第39話 合流
男と女とは永遠に分かり合えないのかもしれない。
次々と試着する彼女を見てつくづくそう思った。例えば『服』ひとつとっても男と女は根本的に異なる。女はやたらとそれを着たがり、男はそれを脱がせたがる。どうしてこうも違うのだろう。同じ人間だというのに…。
ナミの場合はまだ同情する余地がある。彼女の生い立ちを鑑みるに、女の子らしい生活とは無縁だったと思われるからだ。当の本人も「その反動」だと言い訳するが、出資する側にとっては実に迷惑な話だ。女の浪費という行為は、それを楽しむ当人と店員だけは幸福にするが一部の男を確実に不幸にするものなのだ。
結局、チャンを待つまでの一日半、厭というほど彼女の買い物に付き合わされてしまった。何しろ朝の開店時間から夜中まで目に付いた店を片端から回るものだからすっかり疲れ果ててしまった。買い物好きの女に辟易している世の男性は今こそ団結して声高に主張すべきだ。『せめて店を開ける時間を短縮しろ!』と。
もう五年分ぐらいの服を買い漁ったというのにホテルのラウンジでチャンの到着を待つ段になっても彼女の頭からは買い物のことが離れないらしい。
「あ! 『スリムK』買い忘れてたわ」
「スリム・ケー? ああ。塗っただけで痩せるクリームか。だけど君には必要ないんじゃないか?」
「そうでもないのよ。ここんとこ運動不足だったから。また買わなくちゃ」
スリムKの『K』は『熊』の頭文字だということはあまり知られていない。その名は日本の某大学教授が熊の糞から発見した『脂肪を食べるバクテリア』を遺伝子組み換えで美容品に転用したことに由来する。が、それを愛用している人間の前でそんな雑学を披露するのも何なので黙っておいた。
ちょうど3杯目のコーヒーを注文したところでチャンが現れた。
「何だ。あと5分早く来ればよかったのに。おかげでコーヒーが一杯無駄になってしまった」
半分冗談でそう言うとチャンは申し訳無さそうに首を竦めた。
「すみません。ちょっと迷っちゃって」
「何か頼むといい。糖分は足りてるか?」
「出来れば補給したいです」
少しやつれたようだが思っていたよりも元気そうでほっとした。チャンの性格だと自らの犯した罪に耐え切れず、いつまでも自分を責めてしまうのではないかと心配していた。
長旅で疲れたのかチャンは物凄い勢いで甘いものを平らげた。まずは砂糖たっぷりのホットミルクを3杯。ケーキ6種。パフェを3つ。
ナミが呆れ顔で尋ねる。
「どこか壊れてるんじゃないの?」
「皆そうなんだとさ。糖分を大量に摂らないと体力を維持出来ないそうだ」
チャンの代わりにそう答えてやると彼女は羨ましそうにチャンを眺める。
「いいわね。かたやクリーム塗って痩せようとする人間が沢山居るっていうのにね」
それに対してチャンは疑わしそうな目つきを返す。
「ところで……いつの間に仲良くなったんですか?」
そうだった。チャンにはまだナミのことを話していなかったのだ。
「気にするな、少年。大人の事情だ。話せば長くなる」
「けど……」
「言いたいことは分かる。だが、彼女は足を洗ったんだ」
「はぁ……」
チャンはどうにも納得がいかないらしい。
しばらくバツの悪い空気が流れた。夕食前のラウンジは客が少なく、居ても外国人観光客が数組程度だ。これなら少々、きわどい話をしても問題はあるまい。
「ところで、少年。本気で学校に乗り込む気なのか?」
「ええ。そのつもりです」
と、チャンは即答する。
「学校に乗り込んだところでどうするつもりだ?」
「それは……」
そのままチャンは口をつぐんでしまった。
「そこまでは考えていなかったようだな。悪いことは言わん。無駄に危険な橋を渡るな」
「でも、あの病院では今も実験が行われているかもしれないんですよ。放っておけません」
「ほお。だったら爆弾抱えて吹き飛ばしに行くのか? 仮にそこを潰したところでまた別な病院が出来るだけだろうよ」
「それは……確かにそうですけど……」
「お前さんが焦る気持ちは分かる。だけどな。引き際が肝心だ。バベルを追うのはしばらくお休みだ」
「けど、自分で考えて行動しろとサァラには言われました」
「サァラか……」
いずれチャンには話さなくてはと思っていたのだがどう説明して良いものか迷った。
「そうだ。サァラは? サァラは今何を?」
そう目を輝かせるチャンに本当のことを話すのは気が引けた。しかし隠していても仕方が無い。止む無く事実だけを話す。
デンバーでの一件を聞いてチャンは頷いた。
「そうですか……でも、きっとサァラには考えがあるんだと思います」
「彼女を疑わないのか?」
「はい。僕はサァラを心底信じていますから。それにそうと聞いたらなおさら病院に行かなくてはなりませんね!」
チャンはサァラがバベルと繋がっていたという事実を知って落ち込むどころか逆にやる気になってしまったようだ。
「おいおい。まさか単に彼女に会いたいから病院に侵入したいと言うんじゃなかろうな?」
「まあ、それもあります。でも、僕たちがバベルの中枢に迫ることで間接的にサァラの役に立てるかもしれないじゃないですか」
チャンはあっけらかんとそんな事を言う。まったく、どこまで前向きなんだか…。
紅茶を飲みながら黙って我々のやりとりを聞いていたナミが口を挟む。
「で、その病院はどこにあるの?」
チャンは残念そうに首を振る。
「それが……正確な場所は分からないんです」
「何よそれ。あなた達の学校だったんでしょ?」
「そうなんですが実は……」
チャンの説明によると彼等の学校はC国が指定する7つの『特別保全区画』のうちのひとつだというのだ。『特別保全区画』とはC国がスパイ衛星からの撮影を禁止する地域の事で、大抵は軍事機密に関わる施設が存在するといわれている。C国はそれらの保全区画の上空に自国の監視衛星を常駐させており、他国の衛星が侵入してくるのを阻害しているばかりか『ジャミング』と呼ばれる妨害電波を張り巡らしている。その為、他国の衛星は側に近付けない状態なのだ。それはかのクロウリーでさえ例外ではなかった。国債という人質を捕られている米国にとってはC国の強い要請には逆らえないからだ。21世紀初頭には既に米国債の一番の保有国となっていたC国は「言うことを聞かないなら米国債を売り払う」と度々米国に圧力をかけてきた。ジャパン・クラッシュを目の当たりにしていた米国は自国の国債が暴落する事の悲惨さをよく理解していたのでそれに逆らえなかったのだ。米国経済の赤字国債への依存は今に始まったことではない。だが、一時期は米国の大統領が外国を訪問する度に「また大統領が米国債のセールスに来た」と揶揄されるほどだった。そういうわけでC国の保全区画は謎に包まれている。
「少年。本当に当ては無いのか? それじゃ話にならないぞ」
「大体の場所なら見当がついています。サァラが逆算して大体の位置を把握したんです」
「逆算だと?」
「はい。僕らが学校の敷地を出る時は必ず目隠しされた車両に乗せられて移動するんですが、サァラは加速の時と曲がる時のG(慣性)を感じ取って車両がどのように走ったのかを計算してたんですよ。で、到着地点から逆算して出発地点を割り出したわけです」
「……バケモノか」
そんな芸当が出来るとは呆れる他なかった。サァラという女の子はやはり只者ではない…。
チャンは端末を取り出して目的の場所を指し示す。
「第六特別保全区画のこの辺りです」
「なるほどな。そう遠くはないな」
「でしょう。直ぐに出発します。止めても無駄ですよ!」
やはりチャンの決意は変わらないようだ。
「分かった。そこまで言うなら付き合う事にしよう」
「本当ですか? やった。アンカーさんが一緒だと心強いです」
「で、忍び込むのはいいが、どういう算段だ?」
「製薬会社の納入車を利用します。あの病院はかなりの規模ですから定期的に医療品を収めているはずなんです」
「ほう。で、どこの製薬会社かは分かっているんだろうな?」
「勿論。ケガや病気で病院にかかった時に薬剤のメーカー名を見ていましたから。それにあそこは軍の秘密施設です。だから、あまり色んなメーカーは利用しないはずです。おそらく政府系の会社が独占的に取引をしているはず、というのが僕の読みです」
「なるほど。いい読みだ」
天下り役人の御用達ということか。よくある話だ。
「実は製薬会社の納入予定を調べておいたんです。で、明日の夜に納入車があの病院に入ることが分かりました」
「それに便乗する訳だな?」
「そういうことです」
結局、成り行きでチャンの冒険に付き合うことになってしまった。
問題の病院に行ってみたところで何も無いかもしれない。だが、それでチャンの気が済むならそれも止む無しか…。
* * *
幸運なことに運転手は仕事熱心な男ではなかった。
我々が便乗を決め込んだ納入車の運転手は、たった十数箱の納入品をコンテナに収めるのに30分以上を要した。なぜなら常に誰かと通信しながら度々、作業の手を止めるからだ。そのおかげでトラックのコンテナに潜り込んだ我々は余計に待たされることになってしまった。
チャンが欠伸をしながら呆れる。
「職務怠慢だなあ」
「そう言うな。只で乗せてもらっているんだ」
「そりゃそうですけど。それにしても危機管理がなってないですね」
確かにあまりにも隙だらけで忍び込むのにクロックアップする必要はまったく無かった。それにコンテナにかけたロック(鍵)は端末の万能キーで簡単に開閉出来た。この調子だとコンテナの中味が盗まれても気がつかないのではないかと思われた。
「まあいいじゃない。のんびりいきましょ」
納入箱に座って脚をぶらつかせていたナミがのん気にそんなことを言う。それが気に障ったようでチャンは舌打ちする。
「ちぇっ! 何であの人もついてくるんです? 関係ないのに」
「あら。冷たいわね。戦力は少しでも多い方が良くない?」
「戦力って……アンカーさんが居れば十分ですっ」
待っていろというのも聞かずにナミは我々について来てしまった。しかも、ここまでの道中においてまったく緊張感の無い態度で度々、チャンを刺激する。彼にとって彼女は、ちょっと前までは敵だったのだからその反応は当然といえば当然だ。
「まあ2人とも仲良くやってくれ」
そうとしか言いようが無い。
そこでようやく車が動き出した。これから小1時間のドライブだ。コンテナの中は寒かったが耐えられない程ではない。おのおの休息を取りながら到着を待った。
ふと、バベルの塔のことで思い出した。
「少年。そう言えばあの塔は結局、何だったんだ?」
探索の途中で邪魔が入った為、それを聞いていなかった。
「本当のことを言うとはっきりとは分かりません。でも……恐らくあれは『発射台』です」
「……発射台、だと? あの塔がか?」
意外な答えに戸惑った。てっきり宗教的な施設だと思っていただけに…。
「前に塔の内部は吹き抜けになっていて、壁に沿ってパイプが上まで伸びていると言いましたよね? ソフトクリームみたいな形で。あれは一種の加速装置なのではないかと考えられます」
「つまり、あの塔全体がパイプの中味を加速させる為の装置だということか?」
「そうです。らせん状に配置されたパイプの中で加速された物体を外に放出することが目的だったのでしょう」
「……馬鹿な……何の為にそんなものを」
五千年前になぜそんな物が必要だったのか? まるで想像ができない。
「ねえ。それって大砲みたいなものかしら?」
ナミの質問にチャンは首を振る。
「分かりません。これが兵器だったとまでは断定出来ません」
加速装置といえばレーザー核融合にも利用されている電磁投射法(通称:レールガン)が思い付くが、らせん状にする意味が分からない。確かに場所は取らないのだろうが…。
「少年。例の手帳には何と書いてあったんだ?」
「記述があることはあったんですが疑問符で終わっていました。何かを撃ち出す為の装置には違いない、という結論です」
「やはり連中もレールガンを連想したか……しかし形状が特殊だからな……」
「らせん構造、ですよね。これは僕の想像なんですが、遠心力が関係しているんではないかと」
「遠心力? 確かにそれなりの速度であのパイプ内を移動したら中味には遠心力がかかるな」
「アンカーさん。遠心力を求める公式はご存知ですか?」
「な! そうだな。確か……」
返答に窮するとナミが代わりに答えてくれた。
「R分のMかけるVの二乗」
「そうです。分母が半径R。分子が物体の質量Mに速さVを二乗したものをかけた数値になります」
「そうだったな。やっと思い出したぞ。ということは質量に速さ二乗だから相当のエネルギーになるというわけか」
チャンが頷く。
「はい。物体の移動速度が早くなればなるほどそのエネルギーは高くなります。で、それを割る分母なんですが、らせん状の場合はどうなると思います?」
「半径か……待てよ。段々と小さくなるじゃないか」
「ですよね。加速することによって分子は爆発的に数値が大きくなる。その一方で半径は小さくなる。つまり、物体はかなりの遠心力に引っ張られることになります」
「あら。でも同時に円の中心に向かっても引っ張られるわよね?」
「ええ。でも想像してみてください。重りに紐をつけてブンブン振り回している時に途中で紐が切れた場合を」
「なるほど。そういうことか……」
それは分かり易い例だ。確かにそれなら、らせん状にした意味も分かる。だが、問題はその中味だ。一体、何を発射していたというのだろう?
(結局、結論は出ず、か。やれやれ。聞くんじゃなかった……)
何だか釈然としないまま、我々は目的地へ向った。
* * *
午後9時を回ったところでほぼ予定通り我々は目的地への潜入に成功した。
とはいえ『成功』というのも大げさか。それぐらい手応えの無いミッションだ。車が止まってから院内に侵入するまでにやったことといえば、万能キーでコンテナを中から開けて外に出ること、スパイ・インセクトを監視カメラに張り付かせて幻術をかけること、たったそれだけだった。あとは自由に院内を歩き回っても我々の姿が監視カメラに捉えられる心配はほぼ無い。ジイサン特性のプログラムはさほど手の込んだものではない。だがここの監視システムには十分すぎる効果があった。手元の端末が発する信号を受けた監視カメラは、その瞬間にフリーズして3分間同じ映像を管理者に送り続けるのだ。
途中、ロッカー・ルームがあったので白衣を拝借する。
「それにしても……」と、チャンが笑いをかみ殺す。
「何だ、少年。言いたいことがある時ははっきり言え」
「やっぱりアンカーさんに白衣は似合わないですね」
「ほう。言葉を返すようだが少年。お前さんは女性向けの服装の方が良かったんじゃないか? いつぞやの時みたいにな」
「なっ!」
と、チャンが顔を赤らめる。B国の病院を脱出した時のことをようやく思い出したらしい。
「酷いや。思い出してしまったじゃないですか! せっかく忘れてたのに……」
しばらく無人の院内をうろつく。非常灯の明かり以外に光源は無く、のっぺりとした壁や床は一昔前の病院を連想させた。
「随分と古い作りだな。まるっきり半世紀前の病院じゃないか」
思ったままを口にしてみたもののナミとチャンは、ぽかんとしている。それもそうだ。その頃は2人ともまだ生まれていないのだから。
一階を歩く限り特に変わったところはない。普通の病院だ。総合受付の案内パネルに電源を入れて院内の作りを確認する。
「四階から上は入院患者の病室か。で、お前さんが怪しいと思って探索したのはどの辺りだ?」
「……地下です。この画像には表示されていませんが……ここです。この南ブロックの下ですね」
「どれ。ジイサンに尋ねるまでもないか」
案内パネルに端末を押し当てて情報を読み取る。次に監視システムの情報伝達網と照合する。
「……お前さんの言う通りだな。南ブロックの下にここには表示されていない箇所があるようだ」
「やっぱり! きっとそこですよ」
「そうだな。では早速、見学させて貰うとするか」
* * *
端末の情報を頼りに南ブロックの地下を進む。途中で三箇所ほどロックされている扉があったが解除するのに苦労はしなかった。が、三箇所目の扉を抜けたあたりから明らかに周りの様子が変化してきた。
ナミもそれを感じたようで顔をしかめる。
「なんだか気味が悪いわね。病院じゃないみたい」
チャンも首を捻る。
「工場、みたいですよね」
「ああ。何だか細菌兵器でも作ってそうな雰囲気だな」
地下にしては広めの通路。その両サイドにはパイプの束が複数はしっていて、所々でそれらは枝分かれした後に角度を変えて壁の向こう側へ吸い込まれている。部屋の入口らしき扉はどれも重厚でまるで金庫のようにも見える。
試しに『第17号作業所』という表示の部屋に入ってみることにした。
「何だこれは?」
バスケット・コートの半分ぐらいの部屋にぎっしり機械が詰め込まれている。四方の壁は機械が山積みで壁の色さえ判別できない有様だ。よく見ると部屋の中央にガラスで仕切られた一角がある。近付いてみるとガラス窓の向こう側にもうひとつ小部屋があるのが見える。ちょうど刑務所の面会室のようにガラスで隔てられる形でその先の部屋を臨む。
「水槽……ですかね?」
と、チャンが眉を顰める。
「ちょうど人がひとり入れるぐらいだわね」
ナミの一言にチャンがぎょっとする。
「ちょっと! 気味が悪いこと言わないでくださいよ……」
確かにその浅い水槽はバスタブを一回り大きくしたぐらいの大きさで人間が横になって浸かれるぐらいの大きさだ。しかし、異様なのはその水槽に向かって何本ものロボット・アーム、すなわちマニピュレーターが幾つも待機していることだ。まるでそれらは獲物を待ち構えているようにも見える。
「なるほどな。恐らくこれで遠隔手術をするんだろう」
極めて精密なメスさばきを要求される手術の場合には『ナノ・オペレーション』と呼ばれる機械を使った手術が行われる。毛細血管や神経をミクロ単位で切り張りするには人間の手だけでは限界がある。そこで、昔は職人的な医師が『指先の感覚で』と表現していた技術が機械化されてきたのだ。
それにしても明らかに手術室であるのにこの部屋の表示は『作業所』になっていた。それも17番目だと…。
かなり厭な予感がしてきた。
* * *
作業所と表示された部屋の並びを抜けてもう1フロア下りる。
奇妙なことに下のフロアへ下りる階段はやたらと長く、ゆうに3階分ぐらいは段を下りた。
(天井が高いな……)
地下だというのにこの天井の高さはどうしたことか。一瞬、チャンが見つけたバベルの塔を思い出した。確かあそこも地下にやたらと深い吹き抜けがあった。
いつの間にか我々は無言になっていた。この先に何があるのか……恐らくそれはロクなものではない。それが分かっているだけに気分が滅入った。
「ここが一番怪しいですね」
そう言ってチャンが立ち止まった。
見ると他のとは形が異なる扉がある。
「ここは特別にロックされているようだな。さて、この万能キーで開くかどうか」
扉脇のセンサーらしき機械に端末を近づける。1秒、2秒……なかなか開かない。
「ダメですか?」
と、チャンが心配そうに覗き込む。
「ああ。流石にこのレベルだと万能キーでは解除出来ないようだ。何、ジイサン特製の鍵は他にもある」
それを聞いてナミが呆れる。
「いったい幾つそんなのを持ってるの? あなたがその気になれば泥棒生活で豪邸が建つわね」
ナミのコメントを無視して幾つかのキーを試してみる。そして四つ目でようやくロックを解除することに成功した。
「やれやれ。ここだけは妙に厳重だってことは中に特別なものがあるんだろうな」
ここでひとつ深呼吸する。心の準備とでも言おうか。
「さ、早く入りましょう」
と、チャンが先に部屋に入ろうとした。
「そこはレディ・ファーストじゃないのか?」
少しふざけてみたのだがチャンにもナミにも無視されてしまった。
(やれやれ。場を和らげるつもりだったんだがな……)
そう嘆きながらチャンとナミに続いて自分も分厚い扉をくぐる。
やはり広い。三階分はあろうかという天井。そして横幅も奥行きも一見しただけでは分からないぐらいの広さだ。
「体育館か?」
思わずそんな言葉が出るぐらいのスペースが我々を出迎えてくれた。
この部屋も前の作業所と同様に必要最小限の明かりが低い位置から供給されている。が、明かりはそれだけではない。円柱状の水槽が整然と並んでいて、それぞれが放つ光が明かり不足を補っているのだ。それらはまるでライトアップの淡い光をまとった円柱に支えられた美術館の外観のようにも見える。
「ひっ!」
前方でチャンが短い悲鳴をあげた。何事かと思って近くの水槽を凝視する。中味を見るには光が足りないのだが……薄い緑色の液体は培養液なのだろうか? 標本を保存する為のホルマリンではなさそうだが…。
「きゃっ!」
と、ナミも声を裏返して後ずさりする。
「こ、これは……」
心の準備はしていたはずなのに自分も声が裏返ってしまった。
分かっていたはずなのに現物を見せ付けられるとやはり動揺してしまった。
無理も無い。そこにあったのは、むき出しになった人間の脳だったのだ…。
まるで水槽内を漂うクラゲのように、脳は所在無さそうに水槽に収まっていた。
目を逸らしたくなるのを堪えてさらに観察する。
(ひとつ、じゃない!)
残念ながらそれはチャンの予想していた通りの現実だった。今、目の前にある標本は複数の脳がブロッコリーのように一体化している。
(生々しすぎる……)
チャンがバベルの塔で発見した頭蓋骨の化石などとは比較にならない。少し灰色がかったベージュは作り物のように目に映った。
「趣味の悪いコレクションだな」
そう言うのがやっとだった。
「これって……生きてるの?」
ナミが側に寄ってきて腕を絡ませてきた。
「さあな。近寄って声を掛けてみたらどうだ? 『ニイハオ』ってな」
「いやよ。遠慮しておくわ」
修羅場を潜り抜けてきたであろう彼女ですら震えが止まらないようだ。それほどまでに水槽の中身はグロテスクだった。願わくばこれが人間のものでなければ…。
「酷い……酷すぎる」
ひとつ先の水槽を凝視していたチャンがそう呻いた。
チャンの背中に声を掛ける。
「お前さんの言った通りだったな。とてもまともな人間のすることじゃない」
その言葉に振り返ったチャンの目は充血していた。まるで血の涙でも流さん、といわんばかりの形相だ。
「許せない! こんなこと……こんなことって!」
チャンの怒りはもっともだ。只でさえこんなものを見せ付けられたら酷く気分を害するというのに、彼の場合はもしかしたら親友がこの中にいるかもしれないのだ。
「潰してやりたいです。バベルなんて……」
そう歯軋りするチャンの怒りの矛先は、ここを作ったであろうバベルという組織に向けられているようだ。
と、その時、後方で扉が開く音がした。
(気付かれたか!?)
振り返って入口を見る。
すると逆光の中でシルエットの主が声を発した。
「困ったものだ。君達はこんなものを見る為にわざわざ忍び込んだのかね?」
どこかで聞いたことのあるような声。確信はないが…。
「ああ。博物館と間違えたんだ。あまりにも立派な建物だったんでね」
「フン。「歓迎するよ」と言いたいところだが、職務上、そういう訳にもいかないのでね」
目が慣れてきて声の主の姿がはっきりしてきた。
軍服姿の男……それはロッキー山脈でサァラ達を保護した『コウ中将』だった。




