彼岸花の橋
昔々、人が生まれてまだあまり時が経っていない頃。
人がたくさん生まれて村ができ、村がたくさんできて国になった。その国には三人の王子がいた。
長男はとても賢く国王の器にふさわしかった。次男は体が人一倍大きく鋼のような頑丈さを持ち、武勇に優れた者だった。三男坊の王子、ナギはというと女性的な顔立ちに体格、兄のような賢さも武勇もなく、秀でた才は何もなかった。三番目の王子であり、国を得ることもなければ、体格にも恵まれていない彼には武功で身を立てる未来もない。
ナギにとって毎日が空虚な物だった。毎日、勉強も武術の訓練もせず、少しでも気に食わない人を見つけては理由をつけて処罰したり処刑したり、夜は毎晩違う女を抱いて憂さを晴らした。自分の悪口を言う者は捉えて処刑する。自分が偉い存在だと実感が持てて安心するのだ。神のように人の生死を左右できる自身の「力」に陶酔することができる。ナギは人の命を奪う瞬間に生きている快感を感じていた。
ある時に従者たちの噂話を耳にする。
「都には最近鬼たちが現れる」
「鬼たちはどうやら彼岸花の橋の向こうからやってくる」
と言った噂話だった。
彼岸花の橋は人里離れた場所にある。川岸に真っ赤な彼岸花が鮮やかに咲いている。不思議なことに彼岸花は年中咲いているのだ。その橋の向こうには神が住まうと言われる大きな山があり、山に入ったものは誰一人帰ってきたものはいないと言う噂だ。都からも離れていて、街道からも外れているので立ち寄る者はほとんどいない。
ナギは従者を連れて月も出ない夜、肝試しに向かった。まだ春とは名ばかりで陽が落ちると共に冬が戻ってくるような寒い夜だった。月も出ていない真っ暗な夜。吐息が白く色づく。
「ナギ様、こんなこともうやめておきましょう。野党でも出たら危のうございます」
「野党が出たら殺せばいいだろう。それも私の武勇伝になる。その上、私がこの橋を渡って戻ってきたという噂が広まれば、私は勇気のある男だと評判になる」
辺りには明かりはなく、人気もない。草をかき分けながら辛うじてある獣道を進んでいく。沢の流れる音と枝や木の揺れる音。時折、獣の遠吠えがする。この見えない暗闇には確かに何かが息づいているのだ。馬が何度も怯える。この暗闇は直感の働く獣たちが危険を察知するほどの場所のようだった。
「ナギ様、本当におやめください。馬がとても怯えています。本当にここは危ない場所でございます。どうか、戻る勇気もお持ちください」
従者のマトが進言する。すぐに癇癪を起こし、従者に対しても処罰処刑は当たり前。そんなナギにとって歳の近いマトは他とは違う存在だった。
「大丈夫だ、マト。この橋を行って帰ってくるだけだ」
マトの静止を振り切って、ナギは馬から降りると歩みを進めた。一歩、二歩。なんだ、何にも起きないじゃないか。その途端、突風がナギの背中を押した。倒れぬように踏ん張る足を引き剥がすように風が前へ前へと押してくる。バランスを崩し、四つん這いになるが風が強くて動けない。耳には風の轟く音しか聞こえない。ナギは橋にしがみつく。後ろにも前にも進めない。さらに強い追い風が吹き吸い込まれるようにナギの体は闇の中にさらわれていった。
「ナギ様!」
マトは慌ててナギを追い、橋を渡ったが何事もなく向こう岸にたどり着いた。元々、沢の幅は狭い。橋の長さも大してない。見失うはずはない。だが、ナギの姿は対岸にはなかった。
ナギの馬も怯えたまま逃げ、どこへ行ったのか分からない。マトは目の前に広がる暗がりを凝視して途方に暮れた。辺りは静寂に包まれた。
ひどい頭痛で目が覚めた。辺りには腐ったような匂いが立ち込めている。血のような生臭い匂い。息をするたびに入ってくる不快な空気に吐き気を我慢できない。合戦場のような匂いだ。山だからだろうか、真っ暗で何も見えない。
「おい、誰かいないのか」
暗闇に声をかけるが自身の声が響くばかりで返事はない。
山の前にマトがいるはずだ。
「おい!」
ナギはもう一度大声を上げる。
「おや、大丈夫ですかな」
暗闇から提灯を持った人影が近づいてくる。猫背で小さな人影は年寄りのようだった。この山に人が住んでいたのだろうか。ナギは暗闇に目を凝らし、ギョッとする。
「大臣」
大臣は優しげに微笑みを浮かべている。
「なんでお前がこんなところにいる」
「それは私があなたをここへお連れしたからですよ。私と同じ根の国に」
大臣の体はぶちぶちと音を立てて裂けた。中からは小柄な大臣よりもずっと体の大きい牛のような姿の鬼が姿を現した。
「私から生の国へと王子のお迎えに行こうと思っておりましたのにこうも早くご自身から来てくださるとは」
鬼は軽々と片手でナギを掴み上げ、口から止めどなく涎を垂れ流しながら生臭い息をナギに吹き付ける。
大臣はナギのことを「能無し王子」と馬鹿にし、至る所で陰口を叩いていた。その陰口をナギ本人が耳にしてそのままでいられるはずはなかった。ナギは癇癪を起こし、その場で処刑させた。大臣を慕う者の目の前で。大臣を邪魔だと思う者の目の前で。大臣を辱めたのだ。
「わしは有能だった!生きておれば大臣としていずれはお前たち王や王子にとってかわり、国を我がものにできたものを。命さえあれば。時間さえあれば」
「それをお前のような無能な王子に命を奪われようとは。三兄弟の中でも一番出来の悪いお主なんぞに!」
鬼はぎりぎりとナギの体を握りしめる。ナギは精一杯にもがくが大きな鬼の指はびくともしない。
夢でも見ているのだろうか。
ナギの体を走り抜ける痛みが現実であると知らしめる。
「いいざまだ。能なし王子。ゆっくり握りつぶした後にわしが食ってやろう」
「待て、大臣!お前だけずるいぞ。その男の体を引き裂きたいのはお主だけではない!」
暗闇の中から鬼がどんどんやってくる。
「ちょっと間違えただけなのに能無しだと言って切り捨てられた」
「私は嫌だと言ったのに無理やり体を汚され捨てられた。苦しくて私は自害した」
「彼の前を横切った私の坊やを不敬だと言って切り捨てた。それに抗議した私までも」
人形の取り合いをする子供のようにナギの体を鬼たちが引っ張り合い取り合う。
「憎らしい、憎らしい」
「恨めしい、恨めしい」
「お前さえいなければ」
身体中が痛い。バラバラになっているんじゃないかと思うがまだどこも引きちぎられてはいないようだ。引っ張られるたびにあまりの痛さに叫び声が出る。その度に鬼たちは嬉しそうに大笑いをする。あまりの痛みの流れに揉まれ、意識が度々飛んでしまう。
「女王だ!」
その声を合図に鬼たちは散り散りに逃げていき、ナギは地面に放り出された。
顔を上げると頭の先からつま先まで包帯でぐるぐる巻きの人物が立っている。篝火の灯りで良くは見えないが、女物の着物を着ているようだ。目元には包帯の隙間があり、火が当たると黒真珠のような光がキラキラ輝く。
ナギの体は動かそうにも足も手も糸の切れた操り人形のようにだらりとして動かせない。身体中の痛みの波も押し寄せて来て、もう目を開けていられなくなった。