●▲第7話「迷いの回廊と戌の道案内」
何を言っているのか少しも理解が出来なかった。
これ以上話を聞きたくなくて、私はエンジュの前から逃げ出した。
あてもなくただひたすらに逃げて、逃げて──そして気付けば、見覚えのない廊下にいた。
「……ここは」
どこだろう。
目の前は先が見えないほど真っ直ぐとのびる廊下。
この館にはたしてこんなに長い廊下はあっただろうか。
窓はなく、扉はあるが、一定間隔でついているわけでは無さそうだった。一つだけの扉、その隣は何故か二つ並んでいたり、かと思えばしばらく何もない状態が続いたり。試しに開けようとしてみたが、どの扉も壁と一体化しているかのように開く気配はなかった。
ふと、頭の奥で、さっきエンジュに言われた「忘れなさい」という言葉がこだました。
その響きを振り払うように、私は歩を進める。
「来た方へ戻ろう……」
なんとなく進んではいけない気がして、元の道へと戻ろうと振り返る。
けれど、振り返った先も同じ真っ直ぐな廊下が続いていた。
「……私こんなに走ったっけ……?」
思わず声に出してしまう。
足は確かに重いのに、景色はまるで動いていない気がする。廊下を歩けば歩くほど距離感が壊れていく。
コツン、コツン、と靴音が響くはずなのに、耳に届く音は妙に遠い。
まるで、誰か別の人間が少し後ろを歩いているかのようで――背筋がぞわりと粟立った。
(誰もいない。……誰も、いないよね?)
立ち止まっていても仕方がない。
私は来た道を戻るように歩を進める。
けれど──それから何十分歩いても一向に知っている場所には辿り着けなかった。
(どうして?)
明らかにこれはおかしい。
私は一度立ち止まって考える。
考えて、とある一つの可能性が思い浮かんだ。
「……入っちゃいけない場所」
以前ウイが案内してくれた場所に入っちゃいけない場所が幾つかあった気がする。
入っちゃいけないドア、立ち止まってはいけない廊下、迷っちゃいけない回廊、進んではいけない小道。それらはどれも総じて入っちゃダメだと教わった。
私はそのどれかに入ってしまったのではないだろうか。
「入ったらどうなっちゃうんだろう……?」
ウイはそこまでは教えてくれていなかったし、私もどうせ入ることなんてないからと聞くことをしなかった。
今になって思えば、軽くでも聞いておけばよかった。
背筋を伝う冷たい汗に、喉が酷く渇く。あの時、ウイのいつもの明るい声に反して見せた真剣な横顔が、今さらになって脳裏に浮かび上がった。
『出られなくなるんだよ、ミヤちゃん』
空気を震わせるような声が、廊下の奥から、あるいは耳元から響いた。
昨日も聞いたはずなのに、どうしてだろう。胸の奥がきゅっと締め付けられるほど、その声が懐かしく思えてしまった。
音のない廊下に聞こえてきたのは、絶対に私が聞き間違えるはずのない──ウイの声。
「ウイ? 何処にいるの?」
込み上げる涙を袖で乱暴に拭い、周囲を見渡す。だが、ウイどころか人の気配すらない。
『ミヤちゃん』
声は確かに私を呼んでいる。
「生きてたの? 隠れてないで、姿を見せてよ……!」
ウイの姿を探して何度も振りかえる。
声のする方へ向かって走り出しては立ち止まって、何度も何度も辺りを見渡す。
必死にあのふわふわとした薄桃色のツインテールを見つけるために走った。
その内に、私はついにどちらから来て、どちらに向かっていたのかすら分からなくなってしまった。
『ミヤちゃん』
ウイの姿はない。隠れられる場所もない。
それなのにウイの声だけが、繰り返し聞こえてくる。
走り過ぎて足が痛い。
(……もう一歩も動きたくない)
耳にはずっと私を呼ぶウイの声が聞こえていて、もうおかしくなりそうだった。
その声は時に耳元で、時に遠くから響いてくる。どちらにしても逃げられない。
(……このまま追いかけたら、きっと私、壊れる)
しゃがみこんでしまおうとしたその時だった。
ぐいと二の腕を強く上に引っ張られる感覚がして、私は強制的に立たされてしまう。
「なにしてるの」
淡々とした抑揚のない声。
のろのろと顔を上げればそこには私の腕を掴んでいるイヌが、少しだけ横に首を傾げてこちらを見ていた。
「……イヌ?」
「早く出ないと」
イヌはそう言うと、その細身から出ているとは思えないほどの強い力で私の腕を掴んだまま早足で歩き出す。
『ミヤちゃん』
後ろでは少し寂しそうなウイの声がする。
前に進むたび、その声が遠のいてしまう気がして、私はエンジュにした時と同じようにイヌの手を振り払った──つもりだった。
「?」
振り払ったつもりの腕は、びくともしなかった。
イヌは私の抵抗に気づきすらせず、ただ首を傾げて無表情に見下ろしていた。
「……じたばたしてどうしたの?」
その問いかけは、ただ純粋な疑問のように聞こえた。感情の影はなく、淡々と。
逆にそれが、現実に引き戻されるようで怖かった。
毒気を抜かれ、私は大人しく歩みを合わせた。
振り払おうとした時、ちらりと脳裏をよぎったエンジュの顔に胸が痛んだが、その痛みすらすぐに薄れていった。
「……どうしてここにイヌがいるの?」
「迎えに来た」
「迎え?」
「ここはいちゃダメな場所だから」
「やっぱり入っちゃいけない場所だったのね」
淡々と答えるイヌの声が、逆に恐ろしい。
「知ってて入った? 無謀? それとも馬」
「それ以上続けたら怒るわ」
「……とりあえず出る。ミヤは大人しくついてくる」
「腕を引っ張らなくても付いていくからもう離して」
「……」
「大人しくついて行く。私もここから出たいもの。それに少し痛いの」
渋々といった様子で、イヌはようやく手を放した。
けれどその視線は、いつでもまた掴み直せるとでも言いたげに、私の腕を測るように留まっている。
無表情のまま、ただ首をわずかに傾げる仕草は、感情を隠しているのか、本当にないのか分からなかった。
前を向いて歩き出すイヌに続いて、私もゆっくりと動き出す。
……後ろ髪を引かれる思いで、一度だけ後ろを振り返った。
ウイの声はもうしない。静寂だけが廊下に満ちている。
その静けさが、逆に耳を痛くさせた。
再び前を向いた時、こちらをじっと見ているイヌの視線とぶつかった。
手を握ったり開いたりしているのは、きっともう一度腕を掴むという意思表示だろう。
「……歩くってば」
「ん」
前を歩けと言わんばかりに前を指さすイヌ。
どうやら信用が無いようだった。
大人しくその指に従って再び歩を進める。
しばらくは無言で歩いた。
「ねぇ」
その沈黙に耐えきれず、私は口を開いた。
「ここは何?」
「迷いの回廊」
返事は期待していなかったが、イヌは律儀にも私の疑問に答えてくれた。
それならと、私は畳みかけるように質問を投げた。
「真っ直ぐな廊下なのに、なんで迷うの?」
「真っ直ぐじゃない。ここは園の外にある通路。園を囲っている通路だから回廊」
「外なの?」
「ここは外」
「建物内なのに?」
「建物内だけど」
「真っ直ぐなのに囲ってるの?」
「真っ直ぐだけど、囲ってる」
意味が分からない。
イヌとの会話はいつも要領を得ない気がする。
「入るとどうなるの?」
「出られない」
「じゃあ私たちはどこに向かっているの?」
「出口」
「出られないのに?」
「出られないけど」
このやりとりがややもどかしい。
「もっと詳しく説明して」
「……イヌはここに入れるし、出れる。だから一緒に行けば大丈夫」
「そう……なの?」
「そういうもの」
やはり、これも能力の一つなのだろうか。
「ねぇイヌ……」
さらに問いかけようとした瞬間。
イヌは立ち止まり、私の肩を引いて止めた。
「ついた」
前方には、今までと何も変わらない通路が伸びているだけ。出口らしきものは見当たらない。
「ここ?」
私が尋ねると、イヌは無表情のまま口を開いた。
「──兎の件」
また、イヌがこちらを見ている。
無機質ななんの感情も宿していなさそうな、人形のような瞳で。
「君は悪くない。でも君のせいではある」
ぽん、と軽く肩を押される。
その拍子に一歩後ろへと下がると、私は──いつもの見覚えのある廊下に戻って来ていた。
イヌの姿は、もうなかった。
「……最後に嫌なことを言うのね」




