第41話 悪魔の口
ひと仕事終えた時のビールほど美味いものはない。とりわけそれが困難な仕事であれば尚更のこと。心地よい刺激は喉を滑降し喜びの歌を奏でる。快楽の粒は群れを成し胸の奥で思い思いに跳ねる。跳ね回る。そして最後に湧き上がった充足感が全身を震わせ、恍惚のため息をつかせるのだ。
「ふう。これだけは止められんな」
ホテルに戻るまで我慢していた甲斐があった。この一杯は何物にも変え難い。
ナミがやれやれといった風に首を振る。
「呆れたものね。こんな所で貴方みたいな飲み方する人なんて居ないわよ」
確かにこの時間ともなればホテル内のバー・ラウンジは身を寄せ合ってヒソヒソ話をする男女ばかりだ。淡い光が寄り添いあってほんのりと照らし出す店内にはピアノの生演奏が良く似合う。まさに我々のような『肉体労働者』は場違いだ。
一方、チャンはチャンでノンアルコールの甘いカクテルにガムシロップを大量に注いではせっせとそれを口に運んでいる。その様子を眺めていたナミが顔を顰める。
「見てるこっちの方が気持ち悪くなるわ」
と、彼女はチャンに対しても手厳しい。
「だって……仕方が無いんだもん」
チャンは上目遣いで彼女の顔を見ながら口を尖らせる。
彼女はそれを無視してグラスを救い上げた。どうも我々の下品な『飲みっぷり』がお気に召さないらしい。
彼女は届いたばかりの義手の具合を確かめながら試すような目つきで尋ねた。
「で、どうするつもり? あなた達はこれからどうしたいの?」
そこでチャンが即座に答える。
「勿論、バベルをブッ潰します!」
彼女は冷静に返す。
「そう。で、具体的には? どういう方法で潰すつもりなのかしら?」
「それは……アンカーさんに手伝って貰って……」
「おいおい。勝手に頭数に入れるなよ。こっちにはこっちの事情があるんだぞ」
そもそもここでこうして寛いでいられるのもイタチ男というスポンサーのおかげだ。彼の高額な報酬が無ければここに滞在するどころか旅費ですら捻出できたかどうか怪しいものだ。そのイタチ男の依頼は「ヘーラーに対峙しろ」というものであって「バベルを潰せ」ではない。そういう複雑な事情があるのだ。
言葉に詰まったチャンをよそに彼女が呟く。
「やっぱりね。具体的なプランがある訳じゃないんでしょ。だとしたら次の目的地はカナダかしら……」
ナミの言葉を聞いてチャンが大きく頷く。
「それだ! そうですよ。カナダに向かいましょう!」
その単純な発想をいさめる意味で確認する。
「ちょっと待て。君等はあの男の言葉を信用するのか?」
「ええ。たぶん嘘は言っていないと思うわ」
「僕も同感です。カナダに行きましょうよ」
「やれやれ。君等はいつの間にそんなに仲良くなったんだ? 大体、目的も無くカナダに行ってどうする。もうちょっと冷静にだな……」
人の言葉を遮ってチャンが口を挟む。
「ねえアンカーさん。ところで『悪魔の口』って何ですか?」
「そうね。私も気になってたのよ。それって何なの? 知ってるんでしょ?」
「2人してそこを突っ込むか……まあいい。信憑性はともかく……」
イタチ男の話を鵜呑みにするのには抵抗を感じるが、彼から聞いたままの内容をかいつまんで話してやる。
話を聞き終わってナミの表情が険しくなった。
「どうした? やはり古巣のことが気になるか?」
「……ちょっとはね。それに思い当たる節があるし」
「どういうことだ?」
「3年ぐらい前かしら。『レーザー圧縮』の技術者を何人か集めたことがあるのよ。非合法的な方法でお集まり頂いたんだけどね」
「目的は核融合……か」
「ええ。恐らくは。でも、あの時は正直、疑問に思ってたの。組織は核兵器なんかを持ってどうするつもりなのかって」
「発言力を高める為のツールなんだろうよ。それを持っているだけで自分が偉くなったと勘違いするバカは昔から大勢居るからな。だが、ヘーラーは違った。奴等はそれを実際に使って海底火山を爆発させようとしている。実に馬鹿げた話だがな」
チャンが表情を曇らせる。
「でも、本当にそんなことが出来るなら……大きな被害が出ますよね。この前の大地震みたいに」
「そういえば今回の地震。津波の被害が酷いようね」
彼女の言うようにニュースでは連日、各国の被害状況が報じられている。
「まさかインド洋のあれもヘーラーの仕業ではなかろうな」
半分、冗談でそう口にしてみたが(ヘーラーなら本当にやりかねない)と思い直した。一部の報道では地震の直前に巨大な水柱が目撃されたとあったので核爆発を連想してしまったのだ。
「終末思想……」と、彼女は呟いた。
厭な言葉だ。それが笑い話で済むうちはまだ良い。心配性な連中の一部が憂鬱になっているだけなら問題は無い。だが、今の世相はそうではない。多かれ少なかれ誰もが世界の終わりが近付いていることを予感している。それが何時なのか、どういう形でやって来るのか、それが分からないだけなのだ…。
ナミは自らの髪を指先で弄びながら続ける。
「神父様のお話には「我々は生まれ変わらなくてはならない」ってフレーズが良く出てたわ。それって修行とか信仰心とか精神論だって思ってた。まさかそんなこと……今から思えばそういうことだったのね」
「黒い神父様とやらは教会でそんな説教を垂れていたのか。とんでもない不良神父だな」
もし、その終末思想がヘーラーという組織の最終目的であったとするなら、彼等のやろうとしていることは全世界を敵に回したテロ行為に過ぎない。
(だったらバベルはどうなんだ? バベルはヘーラーの目的を把握しているのか?)
イタチ男は自分に高額な報酬を与えて『ヘーラーと対峙しろ』と言った。それは言い換えれば『ヘーラーのテロから世界を守れ』ということにならないか? それにしては自分で考えて行動しろという突き放した言い方だったように思えるが…。
チャンが目を瞬かせて口を開いた。
「じゃあ、サァラはテロを阻止する為に派遣されたってことですよね?」
「さあ。どうだかな。バベルとて得体の知れん連中だ。結局は同じ穴のムジナかもしれん」
「でも……」と、チャンは反論する。
「でも、きっとサァラには目的があるんですよ。今はバベルの手先なんかやってるけど、それはポリシーを貫く為の手段なんだと思います」
「好意的に解釈すれば、だろ? お前さんの場合、どうもサァラの事になると楽観的になり過ぎる」
サァラはバベルを利用しているのか、若しくは利用されているのか? 現時点でそれは分からない。しかし、クライアントが心配するような事態も想定はしておかなくてはならないだろう。
(恐るべきは……あの子の潜在能力か)
コウ中将はサァラに一個中隊を任せていると言った。一個中隊といえば率いる兵士の数は200前後、階級で言えば少佐ぐらいか。いずれにせよ十四歳の女の子にそんな権限を与えるとは…。それだけサァラの能力を高く評価しているということなのだろう。
(やはりクライアントに会っておかないとならんな)
そう思って2人に提案する。
「この後、ちょっと寄り道したいんだが……」
「あら。どこに?」
「依頼人に断りを入れておきたいんでな。インドへ行く」
すると2人の言葉がほぼ重なった。
「ダメですよ!」
「駄目よ!」
チャンは口を尖らせて反対する。
「そんな時間はありませんよ! 僕はサァラが心配なんです。一刻も早くカナダに行かなくちゃ!」
ナミは眉間にしわを寄せる。
「そうよ。手遅れになる前に何とかしなきゃ」
「おいおい。何でこういう時だけ気が合う……」
「多数決よ! このままカナダに直行するわ」
彼女はきっぱりとそう言い切る。
「やれやれ。なんで金を出す自分が指図されなきゃならないんだ」
文句のひとつも言いたくなるというものだ。
妙な雲行きになってきた。2人ともすっかりカナダに行く気になっている。ナミは古巣であるヘーラーの暴挙を放っておけないと言い、チャンはサァラが心配だと言う。どちらも我々が行ったところで何が変わる訳ではないだろう。だったら放っておけば良さそうなものだが、それを口に出来るような雰囲気ではない。
話し合いが行き詰まったとき特有の白けた空気が流れた。
そこへ音も無く一台のロボットがすっと場に割り込んできた。
「給仕ロボットか。懐かしいな。まだ残っていたのか」
それは人類がはじめて月面着陸に成功した頃の宇宙服姿を四頭身にディフォルメしたロボットだった。三歳児ぐらいの身長にずんぐりむっくりな体型。まん丸な頭にはピンポン球のような大きな目がふたつ。レストランなどで注文を受けるマスコットとして随分前に活躍をしていたのだが最近はとんと見なくなった。
チャンが物珍しそうにロボットの頭を小突く。
「何ですかこれは?」
「30年ぐらい前に流行ったんだ。君等が生まれる前だ。ちょうど月面基地が出来た頃かな。小銭を入れてリクエストするとその時の気分に合わせた曲をかけてくれる」
それを聞いてナミが拍子抜けしたように呟く。
「それだけなの? 何それ」
「そう言うな。こいつはリクエストした人間の表情や声を観察して選曲するんだ。それがなかなかどうして的確にツボを押さえてくれると評判になってな。『癒し効果』とでも言うか、当時はあちこちで見かけたもんだ」
「へえ。そういうものなの。試してみようかしら」
そう言って彼女はポケットからコインを出した。
「頭のところに投入口があるだろう。そう。それだ」
「で、何てリクエストするの?」
「何でもいい。曲名を告げてもいいし、独り言でも構わない」
「そう。じゃあ、『Fly me to the moon』をお願い」
そう言って彼女が頬杖ついてロボットを眺める。すると給仕ロボットは愛くるしい目で彼女を見上げると目を瞬かせてからコクリと頷いた。
「あら。可愛い」
給仕ロボットは目を青く光らせると「1・2、1・2・3・4」という風に頭を振って拍子をとる。そして演奏がはじまった。
まるでピアニストが鍵盤の上で指先が弾むのを楽しんでいるようなジャズピアノが聞こえてくる。
チャンが感心したような表情で給仕ロボットを眺める。
「へええ。意外と明るい曲調のをチョイスしましたね。こいつ」
(妙だな。給仕ロボットはリクエストした人間の気分を選曲に反映させるんだが……)
試しに彼女に聞いてみた。
「なんだ。そういう気分なのか?」
すると彼女は含み笑いを浮かべる。
「……そうね」
これから敵地へ乗り込もうかというのに、その表情に緊張感や不安感は微塵も感じられなかった。むしろそれを楽しんでいる、かのように思える。
やはり女心というものは理解し難いものなのだ。通りで給仕ロボットが廃れてしまうわけだ…。
* * *
雪の大地が延々と続く単調な景色の中に目的のそれは突然姿を現した。
問題の『悪魔の口』は、長さ数キロにも及ぶ大地の巨大な裂け目だった。幅は広い所で約300メートル。確かに白い大地にぽっかり開いた裂け目は唇の薄い口のように見える。
上空からそれを見下ろしながらジイサンに礼を言う。
「大した精度じゃないか。いつもこうだと助かるんだがな」
意外にもジイサンがくすねてきた情報は正しかった。というよりも中継基地でサァラ達がクロウリーを弄っている際にジイサンのプログラムを忍ばせておいたのが正解だったと言える。
『なんじゃ嫌味かい! けど、クロウリーって奴は大したもんじゃのう』
「確かにな。クロウリーでなければこんな辺鄙な場所は特定出来なかっただろうよ」
うんざりするぐらい変化の無い景色だ。この地には岩と木しか存在しない。まるで巨大な一枚岩の上に木をびっしりと植えたみたいに地表は一様で、さらにそれを分厚い雪がまんべんなく覆い尽くしている。その絶望的な広さと単調さは人間の存在感を完全に疎外してしまうように感じられた。
雪は延々と続く交響曲のように強弱をつけながら降り続いた。時折、風が『早く帰れよ!』と言わんばかりにヘリの窓を叩いていった。中には乱暴な奴が居て、強引に我々を他所へ追いやろうとする。その度に大きくヘリは揺れ、体勢を整えるのに時間を要した。
「ご苦労さん。もう少しだ」と、操縦桿を握るナミにねぎらいの言葉をかけた。
「ほっとしたわよ。だってずっと同じ景色なんだもの。感覚が麻痺しちゃうわ」
「確かに。眠くなるんだろ? 分かるよ」
「だったら途中で代わってくれても良かったんじゃない?」
「いや。それは……」
そう言い掛けるとチャンが割って入る。
「絶対にダメです!」
「なんだ。まだ根に持っていたのか。しつこい奴だ」
「何言ってんですか。アンカーさんのせいで僕はB国で死にかけたんですからね!」
「大きなミスは無かったはずなんだがな。離陸の時は」
「離陸だけ出来てもダメじゃないですか! 着陸とセットでなくちゃ」
チャンの言い分も最もだが人には向き不向きがある。自分の場合は着陸が苦手なだけだ。
しばらく大地の裂け目に沿って飛んだ。真ん中あたりに少し開けた場所がある。そこに山の上にぽつんと取り残された『観測所』みたいな建物がひとつ、裂け目に隣接するように設置されている。その隣は資材置き場のようだ。車が数台並んでいて、「道」というにはやけにシンプルな一本の筋が森の中へ続いている。
ふいにチャンが声をあげる。
「あ……煙」
見ると確かに一台の車から煙が上がっている。
「こんな所でバーベキューを楽しんでいるはずはないな」
それを受けてチャンがか細い声で呟く。
「なんか様子が変ですよね……誰も居ないような雰囲気ですけど……」
マルチスコープに人間などの熱源反応は無い。
(機械類にはエネルギー反応が残っているようだが……みんなどこへ行ってしまったんだ?)
厭な予感がした。
雪が支配する大地には何故か死の匂いがする。例え、生が残っていたとしても、それは圧倒的な雪の存在に屈するより他はない。ちっぽけな命は息を潜め雪の下で死んだ振りをするしかないのだ。
さらにヘリの高度を下げながらナミが次の指示を求めてくる。
「どうするの? 手前で降りる? それともこのまま乗り付けるのかしら」
「高度はこのままで正面に。そこで止めてくれ。俺が先に降りる」
「嘘でしょ? こんな吹雪の中を降下するの?」
「ああ。何か様子がおかしい。バベルどころかヘーラーも見当たらない」
「分かったわ。でも、このヘリはどこに停めておけばいいの?」
「あの資材置き場の辺りに。で、君達はそこで待機してくれ」
それを聞いてチャンが驚く。
「え? 僕たちを置いて行く気ですか?」
「そうだ。危険すぎる。まずは確かめてからだ。それに場合によっては迎えに来てもらわなければならないかもしれん。裂け目の中までな」
「本気ですか? あの中に入るつもりなんですか?」
「表に連中が見当たらないということは中に篭っているんだろうよ」
裂け目の淵に建つ建物からは直径2メートルぐらいの棒が二本、穴に向かって突き出すような形で伸びている。そこからワイヤーのようなものが穴の中にぶら下がっているのも確認できた。恐らくそれは簡素なエレベーターなのだろう。良く見ればプールの飛び込み板のような足場も据えられている。
あまり気が進まなかったが、まずはワイヤーを使って地上に降りることにした。
柔らかな積雪のおかげで着地の衝撃は皆無だった。しかし一歩踏み出すと簡単に膝まで埋まってしまう。歩く為にいちいち足を引き抜かなくてはならないのはとんだ手間だ。数歩前進しただけでもう帰りたくなった。
(もう少し建物の近くで下りれば良かったな)
そう後悔したのも束の間、直ぐにあることに気がついた。それは人の痕跡だった。良く見ると無数の足跡の上に雪が被さっている。上空からは見えなかったが数時間前にはこの辺りで人の出入りがあったのだろう。
建物に向かって歩いていくと少し盛り上がった箇所を発見した。
(これは……)
はじめは朽木かと思った。が、それはまぎれもなく人の死体だった。雪が死体を包み込んでいるのだ。
(こんな場所で行き倒れた訳では無かろう)
雪を払って顔を確認する。どう見ても生気は無い。が、まるで冷凍庫の生肉のように肌は冷え切っているというのに微妙な質感が残っている。
(撃たれたようだな。見張りの兵か?)
死体の服装から判断すると、どうやらこれはカナダ軍の兵士らしい。確かにここはカナダ政府がひた隠しにしている場所だから見張りの兵士が居てもおかしくはない。だが、それが無残な姿でこんな風に晒されているということは……どうりで人の熱反応が無いわけだ。
予想通り、建物に到着するまでに同じような死体が4つばかり転がっていた。恐らく小規模な戦闘があったのだろう。血の跡こそ雪で覆い隠されているものの、やはりこの一帯にはまるで生の存在は感じられなかった。
念のために死体からハンドガンを拝借する。この足場ではイザという時にクロックアップは使えないからだ。
(やれやれ。間が悪い時に来てしまったようだな)
気を取り直して建物の中に入ることにした。
室内は何の変哲もない事務所だった。だがここも人の気配は無い。それに思ったよりも機械装置類は少ない。
(なんだ。ただの休憩所みたいだな……)
恐らくここで大地の裂け目を調査しているのだろうが設備の充実度からするとあまり本格的とは言えないようだ。
入口とは反対の壁側には扉がある。ちょうど事務所を突っ切る形で奥の扉に向かう。
何のためらいも無く扉を開けた途端に下から突き上げるような冷気に襲われる。耳にまとわりつくは風の音。まるで空気が一斉に悲鳴をあげているようだ。
目の前には大地の裂け目がぽっかり口を開けている。間近で見ると断崖絶壁に立っているようでこれが裂け目だとは思えない。むしろ向こう側の壁がはっきりと目に入るので、まるで峡谷を挟んでにらめっこをしているような感じがする。
扉の外には穴に向かって突き出すような形で金属の足場があった。幅は2メートルぐらい、長さは5メートルほど。上を見るとこの足場と平行になる形で太い円柱の棒が二本、穴の方に伸びている。それぞれの棒には太目のワイヤーが幾重にも巻かれていて、その先は真っ直ぐにぶら下がっている。まさにヘリから見たのはこれだった。やはりこれは穴の中に降りるためのゴンドラ・リフトなのだ。
ふと右手に操作パネルのようなものを見つけた。多分、この操作パネルでゴンドラを上げ下げするのだろう。
(降りてみるしかない、か)
ここに突っ立っていても仕方が無いのでパネルを操作する。すると円柱が回転を始めてワイヤーが巻き取られていくのが分かった。
しばらく待っているとゴンドラ、といっても本当にただの箱が姿を現した。
「これに乗るのか……寒そうだな」
せめて屋根ぐらい付ければ良いのにと恨めしく思いながらもゴンドラに乗る。ただ、見た目よりは重量がありそうで少々の風では煽られないようだ。
ゴンドラの中にも操作パネルがあって今度はそれを操作して穴の中へと降下していく…。
どれぐらい下がったのだろう。ゴンドラの降りる速さから換算しても軽く数百メートルは下りていることになる。見上げると穴の最上部は遥か彼方に細い線となって、今まさに消え入りそうな具合だ。真っ暗闇の中、ゴンドラの手すりに付けられた明かりだけが頼りだ。マルチスコープを暗視モードに切り替えても良いのだが、どうせ岩壁が延々と続いているだけだろう。
いい加減うんざりしてきた頃、ようやくゴンドラが止まった。
(ここが底なのか?)
ここでゴンドラが止まったということは下りろということなのだろう。
目を凝らしてみるとゴンドラの明かりが照らす先に横穴があるのが分かった。どうやらこれは自然に出来たものらしい。もしかしたら地中深くに貯まった水が流出してこのような空洞になってしまったのかもしれない。
ゴンドラを降りて横穴に向かう。が、その前にここが本当に最深部なのか確認してみようと思った。
(……まだ下があるんじゃないか)
暗視スコープに切り替えたついでにセンサーでこの付近の地形を測定してみた。すると思った通りこの場所はまだ穴の途中であることが分かった。まるで幹に寄生するキノコの傘のようにこの付近だけ壁から出っ張っている。つまりこの下には何も無いというわけだ。
(ここが崩れたら一巻の終わりだな)
首を竦めて横穴に足を踏み入れる。と、これが思ったよりも広い。奥に進むにつれて天井も幅も広くなっていく。やはり地中に溜まった水が浸食して作られたような形状だ。
(……またか)
ここにもまた死体が転がっている。
これだけ頻繁に死体に出くわすというのに、どうして生きた人間には遭遇しないのだろう? それに死体のすべてはカナダ軍の兵士だと思われる。
(ヘーラーはここには居ないのか?)
不思議に思いながら先を進む。
(結構、奥行きがあるようだな)
そう思った矢先、前方に明かりを発見した。それを見て前にも同じような経験をしたことを思い出した。チャンが探索したバベルの塔、クロウリーの中継基地、C国の病院……それらは皆、地中に隠されていた。そして恐らくここもまた…。
(もしかしたら……)
そう、もしかしたらこれは必然なのかもしれない。21世紀はあらゆるものが『晒される』時代になってしまった。毛細血管のように張り巡らされた情報網といい、クロウリーのような神の視点といい、シショウのような集合知といい、秘密というものがその存在を著しく脅かされている。だからこそ秘密にすべきものは、より巧妙に深く隠さざるを得ない。まるでスパイ衛星の監視を逃れる為に軍事施設が地下に潜るのと同じように。
(だとしたら、ここには何が隠されているんだろうな)
どうせロクなものではあるまい。ただそれがカナダ政府によるものなのかヘーラーの意向なのかは分からない。
(ここか……)
ようやく最深部らしき場所に出た。ちょうど照明がぐるりと取り囲むような格好で体育館ぐらいのスペースを浮かび上がらせている。
入って右手奥に光源が複数ある。大小様々な装置のようなものに囲まれている一角だ。そこに至るまでの数メートルにも死体らしきものがひとつ…。
(誰か居る!)
人の気配を感じて少し身構えた。そして目を凝らす。相手が複数でないことを確認しながら少しずつその距離を縮める。
(そこに居たのか……)
途中で確信した。そこに居たのは……サァラ・タゴールだった。
彼女は、とっくにこちらの存在に気がついていたはずなのに一度もこちらを振り返らなかった。
「そこにいたのか。サァラ・タゴール」
そう声を掛けると、彼女が顔をあげる。その表情は特に驚いた風でもなく、むしろ無関心そうに見えた。
「ここに居た連中はみんな撤退したわ」
「皆というのはヘーラーの連中か。どうりで静かな訳だ。所々に死体が転がっていたが、あれは君がやったのか?」
「全部じゃないけど」
「で、君はなぜここに?」
「見届けるためよ」
「ほう。たった一人でか。部下はどうした? 一個中隊を率いて来たんじゃないのか」
「集団行動は苦手なの。それに元々、そんなつもりはなかったし」
「ヘーラーの計画を阻止しろという命令じゃなかったのか?」
「一応はね。でも、もう手遅れよ」
「随分と冷静だな。諦めがいいというか……知らないわけではないだろう。ヘーラーがここで何をしようとしていたか」
「その気になれば止めることが出来たかもしれない。けど、敢えてそうしなかった」
「……なぜ奴等を止めなかった? もしかしたら大惨事になるかもしれないんだぞ」
「なぜ? そうして私がそれを止める必要があるの?」
そう言って彼女は冷たい目でこちらを見据えた。その表情は淡々としていて、まるで彫刻のように生気が無かった。
(やはりそうか……)
止むを得まい。これまで先延ばしにしてきた結論をこれ以上、引っ張ったところで埒が明かない。時には思い切って幕を引くことも必要なのだ。
自分にそう言い聞かせて軽く深呼吸をした。そして、ゆっくりと左手を上げ、彼女に向かって伸ばす。
「サァラ・タゴール。悪いが……ここで死んで貰う」
そう宣言してから彼女に銃口を向けた。