最終話 Fly me to the moon
コウは靴裏の突起を使って急加速と減速を使いこなしている。恐らく月面で相当、訓練を積んだに違いない。それに比べてこっちは防戦一方だ。
コウは大きく左右にステップを踏んで接近してくると今度はしゃがみ込んでの回転足払いをみせる。
ついジャンプで交わしたくなったが咄嗟に右斜め前へのステップに切り替えた。
(ジャンプはまずい)
天井の高さは3メートル足らず。間違って3倍速で上に飛ぼうものなら頭をぶつけてしまうだろう。それに着地するまでの隙が大きすぎる。
しかしコウは続いて軽くジャンプすると回し蹴りを繰り出してきた。
上体を反らして寸前で交わす。が、すぐさま二発目が目の前に!
(何っ!)
しかもそれで終わらない。宙に浮いたままでの蹴りが連発で襲ってきた。まるでプロペラだ! たまらず後ろにステップする。が、最後の一発が間に合わない。しゃがもうとするが早くしゃがめない!
(上半身がついていかない……グッ!)
右のこめかみあたりに痛みが走った。やはり重力が小さいので『しゃがむ』という動作がイメージ通りに出来ないのだ。
痛みを堪えてコウの着地を狙う。5倍速で左の掌底だ。
が、コウはひらりと斜めにスライドする。また交わされた!
(大振りでは当たらないか。ならば……)
コウの攻撃を待つ。それも浅い攻撃ではダメだ。そこでわざとスキを作ることにした。
まず、コウの蹴りを避けた際にわざと身体の重心をずらして体を左に開く。やはりコウはそれを見逃さない。コウは一旦、左に回って急角度で左わき腹に攻撃を仕掛けてきた。
(よし!)
コウの正拳突きをギリギリで交わし、一歩踏み込む。そしてコウが下がろうとする方向に向かってステップして追いかける。身体を密着させるまで近付くと同時に左手の掌をコウの腹にあてがう。
(これでどうだ!)
掌を5倍速で突き出す。至近距離から急加速で放つ打撃だ!
「ムグッ!」と、コウが反応した。
手応えはあった。その証拠にコウは身体を『く』の字に曲げて後方に大きく弾き飛ばされた。5倍速とはいえ超至近距離でのそれは通常の掌底やパンチより威力は劣る。が、この低重力下では漫画みたいに敵は吹っ飛ばされる。
(やったか……?)
しかし、激しく飛ばされて壁に背中を打ちつけられたはずのコウが意外にあっさりと体勢を整える。やはり甘くはないようだ。恐らく、この低重力下では打撃を当てた時の運動エネルギーが吹き飛ばすほうに割かれてしまって敵の体内にダメージが残りにくいのだろう。
コウは腹をさすりながら余裕をみせる。
「寸勁か。フン。なかなかやるな……」
これは超至近距離で放つ打撃、いわゆる『ワンインチ・パンチ』だ。
「一応、打撃には自信があるんでね」
わざとそう口にしてみた。これが伏線になればいいのだが…。
それを聞いてコウは勝ち誇ったように言う。
「ほう。だが、今ので勝利を確信したよ」
「どうかな。今度はこちらから攻めさせてもらうぞ」
3倍速で地面を蹴って突っ込む。が、上体が先に突っ込むような形でバランスを崩す。その結果、意に反してジャンピングヘッドになってしまった。
コウは軽くそれを交わして嘲笑う。
「何だそれは? 頭突きか?」
「クッ!」
一歩、間を詰めて左拳を振り抜く。バックステップで交わそうとするコウに食らいついては左右のパンチを5倍速で繰り出す。が、ことごとく空振りしてしまう。
コウは余裕ありげに挑発する。
「どうした? 得意の打撃も当たらなければ意味がないぞ」
どうしても一完歩が大きくなるので攻撃が直線的になってしまう。それでもパンチを見せておいてフェイントの蹴りを見舞うとつま先がかすった。
そこでコウは大きく後退すると呆れたように言った。
「がっかりだな」
「ご期待にそえずに悪かったな。だが、結局、お前さんは何をしたいんだ? バベルを裏切ったうえにヘーラーまで……」
その問いかけにコウは腕組みをしながらゆっくり答える。
「私にとってはバベルもヘーラーも関係ない。私に言わせれば仏教もキリスト教も大して差はないのだよ」
「仏教? バベルの思想は仏教なのか?」
「ああ。それに近い。バベルの思想は輪廻転生を基礎としている。あの世というのは精神の集合体であって、そこからこぼれ落ちたものが魂として人間に宿る。そして現世で経験を積み、また集合体に還る。それの繰り返しだというのだ」
「精神の集合体。それがあの脳みその化け物作りのルーツか?」
「恐らくはな。だが無神論者の私にはどっちでもいいことだ。所詮、生まれてから死ぬまでのプロセス、それをどう解釈するかの違いでしかない。結局、人は死ぬ。人はどこから生まれ、死んでからどうなるのか。宗教はそこに意味を求める。だが、そのこと自体に意味などない。それが私の考え方だ。つまり、生きているうちに出来るだけのことをする。どういう生き方をしようと最後の瞬間に悔いが残らなければそれで御の字だ」
「……お喋りが過ぎたようだな。時間が無いっていうのに」
「問題ない。次で終わりにするからな」
そう宣言してからコウは再び戦闘態勢に入った。恐らく奴は足裏の突起での攻撃をフィニッシュに持ってくるはず。その時が唯一のチャンスだ。
「いくぞ!」
そう言ってからコウは地面を蹴った。
(来る!)
高速で接近してくるコウの動きを見極める。右、左、右、右……?
(消えた?)
バカな? 見失っただと? 途中でスピードを上げたのか?
次の瞬間、左のわき腹に激痛が襲ってきた。咄嗟に5倍速で身体をよじる。と同時にコウの足にしがみつく。そしてコウの懐にタックルする。
(捕まえた!)
「ム!?」と、コウが呻く。そして拳が右方向から飛んでくる。
が、それに構わずコウの腹を両腕で抱える。そのままの体勢で身体が浮きそうになるのを堪えながら押す、さらに押す。そして勢いをつけて……渾身の力で地面を蹴る! 真上に向かって最大速のジャンプだ!
溜めに溜めていた力を地面にぶつけた反動で天井に向かって加速、めり込むぐらいの勢いで天井の岩に激突した。目の前に火花が散って、しこたま後頭部を打ち付けてしまった。が、抱きかかえられていたコウはもっと強打しているはず。
ゆっくり、ゆっくりと月の重力に導かれ、我々は着地した。
腕を放してコウと離れる。
コウは顔面を真っ赤に染めながら呻いた。
「ま、まさか……そんな方法を使う……とは」
不恰好だがやむを得ない。だがコウはまさかクロックアッパーがこんな泥臭い攻撃をしてくるとは思わなかったのだろう。打撃を意識させておいて正解だった。
しかし勝利の余韻に浸っている場合ではない。わき腹にかなりのダメージを受けてしまった。それに5倍速を使いすぎた反動も出てきた。爆発までの時間も迫っている。
幸い重力が小さいので移動することは出来そうだ。瀕死のコウを残して出口に向かうことにした。
* * *
気が付くと病院のベッドの上だった。
おそらくクリス中尉に運ばれたのだろう。わき腹の痛みはまだ残っているが手で触れてみると再生治療中であることが分かった。
(……イタチ男の奴、どこまで用意周到なんだ)
まるで自分が深手を負うことを予期していたかのようだ。
長く眠っていたのだろうか。圧倒的な脱力感に包まれている。天井を眺めながら色々なことを思い出していた。身体が軽いせいで腕も足も重さが感じられない。腰も背中も首にかかる負荷さえもまるで他人事のようだ。ぼんやりしていると自分の身体が本当に存在しているのかさえ自信が無くなってくる。考えてみれば身体という器を失った時、この意識というものはどうなってしまうのだろう。それは無になってしまうのか、しかるべき場所に還るのか、それとも……そこで両手両足を失った女達の顔が脳裏をよぎった。
しばらくしてベッド脇にあった端末が反応した。
「……ジイサンか。どうした?」
〔どうしたも何も今まで何をしておったんじゃい! 全然、連絡も寄越さんと!〕
「ああ。ちょっと月の裏側を散策してたんだ」
〔……で、用件は済んだのか?〕
「まあな。少し休んだら帰る」
〔そうか……〕
ジイサンはそれ以上、何も聞かなかった。多分、声のトーンで分かるのだろう。付き合いが長いと互いにそういう配慮が出来るものなのだ。
〔まあ、せいぜいゆっくりするこったな。こっちはちょっと騒がしいからの〕
「何かあったのか?」
〔また隕石が落下したらしい。今度はドバイの方がやられたようじゃ〕
「な!? ……それはいつだ?」
〔8時間ぐらい前かの。次はどこだとパニック気味じゃわい〕
あの場所を立ち去ってから十数秒後に一回目の爆発があった。その後、小爆発がしばらく続いてから大きな爆発が起こった。てっきりあの爆発で発射装置は破壊されたものと思い込んでいたが…。
(あの爆発では止まっていなかったのか……)
ジイサンが続ける。
〔かなりの被害らしいぞ。有名人も多く犠牲になったようじゃ。その中にはあのアル・ハシリドはじめバベルの幹部も多数おっただろうな〕
「……バベル壊滅か。奴等の狙い通りか」
〔奴ら、とな?〕
「黒神父だ。あれはヘーラーの攻撃だったようだ。そういえばジイサン、チャンに分析を頼まれていただろう。バベルの塔にあった加速装置の」
〔ああ。あれか。あれは恐らくチャンの推測通りのブツじゃな。だが、本当に宇宙まで物資を打ち上げられるだけの代物かはまだ立証できとらんのだが……〕
「立証も何もそいつの親玉みたいなのが月にあったようだ。信じ難いことだが、月の半分を使った加速装置でヘーラーは地球を攻撃していたらしい」
〔な、な、なんじゃと!? 信じられん……〕
黒神父が予告した通りになってしまったということは、やはりあの装置は本物だったということだ。しかし、それは逆にこれ以上の攻撃は無くなったということでもある。
「ジイサンよ。そっちは何かと大変だろうが……長生きしろよ」
〔な、なんじゃい急に。気持ち悪いのう。変なことを言うない!〕
しばらく会話が途絶えた。互いに次の言葉を決めかねているようなバツの悪い間があいた。
「……悪かったな。心配するな。大したケガじゃない」
〔驚かせるな。わしゃてっきり……〕
「しばらくこっちでのんびりしたいだけさ。じゃあな」
〔おう。地球に戻ってきたら寄ってくれ。ご馳走を用意しておくからの〕
「ああ。冷製パスタ以外で頼む」
〔フン。それは聞こえんかったことにするわい〕
ジイサンとの通信が終わって少し現実に戻ってきたような気がした。
そういえば酷く喉が渇く。
(ちょっと抜け出すとするか……)
ベッドから起き上がり、外に出てみることにした。
* * *
病院を抜け出して2ブロック離れた観光ホテルのラウンジに入った。
このホテルはゼロ号基地の端にあってラウンジから地球が眺められるということで人気のあるスポットなのだそうだ。恐らく地球を臨みながらの食事や飲酒が定番なのだろう。ところがそういう時間帯では無かったのかラウンジ内は意外に空いていた。客の入りは2割といったところか。しかも皆、窓際の席に集中していて自分が座った席の周りは空きテーブルに囲まれていた。
ここでビールを注文したいところなのだがメニュー表示にそれは無かった。やはり酸素量のコントロールが最重要視される月面基地で炭酸飲料は禁止なのだ。そこで諦めてウィスキーの水割りを頼む。喉が渇いていたので薄めの水割りを立て続けに喉に流し込んだ。そして渇きが収まったところでロックに乗りかえる。長く考え事をする時にはロックに限る。
程好い酔いと静かな空間に意識を漂わせていると、ふいに目の前に何者かが現れた。顔を上げてそれを見た途端に酔いが引いていくのが分かった。こういうのをまさに『興ざめ』というのだろう。
「何の用だ?」と、相手の目を見ずに言った。これは(関わりたくない)という明確な意思表明だ。だが、相手は気にする素振りもない。
「片はついたようだな」
そう言ってイタチ男は勝手に向かいの席に座った。もはやこの男のストーカー振りには諦めるしかない。
大した感慨も無く返事を返す。
「まさか次は火星にでも行けって言うんじゃないだろうな?」
「いいや。これ以上、依頼することはない」
「それは良かった。おかげでのんびりできる。バベルだとかヘーラーだとか訳の分からない連中と関わりあうのに疲れたからな。ついでに言わせて貰うとアンタの相手をするのもこれで最後にしたいもんだ」
「……そう言うな。兄弟」
「止めてくれ。そもそも俺は実の父親を知らない。なのにアンタに兄弟と呼ばれる筋合いは……」
「だったら、会ってみるか?」
そう言うとイタチ男はこちらの答えを待つまでもなくスーツケースをテーブルの上に乗せた。こんな所でもいつものそれを持ち歩いているとは呆れたものだ。が、イタチ男がそれを開けた瞬間に息が止まりそうになった。
(な、何だ!? それは……)
スーツケースの中味は液体漬けの脳だった。しかもその脳には無数の電極や機械が差し込まれているように見える。
言葉を失っているとイタチ男が無表情に言った。
「これが『瀬戸源一郎』本人だ」
「……生きて、いるのか?」
「勿論だ。話すこともできる」
「……どうやって?」
イタチ男はその質問には答えず、微かに笑みを浮かべると自らのこめかみに両手を添えた。そしてゆっくりと髪を持ち上げた。
(カツラ? ……う!)
まるでゆで卵の殻を取り去るようにイタチ男が外したのはカツラではなく頭部の一部だった…。イタチ男の額より上部分は真横に切り取られている。どういう仕組みになっているのかは分からない。が、むき出しになったのは恐らく頭骨、それも金属製パーツと一体化している。まるで機械の塊に人のお面を被せたような具合だ。
「前にもこうして話したことがあるだろう」
イタチ男にそう言われて戸惑った。
「前にも、だと? ……そんな奇妙な物にお目にかかるのは初めてだが?」
「そんなことはなかろう。本を贈った時だ」
「何!? まさか……あの時か」
恐らくそれはデンバーの日本食レストランで対峙した時のことを言っているのだろう。
「あの時は楽しかったよ。それでつい喋りすぎた。普段は余分なエネルギーを使わないように箱の中で安静にしているんだが」
(箱の中……スーツケース。つまりイタチ男が持ち歩いていたのは瀬戸源一郎の脳だったということか?)
試しに聞いてみる。
「今喋っているのが瀬戸源一郎だとしたらその身体の『主』は何者だ?」
「この身体は私のコピーに過ぎない」
「その身体に人格はあるのか?」
「少しはある。だが知力は著しく劣る。これはクローンで出来た個体特有の欠点だ。ある程度の意志を持って行動することは出来るがコントロールしているのは私だ」
「普段は身体の主にある程度任せて時々そうやってアンタが表に出てくるという仕組みか」
「そうだ。残念ながら私は箱の中から出られない。しかも定期的にメンテナンスを行わなければならん。このクローンは私の身体の代用であり、また介護役でもあるのだ」
それで分かった。B国の病院で初めて会った時にイタチ男は『我々はこれで失礼する』と言っていた。あれはそういう意味だったのだ。
イタチ男、いや瀬戸源一郎は目を細めて頷いた。
「宜しい。いい顔をしている」
「何だ。気持ち悪いな」
「良い出来だ。まったく老いることが無い」
「当たり前だ。だが、不老不死にしてくれなんて頼んだ覚えはないが?」
「そう言うな。こうやってお前の顔をじっくりと見るのはこれが初めてなのだ。なぜなら視覚から入る情報は容量が大きすぎるからな。情報整理の為、脳に負荷がかかるから普段は見ることはしない。だから今までは情報としてしかお前のことを認識してこなかった」
厭な予感がした。嫌、この予感はこれが初めてではない。まるで心の奥底に無理やり押し込んだ感情がゆっくりと染み出してくるような感覚だ。
イタチ男、いや、イタチ男の身体を借りた瀬戸源一郎は機嫌が良さそうに呟く。
「フフ。こういう気分は初めての経験だ。これが何十年ぶりに我が子に会った喜びというものか」
「な、な……」
言葉が出てこなかった。『輪廻』などというイカれた本を読まされた時から厭な予感はしていた。が、実際にそんな風に言われてしまうと目の前が暗くなるような気がした。
やっとの思いで口を開く。
「まさか……あの本に書いてあったことを実践したんじゃ……」
すると瀬戸源一郎は静かに首を振った。
「勿論、妹と肉体関係を持ったわけではない。当然のことながら妹は拒否した。だが、22歳の若さで妹は脳死してしまったのだ。事故だった。私は妹の身体から卵子を取り出して人工受精させたのだ」
「バカなことを……それで?」
「当時、私はまだ大学院生だった。T大学でDNA書き換え技術の研究をしていた私はこっそりと人間の遺伝子で実験を重ねていたのだよ。夜間、誰も居ない研究室で勝手に機械を使わせてもらった。その集大成がお前だ」
「何の為にそんなことを……」
「私の身体が朽ちる前にどうしてもスペアが欲しかった。だから妹の卵子を借りて私の分身を作ろうとしたのだ」
「なぜクローンにしなかった?」
「その時点のクローンでは満足出来なかったのだ。どうせなら自分の入る器のスペックは最高のものにしたいと考えていた。例えば、不老不死。さらには超反射神経……」
「クロックアップもアンタの仕込みだったと言うのか」
「だがその代償も大きかった。一代限りというのは想定していなかった。最も死なないのだから子孫を作る必要もないのだが」
「ふざけるな……」
そのせいで過去に失ったもの。それは決して消えることのない痛みだ。
瀬戸源一郎の独白はさらに続く。
「その後、私は受精卵を妹の腹に戻した。つまりお前は脳死状態の妹の腹の中で育ったわけだ。病院では大問題になったてしまったが。医者も驚いていたよ。流石にお腹の子の父親が実の兄だとは気付いていなかったようだがね。それで、生まれたお前を海堂に預けたという次第だ。もう何十年も前の話だ」
「……それが本当だとすると、今までなぜ俺に接触してこなかった? 俺はアンタの『器』だったんじゃないのか?」
その問いに対して瀬戸源一郎は静かに首を振った。
「出来なかった。お前は意思を持った人間だ。『器』にするのは残酷すぎる。それに正直に言えば自身が生んだ最高傑作に手をつけたくなかったのだよ。だから、私の意識はその後に作ったクローンに移すことにした。クローンなら何の気兼ねも無い。それに失敗しても機会は何度でもある」
「……意識を移すだと? 脳を移植するのではないのか」
「脳とていずれは朽ちる。私が不老不死を得るには自らに宿った意識、つまり『自我』を物理的に他の脳へ移すしか方法がないのだ」
それを聞いてまず連想したのはトレースの技術だ。脳の特定部位に電気刺激を加えることで他人の記憶をリアルに再現するこの技術は人工知能の父ジョナサン・ホフマン教授の功績によるものだ。さらにそのホフマン教授で思い出した。瀬戸源一郎もホフマン教授も、三十年前にイランの『ババルの塔』を訪れていたはず。
「そういえばアンタもバベルの塔探索隊の一員だったな。写真をみたぞ。今と変わってないということは、あれはアンタのクローンだったわけか」
「そうだ。脳科学は私の専門分野ではないからな。私の脳にあるすべての情報をクローンの脳に写す作業にはホフマン教授の力がどうしても必要だった。彼がバベルの塔で得た情報を利用して私は何度もチャレンジをした。今から十数年前のことだ」
「それがその結果か? 見事に失敗してるじゃないか」
「……言い訳はせんよ。確かに失敗だった。私の意識、すなわち私の脳にあるすべての情報を電気信号としてクローンの脳に送り込んだつもりが目覚めた時に思い知らされたよ。自分はどこにも行けない。意識はここに留まり続けるしかないということを。それで悟った。いちど肉体に宿った自我は切り離せないのだと」
(結局、行き着くところはそこか……)
『魂』などという概念は自分にはどうでもいいことだ。生死観というものは人それぞれであるが、それを突き詰めていったところで真実には辿り着けない。所詮、「人はどこから生まれ、どこに還るのか」なんて誰にも分からないのだ。
そう思って尋ねてみた。
「それでアンタは何を学んだ? アンタのやってきたことはバベルやヘーラーと変わらんように見えるが?」
「……それは否定せん。バベルは脳を結合することで個々の脳に宿る自我の領域を拡げようとした。自我と自我の垣根が取り去られそれが一体化する。それはまさに死後の世界を再現することだ。彼らは無数の自我が集合したものこそが生命の源と考えている。そこからこぼれ落ちた『自我』が肉体に宿ることで命が誕生し、肉体が滅びると元の場所に統合されるというのだ」
「輪廻転生か。つい最近、同じ話を聞いたよ」
そういえばコウ中将も同じことを言っていた。
瀬戸源一郎は続ける。
「一方のヘーラーとて特異なものではない。彼らの死生観は、命は神によって創られ神の元に還るという考え方だ。その点でヘーラーもバベルも根は同じモノなのかもしれん。彼らはそれぞれのアプローチで命をコントロールすることに腐心していた。だが、それはあまりにも儚く脆い。その一滴は誰にも掬い取れないのだ」
そこまで話し終えて瀬戸源一郎は静かにため息をついた。ここまで彼は一度も瞬きをしていない。イタチ男という器のストックは幾らでも用意できるかもしれない。だが、スーツケースの灰色に近い瀬戸源一郎の脳は青息吐息のように見えた。
「で、アンタは俺にどうしろと?」
「……好きにしろ。この世界が滅んでゆく様を傍観するもよし、何かを変えようとあがくもよし。好きにするがよい」
「フン。すっかり父親気取りだな。言われなくても……」
どうしてもその後の言葉が出てこなかった。『生きる』という言葉の重みというものが今更のようにのしかかってきたのだ。
瀬戸源一郎はスーツケースを閉じると最後に1つだけと断ってから質問をした。
「己の運命を呪うか?」
そこで頷くのはシャクだった。なので首を振る。
「いいや」
それを聞いて瀬戸源一郎は満足そうに頷くとゆっくり席を立った。恐らく彼の脳が機能を停止する日は遠くないだろう。そうなればもう会うこともあるまい…。
瀬戸源一郎が去ってから茫然としていた。すっかり酔いがさめたせいもある。だが、知りたくも無かった生い立ちを聞かされたことで気分が滅入った。
しばらくたって給仕ロボットがテーブル脇に待機しているのに気付いた。ふと思い立って曲のリクエストでもしてみようという気になった。給仕ロボの口にチップを差し込むとリクエスト受付中と表示される。
「Fly me to the moon」
そう告げると曲の候補がズラリと出てきた。そこで「この淀んだ空気にピッタリなものを」と条件を付け加えると、給仕ロボは一寸、首を傾げる仕草をみせた。そしてそのクリクリとした目でこちらを観察すると小さく頷いた。
出だしはジャズ風。歌い手の名は分からない。しかし雰囲気は合っている。
いつの間にかこの席からも地球の姿が臨めるようになっていた。月を見ながら聴くのではなく反対に地球を眺めながらこの曲を聴くというのもおつなものだ。
「Fly me to the moon」をツマミにウィスキーを飲む。考え事をするにはぴったりのシチュエーションだ。
(深く考えても仕方がない……か)
普通の人間より長生きすること自体に意味は無い。だが、例え意味の無い人生だったとしても生きることを否定する理由にはなるまい。「人はどこから生まれてどこに行くのか?」そんなものは死んだ時に考えればいい。知らない方が良いことというものはある。
もう一度、地球を見上げてみた。ただし瀕死の惑星を眺めて感動するほど純粋な心は持ち合わせていない。だが、それでも地球は美しい。それなりに……
そんな地球を眺めていると、なんだか無性に冷たいビールがやりたくなってきた。
終わり
最後までご愛読ありがとうございます。特に不定期連載ながら長らくお付き合い頂いた方々には深く感謝致します。皆さんのアクセスが励みでした。ご感想など頂けると幸いです。