小夜香と十和子の物語 7章
「ステージで歌いたいの。もちろん、その時にならないと歌えるかどうかわからないけれど、準備だけはしておきたいの。だからやることが決まったら、その時は止めないで欲しいの。」
次の土曜日、小夜香は自分の想いを両親に告げた。
二人は、娘の状態からコンサートはとっくに中止になていると思っていただけに、その言葉に心から驚いた。そんな二人に、十和子が続けた。
「お父さん。お母さん。彼女と一緒にいて感じるのは、歌いたいっていう想いが彼女を支えているってことなんです。確かに、今の体調では厳しいけど、この後体調も回復して歌えるようになって、ステージに立てるかもしれません。今はどうか彼女の想いを認めて、応援してあげて下さい。」
二人は、無駄なことだと思いながらも、しぶしぶやることを認めた。
その日、小夜香を知子に任せた十和子は、武雄と二人で『我蘭洞』へ行き昼食を食べた。食後、コーヒーを飲んでいた十和子は、彼からタバコの臭いが消えたことに気付き、
「お父さん、タバコ止められたんですか?」
と、尋ねた。それは思わず出た言葉だったのに、武雄は何故か動揺した感じで、
「いや・・そうだな、健康だよ、健康のために止めたんだよ。」
と、何とも言えない笑いを浮かべ答え、逆に尋ねてきた。
「時ちゃん、一つ聞いていいかな?」
「ええ、何ですか?」
「あー、ちらちらと耳に入ってくるんだけど、時ちゃんも聞いていないかな?時ちゃんが、小夜香の腹違いの姉さんだって。」
コーヒーを口に含んでいた十和子は、思わずむせてしまう。
「お父さん、誰に聞かれたんですか?」
「いや、良いお姉さんがいて良かったですねって、看護師さんに言われてね。訳が分からず焦ったよ。どういうことか、時ちゃんはわかるかな?」
今度は十和子が動揺し、返事するまでにしばし時間を取り腹を括った。
「お父さん、すみません。こうなる前に話しとくべきでした。実は、小夜ちゃんの入院の際に、泊まれるように宗像先生にお願いした際に、つい、小夜ちゃんはやっと会えた腹違いの妹なんですって、口にしてしまったんです。」
それを聞き、今度は武雄がむせる。
「それじゃ、噂の元は時ちゃんかい?」
十和子は、申し訳なさそうな顔を取り繕い頷く。
「でも、宗像先生もお喋りですね。それは先生にしか話していないのに。」
「まあね、別に今更どうでもいいんだけどね。」
武雄が、苦笑いをして後は何も言わなことに、十和子は許してもらえたものとして、もう一度だけ謝った。
「お父さん、すみません。」
八月最後の月曜日、朝早く来てもらった木下に、小夜香は借りていたファンクラブの会員名簿を返し、招待状を出したことを伝えると木下は驚きの表情を浮かべた。
「本当なの?本当にコンサートをやるつもり?名簿は確かに貸したけど、もう招待状送ったの?ねえ、小夜・・歌える?」
ベッドの小夜香が頷くのを見て、木下はあきれた表情で首を振る。
「・・驚いた。申し訳ないけど、今のあなたを見てとても歌えるとは思えないわ。その自信はどこから来るの?」
「木下さん。確かに小夜ちゃんが歌うなんて、普通に考えれば無理なのかもしれません。でも本人が歌いたいという意志がある限りは、コンサートの準備だけは整えておきたいんです。だから木下さん、忙しい中で本当に申し訳ありませんが、私たちを助けて下さい。お願いします」
頭を下げる十和子を見て、木下は一つ溜息をつき、
「時ちゃん、あなたもそうよ。本当に二人ともどうかしているわ。社長にこんなこと話したら、笑って本気にしないでしょうね。」
そう言て黙り込むと、じっと見つめている二人を見返す。
「ああもう!わかったわ。いいわよ。協力するわよ。社長も説得しましょう。で、どうするの?」
「木下さん、ありがとうございます。」
小夜香は、ベッドの上でほっと表情を緩めた。
「すみません。木下さん。本当にもう時間がないんで、スタッフや資材の手配とかお願いしたいんです。私で出来ることがあれば、指示して下さい。何でもやりますから。」
十和子も、ほっと胸をなでおろし頭を下げた。
「確かに時間もないし、時ちゃんあなたには、本当に動いてもらわないといけないわよ。もっとも沢井さんからは、会場代とか他の経費分で、費用は十分に振り込んでもらってるし、スタッフもバックバンドも、宙ぶらりんの状態だったから、こうしてはっきりすれば、今からでもまだなんとかなるでしょう。」
「ありがとうございます。それで、何をすればいいですか?」
「そうね。まず会場の確認をして。舞台の設定をどうするか。バンドのメンバーとの打ち合わせも必要だし、やることは一杯あるわ。」
「前回と同じメンバー?」
ベッドから小夜香が尋ねる。
「そう。皆、同じメンバーに集まってもらってるわ。今から彼らに練習を始めてもらえれば、曲はこなせるけど、新曲を入れるのか、リハーサルをどうするのか、意見があれば言って欲しいし、考えないといけないことがたくさんあるわ。小夜、それはあなたがやらないといけない事よ、大丈夫なの?」
「ええ。もう、ある程度は考えてます。明日、時ちゃんから連絡してもらいます。それでいいですか?」
小夜香は言葉少なに答える。
「わかったわ。それじゃ私は、今から出来ることを手配しとくわ・・小夜。こうなったら、本当に歌えるようにとは言わないけど、せめてステージで挨拶できるようには頑張りなさい。」
「ありがとうございます。木下さん。忙しいのに無理言って、ごめんなさい。」
木下はその言葉に首を振り、
「小夜。私に出来ることがあってよかったわ。」
木下は、その言葉を残し病室を後にした。
翌日、十和子は木下と連絡を取り、彼女の仕事の合間に小夜香の大まかな希望を伝えた。ステージにはスタンドマイクを置き、舞台の照明は小夜香とバックバンドを照らすスポットライトだけ。飾りも簡素なもので考えたいこと。バンドとの打ち合わせは、十和子が事前に何度かメンバーに会い打ち合わせをして、小夜香との打ち合わせは当日の午前中の一度だけ。そして最後に十和子は、小夜香が歌いたいと考えている、曲のリストとその順番が書かれた紙を木下に手渡した。木下は、そのリストをチェックしながら尋ねた。
「何故、スポットライトなの?」
「・・ステージで倒れた時に、その姿を皆に見せたくないって言うんです。だから一部だけを照らすようにしてほしいって。」
「そう、そうなの。ただ、ステージはせめて、ジョーゼットの幕での飾り付けくらいはした方がいいわね。最初から暗いまま、という訳にもいかないでしょうからね。」
「そうですね。あの、木下さん。飾り付けに関してはお任せしてもいいですか?小夜ちゃんはステージの飾りつけに、あんまりこだわらないし、私もまったく、イメージが湧かないんです。」
「わかったわ。それはこちらで手配するわ。あんまり派手にならないように、簡素にするからって彼女に伝えておいて。」
木下は、歌うことは無理とはわかっていても、せめて最後に小夜香がステージに立てるようにと、自然と願っている自分を意識しながら手配に動いた。
担当医の宗像は、渋い表情で口を開いた。
「今の状況で、あなたが歌うなんて、大下さん、はっきり言ってとても無理な事です。ましてやコンサートなんて。今の状態では、その場に立っことさえも無理な話ですよ。その上に、酸素の吸入チューブを外すなんて、自殺行為です。」
宗像は、小夜香の提案を強く否定した。
「でも先生、もう案内状も出してしまいました。きっと何人かの人達は、楽しみに来てくれると思うんです。先生、歌えなくてもいいんです。来てくれた人達に一言『ありがとう』って、伝えられればそれだけでいいんです。お願いします。これは、私の我儘だとわかっています。先生にもご迷惑をおかけします。でも本当に最後の我儘です、どうか認めて下さい。」
傍で聞いていた母は、我慢できずに強い口調で娘を諌めた。
「最後の我儘だなんて、小夜香、何を言ってるの!もういいじゃないの!ここまであなたは頑張ったんだから、このまま無理をせずに、治療に専念しなさい。そして治ってから、またコンサートをやればいいのよ。ね、そうしなさい。」
小夜香は、母をじっと見つめ首を振る。
「ママ。後なんてないの。もう私には、今しかないの。」
知子は娘の目を見返すことが出来ず、目を逸らし口を噤んだ。
八月最後の日に、小夜香は回診に来た宗像へ、コンサートの舞台に立ち、歌いたいと告げた。宗像は、その無謀さに驚きあきれた。また母も、事前にコンサートのことを聞いてはいたが、その後、その話が出ることは無く、もう諦めたものと思っていた。それが急に、先生へやりたいと伝える娘に驚き、何故、そこまでコンサートに拘るのかと外していた視線を娘に向けた。そこには食事もほとんど取れずに、摂っても吐き気に襲われ苦しむ娘の痩せた体がある。誰が見ても、コンサートはもちろん、歌うことさえも無理なことははっきりしている。
「小夜香、先生にそれ以上、無理を言わないの。」
知子は、彼女のためと信じてさらに強く娘を諭した。
「ママ。私にはもう時間は無いの。だから、これが最後の我儘だと思って聞いて欲しいの。私は最後に歌いたい。ううん、歌えなくても舞台に立ちたい!わかって、ママ。」
「小夜!最後だなんて何言ってるの!バカな事言わないで!いい加減にしなさい!」
知子はたまらず、大声を出していた。
「まあ、お母さん落ち着いて下さい。大下さん、現時点では私から、良いでしょうと返事することはできません。ただ、取りあえずはコンサート間際の体調を診て、それで判断すると言うことではどうでしょうか?」
医師の宗像は、この場を取り繕うように提案した。
「ええ、それで結構です。先生、無理言って、ごめんなさい。」
小夜香はそれだけ言うと、疲れた様子で目を閉じた。十和子は布団を肩まで引き上げ整える。
宗像は、しばらく小夜香を見つめた後首を振り、看護師を従えて病室を出て行った。その後を追い知子も病室を出てゆく。十和子はその姿を目で追い、整えていたベッドから身を起こす。
「小夜ちゃん、休んでいてね。お母さんと話しをしてくるね。」
「うん。ごめんね。ママをよろしく。」
怠そうに目を開けた小夜香に、十和子は頷く。
知子は、ロビーのソファーで両手に顔を埋め座っていた。その姿に十和子の胸は痛み、どう話せばいいのかと思い悩みながら、知子の横に腰をおろした。知子は、伏せていた顔を上げた。
「小夜香は、何時から知っていたの?」
「退院した時からです。」
十和子は、そのことを口にして、ようやく知子に顔を向けられた。
「そんな時から・・・知っていたの。」
「退院の前の夜に、小夜ちゃんに聞かれました。『後、どれくらい生きられるの』って。そして全部話して欲しいって。私は話すしかありませんでした。お母さん、すみません。その後の検査の結果のことも、すべて話しています。」
「そう・・なの。時ちゃんも、辛かったわね。」
知子は、再び両手に顔を埋め、じっと気持ちを落ち着かせた後、顔を上げ大きく息を吐き、十和子が差し出すハンカチを手にした。
「時ちゃん。あの子は何故、あんな体で、コンサートをやれると思うのかしら・・?歌えるなんて、本当に信じているの?」
知子はハンカチで涙を拭い、胸に疼く疑問を口にする。
「お母さん、私にはわかりません。でも小夜ちゃんは、奇跡を信じているのかもしれません。私にはそうとしか言えません。」
「奇跡?それじゃ結局、あの子の思い込みでしかないのね?」
「思い込み・・そうかもしれません。でも退院の時、すべてを知った小夜ちゃんが望んでいたことは、沢井さんに料理を作り、一緒に過ごすことだけでした。その時は、コンサートは無理な事、手の届かない夢としか考えていませんでした。いつから、何がきっかけかはわかりません。でも、コンサートを出来るって、彼女は希望を持てしまったんです。皆を前に歌いたいと・・私は、彼女の思い込みでも何でもいいんです。そのための準備だけは整えてあげたい。そして、小夜ちゃんを舞台に立たせてあげたいんです。」
「時ちゃん、小夜のために、そこまで尽くしてくれて、ありがとう・・でもね、それは叶わないことなのよ。」
「それでも、信じることだけはできます。」
知子は、そう口にした十和子を、今は落ち着いた表情で見つめた。
「そうね。あの子が望むこと。それが出来ますようにって、祈ることはできるわね。」
その頃、叔母の美代子は、一人、喫茶『我蘭洞』のドアを開けていた。ドアベルの音は、美代子にはどこか遠くで鳴り響く微かな音にしか聞こえない。
マスターは誰もいない店内で一人、彼女を待っていた。
「美代子様。よく、お越し下さいました。」
頭を下げ体を上げたマスターの首に、美代子の手が絡みつく。
「ごめんなさい。私の・・」
美代子は全てを口にできず、抱きついたまますすり泣く。
「『お母さん』、ありがとうございます。もう、これだけで十分です。後はお腹の赤ちゃんを、どうか大切にしてあげてください。左目の下に泣きボクロのある、かわいい女の子ですよ。私の分まで愛してあげてください。」
マスターは、美代子の背に手を回し、その温もりを確かめると、そっと優しく首に回された美代子の手を外した。
美代子はふと、窓辺の席に座りコーヒーを飲んでいる自分に気づいた。ここは依然、十和子と来たことのある喫茶店。彼女がそう理解するのに、しばらく時間がかかった。
(何故、私はここへ来たのかしら・・・?ああ、でも不思議ね。こんなに心穏やかに過ごせるのは、いつ以来のことかしら。)
ゆっくりと流れる心地良い時間と、コーヒーを楽しみ、美代子は『我蘭洞』を後にした。振り返ることのないその後姿を、マスターはじっとドアに佇み、いつまでもいつまでも見送っていた。
真夜中、目を覚ました小夜香の傍らにマスターの姿があった。
「これが最後なのね、マスター?」
小夜香を見下し、マスターは頷く。
「これまで、おやすみのところを何度も失礼いたしました。ええ、小夜香様、これが最後でございます。」
「ねぇ、マスター。あなたは悪魔?私の魂をどこかへ連れて行くの?」
「いいえ。とんでもございません。私はただの喫茶店のマスターでございます。悪魔でも、ましてや神でもありません。小夜香様の魂を、私がどうこう出来るはずもございません。」
「それならマスター、あなたは何者?」
「そうでございますね。強いて言うのであれば、この世に産まれることのできなかった、名も無き者でございます。」
「産まれることのできなかった?」
「そうでございます。産まれることはできませんでしたけれど、大切な方の想いに縛られ、どうすることもできずに、この世を彷徨っておりました。それも、もうしばらくのことでございます。」
「もう少しって、どういうことなの?」
「縛り付けられておりました想いから、解放されるということでございます。」
「消えるの?」
「いいえ、帰るのでございます。」
「どこへ?」
「皆の待っているところ、でございます。」
小夜香はしばし口を閉じ、マスターの顔をじっと見つめる。
「そこって、私も行くところ?」
今度は、マスターが小夜香を見つめ返す。
「お待ちしております。」
「・・そうなんだ・・ねえ、マスター。加奈子ちゃんはどうしたの?彼女は本当の人間だったの?違うの?」
「加奈子は新しい命として、今、この世界に産まれ落ちる時を、待っております。」
「マスター、彼女も誰かに縛られていたの?」
「いいえ、加奈子は私のために、母のもとに行ってくれたのですよ。母はようやく、私への罪の意識から解放されます。」
「!マスター、もしかしてあなたのお母さんって、美代子さん?そして生まれてくる赤ちゃんが、加奈子さんなの?」
「・・小夜香様、本当に勘がよろしゅうございますね。」
「時ちゃんから、美代子さんに赤ちゃんが出来たって聞いてたから、何となくそう思ったんだけど。そうなんだ。加奈子さん、美代子さんの赤ちゃんになるんだ。いいな。美代子さん。」
「小夜香様、お察し申し上げます。ところで、小夜香様、お決めになられましたでしょうか?」
「ねぇ、マスター。その答えはまだよ。私はまだ聞きたいことが一杯あるの。あなたは何故、私が歌うことにそんなに拘るの?」
小夜香は、質問には答えず逆に質問を続ける。そして手を伸ばしマスターの手を取った。すると、触れた手からその正体と彼の救いを求める想いが流れ込む。
「ああっ。そうなんだ。あなたは・・そうなの・・」
小夜香は、全てを理解するとゆっくりベッドに身を起こし、マスターを引き寄せ、強くそして優しく抱きしめた。
「あなたは私。そうなのね。そう願ってるのね・・?私はコンサートをやります。聞いてくれる皆のため、時ちゃんのため、私のため、そしてマスター、あなたのために、歌います。」
小夜香はマスターの耳元で、優しく囁く。
「小夜香様、ありがとうございます。あなた様の想い、私もしっかりと受け止めさせていただきます。そして、心よりお礼を申し上げます。あとは微力ながらも、コンサートの際にはお力添えをさせていただきます。どうかそのことをお忘れなく。」
大井戸の寝室で、美代子は膨らみもまだ僅かなお腹を擦りながら、体に宿る新しい命に声をかけていた。
「大切な私の赤ちゃん。元気に大きくなって、可愛いお顔を早く見せてくれんね。お母さんはね、あなたのお兄ちゃんを、産んであげられんかったの。あなたには、淋しい思いをさせるかもしれんけど、あなたがこの世に産まれてきたら、お兄ちゃんの分まで大切にするけんね。お兄ちゃんもそれを望んでくれてるよ。早くお顔を見せてね。」。
美代子は、そう語りかけながら不思議に思う。
(どうしてかしら?産んであげられなかった赤ちゃん、男の子か女の子かも知らないはずなのに、男の子って考えている・・)
不思議な雰囲気の中、美代子は産んであげられなかった赤ちゃんへの思いを募らせ、その魂を解き放つ言葉を口にする。
「名前も付けてあげれなかった、私の赤ちゃん。あなたのことは、これからもずっと忘れんよ。でも、もうあなたを産んであげれなかったことを嘆いて、これ以上許しを請うことはせんよ。それはあなたを縛ることだったのね。今まで、そんなことに気づかずごめんなさい。そして、私をずっと愛し続けてくれて、ありがとう。私もあなたを今までもこれからも、ずっと愛しています。ありがとう、私の赤ちゃん。」
美代子は、この言葉を何故口にしたのかわからなかったが、産んであげられなかった赤ちゃんのために、そうしないといけなかったと納得もしていた。そして言葉を口にした時に、彼女の心に刺さった最後の棘も消えた。その体と新しい命を、温かな温もりが包む。
風呂から上がり、寝室にやって来た大井戸は、お腹の赤ちゃんに語りかける美代子の美しさに、足を止め声をかけるのも忘れて見とれていた。美代子は視線に気づくと、心がとろけるような微笑みで、大井戸に応えた。
「小夜香様。そろそろ時間が来たようでございます。小夜香様のご決断、感謝いたしております。そして十和子様のこと、なにとぞよろしくお願いいたします。」
マスターの言葉と共に、小夜香が手を回していた彼の体は、少し輝きを放ち、ゆっくり薄れてゆく。マスターの姿は、小夜香の廻した腕の中で溶けるように消えていった。
そして、マスターが消えた瞬間、小夜香から、十和子から、美代子から、そして喫茶店『我蘭洞』を記憶に残す全ての人から、マスターの、そして喫茶『我蘭洞』の記憶は消えていった。
翌朝、目覚めた小夜香は、一筋の涙を零した。
(どうしたの?何故、泣いてるの?夢を見ていた・・悲しい夢?いいえ、違う。)
涙を指で掬い、小夜香は、記憶から消えた夢を懐かしむように、再び目を閉じ夢の心地いい残照に身を委ねる。その朝の小夜香は、しばらくの間、心地の良い温もりに包まれていた。そして、
(私はステージに立ち・・・最後のコンサートで、歌う。)
小夜香は、その想いをしっかりと握りしめた。
午後遅く、点滴を終えた小夜香は、
「ねえ、時ちゃん。ベッド起こしてもらっていい?それとアイスクリームが食べたいの、買って来てもらっていい?」
と、十和子へ頼んだ。十和子がベッドを起こしていると、
「アイスクリームは、私が買って来ましょう。」
そう言って、知子がソファーから立ち上がった。
「お母さん、いいんですよ。小夜ちゃんを看ていてください。」
背中にクッションを当て、小夜香の具合を確認していた十和子は、知子を呼び止めた。
「アイスは、カップのバニラでいいの?」
「うん、それでいい。ごめんね。」
「どういたしまして。お母さんも何か食べますか?」
「時ちゃん、ごめんなさいね。そうね、同じものお願いするわ。」
「わかりました。行ってきます。」
十和子が、病室を出ると、母は尋ねた。
「小夜香、どうしたの?時ちゃんに無理矢理、買い物を頼んで。」
「ママ、ここに座ってもらってもいい。」
小夜香は、それを無視して十和子が座っていた椅子に母を誘った。母はただならぬ雰囲気に、黙って指示に従った。
「ママにはね、一つお願いがあるの。」
傍へ来た母を、小夜香は真剣に見つめ言った。
「どうしたの?コンサート以外にまだあるの?」
「そうよ、もっと大切な事。」
小夜香は、これから話すことの大事さを、目で訴える。
「ママ。私が死んだら、その後、絶対に、時ちゃんから目を離さないで。そして、彼女がどんなに拒んでも、家に連れて帰って彼女から目を離さないで欲しいの。」
小夜香が口にした、最初の言葉の衝撃に、知子の心は竦み話の内容がすぐには理解出来なかった。けれど理解した瞬間、知子は更なる衝撃に身も心も竦み上がった。
「そうなの・・?時ちゃん、そんなこと考えているの・・!」
「ママは、もう知ってるよね?病院を退院する前に、時ちゃんを問い詰めて全てを聞いたこと。」
母がぎこちなく頷くのを見て、小夜香は続けた。
「その時、時ちゃんは私の死をずっと拒んでたって言ったの。受け入れるのも辛いって。だから、時ちゃんが現実を受け入れるのは、時間がかかるって思ってた。でもね、翌日には、変に落ち着いてたし、それからは、それまでに増して優しくなってたの。まるで天使に見えたけど、その優しさの裏には、何故か怖さも感じたの。」
母も、そう言われると思い当たるものがあり、頷く。
「それが何かわからなかったけど、でも、時ちゃんはその時から、自分の未来の事を話さなくなったの。前は、結婚にしても子供のことにしても口にしてたのに、そのうち考えるって笑って避けるの。今はね、私と一緒に、時ちゃんの未来も途切れてるってわかるの。」
知子は新たな恐怖に、大きく見開いた目に涙を滲ませる。
「それじゃ、私から時ちゃんに注意すればいいの?」
「いいえ、違うわ。彼女に話すのは私・・・ママはただ、時ちゃんから目を離さないでほしいの。それだけは必ず守って欲しい。お願いね。ママ。」
静かな中に、小夜香の強さのこもる言葉が、母の胸に刺さる。知子は口にする言葉もなく、ただ頷いた。すると、急に表情を緩めた小夜香は、悪戯っぽい微笑みを浮かべて言った。
「ねぇ。後ね、私が時ちゃんのために、何をしてあげようと考えているかママにだけは伝えておくね・・あのね・・・。」
小夜香は、胸に秘めた計画を母へ打ち明けた。それを聞いた母は、それが、コンサートと同じくらいに荒唐無稽なことに思われた。
「小夜、あなたは自分が何をしようとしているのか、わかっているの?あなたの考えていることは、時ちゃんの気持ちを全く無視しているのよ?彼の事も。もうあなたの考えが、本当にわからなくなったわ。」
「ママ、時ちゃんには、これくらいしないといけないのよ。どうなるか楽しみだわ。私は一度、時ちゃんを救ってるの。だから、最後まで面倒をみる義務があるの。そして時ちゃんには、私の分もしっかり生きてもらわないと。ちゃんと赤ちゃんを産んで、ママになってもらわないといけないの。」
母は、瞳を輝かせる娘を見つめ、こんな素敵な我が子を失わなければならない悲しさと共に、最後まで他の人のことを思いやることのできる娘への、誇らしい想いに胸を熱くしていた。
才賀の携帯が鳴り、十和子の名前が表示される。
「おお!」
思わず声が漏れ、流しにいたナオが声を聞きつけ振り返る。
「何?どうしたの?」
「はい、才賀です。はい、お久しぶりです。ご無沙汰してます。」
ナオは、無視して会話を始めた才賀を睨み、片付けの手を止めて傍に来ると、頬をくっ
つけ携帯に耳を寄せてくる。
「おい!やめろ。くっつくな!」
才賀は思わず毒づくと、
「えっ?」
と、受話器の向こうから、十和子の驚きの声がする。
「あっ!いやいや。十和子さん、こちらの事です。すみません。」
才賀はしつこく顔を寄せてくるナオを、押しやろうと無駄な抵抗を試みながら言った。
「それで、お電話の御用件は、どういうことでしょうか?」
「突然ご連絡して、すみません。実は、九月十日、お時間を頂けないかと思いまして、お電話をかけさせていただきました。」
「ええっ?九月十日ですか?わかりました。是非にと言うことであれば、十和子さんにその日を捧げます。」
ぼこっ!ナオの拳が、才賀の頬を襲う。
「このアホッ!その日は仕事だろうが!働け!金稼げ!」
「・・はい・・痛い。」
畳に伸びた才賀が、頬に手を当てたまま力なく答える。
「おい、いつまで携帯、未練たらしく握ってんだ。貸しな!」
才賀は、差し出されたナオの手に、素直に携帯を渡す。ナオは、まだ携帯が繫がっているのを確認して、
「十和子さん、そういう訳だから。その日はうちのはいけないよ。」
と、素気なく伝える。
「・・・」
しかし、返事が無い。
「おい。あんた、聞いてんのかよ。」
「くっ、くっ・・ふっ、あははは・・くっくっ。ご、ごめんなさい。おかしくって、あの、才賀さんの奥さんですよね。初めまして。十和子と申します。すみません、突然に電話をかけてしまって。わかりました。小夜香さんのコンサートの写真をお願いしようと思ったんですけど、他に当たってみます。」
「えっ、コンサート?」
ナオが戸惑って才賀に顔を向けると、彼は素早く起き上がり携帯をひったくるようにナオから奪い取る。
「もしもし!十和子さん、切らないで!もしかして小夜香さん、コンサートをやるんですか?早く言ってくださいよ。絶対、私が撮ります。撮らせてもらいます!何時に行けばいいんですか・・?はい・・はい、わかりました。えっ、撮影料?そんなものいりません。その代わり、コンサート前の小夜香さんに、会わせてもらえませんか・・?はい、はい、ええっ!OK!わかりました。それじゃ明日でも構いませんか?わかりました。はい、二時ですね。明日の午後二時に伺います。ええ、短くですね。はいはい、わかってます。それじゃ、明日お邪魔します。お電話ありがとうございます。」
電話を切ると同時に、才賀は叫んだ。
「やったー!病室の小夜香に会えるぞ!」
ぼこっ!
「えっ・・?何で・・?」
才賀は、信じられないという表情のまま倒れこむ。
「知らん。つい・・」
「そんな・・」
ばったり倒れた才賀に、ナオが笑顔で追い打ちをかける。
「明日は、私も付いて行くからね。」
「えっ?」
才賀の楽しみが、吹き飛んでゆく。
病院のロビーへ入った才賀が、最初に目にしたのは十和子と楽しそうに話しているナオの姿だった。ナオも気づき、呼びかける。
「遅いよ。何してんの。時ちゃん、わざわざロビーで待っていてくれたんだよ。それと今ね、時ちゃんに私も部屋に入っていいって、許可をもらったとこだよ。ねえ。」
「ええ、どうぞ。才賀さんも、あまり長くは話せないと思いますけど、どうぞ、ご案内します。」
才賀は、今朝アパートを出る前にナオにしっかりと、相手は治療中で遊び半分に行くもんじゃない、と釘を刺しておいた。だから、前を十和子と並んで歩くナオの後姿に、こっそり毒づいた。
「来るんじゃないと言ったろうが。仕事だぞ、バカ!それになんだ、時ちゃん?いつの間にそんな仲になったんだ。」
「何?何か言った?」
その言葉が聞こえたかのように、ナオが振り返る。
「えっ?いや、何にも。何か聞こえたか?」
ナオが、一言断って十和子を先に行かせ才賀を待つ姿に、彼はつい身構える。
「ばか。こんなところで殴りゃしないよ。」
そう言って、ナオは才賀と並んだ。
「時ちゃん、いい娘じゃん。まあ、あんたが一方的に憧れるくらいは、許してやるよ。それとね、私もコンサートで手伝うことにしたから。本当は、彼女と話すだけでよかったんだけど、つい話の流れでそうなったからさ。だから、小夜香さんにも一言挨拶するよ。」
「手伝いなんて、お前に出来るのか?」
つい、才賀の口が滑る。
「殴られたいの?」
「あっ、いえ、滅相も無い。ここ、病院。」
エレベーターの前で待っている十和子と合流し、エレベーターに乗り込むと、そこで才賀は尋ねた。
「十和子さん。コンサートが出来るってことは、小夜香さんは以前お会いした時から、体の調子は変わらずに良いんですか?」
十和子は、小さく首を振る。
「小夜香さんに会う前に、才賀さんにはお伝えしておいた方がいいですね。今の状況では、彼女が皆さんの前に立つことは、とてもできないと思います。だから、コンサート会場での撮影も、必要ないことかもしれません。それもあって今日、才賀さんに来てもらって、今の彼女を撮ってもらおうと思ったんです。」
「それじゃ、がんは進行している?」
「ええ、もう、末期です。」
才賀は、絶句する。ナオも手を口に当て、言葉を飲み込む。
「すみません。そんな状態なんですが、小夜香さんは今でも、歌うことへの情熱を失くしてはいません。だから、準備だけは整えているんです。」
「チケットももう、売り出しているって事?」
ナオが、呆れた顔で尋ねた。
「いいえ。今回はファンクラブの皆さんに、無料の招待状をお送りしているんです。」
エレベーターが最上階に着くと、十和子は病室へ二人を案内する。病室には母と、沢井、そして小夜香の歌の先生でもある作曲家の三宅がいた。入るとすぐに才賀の視線は、小夜香の姿に注がれる。
(おいおい。これでコンサートをやる?冗談だろう?)
それが、才賀の第一印象だった。小夜香の鼻にはチューブが、左手には点滴の管が繋がり、以前会った時よりもその体はかなり痩せ細っていた。ただ、その姿からは妖しい美しさが滲み出ている。
「それじゃ、小夜ちゃん、後は任せるよ。ただ無理はしないようにね。お母さん、私はこれで失礼します。」
「三宅先生。ありがとうございました。お忙しい中、本当に娘の我儘を聞いて頂いてありがとうございます。」
三宅は、才賀たちが来たのを切っ掛けに帰って行く。
「そこまで送らせて下さい。沢井さん、時ちゃん、小夜香をお願いします。」
母は、才賀たちへ頭を下げ三宅と共に部屋を出て行った。十和子は、小夜香と沢井にナオを紹介する。
「二人とも才賀さんはご存知ですよね。こちらはナオさん。才賀さんの奥さんです。」
「うえっ?」
才賀が、変な声を出すが、ナオに睨まれ黙り込む。
「小夜ちゃん。ナオさんには、コンサートのお手伝いをしてもらうことになったの。」
「ナオさん、ありがとうございます。その際はお世話になります。でも才賀さんって、こんなかわいい奥さんがいたんですね。」
「はは。まあ、そうですね。」
才賀は、適当に笑って返事を濁した。
「お手伝いは全然かまわないんだけど、小夜香さん、本当にコンサート出来るの?」
ナオが、単刀直入に尋ねる。
「ええ、私の状況はわかっています。でも今は、まだ皆さんの前で歌いたいって思ってます。」
小夜香は、ナオの目をまっすぐに見て答えた。
「あー、あんまり長く時間を取るのも申し訳ないので、小夜香さん、いくつか質問させてもらって、写真をもらってもいいですか?」
才賀は、慌てて二人の話に割り込んだ。そうして十分後には、質問への答えと小夜香の姿それに沢井と一緒の写真まで撮って、ナオを押し出すように病室を後にしていた。
その夜、日付の変わる頃、小夜香はゆっくりと体を起こし、纏わりつく怠さを吹き払うように強く息を吐くと部屋の明かりを点けて十和子に声をかけた。
「時ちゃん、起きて。」
ソファに横になっていた十和子は、その声にぱっと目を開けた。
「どうしたの、小夜ちゃん?気分悪いの?どこか痛む?」
「ううん。そうじゃないの。時ちゃんに、今のうちに渡しておきたいプレゼントがあるの。来てもらってもいい?」
十和子は、起き上がり小夜香の元へやって来た。
「どうしたの?そんなこと、明日でもいいんじゃないの?」
「今、二人の時が良いの。」
小夜香は、十和子に何の飾りも無い小さな箱を差し出した。
「時ちゃん、これを受け取って。」
「何?開けていい?」
十和子は、受け取る際に金属の擦れる音が聞こえた箱を開けた。
中には、『鍵』が入っていた。
小夜香は、戸惑っている十和子の手を引き寄せ耳元で囁く。
「『・・・・』の鍵よ。」
聞いた途端、十和子は弾かれたように身を引いた。
「どういうつもり?そんな鍵を私に渡して、小夜ちゃん、私にどうしろと言うの?そんなもの受け取れるわけないでしょう!」
十和子は、全身で嫌悪の情を顕わにして、手にした小箱を突き返す。小夜香は、そんな十和子を冷静に見つめ、その興奮を静めるように両手で、そっと小箱を持つ十和子の手を包み込む。
「私が死んだら、時ちゃん、どうするの?」
静かなその声は、機械音が鳴り続ける部屋に、凛と響く。
「えっ?何言ってるの?今、そんなことを聞くなんて、おかしいでしょう?」
「ううん。おかしくないよ。大切な事だもの。ねえ、私が死んだら、時ちゃん、どうするの?答えて。」
静かな容赦のない口調が、十和子を追い詰める。
「今更、何故、そんなことを聞くの!どうでもいいでしょう!」
十和子が、その真剣な眼差しを振り切るように叫ぶ。
小夜香は、首を振り十和子の手を包む両手に力を込める。
「答えて。それは時ちゃんだけじゃない。私にも、とても大切な事だから。」
「いい加減にして!前にも言ったはずよ!その時にならないとわからないって!そんなこと、小夜ちゃんに関係・・」
「嘘つき、もう決めてるくせに。」
小夜香は、十和子の言葉を打ち消すように、言葉を被せる。
「何言ってるの!決めてなんかない!こんなの受け取れない!」
十和子は、叫ぶと包まれていた手を開き、箱を放そうともがく。小夜香は、十和子を見つめたまま頭を振る。
「時ちゃん。あなたは、その『鍵』を受け取らないといけないの。どうか、私を安心して逝かせて。」
「そんな!何言ってんの・・何・・一人で逝かないで・・小夜ちゃん、逝かないで・・私も・・一緒・・」
秘めた想いが、一瞬洩れ出す。小夜香は、開きかけた手を再び包み込む。
「ねぇ、時ちゃん。もう、私たちの間には嘘も、隠し事もいらないよ。だから、はっきり言うよ。時ちゃんがやろうとしていることが、私にどれほどの重荷を背負わせることになるのか、考えて。今の私は、自分の命を背負うだけで精一杯だよ。止めて・・・止めてよ。あなたの命まで、私に背負わせないで。お願いだから、止めて。」
十和子の体は竦み、怯えた目は大きく見開き、口は空気を求めるように開いたり閉じたりを繰り返す。小夜香は、『鍵』の入った箱を握る手を、十和子の目に入るように持ち上げる。
「ねえ、時ちゃん。この鍵はね、私の想いを繋ぐ『魔法の鍵』だよ。だから、必ず受け取って。」
小夜香は、十和子の手を包んでいた両手をその腕に滑らせ掴み、そっと彼女を引き寄せる。十和子は抗うことなく、小夜香の胸に顔を埋める。
「その『鍵』を使うか、使わないかは時ちゃんが決めて。ただね、いつかその『鍵』は、あなたを救ってくれるかもしれない。だから、今は受け取って、大切に持っていて。」
小夜香の両手が、十和子の背中に廻され強く抱きしめる。
『お受け取りなさい。』
十和子の耳に、聞き覚えのある懐かしい声が聞こえる。
十和子は小夜香の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
(・・何故、こんなことができるの?私なんてほっておけばいいのに。一番つらいあなたが、どうして私なんかを気遣うの?小夜ちゃんがいなければ、私には何もない。何もないんだよ・・)
「時ちゃん、ありがとう。私のために、ずっと涙を堪えてたんだよね?辛い思いさせてごめんね。」
泣きじゃくる十和子に、小夜香は優しく声をかける。その優しい声は、温もりとなり十和子の体に染みてゆく。それはさらに周りの人たち、知子の、武雄の、美代子の、大井戸の、沢井の、さらにもっと多くの人たちの温もりと混ざり合い、十和子の頑なな想いを剝ぎ取ってゆく。小夜香の抱擁は、十和子を愛する人たち全ての愛が詰まった抱擁。溢れる涙は止まることなく流れ、それと共に、十和子の身に纏う鎧も剥がれ落ちてゆく。『鍵』の入った小箱は、強く握りしめられていた。小夜香は、その耳元で囁く。
「約束して。これからも生きるって・・・私の分も生きるって。時ちゃんは生きないといけないの。あなたのために、私のために、そしてあなたの未来の赤ちゃんのためにも。いつか、天国で会えたらどんなに大変なことがあったのか、楽しい事があったのか聞かせて。素敵な時ちゃんの人生の証を、聞かせてね。」
十和子は涙にぬれた顔を上げ、その心を曝け出す。
「でも、小夜ちゃん。私はあなたがいなくなったら、何をしていいかわからないの。私には何にもないよ。何にも・・・」
「私がいなくなって、本当にそう思う時がきたらね、必ずその『鍵』を使って。言ったよね、それは私の思いが詰まった、『魔法の鍵』なの。その『鍵』が開ける扉の先には、素敵な未来が待ってるよ。きっと時ちゃんを幸せにしてくれる・・・忘れないで。」
「・・・最後まで、私は助けられてばかり・・」
「違うよ、時ちゃん。私も一杯助けてもらったよ。そして、ずっとずっと支えてもらってる・・・・ねえ。」
小夜香は唐突に十和子の背中に廻していた手を離し、にっこり笑うと、訝る十和子の前に鼻をすっと差し出した。
「何?どうしたの?」
「時ちゃん、私の鼻を抓んで。」
「えっ?鼻を?今さら抓むの?だってチューブが邪魔だよ。」
十和子は突然の要求に、驚きそして戸惑う。
「いいの。鼻の先っぽでもいいから、抓んで。早く!」
小夜香は、煽るように鼻を突き出す。
「何よ、それ。自分から差し出して、バカじゃないの。」
十和子は、泣き笑いの顔のまま文句を口にする。
「ごちゃごちゃ言わないで、はや・・痛―い!捻らないで!やっぱチューブも痛い!」
「ふん、なんだか上から目線で、ムカついた。あーでも、小夜ちゃんの鼻、抓んだらすーっとしたよ。」
小夜香の鼻を離し涙を拭き、十和子は笑った。
「ふふっ、痛かったけど、笑顔が見れてよかった。でも痛いって、まだ生きてるって証拠だよね。私は、まだ生きてるんだよね!」
小夜香の言葉に、また十和子の目から涙が溢れだす。
「うん、生きているよ!まだ、小夜ちゃんは生きてる!」
「あー、そうだよ。鼻を抓まれて、おまけに捻られて痛かったもの。私は生きてるよ。ねえ、今度は時ちゃんが私を抱きしめて。」
小夜香は、十和子の胸に顔を埋める。
「時ちゃん、私は死ぬまで、しっかり生きる!だから、時ちゃんも、いつかまた私に会えるまで、しっかり生きて!生きて!生きて、生き抜いて!」
抱きしめられた小夜香の耳には、十和子の命の音楽が流れ込む。
息苦しさに目覚めた小夜香は、その日、体の奥の疼き、吐き気、怠さ、口の渇きに苦しんだ。そんな悲惨な中、ふっと昨夜、十和子を諭す時にはこの不快さを感じることなく過ごし、久しぶりに鼻まで抓まれたことを思い出し驚いた。それは、もしかしたらコンサートの時にも、そんな奇跡が起こるかもしれないという、希望にも繋がった。
コンサート前日、宗像医師は小夜香を、難しい顔で見ていた。
「試しに、酸素チューブを外します?」
小夜香は、無理に笑顔を作り、沢井は挑発は止めとくようにと、首を振る。
「大下さん、そんな強がりはいりません。どうしたもんでしょうね。はっきり言って、コンサート会場までは、行けないことは無いでしょう。ただ、そのチューブを外すことなんて認められないし、ましてや歌うなんて、とんでもないことですよ。」
宗像は、小夜香の挑発を軽くいなし、淡々と現状を語る。
「それじゃ、先生。会場まで行くのは認めて下さい。」
「うーん。まいったな。」
宗像は助けを求めるように、知子に目をやる。
「先生、うちの子が我儘を言って申し訳ありません。でも、会場に行けるのなら、それだけでも認めてあげて下さい。」
それは、宗像の期待した答えではなく、驚きは表情に出る。
「先生が驚くのも当然ですが、先日、小夜香のことが載った雑誌を見て、ファンの方たちからたくさんのお便りをいただいたんです。『歌が聞けなくってもいい、一目だけでも小夜香の姿を見たい』って。今はもう、私にはこの子の願いに反対することはできません。どうか宜しくお願いします。」
「・・・そうですか。お母さんまでそうおっしゃるんでしたら・・わかりました。それじゃ明日は付き添わせてもらいますから、何かあれば指示に従ってもらいます。よろしいですか?」
「はい、わかりました。先生、無理を言って済みません。」
「先生、ありがとうございます。時間まで割いて頂くことになり、本当に申し訳ありませんが、明日はよろしくお願いいたします。」
宗像は、隣に控える看護師にちらっと目をやる。
「わかりました。私も明日は非番ですから、お付き合いします。」
看護師の富田は、小夜香を見つめ頷いた。
「悪いね。それで、明日は何時からですか?」
「はい、コンサートが始まるのは三時からなんですが、八時には出る予定です。早くて済みませんが、宜しくお願いします。」
十和子が、小夜香に代わって答えた。
「それじゃ、大下さんは、我々と一台のタクシーで行くことにしましょう。けっして無理はしないように。くれぐれも、私の指示には従っていただきますから、それだけは約束して下さい。」
「はい、先生の判断に従います。宗像先生、富田さん、本当にありがとうございます。」
「あっ、一つ言い忘れましたが、明日の朝の検査結果次第では、移動の中止もあります。それも頭に入れておいてください。」
「わかりました。これ以上悪くならないよう、気を付けます。」
宗像は、ため息交じりに頷くと、看護師の富田と共に病室を後にした。十和子と知子は、具体的に話を詰めるため後を追った。
部屋に残った沢井は、小夜香の傍に椅子を寄せた。
「ステージに立てるかもしれないのか・・よく頑張ったね。でも、無理はしないでくれよ。」
「頑張ったのは私じゃなくって、皆だよ。私はただ、これ以上悪くならないようにって、祈ってただけ。私が頑張るのはこれからだから、明日は無理をすることになるかな・・ねえ、沢井さん、何かあったらよろしくね。」
「ああ、傍でずっと見守っているよ。」
「ありがとう。頼りにしてるね。」
「ところで、小夜。明日のこと、結構話題になってるんけど、知ってた?」
「ええ、時ちゃんが教えてくれた。テレビの取材依頼まで来たんだって、でもそれは、彼女が独断で断ったって。」
「うん、それでいいよ。今は、他の事にエネルギーを使わない方がいいからね。」
「沢井さん。明日、私が歌えるように祈っていてね。」
「ああ、もちろん、ずっと祈っているよ。」
「ありがとう。それと、ごめんなさい。コンサートをやりたいなんて無理を言って。コンサートをやらなければ、多分もっと一緒に居られると思うの。でもね、歌うことを選んでしまったから、こうしてゆっくり話せるのも、これが最後になるかもしれない・・・だから言っとくね。いつも見守っていてくれて、ありがとう。一杯の愛を注いでくれて、ありがとう。沢井さんを心から愛してる。」
「小夜、俺の方こそ、小夜から安らぎをもらった。たくさんの笑顔をもらった。そして素敵な愛もたくさんもらったよ。ありがとう。」
「ねえ、今私に、たくさんの時間が・・とっても長い時間があるって言ったら、信じてもらえる?本当に時間が長くなってるの。」
そこまで言って、小夜香は息を整える。
「でもね、一杯考えることがあるから、悲しんでる暇もなかったの。この一ヶ月の日々は、きっと何年分にもなったはずだけど。それでもまだ考えたいこと、やりたいことは一杯あったわ。だけど、今は明日歌えなくっても、ファンの前で一言『ありがとう』って言えたら、私の人生は最高の人生だと思えるの。」
「そうか・・それでも俺は、明日、小夜香の歌声が皆に届くように、心から神様にお願いしておくよ。」
「ああ、そうだね、希望は常に高く掲げとくんだった。明日、私はステージに立って歌って、最高の時を過ごすの。人が想いを叶える力って、きっとすごいものなんだよね。」
「俺も、小夜のその想いを支えているよ。時ちゃんも、お母さんも、お父さんも皆が、支え続けてるよ。忘れないで。」
沢井は、小夜香の頬に手を当て、愛おしそうに見つめた。
「俺は、これまでずっと小夜を独り占めしてきたから、明日、小夜をファンに返す覚悟はできている。無理をするなって言葉は撤回するよ。明日は、自分もファンも楽しめるステージにして欲しい。今は、そう心から願っている。小夜。ずっと君を愛している。それだけは忘れないで。」
「ありがとう、わかっているわ。私もずっと、沢井さんを愛している。そして、沢井さんには幸せになって欲しいの・・私がいなくなっても、必ず素敵な女性と結婚をして、子供を持って楽しい家庭をつくって欲しいの。約束して。」
「今?今はまだ、小夜がいるじゃないか。」
「だめよ。今、聞きたいの。約束して。」
「・・小夜、もう俺は・・」
沢井は、じっと見つめられ、後の言葉を口にできずに頷く。
「わかった。約束するよ。小夜に負けない、素敵なお嫁さんを貰うよ。可愛い赤ちゃんも産んでもらって、楽しい家庭をつくることを約束する。」
「じゃあ、指切り。」
「何だか信用ないな。」
小夜香の差し出した小指に、指を絡めて振った。
「本当に真面目に言ってるから、約束を守らなかったら、沢井さんが天国に来た時に、地獄に蹴り落とすからね。」
「うーっ、それは嫌だな。わかった、がんばるよ。ただ俺が良いって言ってくれる相手がいないと、どうしようもないよ。」
「ふふっ、沢井さんだったら、大丈夫。これで安心した。ごめんね、沢井さん少し疲れちゃった。少し休むね。」
「ああ、ゆっくりお休み。そして必ずまた、目を覚ますんだよ。」
「うん。まだ、やり残してる楽しみがあるんだから、大丈夫。少しおやすみなさい。」
午後、木下が来て舞台の説明と明日の打ち合わせをおこなった。そしてステージの確認のため、十和子は木下と会場へ向かった。
「小夜香はどう?」
会場に向かう車内で、木下は感情の籠らない声で尋ねた。
「先日来て頂いてから、見た通りまた痩せました・・無理に食べようとはしても、体が受け付けないみたいで。それでも歌うことへの想いだけは、ますます高まっているように思えます。」
「何故、私たちは無理な事とわかってて、準備に動くのかしら。周りの人たちはあまりにばからしいって、笑っているのにね。」
「木下さんも、ばからしいことだと思いますか?」
十和子の問いかけに、木下は首を振る。
「思わない・・思うわけないでしょう?ずっと祈ってるの。ずっと。どうか小夜香に一曲でも、一小節でも歌わせて下さいって。たとえ、ばからしいって笑われてもいい!歌ってる小夜香を見たい!」
木下は、十和子の前で初めて、声を震わせ目頭を押さえた。
十和子は、デジタルカメラに会場と舞台を収めて、帰ってから小夜香に、その画面を見ながら細かく説明を行った。
その夜、小夜香を囲み、両親と沢井と十和子、そして木下、奈穂、亜里沙、裕子、里美で、一日早い小夜香の誕生日を祝った。
「娘の我儘で、ここまで皆さんには大変なご苦労と、ご迷惑をおかけしました。明日はいよいよ、コンサートとなります。皆さん、後少し娘にお力をお貸し下さい。どんな内容になるかはわかりませんが、舞台に立つことは、きっとこれからの娘の力になってくれると思います。なかなかこうして、皆さんの前で、お礼を伝える機会もありませんでしたが、本当にこれまでありがとうございました。」
武雄は挨拶の声を詰まらせ、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとう。」
父に合わせ、小夜香も頭を下げた。
「うん、どういたしまして。それじゃ、挨拶はこれで終わり。さあ、サーヤの誕生日を祝いましょう。」
その場を奈穂が仕切り、誕生日会が始まる。それは、わずか十分もない会ではあったが、四人の友人にとってそれは、少し遠くへ旅立つ友を見送るお別れの会という、和やかで少しだけ悲しい雰囲気に包まれた会となった。
コンサートの当日の朝七時、十和子が病院を出るとタクシーの傍に立つ柏木が声を掛けてきた。
「十和子さん、おはようございます。」
「柏木さん、朝早くからすみません。お世話になります。」
「とんでもありません。ご連絡をいただき、ありがとうございます。」
タクシーは、静かな通りへ出て滑るように走り出す。
「今日は、ありがとうございます。朝早いけど、柏木さんに送って頂きたいと勝手に決めてしまって、無理を言いました。」
「いいえ、無理だなんてとんでもない・・・」
柏木は、一瞬躊躇い話を続ける。
「・・あの、十和子さん、今日は小夜香さんのコンサートですよね?こんなこと伺って申し訳ないんですが、小夜香さんはお元気なんでしょうか?」
「柏木さんも、小夜香さんの事いろいろお聞きですか?」
「ええ、それとなく耳には入ってきますから。」
「そうですか。」
十和子は、一呼吸おいて、気持ちを整理する。
「小夜香さんについて、いろいろ言われてることは本当の事です・・彼女は、ステージに立つのもやっとだと・・いいえ、多分、無理だと思います。だから、世間ではバカなことをやっているって笑ってますよね。でも小夜香さんの歌うことへの想いは、一向に消えないんです。彼女は諦めていません。だから、私たちは彼女の想いに応えようと、真剣に準備してきました。今は、小夜香さんに来てくれた人たちへ『ありがとう』の一言だけでも伝えられるように、ステージに立ってもらえればと祈っています。」
「そうですか・・十和子さん、私は今日、これであがりなんです。もし良ければ小夜香さんのコンサート、観せて頂く訳にはいかないでしょうか?立ち見でも良いんです、無理でしょうか?けして興味本位ではなく、最初のかわいらしく酔った小夜香さんのステージでの姿を、私もこの目に焼き付けておきたいんです。」
「ありがとうございます。ぜひ観てあげて下さい。受付に柏木さんの名前を伝えておきますから、そこで名前を言って下さい。」
「こちらこそ、ありがとうございます。会社に車を戻したら、飛んで行きますよ。十和子さん、無理を言って済みません。」
「いいえ、とんでもないです。でも、開演は三時の予定ですから、少し体を休めてから来てください・・昨日、柏木さんにお電話を入れたのは、今思うと、こうして送っていただくだけじゃなく、私も、柏木さんに彼女の姿を観て欲しかったからだと思います。」
会場の前に、早々と来ている才賀とナオの姿があった。十和子は、運賃はいらないと言う柏木に、無理矢理に料金を払い、
「ありがとうございました。会場でお待ちしています。」
と言って、タクシーを降りた。才賀は、十和子の姿を目にすると、さっそくカメラを向けシャッターを切り、ナオに殴られている。
「ごめんなさい、才賀さん。待たせてしまって。ナオさんも、今日はよろしくお願いします。」
頬を押さえ立ち上がる才賀に、十和子は笑いを堪え駆け寄る。
「とんでもない。こちらは仕事も兼ねているんで、お礼なんて結構ですよ。」
才賀に代わり、ナオが尋ねる。
「それじゃ、予定通り、小夜香さんは来るんだね?」
「ええ、来ます。」
一時間後に、沢井が運転する車が、小夜香と医師の宗像、看護師の富田を乗せ地下駐車場に着いた。その後に両親の乗った車も続く。小夜香は車椅子に乗り、控えの部屋に向かった。才賀は、彼らを駐車場で待ち受け、カメラに収めてゆく。小夜香は、忙しく動き回る才賀に微笑みかける。
「おはようございます。才賀さんとは、最初っからおかしな縁がありましたね。今日は、よろしくお願いします。」
「いいえ、こちらこそ、楽しみにしていますよ。」
才賀は、答えながらも小夜香の姿、表情をカメラに収め続ける。彼は、小夜香の痩せた体から滲み出す、落ち着きと自信がどこから来るのか気にかかり、彼女をカメラに収め続けることで、それが理解できる瞬間を抑えられないかと、レンズを向け続ける。
今日の会場は、二千人規模のホールで、九時には奈穂たちが他に十人程の仲間を連れてやって来た。十和子は指示を出した後、ナオと奈穂たちに受付の準備を任せた。会場前には、招待状を持ったファンの姿もすでに見うけられ、それを撮るマスコミの姿も確認され、早速取材を始めていた。
十時になると、舞台衣装を抱えた木下が、五人の社員とバンドのメンバーを連れて到着した。木下は、小夜香に衣装を見せる。
「ステージ衣装が決まっていなかったから、社長がこの衣装を用意してくれたの。どう?気に入ってもらえる?」
「わあ、素敵です。淡いブルーに少し赤も入って、素敵なドレス。とっても気に入りました。ありがとうございます。」
「よかった。あなたの意見も聞かずに勝手に揃えたから、気に入ってもらってよかったわ。社長もきっと喜ぶわ。」
「社長がいらしたら、お礼を伝えさせてもらいます。」
小夜香は、言った後に背にもたれ目を閉じた。
「社長には私から、喜んでいたって伝えておくから、あなたはとにかく、少しでも休んでなさい。ただリハは無理としても、バンドの丹羽さんとは、打ち合わせはしといて欲しいんだけど、大丈夫?」
「ええ、休み休みでも時間をかければ、大丈夫です。」
小夜香は体を預けたまま、薄く眼を開け頷く。
「無理しないでね。ステージに立つだけで十分なんだから。」
木下は、一瞬、小夜香を心配そうに見つめたが、
「それじゃ、会場を一通りチェックするから。時ちゃん、一緒に来て。あと平井さんと友田君は、車で来る人たちの案内の準備をお願いします。田中さんと久保さん、小糸君は会場の照明と音響を確認して下さい。すぐに戻るから。」
と、周りに指示を残し十和子と部屋を出た。
「相変わらず、彼女の動きは機敏だね。」
沢井は、称賛の声を上げる。
「ええ、本当に。あの姿を見ると、ほっとするの。あっ、丹羽さん、加藤さん、井野さん、田村さん今日はお世話になります。平井さん、友田さん、田中さん、久保さん、小糸さん、皆さん忙しいのにお手伝いありがとうございます。よろしくお願いします。」
小夜香は、挨拶にやって来たバンドメンバーと、手伝いの社員一人一人にゆっくりと呼びかけ、体を起こし頭を下げた。
木下と十和子は、ステージや会場の中を確認してロビーへ向かうと、奈穂が声をかけた。
「時ちゃん、今日は招待状を持って来た人たちだけ、入れればいいの?」
それを聞いた木下が、十和子に言った。
「社長も、何人か人を連れて来ると思うの。当然、三宅先生も来てくれるはずだわ。他にもまだ顔を出してくれる方もいるはずよ。そういう方々のために前の方の席を確保しといて、先に入っていただくとか、何か考えた方がいいわね。それと、招待状を持った人も、誰かと一緒に来てるかもしれないわ。」
「そうですよね。一度皆に集まってもらうので、座席表を見ながら、指示を出してもらってもいいですか?それと一枚の招待状で、何人入れるのかも決めておいた方がいいですね。」
二人が、手伝いの人たちを集め、指示を出していると、
「入れないものは入れないの。小夜香さんにも、会わせる訳にはいかないよ。」
ナオの声が、響く。木下がその声の方を見ると、ナオが会場の出口でマスコミの人間を相手に息巻いていた、
「いいわね、彼女。今はマスコミに対応もできないから、あのまま彼女に頑張ってもらいましょう。」
木下は、にやりと珍しく皮肉な笑いを浮かべている。
「彼女、あんなに頑張るの、訳があるんですよ。」
十和子は、笑いを堪えて言った。
「訳?彼女、何か頑張る訳でもあるの?」
「ええ。彼女は、才賀さんの奥さんなんです。」
「あっ!なるほど、それは適任ね。」
「ええ。夫の独占スクープのためですもの、張り切りますよ。」
開場になったら、事務所の人間が入り口と受付にも立ち、関係者をチェックして前の左側の席に誘導すること、そして招待状一枚で二名まではOKということを決めた。十和子は奈穂に、柏木のことも言い添えた。
二人が、控えの部屋に戻るとそこには小夜香たちの姿が無く、狼狽えた二人は駐車場へ走り車を確認して、あらためて館内に戻り探した。そして、やっとステージにいる小夜香を見つけて、ほっと胸をなでおろした。小夜香は沢井が押す車椅子で、バンドが奏でる曲に合わせ口ずさんでいる。それを医師の宗像と看護師の富田が後ろに控えチェックし、才賀はその周りを動き小夜香を中心に、忙しく写真を撮り続けている。さらには、小夜香の父の武雄が、ビデオカメラを手に娘を映していた。ステージに近づくと、バンドメンバーに話しかける小夜香の声が聞こえてきた。
「最初の曲は新曲なので、それは伴奏無しで赤ペラで歌います。」
息を整え、小夜香は続ける。
「歌えなければ、『ありがとう』だけを言います。」
また、一呼吸置く。
「コンサートは、それで終わりです。そうなったら、皆さんの努力を無駄にしてしまいます。本当にすみません。」
「サーヤ。それは構わないよ。ただいつでも音は出せるように準備はしておくから。」
「ありがとう、丹羽さん。」
小夜香の言葉は、コンサートをやることの無謀さを十和子に突きつける。十和子は、疲れて車椅子の背にもたれる小夜香を、辛そうに見つめるしかなかった。
十二時に小夜香は、体を休め点滴を打つために、控え室で横になった。その時間には、会場前にはかなりの人数が、開場を待ち受けていた。それを見た木下は、十和子に指示を出した。
「時ちゃん、来てくれた人に名前と住所を書いてもらうなら、もう入ってもらった方がいいわね。手伝いの皆にお弁当を食べてもらって、十五分後には開場しましょう。平井さんとナオさんには関係者の人と、マスコミの対応をしてもらうから、あと田中さん、久保君を呼んでくるから、二人には関係者の受け付けを任せるね。時ちゃんは皆に食事の指示を出して。」
そう言い残して、木下は走り去る。十和子は、受付の準備を終えたナオや奈穂たちに、急いで弁当を食べるように言って、皆が集まるのを待った。
「それじゃもう一度確認します。招待状を持ってきた方は、同伴の方一名までは入場OKです。できるだけ、名前と住所を記入してもらってください。定員は関係者を除いて、千八百名です。久保さん、田中さんは、関係者の方の受付をお願いします。」
十和子が、あらためて手伝いのメンバーに指示を出す。
「ナオさんにはこのまま、平井さんとマスコミの対応をお願いします。私もロビーにいますから、何かあれば呼んでください。それじゃ今から入ってもらいます。宜しくお願いします。」
そして、会場の扉が開かれた。
「招待状をお持ちの方、受付を開始いたします。並んで、こちらから入って下さい。」
ナオの声に応え、すぐに三百人を超える列ができる。
「ほら、だめだよ。招待状見せて。マスコミ関係者はだめだって!」
入り口でナオの声が響く。
「うん、良いわね。あそこで彼女が頑張っているなら、連れと称してマスコミの関係者も入りづらいわね。」
「木下さん、どれくらいの人が来てくれるでしょう?」
「この調子なら、会場はほぼ埋まるわよ。大丈夫。」
「歌わせてあげたいですね・・最後に皆の前で、小夜ちゃんに歌わせてあげたい。」
「ここまで馬鹿にされ笑われながら、やってきたんだもの。後は奇跡を信じるだけね。」
木下のその意外な言葉に、十和子は思わず木下を振り向いた。
「以外?私がこんなこと言うのは?」
木下の言葉に、十和子は頷く。
「そうかもね。でもね、コンサートを実現させようと、ここまで頑張ってくれた時ちゃんには、本当に感謝しているのよ。今は、もしかしたら小夜の歌が聞けるかもしれない、それがだめでも、一言ステージの上で、『あ』でもいい、声が聴けたらと願っているの。このステージに立つ小夜の姿を目に残したい。声を耳に残したい。それが叶うかもしれないなんて。本当は私がしてあげるべきことだったのに。ありがとうね。時ちゃん。」
木下は、涙を拭うと、返事を聞く前に続けた。
「時ちゃん、ナオさんが呼んでるよ。それじゃ私は、小夜についているから、ここはよろしくね。」
「あっ、柏木さん。」
十和子は、ナオに遮られている柏木に気づき、
「小夜ちゃんをよろしくお願いします。」
去って行く木下の背中に声をかけ、入口へ走った。
その後、小夜香の事務所アクネスの佐治社長が、事務所の人間と、小夜香の先生である三宅と共にやって来た。そして大井戸と連れ添って来てくれた美代子は、
「がんばったね。」
と一言、十和子に言って中へ入って行った。村井も、番組のレギュラーと麻貴も同伴して顔を出した。焼き鳥『鳥正』の店主と女将も、めかし込んだ姿で来てくれた。『あやかしの里』の監督の下田も、共演者やスタッフと共にやって来た。
招待したファンも、次々と途切れることなく列を作る。
開演時間の五分前になった。
会場はほぼ満員になり、一階の座席の後方には、最後に入ってきたマスコミ関係の代表のリポーターと、カメラマンが十人程詰めていた。テレビクルーの入場については、小夜香はそれだけは首を振って拒んだ。
今、淡いブルーのドレスを身に着けた小夜香は、ステージ横に待機した車椅子で、沢井の手をしっかり握り開演の時間を待っていた。
車椅子のもう片側には小夜香の両親が立ち、その後ろには十和子と木下と医師の宗像、そして看護師の富田が控える。才賀は相変わらず、あちこち動いて小夜香の姿をカメラに収め続ける。小夜香は沢井を見上げ視線を交わすと、繋いでいた手を離した。そして目を閉じ、覚悟を決めると酸素チューブを鼻から外した。
一瞬、後ろに控えていた看護師の富田が、その手を止めようと動きかけた。医師の宗像がその肩に手をかけ、首を振る。
「大下さん、呼吸は辛くないですか?」
宗像が、確認する。小夜香はゆっくりと振り向き、
「何とか、無理をしなければ大丈夫です。」
と、頷いた。
「ここまで来たら、彼女に任せよう。」
宗像は、小夜香を見つめたまま富田に言った。
「私は、飾り付けのジョーゼットの後ろで待機しています。何かありましたら、宜しくお願いします。」
沢井が、宗像を振り向き声をかけた。
酸素チューブを外した小夜香は、そうした声も耳に入らないかのように、息が乱れないように集中し緊張して座っていた。
『さあ、行きましょう。』
小夜香の耳に、懐かしい声が聞こえ、それを切っ掛けに、息苦しさが薄れ体の怠さが消える。小夜香に、マスターの記憶が蘇り、彼と交わした約束も蘇る。
(マスター。力を貸してくれるのね・・・よかった。まだ、間に合う、私は歌えるのね?そして私は皆のため、自分のために歌うんだけじゃない。あなたのためにも、歌わなければならなかったのよね。力を貸して、マスター。そしてどうか、私の想いを受け止めて、私の歌への想いを、あなたに託します・・・)
小夜香の頬に一筋の涙が流れ落ちる。
「小夜、どうしたんだい?」
涙に気づいた沢井が、心配して尋ねる。
「ううん、何でもないの・・・そうじゃないわね。こうしてステージに立てるのが、嬉しいの。」
小夜香はそっと、涙を拭う。小夜香は車椅子の肘掛けに両手をつくと、手を貸そうとする沢井と母に首を振って、ゆっくりと立ち上がる。小夜香は力が戻ってきた自分の足で、しっかり立てるのを確認するように、両足を少し動かした。そうしてゆっくり振り返り、後ろに控える両親と十和子と木下、宗像そして富田に微笑みかけた。
「大丈夫です。お父さん、お母さん、二人は席で観ていて。それじゃ、行ってきます。」
そう言い残し、小夜香はステージへ体を向けた。まだ心もとない足の動きに、沢井の手がしっかりと小夜香を支えてくれる。抱え上げるという言葉に首を振り、小夜香はステージへの階段を、息を整えながら、ゆっくりと登ってゆく。
十和子も開会の挨拶をするために、二人の後に続いてステージへ上り、緞帳の脇に待機した。沢井は小夜香の体を心配しながらも、意外としっかりしたその足取りに、驚いてもいた。沢井は、小夜香をゆっくりとステージの中央へ導き、そして名残惜しそうに彼女の手を離すと、舞台を飾るジョーゼットの幕の後ろに回り、彼女に何かあった時すぐに駈けつけられるように待機した。
小夜香は、演奏できる態勢でスタンバイしている、バックバンドのメンバーに小さく頭を下げた。そして、観客席の方へ体を戻すと息苦しさ、圧し掛かる怠さから解放された体に、少しでも早く馴染もうとスタンドマイクを掴み、目を閉じ幕が上がるのを待った。
午後三時二分前。十和子は緞帳の前に立ち、会場の観客へ向かって一礼すると、挨拶を始めた。
「長らくお待たせいたしました。ただ今より、小夜香のバースディコンサートを開催いたします。今回、小夜香は皆様に、出来るだけ歌を聞いて欲しいと望んでおります。そのため私、十和子が小夜香に代わり、ご挨拶と何点かお願い事を述べさせていただきます。よろしくお願いいたします。では、皆様、本日は小夜香のために、お忙しいところ、そして遠方よりお越し頂き、本当にありがとうございます。皆様の貴重なお時間を頂いているところで、こう申し述べるのは本当に心苦しいのですが、今回、小夜香はこのステージに立ち、歌えるのか、仮に歌えても何曲歌えるのか、本人にさえも分かっておりません。歌うこともできず、ただ挨拶の言葉だけで終わるかもしれません。また歌えたとしても、すぐに歌えなくなるかもしれません。それでも、どうか許してやってください。小夜香はこのコンサートに全てを捧げ、一瞬でも長く、皆様と共に過ごしたいと願っています。これから何が起こりましても、それだけはご理解ください。
ご挨拶が長くなって、申し訳ありませんでした。では、小夜香とのひとときを、どうかお楽しみください。」
会場から拍手が起き、十和子の後ろで緞帳がゆっくりと上がり始め、十和子はステージから袖へとはけた。そして緞帳が上がるのに合わせて、観客の目に小夜香の姿が、淡いブルーのドレスに包まれたその足から、腰へそして胸へと、ゆっくりと現れてくる。拍手は消え、会場は静寂に包まれた。
小夜香の目の前で、緞帳がゆっくりと上がってゆく、
『小夜香様、私の力の限りお支えいたします。このコンサート、存分にお楽しみください。そして、ありがとうございます。』
懐かしいマスターの声が、再び小夜香の耳の傍に聞こえる。それと共に、小夜香の体に力が満ちてくる。
(私は歌える・・歌える!本当に歌えるんだ!)
ある日、小夜香はもう一度、コンサートのステージに立ちたいと願った。でもその時の小夜香の姿を見た誰もが、彼女に歌えるわけがないと思っただろう。それは、歌いたいと願う小夜香自身も、冷静な部分で、歌えるはずがないとわかっていたことだった。それでもどこかで、微かに、何の根拠も無い希望か揺れ続け、それは消えることなく、今、小夜香をここまで、このステージまで導いてきた。
(時ちゃんが、精一杯私を引っ張ってくれた。沢井さんが、優しく背中を押してくれた。皆がこうして舞台をつくり、ここまで押し上げてくれた。ありがとう、ありがとう。皆、ありがとう!私は今、歌えるよ。歌えるよ!ああ、私はまた、ステージに帰って来た!)
小夜香の中で、驚きは、喜びに代わりそれは溢れだし彼女の体を飲み込む。ただ『これは最後のステージだよ』と、冷静なもう一人の小夜香も言ってくる。小夜香は、そんな自分に、
(わかってるよ。)
と、頷いて見せる。小夜香は、その身を包む歌える喜びを静めようと目を閉じ、歌うことへ気持ちを集中させる。ゆっくりと開けたその目は、緊張して彼女を見つめる数多のファンの目と出会う。彼らは、静かに小夜香を見つめていた。
(心配させてごめんなさい。私は大丈夫。皆、今日は、楽しんでね。)
小夜香は、声にならない声でファンに語りかけ、左手から右手へと一人一人に視線を移してゆく。
(たくさんのファンの皆がいる。そしてパパ、ママ、佐治社長、三戸先生、下田監督の顔もあるわ。『鳥正』のご主人?女将さん?お二人ともめかし込んでるから、すぐにはわからなかったよ。観客席の後ろには奈穂、亜里沙、由美、裕子が、他にも手伝ってくれた友達の顔がある。皆、心配して見守ってくれてるのね。あれは、時ちゃんの叔母さんの美代子さんだ。お腹には加奈子ちゃんがいるのね。)
それは自分への確認で、質問ではなかったのに、
『そうでございます。新しい命となった加奈子が、美代子様のお腹におります。』
マスターが律儀に答えてくる。そんなマスターがおかしくって、ふふっと、小夜香は笑う。ステージ下、その正面でカメラを構え写真を撮っていた才賀は、一瞬ファインダーから目を外し、訝るように小夜香を見つめた。
小夜香は、スタンドマイクを掴む両手に少し力を籠め、口を開く。
「十和子さんに挨拶をお願いするほど、先程までの私には、コンサートをするための体力も、自信もありませんでした。皆にこうして来てもらってるのに、コンサートはどうなるのかなって、私自身心配していました。でも、今、こうして皆の前に立つと、体中に力が溢れてくるのを感じます。今は歌いたくって仕方ありません。皆、今日は来てくれてありがとう。私はこれから歌えるだけ、力の続く限り歌います。私は歌える自分を楽しみます、だから皆も一緒に楽しんでください・・最初の曲は、私の大切な人への曲です。この曲はこのコンサートのために作りました。バンドのメンバーと合わせる時間も無かったので、これだけは赤ペラで歌わせてもらいます。聞いて下さい。『ありがとう』」
会場の照明が落とされ暗くなる中、小夜香だけがスポットライトを浴びて、ブルーのドレス姿が、舞台の上に輝き浮かび上がる。
小夜香はスタンドマイクを両手に握り、最初の言霊を解き放つ。その瞬間、自らの声に軽く驚き、それは心地よさとなり体を震わせる。暗く静かな静寂の中に、小夜香の歌声が響く、
♪ 猫舌の私のために
あなたはスープを冷ましてくれる
あなたの顔がおかしくて 私は笑ってしまうよ
そんな私に あなたは優しく微笑んでくれる
だからね 私もあなたのスープを冷ましてあげるの
ありがとう あなた その優しさ
いつまでも私だけのもの
ありがとう あなた 私の優しさ
いつまでもあなただけのもの
これからもずっと この優しさ忘れないよ ♪
小夜香の衰えの無い歌声が会場に響き、静まり返った空間を満たしてゆく。これまでの曲にはないポップな曲を、小夜香は弾むように明るく歌う。その声に、驚きの声がさざ波のように広がるが、すぐに小夜香の歌声を聞き逃したくない、という一致した意志によりざわめきはすっと消える。ざわめきが治まった中、小夜香の歌声が会場の観客を包み込み、緊張に満ちた雰囲気を解してゆく。
ただ一人、ジョーゼットの後ろに立つ沢井だけは、小夜香が歌っていることに驚きつつ、曲の内容に驚き聞き入っていた。その曲が、いつ用意されたのかわからないが、沢井の脳裏に、小夜香と共に過ごした、たった数日だが充実した幸せな日々が鮮明に蘇る。彼はこの曲を歌う小夜香に感謝し、歌わせてくれた奇跡に感謝した。沢井は誰にも見られず涙を流せるこの場所にさえも感謝しながら、彼のために作られそして彼へ贈られる曲に聞き入った。
小夜香の独唱は終わり、聴衆からは、ため息とも喜びともつかない声が漏れる。そして、拍手が沸き起こり会場中に広がる。その拍手に小夜香は、左手にマイクを持ったまま体を横にはずし、右手を胸に当て頭を下げて応えた。顔を上げた小夜香は、ゆっくりと振り返り、そのまま右手をバンドのメンバーに差し伸べた。それを合図にバンドメンバーにもライトが当たる。最初の曲の間に驚きを克服していたメンバーは、その誘いに答えるように楽器を奏で始めた。
小夜香は再び、スタンドマイクを両手で握りしめ、流れるイントロに耳を澄ます。
♪ 朝日を浴びて浜辺を歩く あなたの後ろをついてゆく
あなたの残す足跡が 波に消される前に辿ってく
引く波に足の裏を砂がさらさらとくすぐってくよ ♪
『渚にて、夏の終わり』を歌う小夜香の歌声は、さらに揺るぎなくそして優しく会場を満たしてゆく。彼女の歌声に聞き入る観衆の気持ちの中に、残っていた不安は少しずつ薄れてゆく。それどころか、ステージに立つことで、小夜香のがんは消えたんじゃないかと、おかしな期待が聞く者の胸に芽生えてくる。その思いは、ステージの袖で見つめている者たちにも、驚きと共に芽生えていた。
「ねえ、先生。小夜香は、治ってるわけではないですよね?」
ここにきてようやく、驚きから覚めた木下が、聞かずにはいられない思いで宗像を振り返る。
「えっ?」
宗像は木下の言葉に、我に返り聞き直した。
「あっ、いえ。なんでも無いんです。」
小夜香をじっと見つめる目を離さずに、十和子が言った。
「木下さん。私たちは、今。奇跡を目にしているんです。小夜ちゃんはきっと、命を削って歌っているんです。彼女にはこうなることが、わかっていたんです。」
「あなたも分かっていたの?」
木下は零れ落ちる涙も気にせず、十和子に顔を向けた。
「いいえ。ただ、小夜ちゃんの最後の希望を、叶えてあげたかっただけです。彼女の希望が叶うことを願い動いた。それだけです。」
「ありがとう。ありがとうね。小夜の歌声が聞けるなんて、時ちゃん、あなたのおかげだね。」
そんな会話が耳に入ったのか、入らないのか、宗像は、
「こんなこと、考えられない・・信じられない。奇跡なのか?本当に奇跡を見ているのか?」
独り言のように、呟き続けている。
「先生、しっかりして下さい。小夜香さんに任せようって言ったのは、先生ですよ。」
看護師の富田が、少し強めに声をかける。
「うっ。あ、ああ。ありがとう。声をかけてくれて。続かないよ、富田君。このまま続くはずがない。準備をしとかないと。」
「ええ。わかっています。」
二人の言葉は、今度は木下と十和子の胸に重く圧し掛かる。
『このまま続くはずがない。』それはわかっている。でも続いて欲しい、ずっと、ずっと、永遠に。
四人はそれぞれの想いを、胸に抱き食い入るように、ステージ上の小夜香の姿を見つめ続けた。
曲が三曲目に入っても、小夜香の歌声は変わらない。
♪ あなたはその目に 何を見ていますか
風にそよぐ若葉が 百に彩る緑燃える山ですか
波が穏やかに揺れる 百に彩る群青の海ですか ♪
「パパ、あの子が歌っていますよ。」
知子は、娘の姿を食い入るように見つめ、ぽつりと呟く。
「ああ、歌っている。あんなに嬉しそうに、あんなに輝いて。」
武雄はビデオを構えた目を離して、頷く。
「小夜ちゃんが歌っているよ。良い声してるじゃないか。あんなに歌えるのに、がんだなんて、そんなこと、きっと嘘に違いないよ。」
『鳥正』の女将が、そんな事を口にした。
「まったくでぇ。がんなんて、全くの嘘八百だ。」
おやじさんも同意し、大きく頷く。
そんな内容の話が、会場の他の席でも囁かれ、特に一階観客席の後ろに立つ、マスコミ関係者の間では、小夜香はがんが治っているんじゃないか。いや本当はがんではなかったんじゃないか、と言う声が囁かれていた。これは小夜香の再活動に、うまく利用されたんじゃないかという声まで出てきた。
「あんたら、うるさい。そんなこと、外に出て話してくれ。サーヤの歌に集中できない。」
彼らの前の席に座るファンの一人が、そんなマスコミの人間を責めた。同意した周りのファンたちにも睨まれる。彼らマスコミの人間の声は消えてゆく。そんな会場のざわめきに関係なく、小夜香はもう四曲目の歌を歌い始めていた。
♪ もし願いが叶うなら、何を望む?
そう聞いてくるあなたは 私が答える前に叫んでる
空を飛びたい 白い羽広げこの空どこまでもと
私の願いは そんなあなたの腕に抱かれ
二人だけの楽園をみつけること ♪
小夜香は、歌うことに酔いしれ、溢れ出る喜びに舞い上がる。その想いは、さらに上へと登り詰めてゆく。小夜香は、我を忘れ高揚感に飲み込まれる。
『皆さんを、置いて行ってはいけませんよ。』
(わかっている。わかっているわ。でも・・抑えられない!このままずっと、ずっと、ずっと歌っていたい!私はこんなに、歌うことが好きだったんだ!歌うことが、好きで、好きでたまらない!嬉しいの!嬉しいの!歌えることが嬉しくて、たまんない!)
『その想い、必ず私が引き継がせていただきます。』
(嫌よ!嫌よ!私が歌うの!私よ!私が歌うのよ!)
『もう時間は尽きます。残りの時間を大切にしてくださいませ。』
『楽園へのパスポート』を歌い終え、次の曲のイントロの間、小夜香は観客席に目を向けた。そこは暗く先ほど目にした顔は、暗がりに飲み込まれ見ることができない。
歌いたい!歌いたい!聞いて欲しい!聞いて欲しい!時間がない!時間がない!時間がない!時間が・・!
小夜香は、焦り、はやる気持ちを、マイクに額を当て無理矢理に押さえつけ、しばしステージ上で立ち尽くした。その姿に、会場に緊張が走る。次の曲に移ろうとしていたバンドの演奏が止まる。沢井は、何時でも飛び出せるように、目の前の布地を掴み、身構えた。十和子は、彼女の動きが止まった瞬間から、息を止めて小夜香の姿だけを見守る。会場の全ての人間が、息を止め小夜香を見つめた。
「皆が見えない。」
マイクを通して、小夜香の呟きが会場に流れる。
「すみません。会場の照明を、つけてもらえますか?皆の顔が、見えるように。」
顔を上げた小夜香の声が、再び会場に流れる。そして会場には深く息をつくざわめきが、さざ波ように広がる。会場の照明が明るくなると同時に、安堵のため息がそこを満たす。
「ありがとうございます。歌を止めてしまって、ごめんなさい。後、少しだけ付き合って下さい。これからは皆の顔を心に刻めるように、この明るい中で歌います。あらためて、『明日へ』。」
再び、バンドの演奏が流れ出す。
(ありがとう、マスター。声をかけてくれて。そうよね、焦らなくってもいいんだ。私の想いはきっと、あなたが継いでくれる。ふふっ、マスターが女の子になるなんて、どんな娘になるの?会えないのが残念だわ。)
『小夜香様、真に言いにくいことですが、小夜香様が生きていれば、私は彼女の子供として、産まれることはございません。ですから、どちらにしてもお会いできないのですよ。』
(うー、マスター。その言い方、面白くない!)
『申し訳ございません。あっ、歌が始まります。』
♪ あなたの温もりを忘れて もうどれくらい経つの?
涙かれてあなたを忘れ もうどれくらい経つの?
そんな強がり言っても あなたの何もかも忘れられない
でも今電車に揺られ 私は想い出の駅を通り過ぎたよ ♪
小夜香の歌はよどみない、会場の一人一人の元へ届けられる。そして小夜香は、ファンを一人一人心に刻みつけるように、ゆっくり視線を移してゆく。
(大切なことは、今この時を、皆と一緒に楽しむこと。それだけ。今、皆と一緒に居るよ。こんなに素敵な時間を、一緒にいてくれる皆、ありがとう。本当にありがとう。)
小夜香の澄んだ声は、会場に広がり、その想いは一人一人の心に寄り添う。会場が温かな温もりに包まれる。
♪ 幼い頃、私が歌う歌を
パパ あなたは目を細め
世界一上手と 誉めてくれたね
その言葉が こうして大きくなった今も
一番大切な 言葉だよ ♪
温もりに浸る、皆の耳に『パパとママへ』が届けられる。会場にいる人々は、今、奇跡を目にしていることを忘れて、心から小夜香の歌声を楽しんだ。
そして『あなたにできること』のイントロが流れ始めた。
小夜香は、両手でマイクを握りしめたまま、舞台袖の十和子と視線を絡めた。十和子は感謝を込め頷く。小夜香の歌声が流れる。
♪ ねぇ、泣きつづけて 涙におぼれる あなたがいるの
少しだけ顔を上げて あなたに一筋の光を贈るよ
それは私の想い 触れた・・・・
『・・・小夜香様。申し訳ありません。ここまでです・・』
マスターの声が、無情にも、宴の終わりを告げる。
一気に胸を押し潰すような苦しさが小夜香を襲い、鉛のような重さが体に圧し掛かる。小夜香は息ができず、空気を求め喘ぐ。
歌声は、消えた。
歌声に酔いしれていた観衆は、その身を包んでいた温もりを剥ぎ取られる。それでも人々は、小夜香がまた歌い出してくれることを期待して、その姿を息を殺し見つめ続ける。
小夜香は、観衆の視線に答える術もなく顔を伏せ、スタンドマイクを最後の頼りと縋りつく。体は、今にも崩れるように揺れる。
やがて、小夜香はゆっくりと苦痛に引きつる顔を上げた。
「・・ご・・めん・・なさ・い・・こ・・で・・」
今までの歌声とは打って変わった、かすれ苦し気な声が会場に流れる。その一言と共に、小夜香の視界はマイクを残し闇に押し包まれる。やがてそのマイクさえも遠く薄れてゆく、全てが闇に包まれる一瞬微笑みを浮かべた顔が過ぎる。小夜香はマイクを持つ手に最後の力を籠めて、感謝を捧げる。
・・ありがとう・・
沢井が、崩れ落ちる小夜香の体を受け止める。握りしめられていたスタンドマイクが、その手を離れ床を打つ。
床を叩く音が会場に鳴り響き、夢に彷徨う観客の目を覚ます。
音が反響する中、悲鳴が上がった。席を立ち、ただ茫然とステージを見つめる者もいる。悲鳴はざわめきに飲み込まれ、カメラマンが一斉にステージに駆け寄る。
ステージでは、医師の宗像と看護師の富田が、沢井に抱えられている小夜香へ駆け寄り、酸素マスクを小夜香にあてがう。木下はステージから、落ち着くように呼びかける。
そんな中、十和子は倒れたスタンドマイクに歩み寄り、冷静にマイクを戻して観客へ言葉を放った。
「このコンサートが、こんな形で終わることをお許しください。ただ、小夜香がこうして歌えたことは、本当に奇跡です。何曲もの歌を皆様に聞いて頂き、このひと時を共に過ごせたことは、彼女が望む以上のものだったはずです。皆様、一人一人の力が、彼女をここまで頑張らせてくれたのです。どうか悲しまないで下さい。小夜香は歌姫として、皆様の前で最後まで過ごすことが出来ました。それをどうか、喜んであげてください。彼女に代わって、こうして一緒に過ごせたことに心よりお礼を申し上げます。ありがとうございました・・・ これで、小夜香のコンサートを、終わらせていただきます。」
十和子は最後にゆっくりと、重そうに頭を下げた。
(小夜ちゃん・・小夜ちゃん。これで・・これで、良かったのよね。あなたは・・これで良かったんだよね。小夜ちゃん。良かったんだよね・・)
冷静な表情とは真逆に、十和子の胸の中では感情の嵐が吹き荒れる。十和子はここまで、小夜香が望むことを、小夜香が喜んでくれることを、ただ彼女のためと思って突き進んできた。今、小夜香が倒れる姿に、やっと、それで良かったのかと、十和子の想いは立ち止まる。遅すぎるとわかっている。それでも胸が抉られる。まだ、もっと彼女のために、他に出来ることがあったんじゃないか。そんな考えに心が揺さぶられる。十和子は、振り向くこともできず、涙することもできずに、胸の中で同じ言葉を繰り返していた。
十和子の後では、沢井が酸素マスクを当てられている小夜香を、両手で抱き上げ舞台袖に下がろうとしていた。
「サーヤ、がんばれ!」
一人の声が会場に響いた。その声で堰を切ったように、会場に声が溢れる。
「小夜ちゃん、また歌を聞かせて!」
「サーヤ、がんなんかに負けるな!」
「サーヤ、最高の歌をありがとう!」
「沢井さん、サーヤを頼むぞ!」
いつしかその声が、一つになってゆく。
「サーヤ、ありがとう!」
「サーヤ、ありがとう!」
「サーヤ、ありがとう!」
沢井は、傍について酸素マスクを押さえている富田に、
「少しだけ時間を下さい。」
そう言って、小夜香の顔を観客席に向けた。皆の大波のような涙声の歓声に包まれて。小夜香は一瞬、微笑み、
『ありがとう。』
そう、口を動かしたように見えた。
十和子が会場の地下駐車場にあるドアを閉め、振り向くとそこに柏木が立っていた。
「柏木さん、どうしたんですか?」
もう皆帰ってしまって、最後の一人になったと思っていた十和子は、彼の姿に驚く。
「十和子さん、お疲れ様でした。今日は、我儘を聞いて頂いて、ありがとうございました。おかげで一生忘れられない時間を過ごさせていただきました。そのお礼と言ったらなんですが、病院までお送りしようと思いまして、お待ちしていました。」
柏木は、十和子がほっとする笑顔を浮かべる。
「すみません、柏木さん。こんなに遅くまで待っていてくれたのですか?」
「気にしないで下さい。ぜひ十和子さんをお送りしたくて、勝手に待たせてもらっていました。さあ、どうぞ、車に乗って下さい。お送りします。」
「柏木さん、ありがとうございます。」
十和子は、素直に助手席に座る。走り出した車の中、十和子が、無言で前を見つめていると、
「小夜香さんの、容態はいかがですか?」
柏木が、静寂を破り尋ねた。十和子の体は、びくっと震える。
「えっ?あっ、意識は、あれから戻ってはいないようですが、今はまだ、何とかもっているようです。」
十和子は、会場を出る前に彼女の容態を知子に確認していた。
「そうですか、あの、十和子さん。こんなことをお聞きして、申し訳ないんですが、小夜香さんは、本当にがんなんですか?」
「えっ?柏木さん、どういう意味ですか?」
「いえ。今日の小夜香さんの歌う姿、声、とてもそんな病魔を患っているようには、思えなかったものですから。」
「ああ。それは、マスコミの人からも質問されました。皆さんあの歌声にびっくりされて、彼女ががんだなんて信用されなかったようですね。倒れたのも演技じゃないかって言われました。でも、彼女が歌う直前まで、私たちはただ舞台に上がって一言でも挨拶ができればと、そう願っていました・・あんなに歌えるなんて、彼女の歌が聞けるなんて、思ってもみませんでした。」
「そうですか。とんでもないことをお聞きして、申し訳ありません。それじゃ、今日の事はいったい何なのでしょか?私たちは、本当に奇跡を見たんでしょうか?」
「わかりません。私たちはただ、小夜ちゃん・・小夜香さんが歌いたいと望んだから、そうできるように舞台を創ってあげただけ・・です。彼女が歌いたいと望んだから、そのためにできることをしました。でも、本当はそんなことは無駄だと思っていました。まさか・・まさか、本当に、彼女の歌声が、それも少しも衰えていない歌声が、聞けるなんて・・ただ、これで良かったのか、私にはわかりません。小夜香さんにとって、彼女が命を終わろうとしている時に、これで良かったんでしょうか?まだ彼女のために、本当はもっと別の何かが出来たんじゃないでしょうか・・?」
十和子に、また先程の疑問が蘇り、後悔の想いが溢れ出す。
「実はね、十和子さん。あなたが最後の挨拶をした後に、ずっと頭を上げられませんでしたよね。その時は泣いているのかなと思っていましたが、頭を上げたあなたは、泣いてはいなかった。それが少し気になっていたんですよ。もしかして、頭を下げている間、ずっとそのことを考えていたのですか?」
柏木は、十和子は黙って頷くのを横目で確認する。
「十和子さん。あなたは小夜香さんの奇跡の舞台を創った。そして小夜香さんは、その舞台で我々に奇跡を見せてくれた。その舞台は小夜香さんが望む、最高の舞台だったはずです。彼女のあの歌声を聞いたら、それは誰もが分かることです。そして小夜香さんの歌っている時の、幸せそうな表情を見れば、彼女にとっても最高に幸せな時だったはずです。あれ以上の事は誰にもできません。あなたは小夜香さんに、そして我々に望める以上の、この世を越えた世界を提供してくれました。自信を持って下さい。思い悩むことはありません。十和子さん、本当にありがとうございます。これは私だけではなく、今日のコンサートに来た皆を代表しての言葉だと思って聞いて下さい。」
十和子は、彼の言葉を聞きゆっくりと彼へ顔を向けた。その目は大きく見開き、その目からはすでに涙が溢れている。
十和子が堪え続けていた涙が、零れてゆく。
「・・柏木さん・・ありがとうございます・・」
柏木が、無言で頷く。彼は、十和子が心ゆくまで泣かせる。
「彼女は・・小夜香さんは、今しばらくはもつかもしれないけれど、それでも二、三日だろうって、言われたそうです。」
十和子は落ち着くと、涙を拭い口を開いた。
「さっき柏木さんは、奇跡っておっしゃられましたけど、今日の事は本当に奇跡なのでしょうか?彼女の最後の願いを、神様が聞いてくれたんでしょうか?でも、神様がいるんだったら、彼女のがんを治して欲しかった。彼女がもっと、ずっと歌い続けられるようにして欲しかった。」
十和子は声を振り絞り、その目からは再び涙が溢れだす。
「もう後は・・・彼女が亡くなるのを、看取るだけです・・そう覚悟もしていました・・・でも・・でも、だめなんです!もっと、もっと生きて、傍にいて甘えて我儘を言って欲しい!彼女がいなくなることを思うと、辛くって、淋しくってどうしようもないんです。私はどうしたらいいのか、わからないんです。」
それは、柏木から何かの答えを求めてのものではなかった、ただ、聞いてくれれば、そして当たり障りのない、慰めの言葉でも聞ければ、十和子にとってそれだけでいいと、口にした言葉だった。
「十和子さん。小夜香さんはまだ、生きていられるんですよね。もしかしたら、動けないだけで、聞くことは出来てるかもしれませんよ。それだったら、今言ったことを、彼女の傍で言ってあげたらどうです?十和子さん、その想いをあなたの心に留めておくことは、いらないんじゃないですか?後から言っておけばよかったと後悔しないように、今のうちに、あなたの心の中の想いを、彼女に聞かせてあげるんですよ。それは逝く者への、手向けの言葉ですよ。」
柏木からの返事に、十和子は驚き柏木を見つめる。
「でも、周りにはお母さんや、お父さんがいます。そんなことを聞いたら、もっと、悲しませることになります・・・ねえ、柏木さん。それだったら今は、私は嘘つきの小夜ちゃんに怒りたい。怒ってもいいでしょうか?」
「えっ?怒るんですか?」
今度は、柏木が意外な言葉に驚きの表情を浮かべる。
「ええ。小夜ちゃんに怒りたい。文句をいいたいです。」
「小夜香さんは、十和子さんを怒らせるような事を、何かしたんですか?」
「彼女は嘘をついたんです。彼女が最後に歌おうとして、途中で終わった『あなたにできること』・・あの歌は、私のために歌うって、言ってくれてたんです。それなのに最後まで歌ってくれなかった・・何故、もっと早く、歌ってくれなかったんだろう。最後まで聞きたかった・・怒っちゃだめですか?」
柏木は、思わず込み上げる笑いを堪える。十和子は柏木の表情に少し気後れしたように、それでも再び尋ねた。
「怒っちゃだめですか?」
「ねえ、十和子さん。あなたは本当にかわいい人ですね。今のあなたは、初めてタクシーにお乗せした人と、同じ人物とはとても思えませんね。」
十和子は顔を真っ赤にして俯く。
「いいじゃないですか。怒っても。十和子さんは小夜香さんのために、本当に尽くされたんですよね。私は、雑誌に書かれていることくらいしかわかりませんが、実際にはもっと、ずっと尽くされたんでしょう?彼女のために、番組まで降りられた。多分、すべてを彼女のために捧げ尽くされたんでしょう。彼女のお父さんや、お母さんが傍に居ても、あなたが彼女に怒る、あー、文句を言うことを、止めることはありませんよ。思いっきり、文句を言えばいいじゃないですか。後悔を残さないように、小夜香さんを送ってあげて下さい。文句を聞いている彼女は、きっと笑っていますよ。そして、周りが寝静まった頃に、小夜香さんへ寂しさを伝えてあげればいいんです、心に溜めずに彼女の傍にいれるうちに、伝えればいいんですよ。」
柏木の言葉に、十和子は無言で頷いた。
(そうだ、私は何を良い子ぶろうとしているの。今まで、小夜ちゃんのために、出来ることは何でもしたよね。小夜ちゃんと一緒の時間は、もう、後少ししかないんだ。これからは、我儘しなくってもいいよね?そうだよ。あなたが『もう止めて。』って、起き出してお願いするまで、文句を言い続けてやる。)
「それと、十和子さん。これを受け取って下さい。」
柏木の声に、十和子は物思いから引き戻される。十和子の前に出された柏木の手の上には、小さな紙袋が載っていた。
「えっ?私にですか?すみません、柏木さん。ありがとうございます。」
十和子は柏木からのプレゼントを、素直に受け取りその紙袋を開けた。中には小さな木彫りの梟のペンダントが入っていた。
「十和子さん。それは、これから新たな人生の歩みを始めるあなたへ、『福が来ますように』と縁起を担いでの梟です。どこかに付けておいて下さい。」
「ありがとうございます。私なんかに、そんなに気を使って頂いて、本当にありがとうございます。大事にします。」
「十和子さんとは、何故か縁がありますよね。だからこそこれからは、あなたにはあなた自身の幸せを掴んで欲しいと思います。十和子さんに素敵な『福』が来ることを願っています。」
柏木の言葉が、十和子の胸に温かく積もってゆく。
「柏木さん、送って頂いて、そのうえ、素敵な言葉と素敵な『福』までいただいて、本当にありがとうございます。大切にします。」
「とんでもありません。こちらこそ、奇跡のコンサートを見せていただいて、ありがとうございます。もうこんなことは私の人生で、二度とないでしょう。感謝します。それとこれからも、タクシーに関しては、いつでも声をかけて下さい。お待ちしてます。」
十和子は、柏木の車が見えなくなるまで見送り、そして柏木から言われたことを実行するために、小夜香の病室へと向かった。
(何故、もっと早く歌ってくれなかったの。何故、私の歌だけ・・そうよ、『あなたにできることは』私の歌なのよ!それが何故、私だけ全部聞けないの!もう最後なのに。もう聞けないのに!何故よ・・)
そう思うと怒りが湧いてくる、そしてだんだん不機嫌になってくる。文句を言うのは、簡単だ。