本坪鈴桜という女
夕焼けに染まる放課後の静かな空き教室。
一人居残りをしてテストの答案用紙と向き合っていた僕は、ふと廊下を歩く人物に気がついた。
肌は病的なほど白く陶器のように滑らかで、ロングの髪は烏の濡れ羽色。
理知的な鋭い瞳は近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
『本坪 鈴桜』
高校入学から間もなく転校をして来た僕に対し、クラスで唯一しつこく付きまとっては嫌味を吐く奇特な女子生徒だ。
鈴桜さんはノックもなく扉を開け放つと開口一番に、
「お前、また赤点か」
と、冷ややかな声で先制攻撃を繰り出した。
「不思議ですよね。暗記は得意なんですけど……数学だけは授業を真面目に聞いて宿題をキチンと出しても結果が伴わないんです」
「不思議な事などあるものか。単にお前が真面目な阿呆だというだけだろ」
それきり彼女は僕を睨め付けたまま押し黙ってしまう。
突然現れて何用かと思ったが、どうやら言いたい事は出尽くしたらしい。
「鈴桜さんって数学得意でしたよね?」
「お前がテストの点を取れんように、私も馬を鹿には進化させられないのだよ」
そう云って彼女が頭を振るうと、少しカールした後ろ髪が絹のように揺れた。
……僕に勉強を教えるのはそんなにも難しい事柄なのだろうか。
気不味くならないように気を利かせた筈なのに、とんでもない罵倒が帰って来たものだ。
「それに、私の時間はお前のそれと同価値じゃない」
「人を小馬鹿にする事が高尚な時間の使い方なら、僕の時間はいつまでも安いままで構いませんよ」
「寧ろそうで無いと困る。人類が皆私のように知的なら私は誰も馬鹿にできなくなるからな」
太々しく吐き捨てて鈴桜さんは後ろ髪を振り払う。
これが勝者の余裕だとすれば、どこまでも嫌味で厚かましい女だ。
なるほどこの性格ではどれだけ容姿が優れていようと誰にも相手をされないだろう。彼氏が居ないのも頷ける。
「なんとか言ったらどうだね。それとも悔しさに歯噛みして声も出んか?」
そう思えば髪を振り乱し転校生をいびり倒す姿にいっそ悲壮感すら浮かんで見えた。
……それはそうと、先程からの鈴桜さんはヤケに髪の主張が激しい気がする。
普段とは違う髪型についての言及を求めているのかもしれない。
「性格に引っ張られてとうとう髪まで曲がり始めましたか? 構って欲しくて相手に辛く当たるのは小学生男子だけですよ」
だが僕の口から出たのはあくまでも皮肉に対する返答だった。不思議だ。
「三つ言いたいことがある。まず、この可愛らしくカールした髪は自ら鏝で巻いたものだ。当然クラスの連中には朝から鬱陶しいくらい持て囃された私が今更お前如きに構って欲しい訳もない。そして、この美少女と少しでも長く会話をしたいなら気持ちの悪い自意識過剰的思考を今すぐに止めて素直になることだな」
とはいえ喜々として反論する姿を見るに、回答としては間違っていなかったと見られる。
空気を読まず、優しさにはつけ込み、会話など口喧嘩としか思っていない。
凡そ半月で見えてきた本坪 鈴桜という人間の性に当てはめてみれば、グットコミュニケーションだったと納得もしよう。
「自分を美少女と名乗るのは自意識過剰じゃないんですか?」
「墓穴を掘ったな痴れ者めが。私が美少女であるという公然の事実を認めない事で矮小なプライドを守ったつもりかね? それとも遠回しなプロポーズをしているのか? お前が墓穴を掘っても私は一緒の棺桶には入ってやらんぞ」
鈴桜さんはそれはそれは瞳を爛々と輝かせて答える。
またしてもグットコミュニケーション。
しかし今現在僕がすべきはテストの見直しであって不発弾の処理ではない。
ご機嫌伺いはこの辺りで満足して貰い、彼女にはそろそろご退場願おう。
「いい加減ワザとらしいメスガキムーブはやめて貰えませんか? 漫画やアニメじゃあるまいし、いくら煽られても僕は鈴桜さんの嫌がることはしませんよ」
「説教欲しさに相手を煽る恥知らずと一緒にするな。……言っておくが私は心の底からお前と会話がしたいのだぞ」
おや、僕を会話という名のスパーリングで殴り倒したいだけの人間から出た言葉にしては、なかなかどうしてグッとくる口上だ。
どうやら邪魔をするなと言っているのが分からないらしい。
「その髪型、似合っていますよ」
「今更それだけを褒めたところで許すものか。家にまで着いていっても話をして貰うぞ」
それだけ……ということは、どうやら僕の気付けなかった間違い探しが残っていたらしい。髪に目が行って他を見落としていたのか。しかしそんな難癖で家にまで着いてこられては迷惑千万である。
「勘弁して下さいよ、僕だってクラスメイトと同じで鈴桜さんとの会話は傷つくんですからね」
すると彼女は顎に手を当て、真面目な顔で首を傾げた。
「……私は会話が駄目なのか?」
会話以外だって何もかも駄目だが、それを言い出すと人格否定になるので頷いておく。
実際に、口さえ閉じていれば彼女が自称する通りの美少女なのだ。黙っていれば。
「そうか、ならばお前の話を聞かせろ」
まさかの一人語りをご所望。寧ろハードルが上がっている。
しかしながら。漫談をしろいわれれば後ろで何を騒がれようと無視を決め込んで帰路に着くつもりだったけれど、小話の一つや二つで家に帰して貰えるのなら拒否をすることもない。
「身に覚えのない言いがかりで女性に粘着されて、家にまで来ると言われた男の話で良いですか?」
「……まさか、私のことを言ってるのか」
「それこそまさかですね。メリーさんという有名な話のつもりでしたが、鈴桜さんこそ自意識甚だしいのでは?」
「黙れ。メリーさんとやらを知らなかっただけだ」
捨てられた人形から定期的に電話が掛かって来るという話だけど。
そうか、知らないのか。
とはいえメリーさんを持ち出したのは鈴桜さんの皮肉に対する意趣返しであり、元より廊下を歩く間に終わるような短い話で満足して貰えるとは思っていなかった。
「では折角ですしメリーさんに似た怖い話を一つ」
「怖い……いや、いいだろう。かかってこい」
彼女は一瞬だけ驚愕に目を見開くも、すぐさま表情を取り繕ってしまった。
存外怖い話が苦手なのか。
いいや、道ばたの何気ない電柱に対しても難癖を付けて罵声を見舞いそうな彼女のことである。幽霊など怖がる前に理論武装で殴り飛ばしてしまう筈だ。
大方、僕が突き出しとして提供できる怖い話をストックしていた事に驚いただけだろう。
「題名は『不思議なお人形さん』とでもしておきましょうか」
「……間抜け者め。不思議な事などあるものか」
不思議と罵声を浴びながら、僕は鈴桜さんと揃って教室を後にした。