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潮騒と雷鳴

作者: 夕日色の鳥

 波の音。


 曇り空。


 強い風。


 海がざわざわと騒がしい。


 岸壁に、砂浜に、波止場に、うねる波が打ち付けられる。


 潮騒というのは、潮が騒がしいと書くらしい。



「……ぴったりだな」


 荒れてきた海を岬の灯台の崖から見下ろしながら、ふっと笑みを漏らす。

 もちろん皮肉めいた笑みだ。


「……これは降ってくるな」


 空を見上げれば曇天はどんどん分厚くなっていた。

 青かったことなど忘れたかのように色を急激に失っていく。

 今にも泣き出しそうな空、というやつだ。


「……帰るか」


 傘は持っていない。

 べつに濡れるのは構わないが、その状態で帰ったときを想像すると気が滅入る。


「……はあ」


 思わず溜め息が漏れる。

 人は家に帰らなければならない。

 そんなシステムを作ったのはいったい誰なのか。

 そんな遥か昔の誰かに恨めしい気持ちを抱かずにはいられない。


「……」


 前は、家に帰るのが好きだったのに。








「……ただいま」


 気付かれないようにそっとドアを開け、申し訳程度にポツリと溢す。

 幸い、雨には降られずに済んだ。


「……っ!」


 しかし、あいつはその微かな気配を機敏に察知し、ドタドタとけたたましくリビングから姿を現した。


「おかえり! お兄ちゃん!」


「……」


 高校三年の俺の一つ下。

 ポニーテールを揺らす快活な(うしお)が俺を出迎える。


「……」


 俺はろくに返事も返さずに靴を脱ぎ、潮を放ってそそくさとリビングに向かう。


「ねー! お兄ちゃん聞いてー!

 今日さー、学校でお弁当ひっくり返しちゃってさー!」


 が、潮は俺の真横をキープしながら大声で自分の話を始めた。


「この前は階段から転んじゃって膝を擦りむいてさー!」


「……うるさい」


 偏頭痛持ちの俺には耳元でキンキン話す潮が煩わしくて仕方なかった。


「あ、ごめんごめーん」


「……」


 たいして悪びれた様子もなくヘラヘラとしている所にも腹が立つ。

 こんなのが、分類上は俺の妹に属していることにさえイラついてくる。


「……あ、おかえりなさい。(みなと)くん」


 リビングのドアを開けると、エプロン姿の女性が申し訳なさそうに出迎えてきた。

 どうやら夕飯の支度をしているようだ。


「……」


 俺はそれを見ることなく、冷蔵庫に入ったお茶のペットボトルを取る。


「あ、えと、あの、今日は、湊くんの好きなオムライスなんだけど、卵は軟らかいのと固めのと、どっちが好きかな?」


「……」


 この女性は香織(かおり)さんといって、分類上は俺の母親ということになっている。

 本来はふわふわとしたゆるい感じの女性だが、今は俺の顔色を窺って不安げな表情を浮かべている。


「……どっちでも」


「あっ……」


 俺は適当に返事を返してリビングを出る。

 振り返ったりしない。

 申し訳なさそうな顔を見るのも飽き飽きだ。


「あ! お兄ちゃん待ってよー!」


「っ」


 潮の声が頭に響く。

 こいつは、懲りもせずについてこようと言うのか。


「勉強するからついてくるな。

 夕飯まで部屋に来るな」


「むー!!」


 おそらくはむくれているのだろう潮を放って自分の部屋に入る。


「……はあ」


 鍵をかけ、ベッドに腰かければようやく一息ついた。

 持ってきたペットボトルを開け、お茶を流し込む。


「……」


 息が詰まる。

 このままずっとこんな所で生活していかなければならないのかと思うと泣きたくなる。


「……母さん」


 勉強机に置いてある写真立てに目をやる。

 たまに顔を忘れそうになるのが無性に悲しい。

 俺の、本当の母親。


「……無理だよ、母さん。

 あいつらを家族だなんて、母親と妹だなんて思えないよ」


 病気だった。

 もともと体が弱かった母さんは俺が中学に上がった頃に亡くなった。


 悲しかった。

 この世の全てを失ったようだった。


 仕事で忙しかった父さんとは違い、母さんは俺をとにかく愛してくれた。

 大好きだった。


『湊。これからは俺が一緒にいる。

 これまで、あまり一緒にいられなくてすまなかった』


 母さんが亡くなると、父さんはそう言って俺を抱き締めた。

 今では、父さんは父さんなりに俺たちを愛しているんだと分かった。

 実際、父さんはそれから仕事を抑えて俺と一緒にいる時間を増やしてくれた。

 父さんのことはけっこう好きだ。




 でも……




「……は? 再婚?」


 父さんに裏切られた気がした。


「母さんが亡くなって五年、もうすぐ六年だ。

 湊ももう高校三年生。

 俺も、そろそろと思ってな」


 そろそろってなんだよ。

 母さんのことを愛してるんだろ。

 なのにべつの女と結婚するのか。

 その女のことを愛してるのか。

 母さんのことは忘れたのかよ。


 母さんはもう、愛してないのかよ。


「……勝手にすれば」


 反対しなかった。

 どうでもよくなったから。

 母さんのことを覚えてるのは、愛してるのは俺だけでいいと思ったから。





『あ、と、よろしくね。湊くん』


『よろしく! えーと、お兄ちゃん!』


 そうしてやってきたのがこいつらだ。

 俺から父さんを。母さんから父さんを。父さんから母さんを奪った奴ら。


「くそっ!」


 飲み終わったペットボトルを握り潰す。

 本当は壁に叩きつけたいけど、そんなことをしたら潮がどうしたどうしたと騒ぎ立てるから、やむなく潰したペットボトルをベッドに乱暴に投げつけた。

 シーツがペットボトルを優しく受け止めることさえイラつく。


「ああもう!」


 布団を被り、ベッドに潜る。

 思春期特有の行き場のないイライラ。

 そんな言葉で片付けられたくない。

 明確な理由があったから。

 全部、あいつらのせいだ。









「……」


 それからは、よくここに来た。

 岬の灯台の崖から海を眺めるのが好きだったから。

 バイトがないときはだいたいここにいた。

 なるべく家に帰りたくなかったから。

 それでも家に帰らないといけない自分が情けなくて、海の音に紛れて泣きたくもなった。

 夜になると灯台の明かりが灯るのが好きだった。

 あのホッとする感じが母さんがいた、かつての家に帰ったときみたいで……。


「……」


 相変わらず天気は悪い。

 いや、でも俺は曇りの方が好きだ。

 青空は明るすぎる。

 あいつらは何でもかんでも照らしたがる。

 俺にはアレは眩しすぎる。


「……母さん。俺も、もうそっちに行きたいよ」


 崖から下を覗けば、打ち付ける波音がこっちにおいでと手招きをしているように思えた。

 このまま吸い込まれてしまえばどれほど楽だろうか。


「……なんてな」


 と言って冗談だと自分に言い聞かせる。

 父さんを悲しませたくないし、母さんも喜ばないと思ってる。

 まだ俺は、家族にそんな期待をしている。


「……家族、か」


 新しい母親に新しい妹。

 家族って、なんなんだろうか。


「あ、はっけーんっ!」


「!?」


 潮が来た。

 なぜここが?

 誰にも、父さんにも言っていないのに。


「もー。お兄ちゃんてばすぐ……」


「来るなっ!」


「……え?」


「お前はここには来るなっ! 消えろっ!」


「……っ」


 もうこれ以上、俺から何も奪わないでくれ!

 ここは、母さんがよく連れてきてくれた思い出の場所なんだ。大切な場所なんだ。

 上書きなんてしたくない。

 潮と観た景色なんて思い出したくない。


 もう、たくさんだ……。


「……そっかー。ごめんねー」


「……あ」


 初めて見せた、潮の悲しそうな顔。

 傷つけたのだと明らかに分かった。


「誰にだって、踏み込んでほしくないことはあるよねー」


「……」


 ここでごめんなんて言えない。

 俺が間違っていたなんて認めたくない。

 これ以上、こいつらを俺の中に踏み込ませたくない。

 母さんを、上書きさせたくない。


「なんか、ごめんねー。

 私ってば、浮かれちゃってたよね」


「……」


 それは、今にも泣きそうな顔で。


「なんでいつもこうなっちゃうんだろうなー。

 楽しくなると、あんまり人の気持ちとか考えらんなくなっちゃうんだよねー、私」


「……」


 それは、困ったような、情けないような、自分に呆れたような顔で。


「ごめんね。

 私が私でいられるのって、家族の前ぐらいなんだー」


「……」


 それは、いつもの天真爛漫で無駄にうるさい騒がしい潮とは違って。


「……うん。分かった。

 あんまり騒がないようにするよ。

 ごめんね。思い出を汚しちゃって」


「……」


 それは、無理やり自分を納得させることに慣れてしまっているかのようで。


「あ、ママがご飯もう出来るからって。

 私、先に帰ってるね。

 お兄ちゃんも早く帰ってね」


「……ああ」


「うん。じゃあね」


「……」


 それは、無理やり作った笑顔のようで。


「……」


 パタパタと去っていく寂しげな背中を、俺は黙って見送ることしか出来なくて……。


「……」


 その日はなぜか、それ以上海を眺める気にはなれなくて、俺は潮が完全に見えなくなってからゆっくりと家路に着いた。













「じゃあなー」


「ああ……」


 高校の授業を終え、校門で友人と分かれる。

 今日もバイトはないから、あの灯台で海でも眺めて時間を潰そう。


「……進路、か」


 高三ともなれば卒業後の進路に力を注ぐことになる。

 父さんは大学に行かせてくれるという。

 俺は、ここから遠く離れた全寮制の大学を希望した。

 とにかく、あの家から離れたかったから。


「……ーい!」

「……めて!」


「!」


 学校から海に向けて歩いていると、何やら騒がしい声が聞こえてきた。


「なんだ?」


 どうやら人の少ない裏通りからだ。

 面倒事だろうか。

 絡まれるのも嫌だからさっさと行こう。


 そう思っていたら、


「お願い! 返して!」


「!?」


 聞き覚えのある声だった。

 定義の上では俺の妹に分類される潮の声だった。


「……ちっ」


 俺は気になって様子を見ることにした。

 物陰から路地裏を覗き込む。


「……!」


 果たしてそこに潮はいた。

 数人の男女に囲まれて。


「それがないとダメなのっ!

 お願いだから返してっ!」


 潮は背の高い男子が持っている何かを取り返そうと、懸命にピョンピョンとジャンプしていた。


「ふんっ。あんた、いっつもぎゃーぎゃーうるさいのよ。

 どんな男子にも気軽に話しかけて。

 なに? ハーレムでも作りたいの?

 ちょっと可愛いからって調子に乗ってんじゃないの?」


「そんなことないっ!

 騒がしいのはごめんだけど、私は皆と仲良くしたいのっ!」


 目付きの悪い女子が腕を組んで潮に文句を言っていた。

 潮は誰にでも分け隔てなくあんな感じらしい。

 高校生にもなれば、それは確かに敵を作りかねないだろう。


「それが気にくわないのよっ!

 ようは皆にいい顔したいだけだろっ!

 そんなにモテたいのかよっ!」


 ようは、男子が潮を気に入るのが気にくわないらしい。

 おおかた、意中の男子が潮と仲良くしているのでも見かけたのだろう。

 潮自身にそのつもりはなくとも、彼女には潮が色目を使っているように見えたわけだ。


「……馬鹿な奴」


 もっとうまく生きればいいのに。

 高校生にもなれば生きやすい生き方ぐらい分かるだろうに。

 天真爛漫で無駄に明るくて、いや、うるさくて。無理やり人に光を当てようとしてきて。

 そんなの、煙たがる奴は少なくないだろうに。


「……自業自得だな」


 俺は踵を返して海に向かうことにした。

 これに懲りたら少しは大人しくなるだろう。 実際、あれから潮は家で俺にあまり絡んでこなくなった。

 分からない奴ではないのだ。


「やめてっ! それを返してっ!」


 俺はそのまま歩きだそうとした。


 ……が、


「それがないと私、死んじゃうっ!」


「っ!?」


 潮の悲痛な声に思わず足を止めた。


「……」


 振り返り、再び路地裏を覗く。


「はっ! それはいいわ! さっさと死ねば!」


「ひどいっ!」


 男子の手の先を見つめる。


「……っ」


 それは薬だった。

 パキパキと一つずつ手で押し出して取り出すタイプの錠剤。


「……」


 あんなに明るくて元気なのに、なぜ。


「あんたなんていなくなっても誰も悲しまないんだよ!」


「っ!」


 俺は、気付いたら足を踏み出していた。


「……やめろ」


「あ?」


 潮を罵っていた女子がこちらを向く。


「醜悪の権化みたいな顔した女だな」


「な、なにそれっ! てかなによあんたっ!」


 顔を真っ赤にして怒りを露にする女。

 赤鬼のようで殊更に滑稽だ。


「あ……お兄ちゃん!」


「よう。潮。楽しそうだな」


 同じ学校だが、いつも他人のフリをしていたし、させていた。

 こいつと家族だなどと思われたくなかったから。


「は? お兄ちゃん?

 あんた、兄なんていたの?」


 真っ赤な赤鬼女が眉間に皺を寄せる。

 なんだか今度は般若の面に見えてきた。


「ぷっ。良かったわねー。

 お兄ちゃんが助けに来てくれたわよー」


 般若女がけらけらと笑う。

 いつの間にか俺の近くに来ていた男子たちも笑う。


「な、なにがおかしいのよっ!」


 潮が怒る。

 やめとけ。

 お前は怒るより笑ってる方が似合ってる。


「……」


 周りを軽く見回す。

 都合よく鉄パイプがゴミ箱に立て掛けられている。


「やめろと言ったのは、聞こえたか?」


「っ!?」


 俺はそれを、足で思いきり上から踏み潰した。

 鉄パイプは真ん中でぐにゃりと曲がり、見事に歪曲した。

 般若女も取り巻きも驚いた顔を見せる。


「……やめろと言ったのは、聞こえたか?」


 もう一度同じことを言う。


「あっ!」


 背の高い男子がそこで何かに気がつく。


「こ、この人。この前、空手の県の大会で優勝してた人だぞっ」


「一応、全校集会で表彰もされたんだが、まあ、あんなのは誰も見てないよな」


 母さんを守りたかった。

 父さんを守りたかった。

 だから、強くなろうとした。

 その果ての産物みたいなもんだ。

 家族を守るための、そのための力だ。


「で、でも、そういうのやってる人って、人を殴れないのよね」


 般若女は卑怯の塊みたいな女だった。


「安心しろ。

 空手ならもうやめた」


「えっ!?」


 守るべき母さんは、もういないからな。

 母さんが亡くなって、父さんが再婚することになって、俺は空手をやめたんだ。


「……つまり、俺を縛るものはないってことだ」


「くっ」


「……俺はやめろと言ったんだ。

 それを潮に返して、さっさと消えてくれないか?」


「ひっ」


 あえて笑顔で。

 その方が相手に与える恐怖は大きい。


「お、俺は、頼まれただけなんでっ!」

「お、俺もっ!」

「あ、待てよっ!」


「ちょっ!」


 先に音をあげたのは取り巻きの男子たちだった。

 背の高い男子はきちんと潮に薬を返してから逃げた。


「……くそっ!」


 卑怯な般若女は再び赤鬼になって去っていった。

 いらいろと感情の忙しそうな女だ。


「……大丈夫か?」


 薬を胸に抱えてへたりこんでいる潮に声をかける。


「……あ」


 潮は一瞬だけ泣きそうな顔で俺を見上げたが、


「うん! 大丈夫!

 ありがとう! お兄ちゃん!」


「あ、おいっ!」


 すぐに笑顔になると、パッと立ち上がって路地の入口に向かった。

 そんな急に走って大丈夫なのかと心配になるが、もしかしたら潮はそうやって心配されたくなかったのかもしれない。


「ごめんね。お兄ちゃんって言っちゃって。

 学校じゃ知らないフリだもんね」


「あ、いや……」


 なんだか申し訳なくなる。


「私、先に帰るね!

 ごめんね、ありがとっ!」


「あ……」


 パタパタと去っていく潮の後ろ姿を、俺は何もせずにただ見送った。












「……」


 その後、俺は何となく帰りづらくて灯台に来ていた。

 天気はいつもより悪い。

 海が騒がしい。

 頭が痛い。

 すぐに雨が降るだろう。


 遠くで空が光る。

 雷だ。

 雷鳴が遅れて轟く。


 べつに構わない。

 むしろ雨に打たれたい気分だった。


「……」


 無邪気で、天真爛漫で、分け隔てなくて。

 それは確かに、よっぽど上手くやらないと生きづらいだろう。



『お弁当をひっくり返しちゃってー!』

『階段から転んじゃってー!』



「……っ!」


 それは、言い訳だったのだろうか。

 汚れて食べられなくなり、残した弁当。擦りむいた膝。

 そんな説明がないと、母親が心配するから。

 自分のドジなのだと。自分が悪いのだと……。


 潮は、俺に助けを求めていたのだろうか。


「……」


 俺には、何が出来ただろう。

 暴力で庇ってやるぐらいしか、俺には出来ないのだろうか。


「……っ」


 俺は、何を考えているのだろうか。

 潮に何かをしたいと、してやりたいと考えているのか。

 ありえない。

 母さんを奪った奴らだぞ。


「……ここにいたか、湊」


「……父さん」


 海を眺めながら自問自答を繰り返していると、父さんが姿を現した。

 この様子だと、潮から諸々の事情は聞いているみたいだ。


「……」


 父さんが俺の横に立つ。

 いつの間にか俺の方が背が高くなっていた。

 守られてばかりだと思っていた父さんを、いつの間にか俺が守らないとと思うようになったのはいつからだろう。

 ……だから、余計に裏切られた気になったのかもしれない。


 また、誰かを守ろうとしてたから。

 俺と母さん以外の、誰かを……。


「……潮ちゃんはね。生まれたときから体が弱くて、臓器移植をしなければ長くは生きられない体だったんだ」


「……知らなかった」


 あんなに元気でうるさくて騒がしいのに。


「お前には言わないでほしいと頼まれたんだ。

 心配かけたくないからって。

 普通の妹になりたいからって」


「っ!」


 なんでそこまで。

 俺に、そんな価値なんて。


「それでな。

 ドナーを探してたんだけど、なかなか見つからなくてな。

 命と引き換えにしないと移植できないような臓器だから尚更な」


「……」


「でも、あるときドナーが見つかった」


「!」


「……潮ちゃんの父親が、事故で亡くなったんだ」


「……!?」


「彼女の父親はドナー登録をしていたんだ。

 彼女は父親から臓器提供を受けて、無事に健康な体を手に入れた。

 まあ、今でも薬は飲まないといけないけどな」


「……そう、だったのか」


 俺は考えたことがある。

 母さんは俺を産まなければ、もっと長く生きられたんじゃないかって。

 母さんの命を奪って、俺は今ものうのうと生きているんじゃないかって。


 事故死とはいえ、父親の死と引き換えに命を永らえた潮は、いったい何を思ったのか。


「……せっかく父親からもらった命だから、精一杯生きたい。楽しく生きたい。思いっきり生きたい。

 潮ちゃんは、そう思ったそうだよ。

 まあ、そのせいで成長するにつれて息苦しくもなってるみたいだけどね」

 

 父さんが苦笑する。

 潮のクラスでの状況には、うすうす気付いてはいたのだろう。それが事実として発生しているのだとは知らずに。


「……潮、らしいな」


「そうだな」


 思わず、ふっと笑みが溢れる。

 そこに行き着くまでにどれほどの葛藤があったか、俺には分かるから。

 俺は、まだそう思えてないから。

 潮ほどの懐の深さを持てていないから。


「……話は変わるが」


「ん?」


「……空手で、潮ちゃんを助けたらしいな」


「っ!」


 ああ。あいつ、やっぱり起こったことを全部話したのか。


「……ソレは、大切な家族を守るときにしか使わないんじゃなかったのか?」


「……」


 駄目だな。

 父さんには全部バレてる。

 俺の葛藤も、悩みも、愚かで浅はかな考えも。

 分かった上で、俺がどうするのか見ていたんだ。


「……嫌な親父だな」


「お前にはそれぐらいがちょうどいい」


「……反論の余地はないな」


「だろ?」


 イタズラな笑み。

 この見透かされた感じ、中学生のときはそれが殊更に気にくわなかった。

 が、この力を父さんには振るうことはなかった。

 家族だから。大切だから。


「……」


 俺はソレで、潮を守ろうとしたのか。


 それは同情なのか、それとも家族への親愛の情なのか。

 分からない。

 分からないけれど、不思議とそれを不快には思っていない自分もいる。


「……なあ、父さん。一つ、聞いてもいいか?」


「なんだ?」


「なんで父さんは再婚しようなんて思ったんだ?」


 それは、最初に父さんから再婚を告げられたときに聞けなかったことだ。

 聞きたくなかったことだ。


『母さんのことなんてもう忘れたから』


 そんな言うわけない言葉を言われるのが怖くて……。


「……そうだな。

 今のお前と同じ、かもな」


「……は?」


「守りたいと思ったんだよ。

 香織さんと潮ちゃんを」


「……」


「まあ、結局守られてるのは俺たちな気もするけどな」


「……俺ら、メシ作れないもんな」


「掃除もしないしな」


「……ホント、いつも感謝してもしきれないよ」


「……それを、言ってやれよ」


「……そう、だな」


「きっと喜ぶぞ。号泣しながら」


「……だろうな」


 分かってる。

 そういう人だからこそ、俺は俺の世界にこれ以上入ってほしくなかったんだ。

 母さんのことを、いつか忘れてしまうんじゃないかって思って。


「……ん?」


「え?」


 父さんが何かに気付いて空を見上げる。


「うわっ!?」


「っ!?」


 瞬間、耳をつんざく勢いで雷鳴が轟いた。

 海の向こうで空が瞬く。


「あー。こりゃあひと雨くるな」


 雷鳴は鳴りやまない。

 曇天の暗黒を一瞬だけ光らせ、少しすると空を割る音が響く。

 それがどんどん近付いてくる気配がする。


「……帰るか」


 俺たちの家に。


「……だな」


「……ん?」


 父さんと並んで歩きだそうすると、今度は俺がそれに気づいた。

 頬に一滴の雨が落ちてきたのだ。


「やべっ。降ってきたぞ」


 その雫は一つまた一つと増えていき、あっという間に土砂降りと呼ばれる大雨に変わった。


「走るか」


「走るのかー」


 父さんは歩調を早めた俺に渋い顔を見せた。


「ほらっ。いくぞ」


「くそー。おっさんの体力をナメるなー!」


 二人で灯台から走り出す。

 俺たちの家に。

 家族の待つ、家に。


「うわっ!」


 父さんが稲光に頭を縮ませる。

 雷光はびかびかと光り、雷鳴はとどまることを知らない。


「こうなりゃヤケだ!

 わっはっはっはっーー!!」


「おっさん無理すんな」


 二人で走り続ける。

 いつの間にか二人とも笑っていたように思える。


「おっさん扱いするなー!」


「いや、さっき自分でおっさん言ってただろ」


「自分で言うのはいいんだよー!」


「めんどくさいおっさんだな」


「おっさん傷付くからやめてー!」


「ったく」


 潮はちょっと父さんに似てる。

 それも、俺はちょっと気にくわなかったのかもしれない。


「……」


 雷鳴はやまない。

 潮騒は気を使ったように鳴りを潜めていた。


 そういえば、母さんも潮に負けず劣らずよく喋る人だったな。

 いや、どちらかというと雷鳴みたいに一気に喋って、疲れたから急に静かになるようなめんどくさい人だった。

 俺は、それがそんなに嫌いじゃなかった。

 家が賑やかで明るくて、楽しい気がして。


「……」


 空は光り、雷鳴が轟く。

 全身を打つ雨も、今は心地いい。


 なんだか、母さんに灯台から追い出された気分だ。

 いつまでもこんな所でウジウジしてるんじゃないって。

 潮騒は、いつも側にいるだろって。


「……」


 こうやってたまに思い出すぐらいでいいのかもしれない。

 こんな騒がしい雷鳴みたいだったなって。

 忘れなければ、それでいいのかも。

 じゃないとまたこうして雷鳴に怒られそうだ。


「ふっ」


「ん? どうしたー?」


「いいや」


 思わず笑みが溢れる。

 たまにはわざと怒られてみるのもいいかもな、なんて。


「お先に」


 父さんを抜かして速度をあげる。


「あ、おいっ!

 年寄りを気遣えっ!」


「おっさん扱いは嫌なんだろ?」


「ソレハソレコレハコレだー!」


「めんどくさっ」


「泣くぞー!」


「豪雨だからべつに泣いてもいいぞ」


「わーん! 母さーん! 香織さーん! 潮ちゃーん!」


「ははっ。うるさっ」


 俺と父さんは走った。

 雷鳴に背を向けて、俺たちの家に向けて。











「はー、はー、はー……」


「大丈夫か? おっさん」


「大丈夫ではない」


「ったく。無理して俺に合わせて走るから」


「くそー。衰えは虚しいぜー」


 マンションに着き、エントランスで父さんが膝に手をついて息を整えている。

 俺はエレベーターを一階に呼んでおく。


「ほら。エレベーター来たぞ」


「うーい」


 何とか息を整えた父さんとエレベーターに乗り込む。

 目的階のボタンを押し、ゆっくりと上へと運ばれる。

 雨はまだ地面を叩き、雷鳴は鳴り響いていた。


「……なあ、父さん」


「なんだー?」


 エレベーターの階層ボタンを見上げながら、聞いてみたかったことを尋ねる。


「……今でも、母さんのことを愛してるか?」


「もちろんだ!」


「!?」


 即答だった。


「俺は欲張りだからな!

 母さんも香織さんも潮ちゃんも、もちろん湊も、みんなみんな同じぐらい愛してるぞ!」


「……」


 そうだ。

 こいつはこういう奴だった。

 変な心配をしていた自分が馬鹿らしく思えてくる。


「……ふっ。それはズルいだろ」


「何が悪い?」


「……まあ、父さんらしいか」


「だろ?」


 父さんのことだから本音なんだろう。

 上と下もない。

 全部大切で全部愛してる。

 それがこの人だ。

 

 いつか、俺が目指す背中だ。



 エレベーターが着く。

 二人で狭い箱から抜け出す。


 雨音が再び強くなり、雷鳴とともに耳を騒がす。


 もうすぐ、俺たちの家に着く。


「……なあ、湊」


「なに?」


 並んで歩きながら、父さんが前を向いたままポツリと呟く。


「誰かが待っている家に帰るというのは、けっこう良いものだよな」


「……」


 父さんがインターフォンを押すと、玄関の向こうからパタパタと向かってくる音がした。

 雷鳴が騒がしいはずなのに、なぜかその音だけが明確に聞こえた。


「パパ! お兄ちゃん!」


 そうして現れた潮騒は輝くような笑顔を伴っていた。


「……そうだな」


 父さんの言葉に今さらながらポツリと返す。


「んー?」


 潮が小首を傾げる。


「いや、なんでもない」


「そっか。おかえり! 二人とも!」


「おー。ただいまー。潮ー!」


 父さんは嬉しそうに家に入っていく。

 潮にタオルを持ってきてくれと頼んで。


「……ただいま」


 雷鳴にかき消されるような小さな声で呟く。


「!」


「っ!」


 しかし、潮はすごい勢いでこちらに振り返った。


「おかえり! お兄ちゃん!」


 そして、再びの輝くような笑顔。

 どうして聞こえたのか。


「……ああ。ただいま」


 仕方ないから今度はちゃんと聞こえるように応える。


「待ってて! すぐにタオル持ってくるから!」


 潮は嬉しそうに笑うと、パタパタと風呂場へ向かった。


 潮騒も、そんなに悪くないかもしれない。






「いやー、びしょ濡れだよー」


「大変だったわねー」


 潮にもらったタオルで軽く体を拭いてリビングへ。まいったまいったと言いながら、父さんが嬉しそうに香織さんに体を拭いてもらっていた。

 今は、その光景も悪くはないと思える。


「湊! 先に風呂行ってきていいぞ!」


「ああ」


 父さんはもう少し香織さんに拭いてもらいたいようだから、お言葉に甘えて風呂場に向かう。


「あ……み、湊くん。夕飯、用意してるから、しっかり温まってきてね……」


「……」


 香織さんが俺の背中に不安げに声をかけてくる。


「……ありがとう。いってきます」


「!?」


 背中越しでも、香織さんが驚いているのが分かる。

 お礼なんて、ちゃんと言ったことなんてなかったから。


「……あ、それと」


「え?」


 リビングのドアの前で足を止める。


「……オムライスは、とろふわ玉子が好き、です……」


「っ!?」


「……じゃ」


 照れくさいので、そのままドアを開けて逃げるように風呂場に向かう。


「ママー! 泣かなくてもいいじゃなーい!」


「そうだぞ! 湊はいつも感謝してたんだ!」


「だって、だってぇー」


 ドアの向こうから騒がしい声が聞こえる。

 外は相変わらず豪雨だし雷鳴もすごい。

 でも、今はそれも気にならない。

 もっと賑やかで騒がしい喧騒がリビングに溢れているから。


「……」


 俺も、あそこに入っていけるだろうか。

 いけるんだろうな、きっと。

 あの人たちはこれから容赦なく俺を巻き込んでいく気がする。


「……母さん。

 母さんのことは忘れないよ」


 洗面所に入り、濡れた服を脱ぎながら雷鳴に呟く。


「でも、少しだけ前に進んでみようと思う。

 家族と、一緒に」


 風呂場に入れば豪雨も雷鳴も遠くになった。



「私、頑張る!

 クラスメートと話してみる!」

「おー! 頑張れー! パパは応援してるぞー!」

「ママも応援してるわ!」



 代わりに、潮騒が近くになった。


「……俺も、応援してる。

 何かあれば助けてやるし、守ってやる。

 いつも、助けてもらってるし……」


 湯船に浸かりながらポツリと呟く。


「……家族だからな」


 天井を見上げても空は見えない。雨も雷もない。

 でも、この天井の向こうには間違いなく空があって、きっと今も雷鳴が轟いている。


 俺はそれを忘れない。


「……ここから通える大学も探してみるか」



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― 新着の感想 ―
[良い点] ∀・)凄いボリュームある短編作品だなと思いながら読んでいましたけど、最後まで読んで「あ、これはボリュームのある短編形式の方がずっしりくる作品だな」と納得しました。人の心とは素直に動かないモ…
[良い点]  主人公が葛藤をかかえているのは境遇故に致し方ないと思います。ただ継母と義妹さんの気持ちを考えるといたたまれない気持ちになりました。ともあれちゃんと最後は分かり合えてよかったと思います。 …
[良い点] 拝読させていただきました。 これですよ。これ。 鳥さんが力込めて真っ向からど真ん中に投げ込んでくると、こういう心に刺さる作品が出来るんですよ。 登場人物たちがみんなかっこいい。 悩みなが…
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