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第一話

 つんと鼻を突く匂いが、白い小部屋を満たしていた。音を立てずに針を進める壁掛け時計は、七時少し前を指している。湿った毛先の、布を(こす)る小さな音だけが不規則に、小部屋に(こだま)する。

 小部屋には四つ足の簡素な白い長机と、肘とキャスターのついた椅子が一脚ずつ。椅子の座面には申し訳程度のクッションが設けられている。天井には蛍光灯があるが、壁掛け時計の上にある()め殺しの小窓から朝の白んだ光が採れているおかげで、いまは息を潜めている。壁掛け時計の下にはカレンダーが吊られていて、用紙の上半分を贅沢(ぜいたく)に占める風景写真には(にしき)に色づいた山景が映っていた。下半分にはひと月分の日にちが七列に並べられて、それぞれに予定が書き込めるようなスペースが設けられている。三十ほどあるうちの(いく)つかには、日付の横に文字――例えば「6」の枠には「ふくろう座γ(ガンマ)流星群」、「27」には「オレイアデス星団食」――が、ペールカラーのハイライトで彩られている。

 机の向かいには(のぞ)き窓のついた扉がある。扉の上には隙間が空いていて、そこからエアコンの温かい空気が入り込んでいた。机上に本や勉強道具の(たぐ)いはなく、椅子には誰の腰も載っていない。あるのは、机全体を覆うように広げられた色とりどりの(ぶち)が染み込んだ布と、卓上イーゼルに支えられたF6号のキャンバス。

 キャンバスの左側には数本の小瓶が立っていて、その中には様々な色の粉が詰められている。キャンバスを挟んで反対側には、赤い蓋の瓶に、陶製の小皿と筆が幾つか。こちらの瓶は錠剤用の容器くらいの大きさで、淡黄色の粘稠(ねんちゅう)そうな液が納められている。瓶の側面に貼られたラベルから、この液は(にかわ)であることが見て取れた。梅の花のように仕切られた小皿の上では、小瓶の色粉(いろこ)と膠とが、色ごとに練り合わされていた。毛先がこれらの色に染まった筆が、小皿の脇に転がっている。机の下には、画材一式を入れていたと思しき紺色のスポーツバッグが口を開けたまま置かれていた。

 画材の主は、中腰でキャンバスに向かって筆を巡らせていた。若い男で中肉、背丈はそれなり。暗い茶色の髪は短く整えられているが、(こだわ)りがある(ふう)ではない。足元は海松(みる)色をベースにオレンジを差した、カジュアルなトレッキングシューズ。フードのついた深縹(こきはなだ)のトレーナーを腕(まく)りし、銀鼠(ぎんねず)のチノパンを穿いた上から、作業用のエプロンを着けている。

 しばらく離れたり近づいたりしながらキャンバスを眺めたあと、迷いなく筆先を置き、またしばらくするとキャンバスを(にら)む。淡々と、その繰り返しだった。


 採光(さいこう)窓から差し込む日がわずかに角度を変えて、その一端が青年の頭の先を(かす)め始めた。小部屋はエアコンの恩恵で適温に保たれているので時間の経過は感じられないが、扉の向こうでは足音が(まば)らに聞こえるようになっていた。時折、扉の覗き窓から画材の主の背中へ通りすがりの視線が注がれたが、当人が気に留める様子はなかった。

 ややあって、硬く軽快な音が短く二回、小部屋に響いた。扉をノックする音だ。青年が肩越しに振り向くと、

「また自習室で油絵ですか」

 呆れたような声色とともに、女性が扉を開けて小部屋に踏み込んできたところだった。ブラウスの上にベージュ色のカーディガンを羽織り、紺のロングスカートの下から動きやすそうな白のスニーカーが覗いている。後ろで一つに束ねた黒髪と薄い化粧、スクエア型の黒縁眼鏡を(まと)った仏頂面からは、生真面目さや神経質さが(にじ)み出ているようだった。胸元のネームプレートには、「司書 幌呂木(ほろろぎ)」と無骨なゴシック体で書かれている。女性――司書は胸のまえで腕を組んで、青年の背を見下ろした。

 青年は仏頂面を一瞥(いちべつ)して、

「いえ、今日は日本画です」

 抑揚のない声でそう返した。そしてキャンバスに視線を戻し、再び手を動かし始めた。

 司書は表情を崩すことなく溜め息混じりで、

「あなたの後、匂いがキツいって苦情が来てるんですよ」

「そうだったんですか。ごめんなさい」

 口では謝罪しながら、キャンバスに筆を乗せる手は止めない。

「アトリエなら美術科棟にあるでしょう?」

「いまどこも空いてないんですよ。上級生の卒業製作とか課題が重なってるみたいで、予約いっぱいで」

 それに、と青年はひと呼吸置いて、

「外はうるさくて」

 司書は短い溜め息を()いた。(しばら)く二の句を待ったが、それ以上青年から口を開くことはなさそうだった。中指と親指の腹で眼鏡の縁を小さく持ち上げてから、司書は(きびす)を返す。

「次の予約は二限だから、それまでに片付けと消臭しておいてくださいね。あなた用に備品購入したんですから」

「わかりました。ありがとうございます」

 青年は背中越しに返答した。その視線は相変わらず画材に向けたままだ。

 スニーカーの底が小部屋の床を離れ、ドアノブに手を掛けたところで司書の眼鏡はもう一度、青年の背中を捉えた。ゆっくりとドアノブを押しながら、司書は最後に扉の隙間から言葉を()し込んだ。

「熱中するのもいいけど、それなりでお願いしますね」

Horologium/とけい座

振り子時計をモチーフとした、88星座の一つ

やがて来る破綻(はたん)を告げるもの


深縹(こきはなだ)

 僅かに紫味を含んだ濃い青色。藍染の中で最も濃く深い色。カラーコードは「#2A4073」

銀鼠(ぎんねず)

 銀色のような、ほんのり青みを含んだ明るい灰色。カラーコードは「#AFAFB0」

海松(みる)

 黒みがかった黄緑色。カラーコードは「#6D7047」

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