」
(巳……ミイ、だっけ。あの人とか、どうやって命名したんだろう……)
名付けられなかった一人もちょっと気になった。
(じゃあ名前の無いその人はなんと呼ばれているんだろう?)
やはり役割の名前だろうか。
色々と気になるけれど、今は目の前のウイの瞳があまりに真っすぐで、思わず笑ってしまった。
「猫ちゃんはまだ、名前も記憶もない“まっさら”なんだから、何にでもなれる。だからこそ、どんな名前をつけてもいいんだよ!」
誰でもないからこそ、自由に名付けられる。
その言葉は一見無慈悲にも思えるのに、どこか優しくて、胸の奥に静かに沁みていった。
「じゃあウイが決めてくれたミヤでいいよ」
私がそう言うと、ウイはぱっと花が咲いたように笑った。
「やったー! 漢字もあるんだよ! “美しい夜”って書いてミヤ。黒猫さんみたいで、すっごく似合うと思う!」
「美夜」
ひらがなにすれば”みや”。
声に出してみた私の名前はやわらかく、どこか儚いその響きが、不思議と心にすっと溶け込んだ。
それは与えられた名前であると同時に、自分の“ここでの居場所”のように思えた。
「ミャーって鳴く猫ちゃんにも合ってると思うし!」
「洒落かよ」
「メイは黙ってて!」
笑いながら、ウイに礼を言う。
「ありがとう。素敵な名前ね」
「どういたしまして! これからよろしくね、ミヤ! 私はミヤを歓迎するよ!」
そう言って呼ばれたその瞬間、私はほんの少しだけ肩の力を抜けた気がした。
誰でもなかった私が、ここで初めて“何か”を得た。
名前を得た瞬間、私はようやく“ここにいる”と、言える気がした。
ここまでお読みくださりありがとうございました。
箱庭で過ごす12人+1人のお話。
どのようになっていくか、今しばらくお付き合いくださると嬉しいです。
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