●第1話「始まりの園で私は目覚めた」
ほんの少しだけ、風がそっと私の頬をなぞった。
決して冷たくはない、春の陽気のような優しい風。
「ここは……」
ゆっくりと瞼を開けると、私が今どこにいるのかが真っ直ぐに視界へと入ってくる。
まず目に飛び込んできたのは、色とりどりの花々。
どれもが活き活きとしていて、幻想的な美しさだった。
天気は雲ひとつない快晴。
なのにあまり日差しを感じないのは、私がとても大きな木の根元にいるためだった。
(天国かな?)
想像上の天国しか知らないけれど、そうとしか思えない風景だった。
言葉が出てこない。そもそも、判断できる材料もない。
見覚えがあるはずのない景色なのに、なぜか懐かしさすら感じる。
なのに──私の中には、何も残っていなかった。
名前も、記憶も、感情さえも。
私の中は何もかもが空っぽだった。
(でも、なぜか怖くない)
不思議と恐怖はなかった。
頬を撫でる空気は静かで、とてもやわらかかった。
「大丈夫ですか?」
再び目を閉じかけたその時、突然かけられた声に驚く。
「驚かせてしまいましたね。すみません」
申し訳なさそうな声音の主は、いつの間にか私の目の前に立っていた。
(さっきまで、いなかったのに)
この人は私が目を開けてから、閉じるまでのほんの一瞬でどうやってここに?
わずかに不気味さを覚えた私は反射的に警戒して、声の主から軽く後ずさる。
「警戒させてしまいましたか?」
眼鏡をかけた青年は眉を下げて申し訳なさそうに笑った。
「君が来ることは分かっていたのですよ。けれど、どこに現れるかまでは私にも分からなかったので、思ったより時間がかかってしまいました」
落ち着いた物腰で、穏やかな声音。
なんとなく──本当に、なんとなくだけれど、直感的にこの人は害を与えないだろうと思った。
「私は酉です」
「トリ?」
その言葉に、穏やかな声色の中にわずかな遊び心を感じた。
「そう、酉です。そして君は猫さんです」
「……何を言ってるのか分からない」
私の返答に、彼は楽しげにくすくすと笑いを零した。
(もっと、分かるように言って欲しい)
「お話はまた後でにしましょう。立ち上がれますか?」
不満が伝わったのか、青年は少しだけ口調を柔らかくして手を差し出した。
「あなた、なんだか先生みたいな話し方してる」
「おや、分かりますか? 実は先生と呼ばれているんです」
差し出された手を握り、私はゆっくりと立ち上がる。
足の裏に伝わる土の感触が生の実感を与えてくれた。
「私、何も思い出せないの」
「でしょうね。分かりますよ。私もそうでしたから」
酉と名乗る青年の言葉に私だけじゃないのかと、少し安心する。
「まずは、皆に挨拶しましょう。挨拶は大事ですから」
「……やっぱり、わけが分からない」
ボヤきながら私はもう一度、彼の手をぎゅっと握り直した。
それがこの世界で私が最初に“選んだ”ものだった。
境界の庭を抜ける小径を、酉と名乗る人物に連れられるまま足を動かす。
会話は特になく、周囲に響いているのは風がそよぐ音と草木が擦れ合う微かな気配だけだった。
生き物の声は、一切聞こえなかった。
(こんなに自然豊かなのにそんなことってある?)
やがて木立の奥にひっそりと佇む大きな建物が姿を現す。
外から中へと続くであろう重厚な扉がほんの少しだけ開いていた。
そこからかすかな話し声が漏れ出している。
自然の音しかなかった中で、久しぶりに“人の気配”を感じて、私は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
心の奥に微かな安心が芽生える。
思わず足を止め、扉の奥に意識を傾ける。
酉は私が立ち止まったことで繋いでいた腕をやや後ろへ引っ張られる形になったが、何も言わずに一緒に立ち止まってくれた。
(……何を話してるんだろう?)
その扉の向こうでは、誰かが“何か”を待っている気配があった。
その“何か”が、自分であることに私は気づいていた。
だからこそこのまま扉を開けて中へ入っていくことが、少しだけ怖かった。
*
「チハヤ先生が言ったんだよ。先生が嘘ついたことなんてないだろう?」
最初に聞こえたのは落ち着いた青年の声。
柔らかな響きだが、その言葉には揺るぎない信頼が込められている。
「でも十三人目なのよ。ここには十二人までしかいられないってルールがあるじゃない」
別の声が低く、慎重に続いた。
やや低めの声だったので最初は男性かと思ったが、言葉尻の雰囲気からそれは声の低い女性だと思った。
その声音には、不安と疑いが色濃く滲んでいた。
「え〜、でもでも仲間が増えるのって嬉しいじゃん!」
跳ねるような明るい声が場の空気を軽くする。
無邪気で疑うことを知らない調子だった。
「ウイは単純すぎ」
その声は仲間が増えると喜ぶ相手を小馬鹿にするような口調だった。
舌足らずな言い回しで、どこか神経質な棘がにじんでいる。
「……干支が十三人なんて、明らかにおかしいだろ」
ぼそりと吐き捨てるような声が割り込んだ。
冷めた口ぶりの中に、自分を納得させようとする苦味が混ざっている。
「あれぇ? それよりシンシンは~?」
ひょうひょうとした声が弾けた。
声のトーンは軽やかで、周囲の緊張などまるで気にしていない。
「知らねぇ。けど、どうせいつものとこだろ」
無愛想な返答には、これ以上語る気のなさがにじんでいた。
「まぁ、俺たちだけ集まっていれば大丈夫でしょう。彼には俺から言っておくことにするよ」
苦笑まじりの声が、ため息とともに続く。
どこか諦めを含んだような調子だった。
(……やっぱり、話してたのは私のこと)
彼らが話題にしている来訪者が自分だと分かって、胸の奥がざわめいた。
歓迎してくれている声もあれば、そうでない声もある。
気づけば繋いでいない方の手で、酉の袖をきゅっと掴んでいた。
酉はその仕草に気づくと静かに微笑んだ。
そして、優しく囁く。
「大丈夫。皆、それほど悪い人ではありません」
そう囁いた酉は、ほんのわずかにこちらを振り返ってから静かに扉へと手を伸ばした。